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| @両国界隈を歩く(下記) | A 亀戸天神社 | B 巣鴨界隈 (とげぬき地蔵など) |
| C旧東海道・品川宿周辺 | D旧中山道・板橋宿周辺 | E青物横丁から蒲田まで |
| F実篤公園とげげげの天神通り | G神田・本郷界隈 | H南馬込・長遠寺 |
| I駒形橋から浅草寺 |
江戸時代、川向こうといえば、向島、本所、深川という地名で、その位置関係が分かった。
また、昭和二十二年までは、江東区は深川区と城東区、墨田区は向島区と本所区に分かれていてたのでよかったが、
現在の江東区や墨田区という区名ではピンとこない。
本所松坂町が両国3丁目に変わったのも同様で、江戸の地名の大部分は、昭和に行われた住所表示の変更により歴史から抹殺されてしまった。
平成二十一年四月二十四日。 久し振りに両国界隈を歩く。
両国には江戸博物館や相撲茶屋があり、これまで数度訪れているが、周囲の施設は知らないので、今回はそれを訪問しようという訳である。
最初に訪れたのは、江東区清澄3丁目4番にある当知山本誓寺である。
文亀元年(1501)に小田原に創建されたが小田原城落城の際焼失、その後、江戸に移ったが火災などで転々とした後、天和三年(1683)に当地に移った。
寺の前には村田春海の墓の石柱が建っていた。
傍の都が建てた案内板によると、「 江戸中期の国学者で歌人。 日本橋小舟町の豪商村田春道の次男として生れ、父と兄と共に、賀茂真淵の門人で、著名な国学者だった。 」 とあった (左下写真)
この寺は江戸に進出した伊勢商人の菩提寺になっていたようで、村田家もその一軒であるが、本居宣長の父や義兄の墓もここにあるようである。
寺は新しく、見るものはないが、小さなお堂に祀られた迦楼羅立像は花崗岩で造られた石像で、丸彫りに近い浮彫で、横笛を吹き、甲冑を着けて立つ姿だった (右下写真)
朝鮮高麗時代の作と推定されるが、その渡来の時期などの来歴は不明である。
村田春海墓石柱 迦楼羅立像跡
臨川寺は松尾芭蕉とゆかりがある寺院で、芭蕉由緒の碑が建っていた (左下写真)
臨川寺は、承応二年(1653)茨城県の鹿島根本寺の冷山和尚が江戸の小名木川の辺りに草庵を結んだことに始まり、
その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳三年(1713)に瑞甕山臨川寺の寺号を得た。
延宝八年(1680)に深川に移り住んだ芭蕉は、仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられている。
芭蕉由緒の碑には、 美濃派の俳人神谷玄武が、芭蕉門人の各務支考により、京都双林寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して、臨川寺に石碑を建て、
毎年三月に墨直会を催したことが綴られている (右下写真)
芭蕉由緒の碑 墨直しの碑
続いて訪れたのが、清澄庭園。 東京都の公園で、9時から午後5時まで、年末年始を除き、開いていて、入園料は150円(65歳以上は70円)である。
名勝 東京都 清澄庭園の案内板には、以下のような説明があった。
「 この庭園は、泉水、築山、枯山水を主体にした回遊式林泉庭園で、江戸時代の大名庭園の造園手法を明治時代に引き継かれ、近代的して完成したものです。
この地の一部に江戸の豪商 紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと言われています。
享保年間(1716〜1736年)には、下総国関宿城主 久世大和守の下屋敷となり、この頃に庭園の原形が形づくられました。
明治11年、岩崎弥太郎が、荒廃していたこの地を含む3万坪(約10万平方メートル)を買い取り、
明治13年(1880年)4月に 「 深川親睦園 」 と命名し、三菱社員の慰安や内外賓客を招き、招待の場として用いることとした。
岩崎弥太郎亡きあと、岩崎弥之助(弥太郎の弟)が庭園に手を加え、隅田川の水を引いた大泉水とし、
全国から取り寄せた奇岩名石を配した造園工事が行われ、明治24年、明治時代を代表する庭園が完成されました。
関東大震災ではこの地域は大被害を被りましたが、この庭園は救いの場となり、被害時の避難場所として役割を果たし、多数の人命が助かりました。
岩崎久弥(弥太郎の嗣子)では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、翌大正13年破損の少なかった庭園部分(深川親睦園時代の半分)を東京市に寄付しました。
東京市は大正記念館、深川図書館などを整備移築し、昭和7年7月24日 「 清澄庭園 」として開園しました。 」
この後、庭園の中を見て回ったが、例えばなつめ水鉢の御影石や庭に敷き詰められた飛び石にこの庭園の凄さが感じられた。
涼亭は、明治四十二年(1909)に国賓として来日した英国のキッチナー元帥を迎えるために、岩崎家が建てたものである。
大正記念館 摂津御影(なつめ水鉢)
飛び石(磯渡り) 涼亭(りょうてい)
あずまや(中の島) 亀達がのんびり(?)
清澄庭園のバス停のところに戻ると、深川芭蕉庵散歩の案内図があった。
芭蕉庵址に行く前に清澄通りを反対側に渡り、左側の小路を行くと、左側に霊巌寺がある。
境内には、寛政の改革をなした松平定信の墓がある (左下写真)
松平定信は八代将軍徳川吉宗の孫、田安宗武の子として生まれ、陸奥白川藩主となり白河楽翁を号した。
天明七年(1787)に老中となると寛政の改革を断行し、札差統制(旗本、御家人などの借金救済)、七分積立金(江戸市民の救済)などの新法を行ったが、
庶民の中では評判が悪く、「 白河の 清きに魚のすみかねて もとの濁りの 田沼こひしき 」 と詠われた。
また、江戸六地蔵の一つ銅造地蔵菩薩坐像が鎮座している (右下写真)
江戸六地蔵は、京都の六地蔵に倣って造立されたもの。
江戸深川の地蔵坊正元が、宝永三年(1706)に発願し、江戸市中から広く寄進者を得て、江戸に入る六街道に設置したものである。
松平定信の墓 地蔵菩薩坐像
霊巌寺の道の反対側にあるのが長専院不動寺で、深川の出世不動として有名である。 寺の由来は
『 浄土宗の高僧、霊厳上人は江戸幕府より隅田川沿いの湿地を埋め立てて寺を建立する許可を得たが、難工事を強いられていた。
ところが、近江国三井寺の不動堂住職、期妙の夢の中に本尊の不動尊像が現れ、
「 手助けをしたいので、江戸に連れて行くように!! 」 というお告げがあったので、
霊巌寺の工事中、お堂を建てて安置したところ、工事は順調に進んだ。
後に不動尊像は不動寺に安置され、上人から出世不動と命名された。 』
というもので、関東大震災後、寺は長専院と合併し、今日に至っているとあった (左下写真)
その先には深川江戸資料館がある。
ここには、江戸時代の深川の町家のむれが実物大で、路地、掘割ごと、いわば界隈ぐるみ構築され、再現されており、
吹き抜けの三階から見れば、屋根まで見える (右下写真)
階下に降りると、店先に立つことができる。
搗米屋とその土蔵、八百屋、船宿から軒割り長屋もあった。
軒割り長屋に住む大工や職人は四畳半〜六畳の畳の間に土間があり、
土間に水屋と竈があるだけの空間で生活していたようなので、箪笥などの調度品は置くところもなく、布団を持っていない家も多かったのだろう。
火の見櫓もそびえていて、掘割には猪牙舟も浮かんでいる。 水茶屋も屋台も出ていて、すべて原寸大である。
( 入館料300円、9時30分〜17時、第2、第4月曜日と年末年始は休館)
深川が市街化はじめるのは、三代将軍家光の寛永年間からである。
長盛という法印が発願し、幕府の許可をえて、富岡八幡宮を建てたことによる。
この神社は誕生早々から江戸庶民の関心をよび、寛永二十年(1643)にはじめて祭礼をおこない、
その後、深川の祭礼は江戸民の楽しみのひとつになった。
門前には茶屋がならび、妓をかかえる色街になった。
五代将軍綱吉の時代になると、江戸と深川を結ぶ大橋や永代橋が架けられ、深川は孤島でなくなった。
貞享元年(1684)には江戸で初めて、富岡八幡宮で勧進相撲が行われた。
勧進とは、社寺への寄進のことで、建立とか修理の費用のためにひろく大衆から銭をつのることをいう。
表向きは八幡宮の主催になり、寺社奉行の管轄であった。
大相撲にいまでも神事が加味されるのは勧進相撲の名残である。
富久という題の落語に出てくる富くじもそうであった。 幕府の許しをえて、社寺が行い、その利益で社寺の修復をするというものである。
利益は社寺側が三分の一ほどとった。
富岡八幡宮がで、江戸時代にしきりに富を催したのは幕府の庇護が厚かったからで、
抽選の日には寺社奉行から役人がきて立ちあった。
深川出世不動尊 深川江戸資料館
深川江戸資料館を出て、清澄通りを高橋の手前まで歩き、左側の細い道を小名木川沿いに進む。
小名木川は、徳川幕府が塩輸送のために作らせた運河で、万年橋は寛永年間(1630)に猟師町ができた時に架けられた、という。
曲線を描いた橋を渡ると、左側に休憩スポットがあり、江戸時代の様子を描いた碑があった。
渡ってきた橋の手前の左側には、江戸時代の一時期、船番所があったようである。
史実によると、「 関東各地から江戸に運ばれる品物はこの場所を通り、
神田、日本橋など、江戸中心部へ運ばれたことから、江戸の出入口としてこの地に船番所がおかれ、人や品物を取り締まった。
始まった時期ははっきりしないが、正徳四年(1647)に深川番の任命が行われていることから、この頃のことと考えられている。
その後、江戸市街地の拡大や本所の掘割の完成に伴い、寛文元年(1661)中川口に移転し、中川番所となったので、当地は本番所と称された。 」 と、ある。
なお、万年橋からの富士山の眺めがすばらしかったようで、安藤広重は江戸百景で、葛飾北斎は富嶽三十六景で描いている。
下左写真は芭蕉庵史跡展望公園で北斎の富嶽三十六景の標柱を写したもの。
現在の万年橋 江戸時代の万年橋
休憩スポット 万年橋から浜町方面を望む
その先左に入る小路があり、そこを進むと右側に赤い鳥居と芭蕉大明神の赤い幟がはためく芭蕉稲荷神社がある。
中に入って行くと、赤い社の隣に芭蕉庵跡の大きな石碑があった (左下写真)
深川芭蕉庵旧地の由来と書かれた案内板には、
『 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし、
「 古池や蛙飛びこむ水の音 」 等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な 「 奥の細道 」 等の紀行文を著した。
ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
たまたま大正六年(1917)津波襲来のあと芭蕉が愛好したといわれる石像の蛙が発見され、
故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
昭和二十年(1945)戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年(1955)復旧に尽くした。
しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。
昭和五十六年(1981)三月吉日 芭蕉遺蹟保存会 』
とあった。
芭蕉は、延宝八年(1680)三十七才の時、深川六軒堀のこの場所に移り住み、奥の細道などの紀行文を書き、
元禄七年(1694)に芭蕉庵を出て、大阪の門人度会園宅にて病死した。 その間、十四年間の住まい跡である。
その先に進むと、おできの神様正木稲荷大明神の旗が立ち、正木稲荷神社があった (右下写真)
傍らの正木稲荷由来の石碑には、
「 江戸時代、江戸では多くの稲荷が祀られていた。 正木稲荷は天保には存在しており、江戸名所に書かれるように、有名な稲荷だった。
正木はおできの患部に張ると治る効果があったが、参詣者は蕎麦を断ち、治療効果が現われると、蕎麦を供えてお礼したという。 」
とあった。
芭蕉稲荷神社 正木稲荷神社
正木稲荷神社脇を進むと、突き当たりに江東区芭蕉庵史跡展望公園がある (左下写真)
上って行くと、芭蕉の銅像と芭蕉没後に出版された書物を紹介した案内板が数多く建っていた。
芭蕉像の先には、隅田川に架かる清洲橋が見えるが、ドイツのケルンの風景に似ているという。
川沿いに道をたどっていくと芭蕉記念館に出た (右下写真)
芭蕉記念館には、松尾芭蕉や俳句に関する資料が展示されていた。
区の施設なので、句会や会合などに利用されている (100円、9時〜17時、月休)
芭蕉庵史跡展望公園 芭蕉記念館
芭蕉記念館先の隅田川に架かる吊り橋は新大橋である。
江戸時代には、現在より下流の芭蕉記念館のあたりにあったようで、道路脇にそれを示す旧新大橋跡の標柱が建っていた。
当時、両国橋は大橋と呼ばれていたので、元禄時代に造られたこの橋は、新大橋と名づけられたとある。
近くに、芭蕉そばという看板を掲げた立ち食いそばの店があり、昼時なのでサラリーマンで混んでいた。
そば屋の脇の道をいったあたりで、寛政十年に仇討が行われた。
『 寛政十年(1798)十一月三日、旧深川元町の旧猿子橋であった仇討は、
「 寛政この弓誉の鑑 」 と題して瓦版で江戸中の評判になった。
崎山平内がだまし討ちにした渡辺彦作の妻子に討たれそうになったが、まわりに取り押さえられ、平内は牢屋に入れられたが、十二日に死亡した。 』
というもので、猿子橋仇討旧跡(常磐1-12)がある聞いていたが、みつからなかった。
その先にある深川神明宮は深川で最も古い神社で、境内には深川七福神の一つ寿老神が、寿老神社に安置されている。
また、深川の地名は、 「 摂津の深川八郎右衛門が、この付近を開拓し、村の鎮守の宮として、慶長元年(1596)伊勢皇大神宮の御分霊を祀って創建した。
徳川家康が訪れた際、村名を尋ねたが村の名前がなかったので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた。 」 ことによる。
先程の芭蕉記念館前まで戻り、北上する。 この道は赤穂浪士引揚道で、吉良上野介を討ちとった後、引き上げた時使われた道である。
新大橋通りを横切ると、道は左にカーブするが、二つ目の三叉路を右に入ると江島杉山神社があった (右下写真)
案内板には、
「 鍼術の神様、杉山和一(1610〜94)が、五代将軍綱吉からここ本所一つ目に約15万2千平方メートルの土地を拝領し、
総録屋敷を建て、その西側に弁財天の一社を建立したのが江島杉山神社の始まりです。
神奈川県藤沢市の江の島弁財天と杉山和一検校が祀られています。 ・・
以前は江島弁天社と杉山神社とは別の神社で、昭和二十七年に一緒になり、現在の名前になった。 」
とあった。
新大橋展望 江島杉山神社
先程の道に戻り進むと、首都高速7号線小松川線の下に流れる川は竪川で、そこに架かる橋は一之橋で、案内板には、
「 万治二年(1659)、竪川の開削と同時に架けられ、隅田川から入って一つ目の橋という意で命名されたのがこの一之橋で、長さ十三間、幅二間半ほどありました。
赤穂浪士が泉岳寺に引き揚げる際、最初に渡った橋としても知られています。 」 とあった (左下写真)
橋を渡ったところで右折して行くと、この橋と平行して塩原橋がある (右下写真)
関東大震災後架け替えられた橋は木橋だったが、昭和二十九年に現在の橋になった。
塩原橋の名は江戸時代の末、 「 本所に過ぎたものが二つあり、津軽大名と炭屋塩原 」
と謳われた塩原多助がこのあたりに住んでいたことから、それに因んでつけられたものだが、
明治二十五年初演の歌舞伎、塩原多助一代記の愛馬との別れは大変な評判をとった、といわれる。
一之橋 塩原橋
この付近は赤穂浪士が吉良邸の内部を探るために住んでいたところである。
その近くの町工場の一角に、前原伊助宅跡の案内板が建っていた (左下写真)
「 このあたりに前原伊助宅がありました。
伊助は赤穂浪士四十七士の一人で、浅野家家臣前原自久の長男として生まれ、延宝四年(1676)に家督を継ぎます。
金奉行として勤任したため、商才に長けていました。 浅野内匠頭の刃傷事件後は江戸急進派として単独に別行動をとりました。
初めは日本橋に住んでいましたが、やがて吉良邸裏門近くの本所相生町二丁目に移り住み、
「米屋五兵衛」と称して、店を開業し、吉良家の動向をさぐりました。
その後、大石内蔵助と行動をともにしました。 」
吉良邸は北上し、二つ目の角を右に入っていったところのなまこ壁に囲まれたところで、現在は本所松阪町公園となっている (右下写真)
なお、なまこ壁の前には、赤穂浪士遺蹟 吉良邸跡の石碑が建っていた。
前原伊助宅跡 本所松阪町公園
境内には、吉良上野介追善碑と吉良家、家臣二十士碑が建立され、吉良の首洗い井戸が再現されていた。
両国三丁目吉良邸跡保存会が発行した資料には、
「 吉良上野介の屋敷は、鍛冶橋にあったが、刃傷事件の後、赤穂浪士が吉良屋敷に討入るという噂があり、
周囲の大名屋敷から苦情が出て、元禄十四年(1701)八月 御用地として幕府に召し上げられ、
一時、子供の上杉弾正大弼の屋敷に身を寄せ、その後、同年九月三日、ここ本所松坂町の松平登之助の屋敷を拝領し、移り住みました。
江戸城近くの屋敷に比べれば、赤穂浪士の討入りは格段と容易になったと世間でいわれました。
この吉良家上屋敷は広大で、東西七十三間(約134m)、南北三十四間(約63m)、二千五百五十坪と記されている。
屋敷の表門は東側で、今の両国小学校に面した方にあり、裏門は西側で、東、西、南の三方は周囲に長屋があり、
北側に本多孫太郎、土屋主税の屋敷と地続きになっていた。
建坪は、母家が三百八十一坪、長屋が四百二十六坪であった。
現在の本所松阪町公園は二十九坪半で、当時の八十六分の一に過ぎない。
昭和九年、地元両国三丁目町会有志が発起人になって、邸内の吉良の首洗い井戸を中心に土地を購入し、
同年三月に東京市に東京市に寄付し、貴重な旧跡は維持された。 」
とあったが、この購入がなければ今は小さな石碑が置かれている位になったことだろう。
ここに祀られている松坂稲荷は、
「 徳川氏入国後、この近くに御竹蔵が置かれたが、その際、水門に兼春稲荷が鎮座された。
元禄十五年の赤穂浪士の討ち入り後、吉良邸跡の地所清めのため、兼春稲荷は当地に遷座された。
昭和十年に本所松阪町公園ができた時、古くから当地に祀られていた上野稲荷を合祀し、現在地に祀られ松坂稲荷となった。 」
というものである。 これらの事実を知ると、この地の人々は吉良家に同情的に思えた。
吉良上野介追善碑と吉良家、家臣二十士碑と首洗い井戸 松坂稲荷
松阪町公園を出て、両国小学校へ向う途中に、飯澄稲荷があった。
両国小学校前には、芥川龍之介の杜子春の文学碑があった (左下写真)
芥川龍之介は生後九ヶ月で、生母の実家の本所小泉町(現両国三丁目)の芥川家に引き取られて育った。
芥川は府立第三中学校(現両国高校)に入学したが、驚くばかりの秀才で、
当時の制度として三月に卒業し、九月に第一高等学校乙類に入学した。
ところが、このあいだの明治四十三年八月に大雨が降り、本所一帯が大水に見舞われた。
芥川家も江戸期からの屋敷が浸水で住めなくなったようで、内藤新宿二丁目の新原家の持家に引越して、本所を離れた。
芥川は本所生まれらしく、大川(隅田川の別称)を愛していたようで、
内藤新宿に移ってからも、月に二三度は大川の水を眺めにゆくことを忘れなかった、という。
(注)司馬遼太郎の街道をゆく 三十六 本所深川散歩 の 思い出の町を読まれるとよい。
芥川龍之介の文学碑の脇には錨があった。
この錨は日露戦争(1904〜1905年)で活躍した日本海軍の駆逐艦、不知火のものである。
その対面の両国公園には、勝海舟生誕の地の碑があった。
勝海舟は勝子吉という四十一石取りの小普請の御家人の子で、本所亀沢町に生まれたようである。
父子吉は男谷家から勝家に養子に入ったが、御家人といっても、無役では生活がまずしかったようで、男谷家から経済的な援助を受けていたようである。
司馬遼太郎の上記本所深川散歩の勝海舟と本所の章には勝海舟の性格が気質的不平家と描かれている。
「 海舟は出処進退にたんぱくなようにみえて、立身への欲望の屈折したところがあった。・・ 」 と書き、
咸臨丸でアメリカへ行く案が採用されると、素人に近い木村攝津守が船将に任命され、
自分は操船長の役に近い役でしかないことに不満をいだき、
出港しても船酔と称して操艦指揮をせず、船長室のドアをとざして引きこもってしまった事例を挙げている。
「 それまで幕臣として旗本なのか御家人なのかよくわからないかれが、艦長になることによって、
一挙にお見得以上の資格を得る、という計算があったことはたしかなように思えるのである。 」
回向院に行くため、京葉道路に出て、両国橋へ向う道の南側に本所松阪町跡の石柱があった (右下写真)
区画整理により、昭和四年に町名廃止になったのを惜しんで建てられたもので、現在は墨田区両国三丁目である。
道の反対側は、JRの両国駅である。
芥川龍之介の文学碑・杜子春 本所松阪町跡碑
回向院は、明暦三年(1657)に開創された浄土宗の寺院である。 寺院によると、
「 明暦三年(1657)、江戸で振袖火事として知られる明暦の大火があり、
市街地の六割以上が焼け、十万人以上の人命が奪われたが、その際、身元や身寄りのわからない人々が多くでた。
四代将軍家綱は、無縁の人々の亡骸を手厚く葬るため、隅田川東岸の土地を与え、万人塚という墳墓を設け、
遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行なった。
このとき、お念仏を行じる御堂として建てられたのが回向院である。 」
と、ある。
古い寺を想像していたが、建物は新しかった。 参道を歩くと、巨大な石に、力塚と刻まれた石碑がある。
この碑は、相撲関係者の霊を祀るため、昭和十一年に建立されたもので、揮毫は徳川宗家十六代当主徳川家達である。
「 勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和五年(1768)のことだが、天保四年(1833)からは春秋二回、小屋掛けの興行がおこなわれ、
明治四十二年の旧両国国技館が完成するまでの七十六年間、当院で露天での相撲興行が続いたのである。 」
回向院参道 力 塚
司馬遼太郎の本所深川散歩の回向院の章には、以下の記述がある。
「 境内に入るとほどなく、万霊供養霊場という古い碑があるのをみた。
碑の側面に、明暦三年大火災殉難者十萬八千余人、ときざまれ、あわせて、安政二年大震火災殉難者二萬五千余人とも刻まれている。
江戸は災禍の街だったともいえる。
さらには大正十二年の大震災の被災者の墓もあり、この方は大震災横死者之墓とある。
ほかに、浅間嶽大火震死者供養、信州・上州地変横死之諸霊魂、また、勢州白子戎屋専吉船溺死者供養、・・・・
ともかく、回向院は、明暦三年の大火以来、この町が生み出すすべての無縁の死者が葬られるようになった。
たとえば、洪水のために隅田川に漂う水死者も両国橋あたりで引きあげられて、ここに葬られた。
牢死者も葬られた。
ただし、死刑囚はこの本所回向院の別院である小塚原の回向院に葬られた。
死刑囚でありながら、例外としてあるのが鼠小僧次郎吉の墓である。
鼠小僧次郎吉は天保三年(1832)に小塚原の刑場で刑死し、そこに無縁の者として葬られたが、やがてこの本所回向院にも墓ができた。
おそらく市井の人気によるものだったのだろう。 」
屋根が架かった先にある墓が鼠小僧次郎吉の墓で、墓石には戒名の教覚速善居士、俗名 中村字良吉、没年の天保三年とある。
鼠小僧は、大名屋敷から千両箱を盗み、町民の長屋に小判をそっと置いて立ち去った義賊といわれ、その信仰は江戸時代より盛んで、
墓石を削りお守りに持つ風習が当時より行われていたようである。
墓石前に別の石があり、削るならこれをと書かれていたのは御愛嬌である。
明暦大火横死者供養塔等 鼠小僧次郎吉の墓
今日は深川から両国界隈をすでに訪れている両国国技館と江戸東京博物館を除いて訪問した。
両国国技館と江戸東京博物館、そして、ちゃんこ屋さんや両国駅にある地ビールには以前に訪れているので、今回はパースしたが、
なかなか中味のある旅だった。
(行程)
地下鉄清澄白河駅 → 本誓寺、臨川寺、清澄庭園 → 霊巌寺、深川江戸資料館 → 芭蕉稲荷神社、
芭蕉庵史跡展望公園、芭蕉記念館 → 江島杉山神社 → 一之橋 → 塩原橋、前原伊助宅跡
→ 吉良邸跡(本所松阪町公園) → 芥川龍之介文学碑(両国小学校) → 回向院 → JR両国駅
(ご参考)司馬遼太郎の街道をゆく
司馬遼太郎は 「 街道をゆく三十六 本所深川散歩 」 で、本所の吉良屋敷跡を訪れている。
その中で、本所の誕生については以下の記述がある。
「 本所と深川が江戸化したのは江戸中期のことで、そのきっかけは明暦の大火(通称ふりそで火事)である。
この火事で江戸城の天守閣が焼け落ち、当時隅田川に架かる橋は千住大橋しかなかったため、
川に阻まれたりして、江戸全体で十万七千人もの焼死者を出した。
幕府はこの火事を教訓に、江戸城の周りの大名屋敷をとりのぞき、
また、都心の神社仏閣も三田や駒込、浅草などに移転させて、その後は空地(火除地)する対策をとった。
これらの設定のため、替わりの屋敷地となったのが本所であるが、そのためには橋を架けなければならず、
その時できたのが両国橋で、起工は大火の二年後の万治二年(1659)である。
また、本所という低湿地から溜まり水を抜き、満潮時や高潮による浸水から地面を守るために、
北十間川や大横川とか横十間川などの運河が開削された。
このようにして出来た本所には元禄元年(1688)頃から移住が始まったが、大名屋敷は津軽藩だけで、
その他は大小の旗本屋敷で、旗本、御家人といった直参の屋敷が二百四十家程であった。 」
また、吉良上野介義央の経歴と性格を以下のように綴っている。
「 吉良家は足利将軍家の名門だが、戦国時代には衰弱していた。
その家が三千二百石の旗本にとりたてられたのは家康の名家好きによるが、幕府の儀典をつかさどる職についた。
義央は幕府の儀典をつかさどる職で千石加増され、高家筆頭の職になり、
大名家との縁組を進め、米沢の上杉家、薩摩島津家、酒井家と姻戚関係を結んだ。
かれは異常なほどに権門が好きで、その性格も傲岸だったらしい。 いやなやつだったが、悪人というほどではない。 」
彼が本所に移った経緯については、
「 義央は鍛冶橋御門の屋敷でうまれ、のち呉服橋御門の内に移ったのも、職掌がらというものだった。
元禄十四年(1701)に起きた殿中松の廊下の刃傷事件の当座は幕閣の一部から同情され、
とくに場所柄、刀に手をかけなかったのは神妙だったという評価もあった。
それに対し、浅野内匠頭に対する処分はその身は切腹、家は断絶というもので、この不公平は世間の同情を浅野家に傾かせた。
幕閣は義央に対して隠居届を出させたが、これは事件後、五ヶ月も経ってからのことで、ひょっとすると、幕閣の感情が義央に対して冷めたことを示すのではないか。
その上、屋敷を本所に移させたのである。
この頃には浅野家の遺臣が復讐するのではないかということがささやかれはじめたころで、
大手御門も近いところで、襲撃事件が起きると幕閣の責任が重大なものになる。
幕閣はそうして目に遭いたくないために、新開地の本所へやったのではないか。
同時に、討たれやすくしたのではないか。 」 と書いていて、この頃には幕府関係者にもそのうわさは届いていたことを窺わせる記述である。
また、討ち入り成功の陰には 「 幕府の要路の人やかれらの周辺のひとびとに暗黙裏に支援する気分があったからに相違なかった。 」
とし、それがなければ、偽名を使っていたとはいえ、あれだけの人数が江戸に潜入し、幕吏に気つかれずにすむとは思えないと推理している。
確かに、前原伊助や神埼与五郎は吉良家の近くの本所二ッ目に住み、
杉野十平次は本所三ッ目横町で町道場を開き、堀部安兵衛も本所林町五丁目で剣術道場を開いている。
司馬遼太郎は 「 吉良家の碑でおかしいのは、亡き人々の名を刻んだあと、犠牲者となられた家臣という表現を使っているが、
吉良方を武士としてあつかうなら、この場合、簡潔に、、闘死した、と書かれるほうがかれらの名誉のためにふさわしい。 」
と書いて、この稿を結んでいる。