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石見銀山遺跡とその文化的景観
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世界遺産・石見銀山 「はじめに」

石見銀山
写真:公開中の「龍源寺間歩」の坑内


世界遺産・石見銀山遺跡(1) 「はじめに」

2007年(平成19年)6月末、「石見銀山史跡」は世界遺産に正式に登録された。正式名称は『石見銀山遺跡とその文化的景観』としている。
年当初、一旦は綿密な調査が必要などとして「登録延期」(事実上の凍結、落選)の勧告を受けたが、6月末のニュージーランド(クライストチャーチ)で開催されている第31回世界遺産委員会において、更に審議の結果、階級特進の「世界文化遺産」(産業遺産)として正式に登録のはこびとなった。
石見銀山は16世紀以降のもので『産業遺産』としては世界の遺産の中で最も古く、勿論日本では始めての登録となる。 

世界遺産についてのエリアは一般にコアゾーンといわれる核心(中心)部分とそれらを取り巻くバッファゾーンの緩衝地帯に別れている。

「石見銀山遺跡」の核心部分は・・、
一つ目に、「銀山柵内」(江戸時代初め柵で厳重に囲まれていたことからこの名がある)といわれる主に大森地区で、16世紀前半から本格的に開発され20世紀まで操業された銀鉱山遺跡の本体、銀の生産活動における生活、流通、信仰、支配に関わる遺構、遺物などなど・・名称として代官所跡、宮ノ前地区銀精錬工房跡、文化遺産的建造物、羅漢寺五百羅漢、それに石見銀山を防御するための山城遺構として石見城跡、矢筈城跡、矢滝城跡などがある。
二つ目に、石見銀山街道といわれる二つの港湾に向けてつながる、銀・銀鉱石と諸物資の輸送路で「温泉津・沖泊道」や「鞆ヶ浦道」で、何れも16世紀前半から銀、銀鉱石を博多への積み出しや銀山への物資補給、軍事基地として機能した街道である。
三つ目に、それらの港と港町・・、銀山で産出した銀・銀鉱石の積み出しに利用された二つの港湾とこれに隣接して発達した港町および港湾集落で、「鞆ヶ浦」や「沖泊」、両港は船を留める「鼻ぐり岩」などが往時を偲ばせる。それに温泉のある港町・「温泉津」は、江戸時代以来の町割りをよく残し、町屋、廻船問屋、温泉旅館、社寺等の伝統的建造物である。
平成16年、温泉町としては日本で唯一の「国選定」(重要伝統的建造物群保存地区)を受けている。
それに、これら中心部分を取り巻くバッファゾーンといわれる緩衝地帯で、約3600haの周辺地域、山域である。

因みに、現在まで日本にあるユネスコ世界遺産は、知床、白神山地、屋久島の自然遺産が3物件。日光の社寺、白川郷・五箇山の合掌造り集落、古都京都の文化財、古都奈良の文化財、法隆寺地域の仏教建築物、紀伊山地の霊場と参詣道、姫路城、原爆ドーム、厳島神社、琉球王国の城(沖縄では城をグスクという)及び関連遺産群の10物件の合計13物件である。
ユネスコについては次のように記されている。
「ユネスコ」とは国際連合の一専門機関で、国際連合教育科学文化機関(こくさいれんごうきょういくかがくぶんかきかん)正式には、United Nations Educational, Scientific and Cultural Organizationといい、頭文字をとって「UNESCO」、通称ユネスコと称している。

次回は、「石見地方」について・・、

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石見銀山遺跡(2) 「石見地方」

「石見銀山」のことに触れる前に、「石見地方」について少々述べたい・・、

日本海に面した山陰の島根・石見地方に足跡を残したのは平成17年6月であった。そして、「石見銀山遺跡」が世界遺産に正式に登録されたのが、2007年(平成19年)6月であるから丁度2年前のことになる。

特に、島根県に入って目に入ったものは、海の青、山の緑に相まって、人家の屋根の色彩が赤茶色が主体となって独特のコントラストを描き、風情をなしていることである。 石見地方での代表的な色は、「赤と白」とよく言われるそうである。赤は、「石州瓦」のことで、白は「石見銀」のことのようである。 本編は、この石見銀のことが主題であるが、これは当然この後詳しく述べるとして、その派手色の「瓦」についてチョット触れておこう。

大阪の瓦職人の伝えたという「石州瓦」・・、
日本に瓦が誕生したのは、仏教とともに百済国より伝来したのに始まるといわれ、奈良・「飛鳥寺」建設の時、日本初の瓦葺き屋根の建物が誕生したという。 山陰地方での石州瓦は、飛鳥時代の石見国分寺(現、浜田市国分町、金蔵寺)の建立に始まり、江戸時代初期、浜田城築城や城下町建設に造られたのが基となったという。石州瓦は島根県中西部、石見地方で生産されている瓦で、高い温度で焼き上げているため、硬くて耐寒性に優れた瓦といわれる。 
日本の代表的な瓦は、三州瓦(愛知・三河地方)と淡路瓦)兵庫県の淡路島)とされるが、 石州瓦と他産地の瓦との大きな違いは、原料となる粘土にあるという。石州の粘土は、鉄分の少ない粘土(白土)を使用しているので、高温(1200度)で焼く事ができるため焼き締まって、硬く、水を吸いにくく、寒さに強い瓦ができ、海岸付近に多い塩害にも強く、風化しにくいという。 
山陰地方では赤瓦の町並みが連なり、冬の風雪に耐えながら、この地方独特の風情と景観を醸し出しているのである。 現在は、凡そ25社のメーカーからなり、生産量は年間約2億枚で、陶器瓦部門全国シェア第2位を占めている。

「石見地方」とは島根県の西部地域を指しているようで、東部地域は無論、出雲地方のことであるが・・、日本海に面した東西に長い県であるが故、何かにつけて石見地方と出雲地方は比較、対象されるという。 東部の出雲地方とでは、気候はもちろん人の気質までも大きく異なっていると。人を指す時も、石見人とか出雲人と云われるそうで、真面目で勤勉といわれる出雲人気質と対象的に、石見の人々は何につけ豪快で開放的であるという。 
古代・飛鳥期の頃までは、石見は出雲地域の一部にすぎなかったが、奈良期の律令制度における地方行政区分として「石見国」が発足している。 その後、石州とも呼ばれることもある。 尚、石見地方を更に細分して、大田市を中心とする東部地域を「石東地方」、江津市や浜田市を中心とする中部地域を「石央地方」、益田市を中心とする西部地域を「石西地方」と呼ぶこともある。
地元、石見観光振興協議会では、「石見という言葉から何を連想しますか・・?」と問うと、 石見神楽、石見銀山、石見弁、豊かな自然や文化などと答えが返ってくるとい、全国的な知名度は決して高くはないというが・・。

ここでチョット「石見弁」についても述べてみよう・・、
石見弁(若干異なると言うが出雲弁と共通)は、島根県地方特有の俗にズーズー弁といわれる。これは東北地方に共通する方言でもあり、東北の田舎出身の(福島県いわき市)の小生も、当時は普通に使っていた言葉で懐かしく、今でも何かにつけて発する瞬間(とき)がある。
日本映画不朽の名作といわれる松本清張の「砂の器」(1961年)がある。
この映画の謎解きの重要なヒントの一つに「犯人と被害者がズーズー弁で喋っていた」という証言がある。 その結果、犯人像は東北出身者と考えられるのだが、捜査の進展の中で、実は東北弁とよく似た出雲の或る地方だけに今も残っていることが判明する。
この際、東北の捜査では秋田県・「岩城亀田」に出向いている。 
余分だが、この岩城亀田藩は、これまた小生の田舎に縁のある名称で、江戸期の岩城藩(小生の実家、福島県いわき地方)が出羽の亀田に転封になり、初代の岩城亀田藩が創設されることになる。
捜査は、秋田県・「岩城亀田」では手掛かりが得られず、後に、実際は出雲地方の亀嵩(かめだけ:奥出雲地方で木次線・亀嵩駅)であったことが判明する。
両者の方言が共通していることから起きた混乱が、捜査を困難にしてしまうという、物語の重要なポイントでもあった。

東北特有のズーズー弁は「縄文語」である・・、
という説が一般化している。
ご存知「出雲地方」は、神話の世界では大国主の「国譲り」で知られる。出雲王朝(大国主)は旧来の縄文人とも喩えられのである。 大陸や半島からの渡来人である弥生人(大和王朝)が出雲地方にやって来て出雲を平定し、出雲の民である縄文人の一部の彼らが東北地方へ落ち延びたこととされている。
弥生人に駆逐された出雲の縄文人は、その中心を今の東北に移したとも考察され、従って、ズーズー弁である縄文語と呼ばれる言葉は、東北地方に残っていても何の不思議もないのである。
ズーズー弁の元祖は、出雲地方(石見地方)の縄文人で、その親玉が「大国主命」だった・・??。
又、同質の説も可能である・・。

縄文太古の時代の東西の文化、物資の交流、は日本海を中心に行われていた。
例えば、青森の「三内丸山遺跡」から北陸越後の装飾用の「翡翠」(ヒスイ)が大量に発見されているという歴史的事実がある。 記紀(古事記、日本書紀)には、大国主が「翡翠」を求めて能登地方を巡りながら越後へ達している。この時、越後の女王・奴奈河姫と結婚して、かの建御名方(タケミナカタ:諏訪大社の大神)という一子をもうけている。同時に、大国主は越後の開拓や農耕技術砂鉄の精錬技術などを伝えたといわれる。この事は、あくまで考古学的裏づけがない神話、伝承に過ぎないが、古代出雲王朝の広がりが想像できるのである。
出雲王朝は東北の縄文以来連綿と続いてきた文化と同じで、端的に言えば古代出雲王朝は東北地方まで広がる巨大な王朝であったと考えられ、つまり、同質の文化圏を有していた。
縄文語であるズーズー弁は、出雲から東北に至るまで標準語だったのである・

ところで、ズーズー弁の出雲弁は、現在でも出雲地方の山間の一部地域に残っているとも云われる。何故孤立しているのか・・?、
ズーズー弁が縄文人たちの言葉とすれば、関西弁は弥生人の言葉かもしれない。 大和王朝の勢力拡大に伴って、日本海沿岸を中心に栄えていた出雲王朝、出雲文化圏の人々の勢力圏を圧迫した。そして遂には王朝の首都であった出雲を囲むように分断し出雲弁が孤立するようになったと・・?!歴史の面白さであろう・・!!。

小生の「日本一周記」より・・、
出雲大社:  http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-24-1.htm
奴奈川姫と翡翠(ヒスイ): http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-27.htm  

次回も引続き「石見地方」  part2へ

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