◆◇ 夫婦で南紀旅行−T ◇◆



期  日    平成14年(2002)9月6日〜9月9日(夫婦で4日間)
宿  泊   第1日 那智勝浦 (飛行機、レンタカー) 
  第2日 同じ (車、観光船、瀞峡和船)
  第3日 湯峰温泉 (車、徒歩、バス)
  第4日 帰路  (車、飛行機
主要地    第1日 羽田空港 南紀白浜(円月島 千畳敷 三段壁) 串本海中公園 潮岬灯台 
           大島 橋杭岩 那智勝浦温泉(ホテル浦島)
  第2日 熊野古道(大門坂) 青岸渡寺 那智大社 那智の滝 補陀洛山寺
           熊野速玉大社  紀の松島[観光船] 太地 那智勝浦温泉(ホテル浦島)
  第3日 瀞峡めぐり 本宮大社 熊野古道「中辺路」 湯峰温泉(旅館 よしのや)
  第4日 滝尻王子(古道舘) 清姫塚 御坊道成寺 紀三井寺 和歌山城 関西空港

(この紀行文は日本一周記と重複します)
http://park23.wakwak.com/~orimasa/
http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/np1.htm (掲載写真) 


   世界遺産 】

    
     紀伊山地の霊場と参詣道 
  2004年(平成16年)7月、「世界文化遺産」に登録された・・、 該当する登録基準としてユネスコには次のように記されている。
 ユネスコとは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationという。頭文字をとってUNESCO、通称ユネスコという・・。

    「紀伊山地の霊場と参詣道」については・・、
 ★ある期間を通じて、またはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの   発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの(文化遺産登録基準2)
 ★紀伊山地の神社と寺院は、それらに関連する宗教儀礼とともに、1000年以上にわたる日本の宗教文化の発   展を示すたぐいまれな証拠である(文化遺産登録基準3)。
 ★人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積または景観の顕著な例   (文化遺産登録基準4)
 ★顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または芸術的、文学的作品と、直接にま   たは明白に関連するもの(文化遺産登録基準6)

  これらの抜粋条項に適合するとして、紀伊山地の三つの霊場(熊野三山、吉野・大峯、高野山)とそれらを結ぶ参詣道が推薦、指定された。
 長い歴史を誇る社寺と、自然が織りなす文化的景観が文化遺産として登録され、その地域は奈良県、和歌山県、三重県にまたがる29市町村と合わせて、日本最大の文化遺産である。
 参詣道として「道」が世界遺産として登録されたのは、スペイン⇔フランスにまたがる巡礼道「サンディアゴ・デ・コンポステラへの道」についで二件目であるという。

  明治39年(1905年)に施行された「神社合祀令」(不分明な神社を整理・合併し、合祀するもの。明治政府・政令)によって全国で5万もの神社がつぶされ、熊野でも神社の森が伐採されるという危機に瀕した。この危機に対し、和歌山県出身の博物学者・南方熊楠(みなかたくまぐす)は、「神社をつぶすということは自然と人間社会を破壊するもの」として、日本で初めてエコロジー(生物と生物の関係、生物とそれを取り巻く無機的環境との関係を研究する科学)の考えを提唱して「神社合祀令」に反対、「熊野の森を守れ・・!!」と、立ち上がり、那智の滝の原生林や樹齢500年をこえる熊野古道の杉木立を守った。
 南方 熊楠(みなかた くまぐす)は和歌山県出身、明治・大正期の博物学者、民俗学者。動物の特徴と植物の特徴を併せ持つ「粘菌」(下等菌類の一群で、植物分類上の一門)の研究で良く知られている。(後述)
 
  過ぐる
2002年9月、我等夫婦は南紀地方を3泊4日の日程で旅行した。 勿論、南紀地方には由緒ある地域が多数在って、これらを参詣、見学、観光するのが目的であった、これらの地域が「世界遺産」に指定される事など露知らず・・。 そして、本年(2005年)、偶々(たまたま)「日本外周一周」の旅に出て、この地方を再確認する機会に恵まれた。
 これらと合わせて、当時の二人旅の様子を記したい・・。
 


  【 第1日 南紀白浜(円月島 千畳敷 三段壁) 串本海中公園 潮岬灯台 大島 橋杭岩
         那智勝浦温泉(ホテル浦島) 】 

    《 南紀白浜 》 
  南紀、熊野方面は以前より希望の地であり、この度、やっと目的が達せられた。
 息子に送ってもらいながらも、平日の朝のラッシュ時間帯なので、ハラハラしながら羽田空港に着いたのは離陸15分前であったが、何とか飛び乗ることができて、機中の人となることができた。 天候はマズマズで空の視界もソコソコであり、飛行機では何時もそうであるが、窓際の時は外景色を眺めながらのフライトである・・?。ほぼ定刻に出発したANA機は南紀白浜空港へ定刻に着陸した。 

  南紀白浜空港は、和歌山県南部の海岸に面した高台にある。 和歌山県の空の玄関口として昭和43年に開港したというが、瀟洒な田舎の空港って感じである。 始めは、和歌山県営南紀白浜空港と開港し、滑走路長は1,200 mでYS-11などのプロペラ機のみの就航であったが、近年、大量輸送のジェット化で滑走路を2,000 mに延長供用開始している。
 余談だが、YS-11は日本航空機製造が製造したターボプロップエンジン方式の双発旅客機で、日本が第二次世界大戦後に初めて開発した国産旅客機であり、一般には「ワイエスじゅういち」の愛称で親しまれているが、40年を過ぎた今日、廃機、廃航の検討がされているという・・。、
 田舎の空港といっても南紀地方は観光・リゾート資源の宝庫であり、一大観光地である白浜町の中心部に位置していることから、利用者に占める観光客の割合は高い空港であろう・・。
 空港ロビーでレンタカーの受付を訪ねると、既に、女性のドライバーが我々を迎えてくれた 。彼女の車で店舗までいって、普通車で4日間で17000円のレンタカーの手続きを終える。 この辺り、すでに白浜の南の入り江に面しているところであり、長閑な風景が眼前に広がる、左手に彼の古賀の井ホテルの勇姿・・?が見えている。  霊泉橋という洒落た名前の橋を渡りながら、いよいよ南紀観光へ出発である。
 暫く海岸を走り、南方熊楠記念館や京大白浜水族館のある小さな半島を横断すると、西側の外海海岸にでる。

  正面に白浜第1番目のスポット「円月島」が飛び込んできた。南北130m、東西35m、高さ25mの小島で、島の中央に円月形の海蝕洞がぽっかり開いていることから「円月島」と呼ばれている。ほぼ左右対称形で上部に緑の林がコンモリとしている、まるで、眼鏡をかけた睫毛のようで、俗名、めがね島とも言うらしく、島の中央にヒョッコリと穴(孔)が空いていて、それらしく見えなくも無い。
 日の沈む夕景の美しさは格別で、夏は6時30分頃、冬は4時30分頃、島の中央穴の付近に太陽がさしかかるという。
 すぐ近くに「白良浜」の弓なりの美景な浜が広がる。 南紀白浜町とはこの浜の様子から命名したのであろう、名前が示すとおりの真っ白な砂浜と、青く澄んだ海、その美しさと華やかさは、おもわず沖縄かハワイの南国リゾート地にいるかのような感覚、錯覚させられる。 実際に、ハワイ州ホノルル市のワイキキビーチとは友好姉妹浜『Goodwill Beach City Relationship』提携を結んでいるという。
 周辺は「湯崎」といって白浜温泉の中心街として、温泉街、旅館・ホテル、温泉場、露天風呂などが犇めき合っている。
 古来、白浜は日本三古泉は白浜・有馬・道後といわれるが、よく間違える日本三名泉は有馬・草津・下呂、これに別府・熱海が混じっていることもよくあるが、まあ、我々にすればドチラデモよろしいことで、名湯古泉にはちがいない・・・。
 白浜湯の崎は、「万葉集」等、古書の文献に「牟婁(むろう)の湯」、「武漏の湯」と呼ばれ登場している。
 奈良期、有間皇子が斉明天皇と中大兄皇子(のちの天智天皇)に牟婁の湯へ病・療養のための行幸を勧め、その間に謀反を企ての為と冤罪をかけられ、19歳の若さで処刑(658年)されたといわれている。
 その発端となったのがこの白浜・湯の崎温泉であり、現在も 湯崎と新湯崎の間のトンネル横の道ばたの海岸に湯がわいていて「崎の湯:日本最古の露天風呂」として知られている。そのすぐ近くに、その名も「牟婁の湯」がある、今から1400年前からここに温泉が湧き、歴史の重大事件の場所ともなっていた。
 泉質は、食塩泉・重曹泉など41〜83℃位で、無色・透明。効能は、一般的適応症のほかに、美肌・神経症・不眠症などに○。 「湯崎」の辺りは、硫黄のような臭いがして、いかにも温泉馬らしく独特の風情があって良い。
 千葉県の房総最南端の白浜温泉は、この地、南紀白浜の人々が遠洋で住み着き、望郷の地として命名したという。
    《 千畳敷・三段壁 》
  次に、こちらは白良浜とはうって変わったような、真反対の風景が「千畳敷」である。
 その名のとおり広い岩畳を思わせる大岩盤で、瀬戸崎の先端から太平洋に向けて突きだしている。スロープ状になった白く柔らかい岩は地球の古代層の砂岩からなる大岩盤で、打ち寄せる荒波に浸食され壮大な景観を創っているという。
 よくよく見ると、千畳敷は砂岩でできているため、容易に削ることができる。硬貨ででも削れるだろう・・、岩肌の面々はどこを見ても落書きだらけで、その内容は珍妙なものも有る。 地元、和歌山の人は、千畳敷をその程度のものとは考えてはいないだろうが・・、天から与えられた自然は、もっと大切にしたいものである・・!!。
 岩盤中央に、カメラマン用の専用台であろうか・・?、赤錆びた鉄製の架台が潮風に吹かれて置かれているのが、妙に印象的であった。 我々もここで一枚パチリ・・!。

  銀砂の白良浜から、波濤が岩盤を洗う千畳敷、今度は更に極端な断崖絶壁の海岸である。
 御土産屋の大きな駐車場に車を置かせてもらって、松林の間をくぐってゆくと視界がパッと広がって、大洋に面した大断崖の様相が目に飛び込んできた。 展望台に立つと、なおその圧倒的な迫力に息を呑む・・、高さ50mもの断崖絶壁が約2qにわたって大平洋にせり出した奇観が続いている。 はじめは好奇にかられて歩き回ったが、延々続く絶壁の際を覗いたら、たちまちに肝が冷えた。
 聞けばここは投身自殺の名所だとか・・、絶壁近くには立ち入り禁止の柵があって、一角に「投身自殺者海難の碑」が有り、何方かによる供物が供えてある。
 この断崖の下部、海面に近いところに「三段壁洞窟」なるものだある。その地まで、岩盤をくり抜いたエレベーターで、行くことが出来るらしいが・・。波の荒い時は大平洋の波濤が壁面に叩き付け、大きな飛沫をあげながら吹き込んでくるときもあるとか・・。
 かつて白浜の湯崎周辺は鉛山(かなやま)村と呼ばれ、鉛の採掘が盛んだったらしく、海水に洗われた壁面からは赤錆びたミネラルが溶け、青い海との異様な様相を見せているという。 この洞窟内は、往時は「熊野水軍」の船隠し場跡とされた。 又、旧帝国海軍の特殊潜水艇「回天」の基地だったという噂もあるとか・・。
 深い洞窟内には、南方熊楠が天皇に献上する生物標本の採集をしたという地でもある。

  ところで、水軍とは古来、警固衆、海賊衆、船手衆などと呼ばれていて、はじめ海辺土豪は海上の武力を買われて船舶往来の護衛などに雇われていた、海上に武力をもつ集団の意味である。 後に彼らは熊野社を背景に次第に組織化されて、軍事集団の意味合いが濃いものになっていった、これが「熊野水軍」の元となったのである。
 平安末期、源平合戦たけなわの頃、熊野の別当・湛増は強大な戦力である熊野水軍を配下に収めていた。 源氏と平家の双方から加勢を頼まれた湛増は、戦況を冷静に見守り、源氏への加勢を決めたといわれる。「三段壁洞窟」の船倉から百隻の軍船を引き出し、田辺浦から率いて出陣し、壇ノ浦で平家軍を壊滅させ、熊野水軍は天下にその武勇を知らしめた。 一説によるとこの湛増は、武蔵坊弁慶の父であるといわれている。(平成17年、NHK大河ドラマ「義経」から・・)
 戦国期は、九鬼 嘉隆(くき よしたか)が志摩国の国衆の一員として大名までに身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍として活躍し、3万5千石の禄を得ている。 信長が嘉隆に命じて鉄甲船の製造を指示し、毛利の水軍を破ったのは有名な話である。

  これから先は紀伊半島の南端の海道を暫く走る。海道といっても紀伊山地が海岸まで迫り出し、決して平坦安楽の道ではないが・・。勿論、太平洋の怒涛が直に押し寄せる地域でもあるが、今日、この陽気ではさすがに、穏やかなようである・・。 
 又、この道は古来は、熊野古道・大辺路といって、中世以降の熊野詣でへのメインルートであり、田辺から中辺路を通り本宮を経て熊野川沿いに新宮・那智まで下る山の道の「中辺路ルート」とともに、海に面した海岸縁を南下して串本を経て那智に至るルートであった。
 熊野古道・大辺路は、田辺から串本までの枯木灘海岸(潮岬西部、周参見・すさみの海域)や串本から新宮までの熊野灘に面した海岸道であるが、海辺のわりに険しい山々が海岸まで迫り、通行に際しては数多くの難所が待ちかまえていた。 俗に四十八坂とも呼ばれ、富田坂・馬転坂・長井坂といった険しい峠道が旅人を苦しめたといわれる。 ただ、あちこちに残る古道の峠道からは、太平洋・熊野灘の眺望が、今も変わらず旅人の心を癒してくれたともいう・・。



    《 最南端「串本」 》
  すさみの海岸は、変化に富んだ美景が続く。国道42号沿いに「すさみ八景」と言われる穂積島、沖の黒島・陸の黒島といったに二つの黒島を含めた壮大な景観が広がる。 激しい波頭が陸の黒島に当たり、真っ二つに裂けた波が再びぶつかり合う様子が夫婦の波のようだといい、合掌波または夫婦波と呼ばれ、枯木灘を代表する奇観である。 この展望地を「恋人岬」又は夫婦岬といい、なかなか洒落たネーミングである。 われ等夫婦も綾かって記念撮影し、その波の様子も写真に収めることが出来た・・。
 間もなく串本海中公園に着いたので立寄って見た。 串本の海を再現した大水槽、水中トンネル式大水槽を見物することができた。 串本の海は、遠くフィリピン沖から来る黒潮の影響を受け、カラフルな魚やサンゴ、エビ、カニなど、熱帯、亜熱帯性の生物を豊富に見ることができる。 海中展望塔は沖合の水深の海底にあって、自然の海の青く澄んだ世界が広がる、サンゴの間を泳ぎ回る熱帯魚が乱舞する様は、まさに青いメルヘンの世界であった。

  国道42号線は、陸繋島(りくけいとう)である潮岬の付け根まで接近している、そのまま灯台へ向った。
 陸繋島とは、砂州によって陸や大きな島とが陸続きになった島のことである。 海岸近くに島があると、沖からの波が島の裏側で打ち消しあい、波の静かな部分ができる。 ここには沿岸流などで運ばれてきた砂が堆積しやすく、やがて海岸と島を結ぶ砂州が成長し陸続きとなった、潮岬は昔は浅瀬の島だったのである。
 先端島部の岬は台地状で、海岸部は40〜50mの海食断崖を呈している。 南西端に潮岬灯台が立ち、周辺には潮岬タワーや、「望楼の芝」とかいう芝生が広がる。 白亜の灯台は、表札の有る正門を構え、灯台小屋の奥に屹立していた。
 この灯台は明治初期の江戸条約によって建設された八基の洋式灯台(条約灯台:観音埼・神子元島・樫野埼・剱埼・野島埼・潮岬・伊王島・佐多岬))の一つで、「日本の灯台50選」にも選ばれる歴史的文化財的価値が高いAランク保存灯台である。
 参観灯台としても資料展示室併設し常時公開されており、本州最南端に位置する灯台からは眼下の磯小島が点々と連なり、太平洋を望む風景は地球の丸みを感じることができる大パノラマである。 実際は地球の丸みではなく、視界の丸みであるが・・!ロマンが無くて失礼・・。
 岬の突端に一人ポツンと立つ白亜の灯台は、「おふくろ」の姿に重なるという。
 灯台は、どこへも行かず、雨の日も風の日も、同じ場所で、着飾りもせず、日没と共にピカッ、ピカッと静かに遠くまで光りを投げかけ、ひたすら船の航行の安全を願ってる。それはまるで朝早くから夜遅くまで、かいがいしく家事をし、夕暮れには灯りをつけ、夕食を作って、家族の帰りをじっと待つ、母の姿に見えると・・誰かが言っていた。
 因みに、隣の紀伊大島の樫野埼灯台(かしのざきとうだい)は、東端断崖に建つ灯台で、「日本の灯台の父」と呼ばれるリチャード・ヘンリー・ブラントンが日本で最初に設計し、1870年に点灯した日本最初の石造灯台である。 日本最初の回転式せん光灯台でもあり、その初期の建物が現存している。 トルコの軍艦エルトゥールル号遭難地としても知られている。
 白亜の無人灯台で、灯台内部へは入れないが外部階段から灯台に登ることができる。 灯台の周囲には、明治初期に灯台技師のイギリス人が植えた水仙が群れ、またトルコ記念館やトルコ軍艦遭難記念碑が徒歩圏内にある。
 エルトゥールル号遭難事件とは、1890年(明治23年)9月16日夜半、オスマン帝国(現在のトルコ)の軍艦エルトゥールル号が、和歌山県串本沖、紀伊大島の樫野埼東方海上で遭難した事件である。この時、地元・樫野埼住民は献身的な救助活動を行い、強いては国家ぐるみで援助支援を行ったことで、日本とトルコの友好関係の起点として記憶されている。


     「串本節」  和歌山民謡

  アラヨイショ ヨーイショ ヨイショ ヨイショ ヨイショ
     (アラエージャーナーイーカ、エージャナーイカ、ナイカ、オッチャーヤーレ)

   ・・♪♪♪♪♪♪・・
   ○ ここは串本 向いは大島 仲をとりもつ 巡航船 (以下かけ声省略)
   ○ 潮の岬(みさき)に灯台あれど 恋の闇路は 照らしゃせぬ
   ○ 岬岬は 七浦岬 潮の岬は 荒滝じゃ
   ○ 一つ二つと橋杭立てて 心とどけよ 串本へ
   ○ 船で暴風(しけ)くうて 紀州灘漕げ(こ)ば 親は是非(ぜひ)ない 妻恋し
   ○ なろたなろたよ 串本節を 尻をつっからげて 走るよな
   ○ わしは串本 両浜育ち 色の黒いは御免なれ
   ○ 障子あけたら大島一目 なぜに佐吉は山のかげ
   ○ わしら若い時は津荷まで通うた 津荷のドメキで夜が明けた
   ○ 古座の黒島 鬼出た蛇でた 大きな 蛇ぢゃもの うそじゃげな
   ○ 今日は 下るか 明日下るかと 眺め暮らすよ 須江崎を
   ○ おゆき 請け出す身請けの金は 伏せた茶碗の中にある
   ○ 大島水谷 かかりし船は おゆき 見たさに 潮がかり
   ○ 抱いて 寝もせず いとまもくれず わたしゃ 港の かごの鳥
   ○ あし(わたし)のショラサン(良い人) 岬の沖で 波にゆられて鰹釣る
   ○ なってみたいや 岬の鰹 主のえさくて 抱かれたい
   ○ よいしょよいしょで儲けた金を よいしょよいしょで ちゃちゃめちゃこ
   ○ 習うた 習うた 串本節を 尻を ひっからげて走るよな

                      

  と歌われている大島であるが、今は串本と大島に「串本大橋」が架かる。 串本といっても実際は潮岬の東部から架けられているのであるが・・、ループ状と半円形の橋の姿は名所の一つにもなっていて、袂に「四海兄弟」という碑が有り、並んで「串本節」の碑がある。 民謡 串本節に歌われたような巡航船の姿は、今は無くなってしまったようである・・。

  戻った国道42沿いに「橋杭岩」という名所が在る。
  「昔、むかし、大島に住む人達は、本土に渡るのに、嵐の日には船が出せず困っていたそうな。”橋があれば、本当に便利だのになあ”と何時も思っていた。 伝承によると昔、南紀を修業しておられた弘法大師は、天の邪鬼(あまのじゃく)と串本から沖合いの大島まで橋をかけることが出来るか否かの賭けを行った。島民の願いと、その賭けとで一晩で橋を造ろうと決心した大師は、必死になって海の中に、杭を打ちました。もう少しで、完了と言うところで、天の邪鬼が邪魔をして、朝が来たのを知らせる、鶏の鳴き声を真似て、高らかに響かせた。 さすがの大師も、朝が来たと思い橋を造るのを止めてしまったそうな・・」
 と言う「弘法大師と橋杭岩」話である。

  小波が荒磯を洗う岩場に降りてみると、その巨大な岩の像が一列に並び、確かに大島に向って衝立しているのであり、圧巻、奇観である・・。 今は、弘法大師の願いも叶い、立派な橋がつくられたが・・。
 天の邪鬼は、日本の妖怪の一種、人に悪戯をしかける、ひねくれ者の子鬼というのが一般的であるが、一方、仏教では人間の邪心を表している子鬼であり、四天王に踏みつけられている像は有名である。
 対岸の大島に向かってあたかも橋脚を並べたようにそそり立つ岩列が、これが橋を造る時の杭のようにみえるので橋杭岩と呼ばれている。
 この岩列は太古の昔、紀伊半島の那智、熊野に至る地域で起こった火山活動の産物で、地層の割れ目に沿ってマグマが上昇し、冷え固まった物であるという。 橋杭岩を通して見る昇る朝日は絶景で、「日本の朝日百選」の認定も受けている。また、国の名勝や国の天然記念物の指定も受けている。

  紀伊南部の第一の清流と言われる古座川の「古座大橋」を渡る。河口海面スレスレで、左は清流の流れ、右は潮岬が望まれ太平洋が無限に広がる。上流部は人家が少ないので、自然が豊富、魚も豊富で川からの恵みは十分に受ける、司馬遼太郎氏がこの川筋の渓谷美が気に入って別荘を購入したと聞いたことがある。
 源流近くの川筋に、狼やカワウソもいるとおいわれているが・・?、支流である平井川の上流は国の特別天然記念物のオオサンショウウオが増えすぎているとか・・・それほど綺麗で奥深い川なのである。

  玉之浦という深く入り江を成した静かな海域を眺めながら、太地の駅を通り越し、湯川地区を過ぎると今日の目的地である那智勝浦は真近である。
 案内板に従って進むとホテル専用の大駐車場が在り、専用の送迎バスに送られると波止場に着く、更に、専用の送迎船に揺られて、やっとこホテルに到着した。那智勝浦の名所・「ホテル浦島」である。七階の好展望の部屋に案内され先ずは一息入れた・・。



    《 南紀勝浦 》
  勝浦であるが・・・、南紀勝浦、紀伊勝浦、那智勝浦と愛称、俗称をこめると色々な読み方があるようである。 和歌山の古い地名は「紀伊」といって、紀南と紀北に分けられるという。 そして、和歌山にはもうひとつ、「南紀」という言葉がある。
 「紀南」と「南紀」、現在、ほとんどの和歌山の人がこの二つを、和歌山県(紀伊)の南部という意味で同意に使っているようだが、ところが、厳密に言うと、「紀南」と「南紀」は意味が違うという。
 紀伊の南部にあたるのは「紀南」の方で、文字通り、紀伊の南部地方であるという。 一方、「南紀」は、古来、南の紀伊で、実はこれは、京の都を中心として、これより南にある「紀伊」を意味で、紀北、紀南を含めた紀伊地方全体を指す言葉といわれる。 近畿地方南部の、和歌山県や奈良県吉野地方の一帯を総称する俗名であり、南近畿(みなみきんき)とも言われた。 つまり、本来は紀伊の国自体を指し、それは、紀伊の国が南海道の筆頭に挙げられた国であり、紀伊国が畿内(※きない、きだい、)から見て南に位置するからとも言われている。
 現在は、和歌山県の地方区分としては、北から紀北地方、紀中地方、紀南地方と三地方に区分し、正式な呼称としているようである。 南紀というのは、固有名詞として「南紀白浜空港」とか、「南紀白浜」、「南紀勝浦」と呼ばれてはいるが、紀南地方を、「南紀」と一般的な呼称として使用する場合が多くなっている・・。 

  因みに、房州には、「勝浦」や「安房(阿波)」「白浜」といった地名が多い。
 この地は古くから関西との関係が強く、古来、古代・中世の交通機関である船で、大阪や和歌山の人々が房州・九十九里近辺まで鰯を追ってやって来た。 これらの人々が次第に移住・定住するようになり、この者達によって望郷の地にその名を付けたという。
 又、畿内(※)については・・、本来は王や皇帝が住む都の周辺の地域を指し、畿内の五国((山城国(京都府南部)、大和国(奈良県)、河内国(大阪府南東部)、和泉国(大阪府南部)、摂津国(大阪府の大阪市と大阪府北部、兵庫県の神戸市以東))が近畿地方中部に位置する点から、京阪神と奈良を「畿内」と呼ぶ事もある、今でいう「首都圏」である。 「畿内」という呼称は、今では歴史・地理学用語としての色合いが濃くなっている。
 近畿地方とは、「畿内」に近い地方とうことで、山陰から南の地方の紀伊の国(和歌山)を指す。
 関東地方に対して近畿地方(関西地方)であろう・・。 近畿が、正式名称・雅称であるのに対して、関西は俗称とも言われる。 同じように南紀の「南紀勝浦」は俗称であろう。

  勝浦町の駅の名称は「紀伊勝浦」という、和歌山南岸を走る「紀勢本線」(愛称・きのくに線)の駅の名称で、各駅の頭(かしら)に「きい・紀伊」と付く駅名が多い。これは和歌山は「紀の国」「紀州」であり、「紀伊」というのに他ならない。
 又、那智勝浦は1955年(昭和30年)、勝浦町、那智町、宇久井村、色川村の4町村が合併し「那智勝浦町」となる現在の町名が付いた。
 那智(なち)の名は、難地に由来するともいわれるが、「那智山」から命名されたものが本来であろう、ただ、那智山という単独の山は無く“那智山系”と言われる。 山系は、北から南へ大雲取山(966m)、烏帽子山(871m)等が折りなし、那智大滝やその水源林である那智原始林(天然記念物)に見られるような、深い自然の山と森林がのこされている。 このように、稜線が並ぶ状態を「那智」とも称していた。
 又、「那智」は、「河・江」という意のサンスクリット語に由来するものといわれている。 この地は古来、熊野三山を中心とする熊野信仰の原初の姿は自然信仰であり、那智大滝の崇拝から生じた、瀧篭行の場(滝にこもって修行する場)であった。今日でも、熊野那智大社や、その別宮である本殿を持たない滝前の「飛瀧神社」は、この滝をご神体とし崇め、奉っているのである。現在でも、それらをとり囲む深い自然が自然信仰の姿を見ることが出来、そうした由来から、これら一帯の聖地を総称して「那智」と呼称している。

  勝浦の港は、狼煙半島(のろしはんとう)が海を囲った入江の中にあり、さらにその入口に中ノ島という島があるために、奥にある港には海からの荒波がまったく来ない。 こうした条件のために、南紀では随一といわれるほどのよい港となっている。
 港の勝浦漁業協同組合魚市場の埠頭では、生鮮マグロ水揚高日本一を誇るマグロの競りで賑わう。 又、この勝浦の港の一帯には温泉も湧出していて、南紀白浜温泉と並ぶ和歌山県を代表する温泉地であり、温泉を源資とした港周辺には巨大なホテルが林立して、一つの風景を成している。
 那智勝浦は、こんな“世界遺産と温泉、そして生マグロの町”として 今、脚光を浴びているのである。



    《 ホテル浦島 》
  「南紀」を代表する温泉地、南紀勝浦温泉にあるホテルの一つに「ホテル浦島」がある、「ホテル中之島」、「かつうら御苑」等と同様、勝浦温泉地の中の超大型観光ホテルであり、周辺には名所・観光地が多い中、このホテルだけを目的とする観光客も多いのである。それは、ホテル浦島の中で、「六つの温泉を楽しむことができる」という魅力の為でもあり、その中に、同ホテルの目玉である「忘帰洞」(温泉の名前)を目的に・・。
 浦島へは、駐車場からバスに乗り、さらに船に乗って向かう。 ホテル浦島の敷地は、勝浦港に張り出した狼煙山半島にあり、陸続きなのに客は船で向かう事になっている。 実際にはトンネルが存在し、業務用及び緊急用という事だが、これもホテルの演出の一つであろうか・・?。
 まず、その駐車場の広さに驚く、イベント会場よろしく700台の広で、ホテルより遠くはなれている、送迎はそのためで ある・・。 ホテル浦島は、いくつものプランに分かれる。 部屋ごとのプランは本館、なぎさ館・日昇館、山上館の三つに分かれ、値段は当然段階に分かれる。 われらはツアー客の一員なので、”並”の段階・・・。
 先ず、何といっても温泉浴場に向かった、目指すは、「忘帰洞」と「玄武洞」である、この温泉に入らなければ浦島に泊った意味がないといわれる!。 忘帰洞の一文字で、このホテルのイメージを作り上げてると言ってもいいうらいなのである・・。
 「忘帰洞」は、まさに名前の通りで、≪忘帰洞の湯に浸かれば家に帰るのを忘れてしまうほどの 名湯≫という意味であり、この名前は、紀州・和歌山藩の徳川頼倫( とくがわ よりみち:15代藩主 ) 公が来遊され「帰るのを忘れるほど」 と賞めて名づけられたものだという。 頼倫公が賞めた理由は湯の良さはもちろん、忘帰洞が天然の巨大な洞窟の中に天然の湯が満たされているということである。 それは熊野灘の荒い風波に侵食されてできたものであり、間口 25m、奥行き50m、高さ15mにも及ぶ。大洞窟の中の湯に浸りながら望む外洋の日の出、足下の磯をかむ荒波など、まさにその名に相応しい美景であり、奇景と言われる由縁である・・。

  いよいよ、その玄武洞・忘帰洞に入場である、否、入湯である。物珍しさもてつだって、洞窟温泉へカメラを持ち込んでの入浴客も見える、当然、小生もその一人であるが・・。 海岸沿いの洞窟のため、波が打ち寄せているのだが、その波が岩場にあたり、飛沫(しぶき)があがる様子に驚嘆する。高い波が打ち寄せる度に、「おおおっ」と思わず歓声をあげたくなる迫力だ・・。 絶えず、ザブン、ザブン、ザザザザザブンという音が聞こえてくる。  湯船の外、波打ち際は一段高くなっていて鉄鎖が施してあるのだが、波が荒れてる時などは、其処を乗り越えて飛沫がザーッとかかるときもあるという、この時は、飛沫をモロにかぶりながらの入浴になるという、何とも凄い自然の迫力を感じる事ができる瞬間であろう・・。
 もちろん、それ以外の温泉も楽しい。滝見の湯の樽風呂も楽しく、又、狼煙半島の山上館へは長―い、急なエスカレーターでハルバル昇って「狼煙の湯」(のろしのゆ)に辿り着く。 この屋上湯から眺望できる勝浦港も圧巻である。 湯質もなかなかのもので、浦島の温泉に入って、白いものが浮いている−−と言う無かれ、それは、湯の花と呼ばれる温泉の成分で、それが浮いている温泉は上質なのである。 この他にも温泉があって、温泉スタンプ等も置いてあり又明日(連泊)、湯破(とうは)するつもりである。
 さて次に食事であるが、所謂“バイキング方式”多種量産セルフサービス方式である。 我々は余り「食」には拘らないほうで、蟹の食い放題だけでも十分であった。 だが、一つだけ残念で、さすがに係員に申し付けたが・・、「土方の飯場じゃあるまいし、赤い丸箸を無造作に束ねて置いてあるのは戴けないネ・・!!」と・・・。
 部屋へ戻って、上さんと、今日一日の反省を兼ねた雑談し、ウイスキーを二次会のつもりでチビリチビリ・・、後は近くの浴場に再度入って床に入った・・。


 熊野大社へ  (南紀U)