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家庭用ゲーム機・海外展開の歴史1 任天堂・セガ
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【ニンテンドウ・オブ・アメリカの誕生】


任天堂が本格的に海外に進出したのは、まだファミリーコンピュータ(ファミコン)が生まれてもいない時代のことでした。むしろファミコンは、任天堂の海外進出を背景にして生まれた商品だったといえます。

1980年、当時の任天堂社長である山内溥氏は、以前から狙っていたアメリカ市場に進出することを決めます。国内における販路は前代社長から引き継ぎましたが、その手は海外までは及んでいませんでした。山内社長が米国社長として目をつけたのが、じつの娘婿である荒川實氏です。当時、丸紅社員として北アメリカに居を構えていた荒川氏は、英会話にも商売にも堪能で、海外展開にうってつけの人材といえました。説得に応じた荒川氏は、1980年5月にニューヨークのオフィスを借りて、ニンテンドウ・オブ・アメリカ(NOA)を設立。社員は荒川氏と彼の妻だけという、まさしくゼロからのスタートでした。

当時、アメリカではすでにアーケードゲームが映画やテレビを追い抜くほどの人気となっていました。NOAはとりあえず任天堂が開発するアーケードゲームを売り出すため、運送業者と交渉して酒場やゲームセンターなどにアーケード機体を置いてもらいます。その反応がよかったので、NOAは本格的に商売をスタートしますが、まもなく悪い兆候がみえてきました。日本から送られてくるゲームが凡作つづきで、ろくに遊んでもらえないのです。

失地回復のために、荒川氏はシアトルで行っているテストプレイでもっとも反応が良かった「レーダースコープ」を一挙に三千枚発注。しかし、シアトルを再訪したとき、荒川氏はレーダースコープがほとんど遊ばれていないのをみて愕然とします。レーダースコープは当時としては高度な技術を使っていましたが、ユーザーが繰り返し遊びたくなる内容ではなかったのです。米国に基盤が届く頃には、値下げしても二千枚以上の売れ残りがでるほど人気が落ちていました。

ニューヨークに拠点をかまえていては、日本からの船便に時間がかかりすぎる――そのことを痛感した荒川氏は、NOAを西海岸のシアトルに移転することを決めます。また、すでに巨額の投資をしていたレーダースコープについては、基盤を流用して別のゲームを作ってくれと日本の任天堂に泣きつきました。これを買って出たのが、当時まだ新入デザイナーだった宮本茂氏です。日本で人気が高まっていたゲーム&ウオッチの新作をつくるために横井軍平氏から抜擢されていたのですが、敗戦処理のような仕事を誰もが嫌がったため、話がまわってきたのです。こうして生まれた作品が「ドンキーコング」。これを見たNOAの評価はかなり低いものでしたが、実際に売りだしてみると、ほぼ一夜にして1981年最大のヒット作に大化けします。

「ドンキーコング」はあまりにも売れすぎて、1982年には「キングコング」の大手映画会社ユニバーサルから訴訟対象にされます。ここで活躍したのが弁護士のハワード・リンカーン氏でした。NOAが運送業者と契約したときからつきあいを深めていた人物ですが、この裁判の始まりをきっかけにNOAのバイスプレジデントに就任。彼の率いる法務集団は、ユニバーサルがキングコングの版権をそもそも持っていない(オリジナル版権取得の手続きを怠ってリメイク映画を作っていた)ことを法廷で証明して、最終的にユニバーサルから訴訟費用と損害賠償金100万ドル以上を勝ち取ります。リンカーン氏は、それからも海賊版の摘発や訴訟などで、かなりの活躍を見せることになります。

NOAに大幅な利益をもたらしたドンキーコングは、1982年にはゲーム&ウオッチにも移植されて、こちらも大ヒットを記録することになります。しかし、その前年11月には、山内社長の「ゲーム&ウオッチの先がみえた」の一言から、任天堂では新しい家庭用ゲーム機の開発がはじまっていました。これが後にゲームの歴史を塗りかえる「ファミリーコンピュータ」です。

このプロジェクトは「レーダースコープ」制作以降、仕事が減っていた開発二部に任されました。最初はまったく自信のなかった開発二部ですが、アーケードの「ドンキーコング」を家庭で遊べることを目標&モチベーションとして、開発に熱をいれていきます。しかし、その翌年には米国で家庭用ゲーム市場の崩壊がはじまります。いわゆるアタリショック(ビデオゲーム・クラッシュ)の到来です。



【アタリショックとNESの成功】


1982年のクリスマス商戦、アメリカの小売店はアタリ社のビデオ・コンピュータ・システム(VCS)のソフト在庫を確保するために奔走していました。すでにアメリカでは家庭用ゲーム機のブームが到来しており、前年のクリスマス商戦では30億ドルを超えるほどの売上げがありました。今年も同じくらい売れるだろうと見込まれていたのですが、ふたをあけてみると当年度のソフト売上げはたったの1億ドル以下。前年の30分の1にも満たないものでした。ゲーム市場は急速な販売不振に陥り、大量の在庫を抱えたあげく倒産する企業が続出しました。

こうなった原因のひとつは、ゲームソフトの粗製乱造にありました。当時のブームに乗っかろうと多くの企業がソフト制作に参入しましたが、その数はアタリ社すら把握できないほど多く、ゲーム内容も審査されていませんでした。その結果、ゲーム市場には「ポルノ的で悪趣味で低品質なソフト」が蔓延して、1985年にかけてユーザー離れが急速に進んだといわれています。代わりにパソコン仕様のゲーム機が台頭して、MSXを中心にいくつものメーカーがパソコン機を市場に投入しました。

1983年に日本で発売されたファミコンは、もともとアタリ社と提携して海外展開をする予定でした。任天堂はファミコンが完成する前からグローバルライセンスを条件にアタリ社と提携する計画を進めていましたが、北米で「ドンキーコング」のライセンスをもっていたコレコ社がその移植版をホームコンピュータ上で勝手に動かしていることがわかって交渉が中断。任天堂がコレコ社と権利でもめているうちに、アタリ社では急激な業績悪化とインサイダー疑惑から交渉の総責任者だったCEOが失職します。そのうちアタリショックが起きて、提携計画は永遠に破棄されることになりました。

こうした経緯からファミコンの北米進出はNOAが担うことになりましたが、その姿勢はきわめて消極的でした。日本ではリコールや不具合に見舞われながらもファミコン人気が高まっており、山内社長はこれをアメリカでも出せとNOAをせっつきますが、荒川氏はなかなか首を縦に振りません。アタリショック以降、米国小売店のゲーム機に対する拒否反応はそれほどまでに強くなっていたからです。

1984年になるとNOAはようやく北米版ファミコンを試験的に検討します。その際に考えられた戦略が、ファミコンの外見を変えて「ゲーム機とわからないようにすること」でした。1984年冬のラスベガスで行われたCES(Consumer Electronics Show)にプロトタイプをだして様子見、さらに翌年6月にはシカゴで開催されたCESには、NES(Nintendo Entertainment System)という新名称をつけて出展しました。その際、ロボットや光線銃をつけて「新しいエンターテインメント」だということを演出しました。

NESの評判はいまだ判断に迷うものでしたが、大型玩具量販店のトイザらスが仕入れを決断したこともあって、1985年10月18日にはニューヨーク限定で販売開始。投入した5万台のうち7割をなんとか売りきり、少なくとも米国のゲーム市場が死んだわけではないことが証明されます。それからNOAはアメリカ全土に向けてNESを本格的にリリースする準備にはいります。

その計画は大きな成功をおさめて、NESの販売台数は1987年に230万台、1988年には610万台に達します。ソフトは1987年には1000万本、1988年には新たに3300万本が出荷されました。米国任天堂は「任天堂品質保証シール」「サードパーティライセンス制度」といったシステムでブランド保護につとめながら、1988年7月には会員向けの情報誌「ニンテンドーパワー」創刊号を発刊。これは有料購読者数が最速で100万人を突破した雑誌として、歴史に名を残すことになります。

成功の決め手はやはりゲームソフトにありました。NESは初めから本体にソフトを同梱した「デラックスパック」と「アクションパック」の2種類を販売しました。どちらのパックにも「光線銃」とその対応ソフト「ダックハント」がつき、デラックスパックにはロボット、アクションパックにはスーパーマリオブラザーズが付属していました。とくに「スーパーマリオブラザーズ」は遊んだユーザーからの評判が高く、国境のない面白さでNESを成功に導く要因となりました。

スーパーマリオブラザーズは最終的に世界で4024万本を売上げて、20年以上にわたり「世界で一番売れたゲームソフト」の座を保持しつづけることになります。




【セガ・エンタープライゼスの挑戦】


任天堂のファミコンに対抗するために乗り出したライバル企業のひとつが「セガ・エンタープライゼス」でした。歴史をさかのぼればセガの元会社はアメリカ創設ですが、その支配権は1982年に創業者のデイヴィッド・ローゼンから日本部門のトップ・中山隼雄氏にすべて譲渡されています。まもなくアタリショックで大打撃を受けたセガ株を、親会社が売却する動きがあったので、これを買収するために中山氏とローゼン氏は大川功氏を会長としたCSKグループに加入。セガの存続・再建のために新体制が作られます。東京で中山氏が事業の大半を取り仕切り、ローゼン氏はアメリカの子会社を統括することになりました。

当時のセガはアーケードゲーム事業を中心に人気を博していましたが、中山社長の意思によりゲームハード開発にも参入することになります。そのきっかけは、任天堂でアーケード事業などに関わっていた駒井徳造氏がセガに入社したことでした。駒井氏はアーケード事業の残務処理のような仕事をしていたところを中山社長にスカウトされたのです。最初はパソコン事業部としての立ち上げで、部員は3人だけというスタートでした。

約1年かけて、セガ初のホームパソコンとなる「SC-3000」の設計が終わったころ、任天堂がファミコンを発売するという情報が飛びこんできます。セガは急遽SC-3000を改良する形で、家庭用ゲーム機にも参入することを決定。そして1983年7月、ファミコンにぶつける形で、セガは家庭用ゲーム機「SG-1000」を発売しました。これは初年度で16万台を売り上げて、予想よりは良い数字でしたが、発売2ヶ月で50万台売っていたファミコンには遠く及ばないものでした。続けてSG-1000-2を投入しても、その差は広がる一方でした。

セガは米国でもNESを追う形で、家庭用ゲーム機販売の拠点となるセガ・オブ・アメリカ(SOA)を1986年3月に設立します。初代社長には、ローゼン氏が米国任天堂の販売担当から引き抜いてきたブルース・ロウリー氏が任命されました。日本で発売した「セガ・マーク3」の北米版として「マスターシステム」を1986年6月にリリース。これは最初の四か月で12万5千台を販売して、滑り出しは悪くないものでしたが、同期中に200万台売ったNESとは勝負になりませんでした。

日本でもアメリカでも任天堂の牙城に傷一つつけられないとわかると、セガはマスターシステムに見切りをつけて(他メーカーに権利を譲渡)、任天堂よりも早く次世代の16ビットゲーム機の開発に着手します。これが日本では1988年10月に発売されることになる「メガドライブ」です。

この「メガドライブ」を米国でヒットさせることを任務として、1989年10月、マイケル・カッツ氏がSOA二代目社長としてローゼン氏に抜擢されます。もともとゲームビジネスで実績のあったカッツ氏は、自ら北米版メガドライブに「ジェネシス」と名前をつけて売り出しますが、その販売は初年度を過ぎても35万台ほどにとどまりました。

その仕事ぶりを快く思っていなかった中山社長はひそかに代役を探し、ハワイで休暇を取っていたトム・カリンスキー氏をスカウトします。彼はマテル社でバービー人形を世界的にヒットさせた立役者でした。カリンスキー氏はゲームにはまったく詳しくなかったのですが、この新しい娯楽事業に興味をもって、SOA3代目社長となることを引き受けます。当時、任天堂が支配している家庭用ゲーム市場において、セガが入りこむ隙はないに等しいものでしたが、彼はそれから5年でセガのアメリカの市場占有率を5%から55%にまで伸ばしていくことになります。



【アメリカ対決 セガVS任天堂】


1987年の時点で、任天堂は日本のゲーム市場において95%のシェアを占めていましたが、米国のゲーム市場でも85%を占めるようになっていました。さらに1989年にゲームボーイが登場して、携帯ゲーム市場でも大成功をおさめる頃になると、アメリカではもはやゲームのことを「ニンテンドー」と呼ぶようになっていました。

セガは任天堂よりも先んじて次世代機をだしましたが、その普及はしばらく苦戦していました。ゲーム市場において任天堂の力が大きくなりすぎていたからです。巨大小売店チェーンであるウォルマートと販売交渉しても、セガはすげなく断られてしまいます。しかし、セガはめげずに自動車会社と組んで、ウォルマート近くのショッピングモールにイベントスペースを設けました。そこでジェネシスを無料で遊べるようにして、口コミを期待したのです。

1990年には、エレクトロニック・アーツがジェネシスにサードパーティとして参入します。なんとか市場に食い込んでいるセガでしたが、状況は依然として厳しいものでした。テトリスの版権争いに敗れ、アレックスキッドのデビューも失敗して、1990年にはライバル機となるスーパーファミコンが日本で発売されてしまいます。しかし、翌年になるとセガにも救世主が現れました。それが「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」です。

ソニックは「打倒・任天堂」を目標として生み出されたキャラクターです。日本から送られてきたソニックの試作品をみて、SOAはそのスピード感あふれる内容に圧倒されました。この作品には任天堂を上回る力があると考えたカリンスキー氏は、ソニックをどう売り出すかということに人材と時間をつぎ込みます。それから挑発的ともいえる任天堂との比較広告を大々的にうって、ジェネシスの同梱を「獣王記(Alterd Beast)」から「ソニック」に変更、さらに本体の値下げを行いました。この戦略によって、ジェネシスの売り上げは一気に3倍に。前年は1年間かけて40万台でしたが、91年は夏だけで50万台売れました。ソニック=クールというイメージを生み出すことに成功して、年末商戦ではスーパーファミコンの米国版であるSNESをおさえてジェネシスがトップに立ちました。

一方、日本ではソニックのプログラマーである中祐司氏がマスターアップと同時にセガを辞めていました。その理由は、本人によると「僕は『ソニック』がとても売れると思ったのに、会社は売れないと判断したから」。高卒9年目で給料が16万だったことにも原因がありました。そんな中氏をSOA社員であるマーク・サーニー氏はアメリカに誘います。ちょうどSOAでも開発を立ち上げたところだったのです。中氏はソニックは作らないという約束でアメリカに渡りますが、ビザを取るための2ヶ月間で米国ではソニックが大人気となっていました。結局、中氏はソニックの新作を3年かけて3作発表することになります(約束がちがうと思いつつ)。

ソニックは日本でもアメリカの3日後に発売されてヒットしますが、米国ほどの熱狂的な人気はでませんでした。米国ではアクションとスポーツが主流ですが、日本ではRPGのほうが人気が強かったのです。日本市場ではスーパーファミコンが終始8割を占めて、メガドライブはPCエンジンと残りのシェアを争う状況にありました。そのため、当時の日本においては「セガVS任天堂」という構図はじつは成立していません。北米で92年から行われたジェネシスとSNESの値下げ競争も、日本では見られない光景でした。

SOAはティーンや大人向けの層を取り込み、過激な表現を含む「モータルコンバット」や「ナイトトラップ」などのヒット作品も獲得しますが、それが立場を悪くしたこともあります。アメリカでは暴力的なゲームが問題となって、任天堂とセガを呼んだ公聴会が開催されたのですが、そこでは任天堂よりもセガのほうが不利にならざるをえませんでした。この公聴会は1994年3月にもう一度行われて、政府が直接介入するよりゲーム業界で自主規制をすべしという結論に落ち着きます。両社ともゲームのレーティングを行う審査委員会の設立に合意して、これがESRB(Entertainment Software Rating Board)の発足につながります。後に日本で設けられたCEROの参考にもなりました。

紆余曲折ありつつも、米国のセガは一時期コカ・コーラと並ぶくらいのブランドイメージになりました。メガドライブの最終的な販売台数は日本で358万台、世界で3075万台。北米だけでなく中南米全域でも広く普及しました。その成功は、ソニックの牽引が欠かせないものだったといえます。



【欧州展開とゲームボーイ】



任天堂にしてもセガにしても、アメリカの次はヨーロッパに本格的に進出しています。ヨーロッパ市場の規模は世界最大のアメリカにも匹敵するものでしたが、その展開には地域的な難しさがありました。

ファミコン発売当時のヨーロッパは分割市場。地域ごとに通貨や関税が異なるだけでなく、法律から嗜好まで文化の違いがあって一様なマーケティングが通用しません。くわえてテレビの受像方式が日米は共通のNTSC方式を採用していましたが、欧州はPAL方式。このためゲームの表示スピードやタイミングなどに再調整が必要でした。日本やアメリカに比べると、発売が遅れたり価格が跳ね上がったりすることも珍しくなかったのです。

ゲーム&ウオッチ投入以来、任天堂は欧州に販売代理店をもっていました。1986年にNintendo Entertainment System Internationalを創設してNESの試験的な販売を行っています。1987年以降は、イギリス、西ドイツ、フランス、スペイン、ベネルクス三国に本格的に進出して販売代理店を増やしていきます。1990年6月になると、ニンテンドウ・オブ・ヨーロッパをドイツに設立。米国でソフト評価システム制度確立などに貢献した太田茂氏が社長となって、NOAスタッフが出向いています。

セガはヨーロッパにおいては任天堂より先行していました。8ビットの時代から、イギリス、フランス、ドイツに販売代理店をもっていましたが、イギリスのバージングループを買収して本格的に欧州の販売を開始。1990年のクリスマス商戦から、マスターシステムはそれまでの三倍に売り上げを伸ばしたといいます。1991年7月にはバージンマスタートロニクスを買収して、セガ・ヨーロッパを設立。欧州でのジェネシスはアメリカと同じように任天堂と拮抗するくらいの人気がありました。

しかし、8〜16ビット時代を通して、ヨーロッパでは家庭用ゲーム機でなくパソコンゲームが主流でした。アメリカとは異なり、NESが浸透するよりも前にPCのほうが普及しきっていたからです。イギリスでは、SNESとジェネシスの競争という以前に、家庭用ゲーム機がパソコンゲームの壁を超えることはなかったといいます。

さらにゲーム機の人気は地域でばらつきました。たとえばNESはフランスでは善戦しますがイタリアでは悲惨でした。これは地域担当者がとった戦略によるところが大きいとされています。とくに販売代理店が扱っていると、目先の利益を求める価格設定を行ったり、少しでも売れなくなると宣伝広告を打ち切ってしまったりという傾向がみられました。


任天堂の本格的なヨーロッパにおける成功は、携帯ゲーム機であるゲームボーイのロンチからとされています。92年度の全ヨーロッパの売り上げ台数は、ゲームボーイが600万台、NESが350万台、SNESもNESとほぼ同数でした。この年の時点でゲームボーイは世界で3200万台を売り上げていて、ヨーロッパでもアメリカと遜色ない人気を見せました。携帯型なのでパソコンゲームとはまた違った需要があったといえます。もちろん良質なソフトも人気に貢献しました。

ヨーロッパにおけるゲームボーイの人気は、後のポケモン登場によって再燃することになります。またヨーロッパで初めて成功する据え置きゲーム機は、プレイステーションの登場を待たなければなりません。


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