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家庭用ゲーム機・海外進出の歴史2 SCE編
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【SCE設立とプレイステーション】


後にプレイステーション生みの親となる、ソニーの久夛良木健氏が初めて任天堂を訪れたのは1986年のことでした。ファミコンディスクシステムが任天堂から発表されたのですが、公開された性能があまりに低かったので、より高性能な磁気ディスクシステムを売り込みに行ったのです。これは時期的に遅くて成功しませんでしたが、久夛良木氏はめげずにゲームにおける音源の重要性を熱く語り、その音源チップはソニーに提案させてくださいと言い残してその場を去りました。それからも熱心に売り込みを続けた結果、次世代機のスーパーファミコンではソニーのPCM音源が採用されることになります。

久夛良木氏と任天堂の関係はそれからも続き、1989年になるとCD-ROMを使ったディスクシステムとスーパーファミコンの連携について検討が始まります。この互換機のコードネームが「プレイステーション」でした。1990年1月には任天堂とソニーとで共同開発契約が締結されますが、同年6月になるとCESで任天堂がフィリップスと提携するというニュースが電撃発表されます。これは事実上、ソニーのスーパーファミコン互換機のプロジェクトはとん挫することを意味しました。ソニー側からすると寝耳に水でした。

任天堂がこのような態度にでた理由については「契約内容が不利だと気づいて、実際の履行を避けるための手段にでたのではないか」という見方が一般的です。久多良木氏は強い性格ゆえに敵が多く、ソニー内でも契約が強引だったからだと責める声が少なくなかったようです。久夛良木氏は任天堂との契約書を「プロジェクトに横やりが入ってうまくいかなくなるから」とソニー本社の人間にも見せることを拒んでいました。

一時期は荒れたり元気をなくしたりした久夛良木氏でしたが、法律事務所で「本当は何をやりたいのか?」と問いかけられ、これは大きなチャンスかもしれないと考えるようになりました。彼は新しいゲーム機のプロジェクトをたちあげて、社内をたきつけてまわります。社員からは猛反発にあいましたが、1992年6月の会議で「やれる・やれない」の議論の末に、当時のソニー社長だった大賀典雄氏が「Do it!」と発したことから、実際に計画がスタートします。

新しいゲーム機の計画は、ソニーの子会社であるSME(ソニーミュージックエンタテインメント)の制作部門だったEPIC・ソニーに移されました。以前はファミコンソフトを作ったこともある部門です。そこを拠点に次世代ゲーム機の開発準備が始まって、 1993年11月には日本でSMEの子会社としてSCEが設立します。

ここで問題となったのがゲームソフト。任天堂と3年に及ぶつきあいのなかで、久夛良木氏はゲーム機におけるソフトの重要性をよく理解していました。ソニーで制作していたソフトは評判が良くなかったため、他メーカーと交渉にまわりますが、そのほとんどが「とりあえず300万台売ったら来てくれますか」と冷たい反応でした。しかし、これを一転させたのが、1993年8月にAMショーで披露されたセガの「バーチャファイター」。この映像によって3Dゲームに対する認識が変わり、メーカーの多くがプレイステーションの参入に意欲をもつことになるのです。

初期のプレイステーションでとくに貢献が大きかったメーカーがナムコです。当時のナムコは「リッジレーサー」の開発に全力をかけ、プレイステーションを一台でも多く売ることを自社の使命だと考えました。任天堂とは訴訟で揉めるくらいに関係が冷えきっており、セガとはアーケードでライバル関係にあったからです。セガの「バーチャファイター」に対しても、ナムコは「鉄拳」を投入して対抗します。セガサターンとプレイステーションの対決をメディアが大きく取り上げるのをみて、久夛良木氏は内心ほくそ笑んでいました。「お金をかけずに宣伝になった」からです。

皮肉なことに、プレイステーションの初期における成功はセガの存在抜きには語れないわけですが、じつはアメリカのプレイステーション立ち上げではそれ以上にセガが関わっていました。米国ではソニーとセガはもっと深い関係にあり、その結果、セガはソニーにくわれたといっても過言ではない状況に陥るのです。



【米国セガの土壌を吸い上げるソニー】


1991年4月、ソニーエレクトロリックパブリッシング(SEPC)がアメリカで設立されました来るべきマルチメディア時代にそなえ、デジタルコンテンツ制作のためにソニーが設けた新部門です。当時の米国ソニー社長であるマイケル・シュルホフ氏は、この社長としてオラフ・オラフソン氏を任命。物理畑出身でCD-ROMの普及にも一役買った経歴を評価してのことでした。

SEPCは1993年5月になるとヨーロッパにあるシグノシスを買収。そして1994年5月には、SIE(Sony interactive entertainment)の一部門としてSCEA(Sony Computer Entertainment America)を設立します。ここでSCEAの社長にオラフソン氏が抜擢したのは、セガ・オブ・アメリカ(SOA)の元社員で、マーケティングを指揮していたスティーブ・レース氏でした。トム・カリンスキー氏とともにソニックを売り出したこともある人物です。

じつはSCEAはもともとプレイステーションとは無関係で、ジェネシス互換機やパソコンのソフトを販売することを目的に作られた会社だったのです。とくにゲーム機においてはセガこそが覇権を握るのだと考えており、1993年5月の経済新聞ではソニーとセガは手を組むことを表明していました。しかし、日本側のセガとソニーで話し合いが行われた結果、これは実現しませんでした。(当時のSOA社長によると、セガの中川社長の反対があったからとのこと)

こういった事情から、米国ソニーはプレイステーションの話をきくと「日本は何を考えているのか」と猛反発。「日本だけで勝手にやれば」という態度だったといいます。しかし、日本でプレイステーションの人気が出ると、手のひらを返してプレイステーションの販売計画に入ります。これを前後として、優秀なセガ社員が次々とソニーに引き抜かれました。その年の最優秀社員として表彰されたセガ社員(サードパーティーアナリスト)は、その24時間後にはより高い給料を提示されてソニーに移っていました。

1995年の5月、世界最大のゲーム見本市となるエレクトロニック・エンターテインメント・エキスポ(E3)が初開催されます。当初、SOAはセガサターンを同年9月発売予定としていましたが、中川社長の命によって、この開催日がロンチになるように計画を前倒ししました。値段は399ドルで、E3では当日に完売しています。しかし、このとき行われたプレイステーションの価格発表は、それ以上の注目を集めました。壇上にあがったレース氏はたった一言、「299」。つまりサターンより100ドル(約1万円)も安いことを宣言したのです。それから10か月後、セガサターンは米国で80万台売れましたが、プレイステーションは発売が4か月遅れたにもかかわらず、その倍以上を売り上げました。

セガサターンの売上げは国内で580万台、世界で926万台にとどまりました。日本ではもっとも人気のでたセガハードでしたが、海外では振るわない結果に終わりました。原因のいくらかはゲームソフトにあります。海外で同梱された「バーチャファイター」は日本ほど熱狂的な人気はなく、期待されていた「ソニック」も当初軽く作るつもりだった「ナイツ」の制作が長引いてなかなか発売されませんでした。「サクラ大戦」も日本とアジアだけのものだったといえます。

しかし、もっとも痛手だったのは、本来セガを支えるはずだった要素がことごとくプレイステーションに流れてしまったことです。ジェネシスが米国で築き上げた「ティーン・大人向け」というイメージは、プレイステーションに取って代わられました。過去に中祐司氏をSOAにひきとめたマーク・サーニー氏も、セガから独立して、プレイステーションでヒット作となる「クラッシュ・バンディクー」を制作します。なにより、米国でプレイステーションの立ち上げを成功させたのは、もとはセガの味方ともいえる面々だったのです。



【日米反発と世界のプレイステーション】


セガサターンの発売前、日本とアメリカのセガはギクシャクした関係にありました。SOAの過激なマーケティングはしばしば日本には無断で行われ、SOAが企画したソニック2の世界同時発売では日本だけ無視(3日早く発売)するなど、もともと日米での不協和音はありました。しかし、さらなる軋轢を生んだのが「スーパー32X」です。これはメガドライブの拡張機で、アメリカでは「ジェネシス32X」としてセガサターン発売前に投入されました。日本ではサターンの投入を急いでいましたが、SOAはソニックの用意もないサターンより現行機を延命させるべきだと考えていたのです。

このスーパー32Xとセガサターンの開発がほぼ同時に行われた結果、日本では「セガサターン開発のリソースがくわれる」、米国では「スーパー32Xを売りたいのに全然数が送られてこない」と互いに不満を抱くことになりました。もともと「スーパー32X」は社長である中川氏からの発案だったので、SOAはより不満を募らせていたようです。ソニ―との提携やサターン発売延期など、提言をことごとく却下されるようになったことに失望して、ジェネシスを世界に広めることに貢献したトム・カリンスキー氏は1996年にセガを退社しました。


一方、ソニーでも同じような問題が起こっていました。プレイステーションが成功する影で、その主導権をめぐってソニー内部では日米関係が最悪といえるまでにこじれていました。ゲーム機のデザインからマーケティングまで、あらゆる面で日本とアメリカの主張は食い違ったのです。そして少なくともプレイステーション発売日から1年内に、マイケル・シュルホフ氏、オラフ・オラフソン氏、スティーブ・レース氏など、トップを含む役員たちがソニーを去ることになりました。米国の報道誌では事実上のクビだったともいわれています(実際のところは不明)。

SCEは主導権をアメリカから取り返すために動きました。1994年からニューヨークに赴任していた平井一夫氏は、95年に丸山重雄氏から任命されて、翌年6月にSCEAの社長に就きます。トップは交代したものの、実際のビジネスを動かしている面子は同じままでした。1997年1月に100%出資子会社としてSCEIAがサンフランシスコに設立されると、丸山氏は大半の経営陣を交代させて新しいチームを発足します。久夛良木氏はSCEI会長となって、自ら小売店をまわるなど市場開拓努力をつづけました。その結果、北米のプレイステーションは97年には年間で約300万台、翌年には倍以上の770万台を売ることになります。

アメリカの20日後には、ヨーロッパでもプレイステーションは発売されました。従来のゲーム機と比べると、立ち上げとインフラ整備が非常に速かったといえます。欧州の責任者にはソニー・ピクチャーの海外販売担当社長だったクリス・デアリング氏が就任。アメリカのような摩擦もなく、スムーズな意思疎通が行われます。物流やサービスはソニーの資源を利用しつつ、地道に販売網を作り上げました。

1997年4月には、ヨーロッパで100%出資子会社としてのSCEEが設立。同年にイギリス、ドイツ、イタリア、スペイン、スイス、オーストリア各国で販売会社を立ち上げます。プレイステーションは米国と欧州で5:4ほどの人気となり、ヨーロッパで初めて成功した据え置きゲーム機となったのです。1997年6月、東京で行われたSCE主催のパーティにて、世界のプレイステーション累計出荷数が1600万台を突破したことを社長自らが発表しました。

最終的にプレイステーションは出荷台数一億240万台を記録。ヨーロッパでの人気は完全にアメリカに並ぶものとなりました。1億台を突破した家庭用ゲーム機は、携帯ゲーム機を含めるとゲームボーイに次いで2番目、据え置きゲーム機だけなら初という快挙でした。名実ともに「世界のプレイステーション」とよべる記録を残したのです。


 


【国内外で明暗のニンテンドウ64】


セガやソニーの日米関係と比べるとNOAの荒川氏はさすがに日本の任天堂の意向をよく汲んでいました。SOAの比較広告にもほとんど対抗せず、良質なソフトの売り出しに努めます。しかし社内にはその保守的な態度を不満に思う者もいました。マーケティング担当だったビル・ホワイト氏は荒川氏の指示に背いて、ニンテンドウパワーに掲載するはずだった情報を無断で業界紙に流します。彼は任天堂をクビになると、そのままセガに移ってしまいました。そんな事件がありながらも、SNESはマリオカートやドンキーコングカントリー(スーパードンキーコング)で大ヒットを飛ばします。ジェネシスに最終的な逆転までは譲りませんでした。

プレイステーションやセガサターンに遅れて、任天堂も次世代ゲーム機を発売します。当初、この次世代機は「ウルトラ64」と呼ばれていましたが、商標でソフトに「ウルトラ」が使えないと判明したことから、新たな名称をつけることになりました。これを任されたコピーライターの糸井重里氏は、かつてゲームボーイを遊ぶ兵士が放映された湾岸戦争で、「ニンテンドー」が機械の名前として使われていることを知っていたので、正面から寄り切りの名前として「ニンテンドウ64」と命名しました。これは海外でも反応が良かったので、国内外で共通の名称となりました、

しかし、1996年6月に日本で発売されたニンテンドウ64は立ち上げに失敗します。96年末までに予定されていた17タイトルが立ち消えて、深刻なソフト不足に陥ったのです。もともとニンテンドウ64はソフト開発が難しいゲーム機でしたが、これらのタイトルが消えた理由は、宮本茂氏いわく「洋ゲーすぎたから」。マネジメントを海外メーカーに任せきりだったことが災いしたといえます。ニンテンドウ64の売上げは低迷して、わずか半年後には異例の値下げを行いました。

さらに痛手だったのがスクウェアの離脱です。もともと「ファイナルファンタジー7」はニンテンドウ64のために開発が進んでいたのですが、開発陣が作りたいものを実現するにはCD−ROMの大容量が不可欠でした。そのため「ファイナルファンタジー7」はプレイステーションに移行することを決定します。1996年2月に行われたこの発表は当時のゲーム業界を驚かせ、まだセガサターンと競っていたプレイステーションの優勢を決定づけました。

「ファイナルファンタジー7」が異例だったのは、日本だけでなく、アメリカやヨーロッパでも大人気となったことです。RPGはもともと米国生まれのジャンルですが、SNESの時代にはすでに人気が衰退しており、日本では大ヒットした作品も海外ではことごとく不振でした。そのため、SNESではファイナルファンタジー5は発売されていません。しかし、ファイナルファンタジー7は米国でも欧州でも熱狂的な人気を呼び、大勢のユーザーの「マイファーストRPG」となったのです。海外でRPGというジャンル自体が見直されるきっかけにもなりました。NOAはこの大作ソフトを逃したことを悔やむコメントを残しています。

日本におけるニンテンドウ64の人気は、セガサターンより低いものとなりました。しかし、アメリカではマリオやゼルダが高く評価され、好調な売れ行きとなりました。ジェネシスがヒットしたときと同様、日本ではRPGがないと人気が伸びませんが、米国ではアクションが主流だったといえます。また、ヨーロッパでの人気は全体としては高くありませんでしたが、フランスではゼルダやパーフェクトストライカー(スーパースターサッカー)がキラーソフトとなって良い売れ行きを示しました。1997年頃のフランスのシェアは、任天堂は30%、セガは0.8%だったそうです。

ニンテンドウ64の最終的な売上げは、国内では550万台ほどでしたが、世界的には3200万台となりました。セガサターンの3倍以上の数字です。プレイステーションには遥かに及びませんが、ひとつのゲーム機としてはむしろ成功の部類です。しかし、ゲーム業界のトップから転落し、ファイナルファンタジーなどの大型タイトルも逃すことになり、そういった意味ではブランドイメージにはっきり傷がついた結果となりました。その影響は、どちらかというと次世代機のほうが大きかったといえるかもしれません。



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