『鬱陵島と独島−韓日交渉史の一側面』(1953年 崔南善)

 

 「 鬱陵島の概観」

   嶺東の竹邊の端から見れば青螺一個が波間に見え隠れしているのが欝陵島で、陸地との間はしばしば400里と言われるが実は66海里に過ぎず、晴れた日には山木沙渚を歴々と指し示すことができ、かつては風が良ければ二日と言ったが今は汽船で半日足らずの航路であり、ただ東海の特徴である風濤の険しさに会いやすいだけだ。

 南北9.5km、東西10km、面積72平方km(江華島の約4分の1)、海岸線の延長が45km(江華島の約6分の1)、周囲の距離等は資料によってそれぞれ異なり、「三國史記」、「世宗実録」地理志以下「輿地勝覧」、「文献備考」では全て地方百里とし、金正浩の「大東輿地図」には二百里とし、禹用鼎の「鬱島記」では一百四、五十里を下回らずとするが、居民の説明に基づき約120里とする。

 島は、咸鏡道の七宝火山脈が海中へ入って隆起したもので、したがって、玄武岩と粗面岩と火山灰が島の地質のほとんど全部であり、輪郭は不等辺五角形を成し、海岸の出入りは少なく、周囲に絶壁のような截処が多い。

 したがって船舶の安全な停泊所がなく、東南面にある道洞港が唯一の船泊地だが、この港口も高さ200m以上の岸壁に囲まれ、湾奥に長さ100mほどの砂地が生じているくらいで、繋船が非常に不便で、漁船であっても入港のたびごとに船体を陸上に引き上げなければならず、汽船は総じて港から遠い外洋に停泊し、ひとたび暴風に遭遇すれば比較的波浪の少ない場所を選びながら島の周囲を転々と移動しなければならない有様だ。

 島の最高点である聖人峰(984m)は島のほぼ中央にあって放射谷が周囲の海岸に向かって発達しており、火山島の侵食は壮年期にある。島の中央から北部へかけて一辺が2.5kmに達する三角形の大カルデラ(火山の火口壁の一部が崩壊したことにより生じた馬蹄形の窪地をいう)があり、東南と西南の壁は900m内外の高峰に囲まれ、北辺は400m内外と低い。火口底は200m内外の差で東と西の一段をなし、東の低い段に羅里洞、西の高い段に卵峰の二村落がある。

 火口底は島で最も広い平地で面積は50町歩に達するが、浮石と砂礫の堆積によって生成が浅いため地味が瘠せていて、しかも地下に滞水層がないために周囲の火口壁から流れ下る渓水はほとんど地中深く吸収されてしまい、火口内の住民は側壁の渓流を木筒で引いて飲料水として利用している。

  中央の聖人峰を囲んで峻峰が四方を廻っていて、その北(カルデラの西北隅)に中央火口丘である卵峰(611m)、北西に弥勒山(901m)、南に冠帽峰(700m)、西に草峰(608m)がそれぞれ高さを誇っている。古来の文献に「三峰岌( )?空、南峰稍卑」というのは、島の二面から見た光景を述べたものだ。

 「文献に見える始初(文献への登場)」

  鬱陵島が本土に知られるようになったのは非常に古くからであり、「三國史記」に新羅第22代智證王の13年(西暦512年)のこととして曰く、

 于山国は溟州の正東にある海島で、あるいは名を鬱陵島といい、地方が百里という。険を頼みとして服属しなかったが、伊喰の異斯夫が何瑟羅州の軍主となって、于山国人は思慮が浅くて気性が荒く武力だけで従わせることはむずかしいが計略をもってすれば可として、木偶獅子(木製の獅子像)を多数作って戦船に分けて乗せ、その国の海岸に着くと偽って言うに、汝らがもし服属しないならばこの猛獣を放って踏み殺させると。人々は恐れおののいて降伏した。

 というのが、歴史への初めての登場だ。この説話の要素に南方的色彩があるために、鬱陵島の原住民と南海との関係を探ろうとする者もいる(鳥居龍蔵)が、実像は明らかでないことであって、大体において、我が嶺東一帯に広がっていた?種族の一支族が海中に散らばり入って来て一国を建てたのが于山国だと見るのがまず妥当なところだ。

 島内に古代人民の生活遺跡があり、その中には、「ドルメン」あるいは「ケルン」と認められる古墳もあるというが、それらはおそらく于山国の古墳に属するものかも知れない。

 済州すなわち耽羅国の本土との交通は百済第22代文周王の2年(西暦476年)に始まったというから、済州と鬱陵島が半島本土に帰属したのはおよそ5世紀末、6世紀初にかけての3〜40年間のことだった。

 このように、最初には国名として于山、島名として鬱陵が「三國史記」に収録されたに過ぎなかったのが、高麗時代に下ると同一の原語に対する異形の対字と雅称が種々使用されるようになり、武陵、羽陵、( )陵、芋陵、蔚陵等の別名が生じ、鬱陵本島及び若干の属嶼の間に分用されることもあり、また、分用されたものを転換使用することもあり、その名称の内容が時と人によって幾多の混錯を惹起した。まず、「高麗史」地理志に「一云于山、武陵本二島、相距不遠、風日清明、則可望見」としたのはその一例であり、もともと鬱陵島の本名であった于山がここでは本島以外の一属嶼の名前として別用され、于山というのは、おそらく本島の東北海上の、現在のいわゆる竹嶼を指すかのように見ることとなった。

  鬱陵島は日本の西陲に近接している分、その存在が日本の古籍にも記録されたが、正しくは芋陵島と言ったのが、転訛した形としては宇佐島、「ウルマノ島」などとあったりして、近世に至っては日本の西陲と対馬島人の間で再び礒竹島(イソタケジマ)、竹島(タケシマ)、松島(マツシマ)等の諸名でさまざまに称され、あるいはこれらが一島諸名、また本島属島間の各名称として適当に称されて混乱が一層深まり、また、このような混乱が時には国際紛議の原因となった。

「高麗時代の鬱陵島」

未翻訳。

 「李朝初期の鬱陵島」

  高麗末、李氏朝鮮初期には鬱陵島が罪人の流配置としてしばらく現れるが、第三代太宗王の3年(西暦1403年)8月に江陵道監司の要請に基づき武陵島の居民を陸地へ送還せよと命じたが、史書はその理由を明らかにしていないが、このころは倭寇が嶺東の海上に跋扈していたことを見れば、人民の被害を避け、一方では導倭為寇の弊害を無くそうとの意から出たものと推測するのは難しいことではない。

 同7年(西暦1407年)には、対馬島守護という宗貞茂がその部下平道全を送り、産物を進上し俘虜を発還して仍請するに、属民と共に茂陵島へ移住したいというので、 朝廷でその可否の論が紛糾し、最後に王がその部衆を許容したものの、日本国との関係が悪化するおそれがあると判断して実現しなかった。対馬島は高麗末から海賊を生業として来たが、朝鮮の防備が整うにつれそれを続けることが難しくなり、我が朝廷に対して南海島・巨済島などを農土とさせてほしいと求請する中、国家では軽視していた感のある鬱陵島にも野心を抱くようになった。

  同12年(西暦1412年)4月には江原道観察使が報告したが、流山国島人の白加勿など12名が高城於羅津に来泊して言うに、自分たちは武陵において生長したが、島内の人戸は11戸で男女とも60余人、今本島に移住したが、この島は東西と南北がどちらも二息で周回が八息、牛馬と水田がなく、もっぱら豆を植えて一斗から二十石ないし三十石が採れ、麦は一石から50余石が採れ、竹が大椽のようで、海錯と果木がとても多く、これらの人が逃還するおそれがあるために、未だ通州、高城、杆城に分置しているということだ。流山国とはおそらく古代から伝わる于山の訛りかと思われ、鬱陵島の近海にはこのように大きな別の島は無く、また、その説明が鬱陵島の状況と一致していることを見れば、聴取と記録に何か錯覚があったか、または陳述に虚偽があったのではないかと思われる。

  このように鬱陵島のうわさが朝廷の注意を引いて一種の疑懼心が醸成され、同16年(西暦1416年)9月、戸曹判書朴習が啓して、臣が江原道都観察使として調べて来たが、武陵島は周回が七息(息は30里をいう)で、傍らに小島があり、田となり得るのは50余結、所入の路はやっと一人が通れるくらいで並んで行くことはできない、昔に方之用という者が15家族を引き連れ入居し、ある時には「假倭為国」と言っていたところ、その島を知る者が三陟に来て請うに、彼をして在(?)見させてくれというので、王がそうせよと命じ、三陟人前萬戸金麟雨と既に往来した経験のある李萬という者を招致して事情を聴いたが、麟雨が、武陵島が遠い海中にあり人の往来が無いために軍役を逃れる者がしばしば逃げ込んで、万一、人戸が多数居接すれば倭が必ずや入寇してそこから江原道へ侵来するであろうと言うので、王がそれも然りとし、麟雨に武陵等処安撫使を命じ、萬を伴人とし、兵船二隻、沙工二名、引海二名と火桶、火薬と食糧を与え、その島へ行き頭目を開諭して連れて来ることとさせた。翌17年二月に麟雨らが于山島から戻り、土産として大竹、水牛皮、生苧、綿糸、検撲木などの物を献上し、また、住人三人を連れて来たが、その島の家は約15戸、住人は男女合わせて86人いることを調べて来た。

  これによって、于山、武陵の居人をどう処置するかが問題として朝廷の議に付され、皆は、武陵の居人を送還せず五穀と農具を与え生業を安定させ、長官を送り撫綏させ年貢を定めるのが良いと言ったが、工曹判書黄喜が、安置しておかないで速やかに送還すべしと言い、王が、彼らは本来避役逃亡した者たちだから長官が来て年貢を課しても素直に従うことはないだろうから送還させることが適当とされ、麟雨を再び安撫使として兵船二隻と道内の水軍萬戸、千戸中の有能なる者を率いて行き、居民を送還させることとなった。

この年八月に「倭寇于山武陵」という史料があることに鑑みれば、このときまでには送還が完了していなかったようで、また、鬱陵島の倭寇の事実はこのときだけのことではなかったようだが、この一文はたまたま記録されたものであろう。

 次の世宗大王の元年(西暦1419年)四月に、王が、武陵島から来た男女17名が京畿の平丘駅に至り食糧が無くなっていることを聞いて、人を送り救護したことが史料に記録されているのは、おそらく前年に金麟雨による送還が実施されたことの一証左だろう。

「世宗・成宗朝の刷還(世宗・成宗の時代の強制送還)」

 このたびの功労によって金麟雨は判長○縣事に任ぜられたが、世宗7年(西暦1425年)に再び于山武陵等處安撫使として派遣された。最初は江原道平海の金乙之、 李萬、金○乙金たちが武陵島へ逃げたため、去る太宗 16年に朝廷が金麟雨を差し向けて刷還(強制退去)させたが、世宗5年(西暦1423年)に乙之ら男女合わせて28人が再び本島に逃れ入り、今年五月に乙之たち七人がその妻子を本島に残したまま小船に乗って平海郡仇彌浦に潜入したが発覚し、監司が本郡に拘留し急報したことがあり、これを再び送還させるため、8月に麟雨が軍人 50名を従え軍備と三月分の食糧を用意して入海した。 十二月に麟雨たちが本島に避役していた男女20人を逮捕して報告したが、船軍四六名の所坐一艘が漂流し行方不明となったが、その中の10人は日本國石見州長濱に漂着して対馬島を経て十二月に本國へ送還された。

 世宗の時代には何回か鬱陵島の状況を探査したが、20年(西暦1438年)4月には、江原道海邊の人、前護軍南薈、前副司直曹敏に茂陵島巡審敬差官を命じ、逃避した者たちを捜索させた結果、7月に薈一行が茂陵島から戻って来て、捕らえた男女66名と土産物として沙鉄、石鐘乳、生鮑、大竹などを献上した。鬱陵島はこれ以後無人の地となったという(文献備考、輿地考、海防)。

 鬱陵島に関する実際的知識は、金麟雨の探検によって大きく拡大し、「世宗実録」地理志が、「麟雨言、土地沃饒、竹大如柱、鼠大如猫、桃核大於升、凡物稱是」としたのが、後の「輿地勝覧」以下の諸書にたびたび引用されることとなった。

 それから、「世宗実録」地理志では蔚珍縣に「于山、武陵二島、在縣正東海中」と言い、懸註して「二島相去不遠、風日清明、則可望見、新羅時稱于山國、一云鬱陵島、地方百里 云云」といい、「(東国)輿地勝覧」の蔚珍縣に「于山島、鬱陵島、一云武陵、一云羽陵、二島在縣正東海中、三峰岌○?空、南峰稍卑、風日清明、則峰頭樹木及山根沙渚、歴歴可見、風便則二日可到、一説于山、鬱陵本一島、地方百里、云云」といって、于山と武陵(鬱陵)が互いに混淆し、あるいは一名となりあるいは二名となる弊は、この両書の漠然とした記述が発端となっている。于山と鬱陵を二つと見る場合に 于山をどの属島と推定するかはもともと荒唐無稽な仮想から出ものであって、すなわちどこであるとも定めることはできない。

 第九代成宗王の二年(西暦1471年) 八月に、永安道(後の咸鏡道) の住民で茂陵島に潜伏した者を送還するため、世宗の時代に往来した経験のある者を探し出して艦船を準備したことがあったが、翌三年四月には、東海上に別に三峰島があり潜投逃賦する者が多いと訴える者があったため敬差官朴完元を送り捜索させたが、結局所在をつかむことができず、同行した一隻の船が鬱陵島に泊まり、大邱、大鰒魚を取って戻り、島中に居民はいないと報告したことがあった。

 三峰島の全体はすぐには明らかにならなかったが、三峰?空といわれる鬱陵島の一名でなかったとすれば、後日の「ドクソム(竹島=独島)」のような一属島を指すものかも知れない。ともかくも、この時の鬱陵島が完全に無人であることは明らかであった。

 「高宗初期の日本人の野心」

 しかし、数年ごとの一時の捜討だけでは、利窟を封鎖する絶対の保障とはならなかった。朝鮮と日本、両国人の潜入は密かに続き、特に日本人の計画的な射利行動は、年月とともに盛んになっていった。

 わが高宗帝の即位前後、すなわち日本の徳川幕府末期に至ると、日本海沿岸・山陰道方面の各藩は皆、鬱陵島の密漁潜採あるいは密貿易を公然と行い、長門藩(後の山口県地方)の名士、吉田寅次郎(松陰)、桂小五郎(木戸孝允)、村田六蔵(大村益次郎)などが、いわゆる竹島開拓の実行のために奔走し運動した時期があったが、元来外国の領土であり、採算上の確信がないとして実現するには至らなかった。

  そして、明治初年に至ると、長崎・海蔘威の航路に当たる鬱陵島が航海貿易に従事する者たちの新しい関心を引き、松島または竹島の拓殖論が再び浮上し、明治6、7年(高宗帝の10、11年、癸酉甲戊)に青森県下陸奥国人の武藤平学という者が何度か長崎・海蔘威を通行する際に、松島(あるいは鬱陵島)という場所の産物が豊かであることを聞き知り、明治9年(高宗13年 丙子)7月に松島開拓を海蔘威駐在の貿易事務官である瀬脇寿人に請願したことがあり、同年12月に千葉県下総国人の斉藤七郎兵衛という者が再び海蔘威滞在中に松島開拓を瀬脇に出願したこともあり、同10年には島根県人戸田敬義という者が竹島開拓を島根県令佐藤信寛に出願したものの、徳川幕府以来の関係を熟知していた県庁ではただちにこの請願を返却したという。

  日本の海蔘威(ウラジオストック)駐在貿易事務官である瀬脇寿人は、松島(または竹島)開拓論の急先鋒であり、前記の武藤・斉藤などの計画はおそらく彼の勧めから出たものと推測されるのであるが、請願書類を政府へ上申し許可を得られるよう努力したが、外務省では、松島はすなわち鬱陵島であり、鬱陵島は外国領土であることから直ちに着手することはできないことだとして、およそ懐疑的であった。そうするうちに、明治9年(高宗13年 丙子)2月に朝日修好条規が成立し、その第7款で朝鮮政府が日本国の航海者の朝鮮沿岸測量を容認することとなったことにより、外務卿寺島宗則が海軍省と交渉し、松島探検のために軍艦が派遣されることになった。

  明治13年に至り、日本軍艦天城が松島を探検した結果、問題の松島は明らかに朝鮮国の領土である鬱陵島であることが判明し、別に鬱陵島の東南方に「リアンクール」という大巖礁があり、「リアンクール」は、古来のいわゆる竹島に当たるものであることを復命した。これにより、松島開拓運動は消え去るしかなかった。

  ここに附記したいのは、鬱陵島の名称に関して、日本は、李朝の初期から磯竹島、その略形である竹島という言葉を用い、哲宗・高宗の時代には、また松島という名前を作って用いたが、この三者が混在して区別が明らかでなく、再び日本軍艦天城が実地探査した後には、竹島を「リアンクール」、すなわち、今我々が俗称する「ドクソム」の名前として擬用するようになり、過去の文献と対比する場合には、また別の混乱が生じることになった。

 「独島=ドクソムの概観」

 鬱陵島の周辺に大小十余の付属島嶼があるが、北の孔岩、東北の観音島(鼠項島)、東の竹嶼(日本人のいう竹島ではない)が近くにある主要なもので、東南遥かに離れた海上に二つの主島と多くの小島嶼が広く散らばるところがあるが、これは我々の古代に可支島と言い、近世、付近の居民の間では、島の形がトク(甕・かめ)のようだとして、普通、「ドクソム」と呼ばれたところだ(鬱陵本島のごく近くにも別のドクソムがある)。

 近来、「独島」という字はドクの音を取ったに過ぎず、独の字義には別に関係はない。日本人は、特に明治年間から、我々の「ドクソム」に対して文字上では竹島(タケシマ)という言葉を用い、対岸の漁民の間ではリヤンコ島という名前で知られている。おおむね日本人は、最初は鬱陵本島に対して、あるいは松島、あるいは竹島という名前を混用してきたが、鬱陵島を原名のとおりに呼ぶようになった後は、竹島という名前は転じて現在の我々の「ドクソム」のことになった。

 日本人が鬱陵島をタケシマと称した理由については、竹がその名産であることによると言ったり、また、武陵の武の字を日本の訓読みで読んだものという説明もあるものの(坪井九馬三氏)、定かではなく、さらに、現在のドクソムを竹島(タケシマ)と呼ぶ理由は、鬱陵本島のように産物の関係から見るのも困難で、解説を付けるのが難しい。

 およそ、竹島という名前が鬱陵島の付近にだけいくつかあり、日本側の隠岐列島中の知夫里島の東北にある一小島にも竹島の名前があるところを見ると、島を竹と名づけるのはこの近海の通例に属することのようであり、鬱陵島を竹島と呼ぶ理由とは別個に現在のドクソムを竹島と名付けた出所があるのではないかと思われ、ひいては、我々は日本人のタケというものが朝鮮名である「ドク」と音が似ているところから来たものではないかと考えたい

 ともかく、鬱陵島とその属島は長く空島政策を採っていた関係から、記憶の史実と対比の相左から、あるいは名同実異でありあるいは実同名異などの種々の混淆錯乱があることは、鬱陵島の関係事実を歴史的に考察する上での一大難点であることに注意しなければならない。

 この群島が世界の海図上に初めて記録された名は「リアンクール」(Liancourt)であり、「リアンクール」は西暦1849年に初めてこの群島を発見したフランスの捕鯨船の名称という。日本の山陰地方の漁民の間で使用されるリヤンコは、すなわちこの「リアンクール」の略称だ。1854年、「パラダ」の再発見時には「リアンクール」を「メナライ」及び「オルリブチャ」列島と命名し、翌1855年にイギリス支那艦隊所属の汽走艦「ホーネット」(Hornet)号の艦長海軍中領「フォーサイト」(Charles Codrington Forsight)が来て実測を新たに行った後に、イギリス海軍省の地図には「ホーネット」島と記載されることになった。日本の海軍水路部の「朝鮮水路誌」では、従来から「リヤンコールト列岩」という名前を使用してきた。

 西方の島は海面上の高さが約157mで、その形のために「屏風岩」の別名があり、東方の島は若干低く、その頂上に平坦な地面があり、周囲の諸小島は概ね扁平な岩石がわずかに水面に現れており、大きなものでは5、6坪に達するものもある。二島はどちらも瘠せた禿岩であり、海風に晒されて一本の樹木もなく、東方の島に少しの野草があるだけで、島の岸は軟質の石層が断崖絶壁を成し、奇観の洞窟が多いが攀じ登ることもできず、これらの洞窟と諸小島はアシカの群棲地となっている。

 島の上に平地はなく、二島間の両側に平坦な砂礫地が2,3ヶ所あり、やはり海涛の侵襲を受けている。西方の島の南西の隅に一つの洞窟があってその天蓋から水が滴下しており、その量は少なくはないが、雨水のように離れているので汲み取るのはむずかしい。そのほか、山頂から山腹にかけていくつかの水の流れと湧き水があるが、大抵、アシカの糞尿に汚染されて一種の悪臭を放ち、とても飲用に供することはできない。アシカの猟やアワビ採りのためにやって来る漁民は、このような水を煮炊き用には使うが飲料水は他所から持って来る。

 島の位置は資料によって多少の差があるが、東方の島の南端が、1908年の日本海軍の測定によれば北緯37度14分18秒、東経131度52分33秒であり、鬱陵島から東南東に約50海里、日本の島根県隠岐の島前からは約86海里に当たる。

 「リアンクール」、つまり「ドクソム」は、海中の一岩嶼であって人が住む条件は整っていないが、人が住まない代わりに海獣たちにとっては安心して遊息できる別天地となっていて、特に繁殖期には交愛生育の場として四方から集まってくる群れがとても多い。これが、アワビ、サザエ、「 」(翻訳注:?か?か)とともに、この方面の利益の源だ。

 ドクソムに遊息する海獣は国語では「カジ」あるいは「ムルケ」(翻訳者註:オットセイ)であり、「カジ」は普通「海驢」(Zalophus lobatus)と表記し、一牡多牝性でありオス一頭がメス十数頭を引き連れ、五、六月の頃に子を一、二頭生む。「文献備考」等にその特性を記録しているが、「海中有大獣、生形、赤眸無角、群臥海岸、見人獨行害之、遇人多走入水、名可之」というもので、柳惠風の「二十一都懐古詩」于山国の条に、

春風五雨邏帆廻 海上桃花寂寞開 唯見可之登岸臥更無獅子撲人来

という可之などがそれだ。

 鬱陵島の東に「カジソム」があるということは我々の国家的文献にも見られるところだが、「カジソム」が現在のどこなのかということは詳細な考証を要するもので、我々は、現在のドクソムがそれであることを主張したい。他の島嶼には○○○○人たちが住んでいるが、ただ「カジ」のみの棲息地であり繁殖地として有名な場所はドクソムだからだ。「正宗実録」(巻40)18年甲寅(西暦1794年)六月戊午の条に、

 江原道観察使沈晋賢状啓言、........(翻訳省略)....并上送于備邊司

 という式年捜討の記事があるが、この中に「可支島」という名前が見える。この記事に楮田洞の前面に三島があるとして防牌島・竹島・瓮島(ドクソム)としているのは今の竹嶼であるとかドクソムであるとかすることは妥当ではなく、おそらく、鬱陵島の東北海上に三巖嶼が柱形に列を成している巖嶼(三本立と呼ぶもの)の意味であることは、「三島相距、不過百余歩、島之周廻、各為数十把」という文章に表れているとおりだ。現在、いわゆる鬱陵島所属の竹嶼と称するものは、鬱陵本島から一海里、周囲2km、高さ129mの比較的大きな部類に属し、いくら目測によったとしても距離が百余歩、周囲が数十把と形容されることはない。

 そうすれば、いわゆる可支島とは、今の鬱陵本島の近東の竹嶼でないならば、さらにその東にある今のドクソムであるしかなく、今の竹嶼には例え一、二戸とは言え多少の人が住むことができるわけで、純然たる「カジ」だけの棲息地を示そうとするならば今のドクソムと見ることが妥当である。

 さらに、「世宗実録」地理志以下の李氏朝鮮初期の文献には鬱陵島を武陵・于山の二島に分けて記載した例があるが、武陵は鬱陵本島、于山は今の竹嶼だとすれば、この外に「カジソム」に比定されるのは今のドクソム以外に求めることはできないということも考慮すべきだ。ただ、「正宗実録」の記事では鬱陵島東北端から「カジソム」を往復する間のことが明確に表示されていないことが残念であるが、桶丘尾へ回還するまでの間が数日を要したのだから、カジソムの距離を鬱陵本島の近接地だとしなければならない理由はないと言える。

 「カジ」が棲息する場所であるから「カジソム」と名付けたのは、あたかも樺太北「シレトコ」半島南方海上の一小島を膃肭獣の遊息地であることによって海豹島と称することと同じような命名心理に属するものだ。それに、日本人が西洋人の「リアンクール」という名称によってリヤンコ島と呼ぶようになるはるか前に、朝鮮では島の特徴に基づいて固有適切な島名を持っていたことは、交通遮断のために「カジソム」という名前を忘れてしまった後にも、島形がドク(甕・かめ)のようだとして「ドクソム」という新しい名前を充てて使った事実とともに良く注意しておくべき点だ。

 

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