北海道・道北部旅行 PartV
道北旅行:3(稚内、野寒布岬、野寒布岬、サロベツ原野)
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  【 第四日 】  


礼文⇒〜フェリー連絡船〜〜⇒稚内(香深発08:45〜10:40稚内着)

稚内公園⇒ノシャップ岬⇒サロベツ原野(こうほねの家:兜沼:サロベツビジターセンター)⇒手塩⇒遠別⇒初山別⇒羽幌(泊)

宿泊地 羽幌:「はぼろ温泉サンセットプラザ」  0164-62-3800



    《 稚内 》

  稚内に上陸して直ちに稚内公園に向かった。観光バスも観光コースとして認定しているのが稚内公園で、別名「望郷の丘」、「「氷雪の丘公園」とも呼ばれ、観光都市稚内のシンボルとなっている。

  国道40号線をノシャップ岬方面に向くと、直ぐに公園方面を左折し、急坂を登るとやがて広大な園地が飛び出してくる。そこは稚内の市街地や港の展望地であり、晴れた日には宗谷海峡を隔ててサハリンの島影を見渡す事ができ素晴らしい眺望が得られる。 
 公園の北端の樺太(からふと:サハリン)を望むところに、「氷雪の門」という二本の柱のモニュメントが有り、ほぼ並んで「九人の乙女の碑」が碑文とともに立っている。

   【氷雪の門】
  稚内公園のモニュメントの中ででも代表的な存在なのが氷雪の門。樺太で亡くなった人々の慰霊と、異国になってしまった樺太への望郷の念を込めて昭和38年(1963年)に全国から寄せられた支援によって建立されたという。

  戦後、樺太における邦人の苦難の過去、歴史を表した慰霊の碑である。 
 ソ連軍の侵攻を知った樺太の日本人は、北海道へ緊急避難することを決め、輸送を始めたが、あの北支満州へ侵攻したのと同様に、樺太でも大混乱を極め、港へ着くまでは様々な苦労が有ったと言われる。 
 更に、ソ連の潜水艦が出没、留萌沖では「小笠原丸」などが魚雷攻撃で沈没、1800人の犠牲者が出た。 

  樺太・大泊港はソ連軍によって封鎖されるまで77000人が北海道へ渡ったが、残された人々も多いという。
 樺太と千島の戦闘では、日本軍3000、民間人3700人が戦死している。 
 このことは8月15日の日本の無条件降伏が決まった終戦後のことである・・!!。 
 更に、68000人の邦人はシベリヤに抑留され、強制労働を強いられた・・。 

  この門は、これら戦時、否、戦後における望郷の念と、樺太で亡くなった日本人を慰霊する為に建立されたもので、氷雪の門の間に氷雪に耐え、たくましく生き抜いた人を象徴するブロンズ像が立っている


   【九人の乙女の碑】
  乙女の碑は別名「北のひめゆり」と言われ、所謂、九人の乙女の戦争犠牲者を碑しているという。
 沖縄の「ひめゆり部隊」のことは周知だと思うが、ひめゆり学徒隊のことである。
 1944年12月に、沖縄県で日本軍が中心となって行った看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄の高等女学校の教師・生徒で構成されたものの名前である。       
 米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945年3月23日、両校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名からなる学徒隊は、沖縄陸軍病院の看護要員として動員された。
 しかし、敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、翌日の6月19日をはじめとする約一週間の間に多数の犠牲を出し(死亡者のうち実に80%がこの間に集中している)、最終的には教師・学徒240人のうち136人が尊い命を落としたという。 
 戦後、最大の犠牲を出した壕跡に、慰霊塔である「ひめゆりの塔」が建立されている。


  そして、九人の乙女のことであるが・・、

 日露戦争の勝利によって明治38(1905)年、ポーツマス条約により日本領となった樺太(からふと:サハリン)には、炭鉱や工場などで働く多くの日本人が住んでいた。 
 後に起きた太平洋戦争は昭和20年(1945年)8月15日、日本の敗戦となったが、過ぎる8月20日、ソ連軍がサハリン(樺太)に突如侵攻してきた。この際に旧樺太庁・真岡町の真岡郵便局では、一部の局員は通信網を維持するために交換台に残され、18才から25才の九名の若い女性電話交換手が迫りくる戦火の中、崇高な使命感のもとに職務をまっとうしていた。 
 そして、以下の言葉を残して手渡された青酸カリを静かに飲み、やむなく自決したのである。
   この「九人の乙女の碑」には最後の電文の様子が彫られている。

  『 戦いは終わった。それから5日、昭和20年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら……」・・、の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む・・。 』
  しかし、かつての碑文は次のようなものであったという。
 『 昭和二十年八月二十日、日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき、「皆さん さようなら さようなら これが最後です」の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。 戦争は二度と繰り返すまじ平和の祈りをこめてここに九人の乙女の霊を慰む 』・・と、

  一見してわかるように、純粋な「使命感」から職場を守り、乙女の純潔を守るために覚悟の自決をした彼女たちの死の真実をゆがめ、「悪い日本軍」の命令でやむなく自決に追い込まれたかのように、事実を歪曲して伝えることが行われていたという。 
 戦後の歪んだ価値観や事実を曲げ、所謂、自虐史観、戦後教育の歪みが、ここでも行はれ用いられたといわれる・・。

  昭和43年(1968年)に稚内を訪れた天皇皇后両陛下(昭和天皇)は、氷雪の門・九人の乙女の碑の前で説明を受けられ、深く頭を垂れ、まだ年若い彼女らの冥福を祈り、後日そのときのご感銘を歌に託している。
 昭和45年に行幸記念碑として氷雪の門の隣に建立されている。

    「 なすべきを なしをへてつひに命たちし  
              少女(をとめ)のこころ わが胸をうつ 」    
昭和天皇

    「 樺太に つゆと消えたる 少女らの 
              みたまやすかれと ただにいのりぬ」    
香淳皇后




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  part3・写真集 



  
《 野寒布岬 》

  稚内からほんの数キロの位置にあるノシャップ岬で、国道をそのまま北上すると「もう、これ以上北へ行く先の道はありません、無理して進むと海へ落ちます」、別にこの様な標語が有ったわけではないが、ノサップの最先端部である。 

 野寒布岬とも書くらしい、敢てゆうなら最北第二の岬であろう、最北第一の岬へは先日訪れている。 
 タイル貼りされた小奇麗な園地の中央にイルカのモニュメントがあって、何故か、その上に大時計がぶる下がっていた、時に11時25分を指していた。

  日本最北の地は稚内の東にある宗谷岬であるが、ノサップ岬(野寒布岬)は稚内市街にも近いせいか、周囲にも人家は結構多い(航空自衛隊の基地も近くにある)。 
 ノサップ岬の名は、根室のノサップ岬(納沙布)と紛らわしい。日本海の夕陽が綺麗ということもあるが、あちらは日本最東端で日の出の岬、こちらは日本最北端(二番目)で夕陽の岬である。

  「ノサップ」というのはアイヌの意味で「岬が顎(あご)のように突き出したところ」という意味であるらしい。 
 地図を見ても、宗谷が上顎、野寒布が下顎で宗谷湾の口を開けている様子が判る、稚内市外はさしずめ舌の部分にあたるというもの。 

 一方、根室の方はやはり下顎に納沙布、上顎に知床で根室海峡が口を開き、しかも国後島を今にも噛み付こうとしている。
 あちらの方がスケールが大きいが、小生の無理なる想像であるが、ノサップのアイヌ的解釈は的を得ていると思われるが・・?。 

 一方、ノサップというのは「波の砕ける場所」という意味もあるらしい。
 懐かしい秀峰利尻富士や花の浮島礼文島はやや霞みがかかってボンヤリトとだが一望できる。 
 ノシャップ寒流水族館の近くに赤白のツートーンカラーのノシャップ灯台が立っている。 
 正しくは稚内灯台と称し、対岸の宗谷岬灯台と同様に樺太を目前に国境の灯台であり、国際海峡である宗谷海峡の航路を守る重要な灯台である。

 また、「日本の灯台50選」にも選ばれていている。 
 平地にに立つ灯台で、北海道では1番の高さ、日本では2番目の高さだという。(高さ地上〜塔頂で42.7m、1番は島根県の日御崎灯台) 
 尤も、宗谷灯台が丘陵の高地に立つのに比して、こちらは海岸の平地に立つのであるから、当然と言えば当然・・?。



   《 サロベツ原野 》
  この先は、概ね日本海に沿って一路南下するのみである。
 この先、日本海沿いには北海道でも有数の「サロベツ原野」が控えている。 

 しばらくすると「抜海」の集落に出る。
 海抜ならぬ「抜海」と名の付く地名で、抜海港、抜海岬、抜海原生花園、抜海駅もある。 

 旭川が起点になっている最北の「JR宗谷本線」は、稚内を目指して士別、名寄と内陸部を走る。
 おおむね天塩川沿いを北上して幌延あたりでサロベツ原野を縦断し、そしてこの抜海駅で海岸道の稚内天塩線に最接近して稚内へ到る。

  集落を過ぎると道道106号線は、日本海に面して牧草地帯も広がり、道路両側は濃緑に染まって、非常に美的光景を展開してくれる。左手はサロベツ原野から続く沼地地帯となる。 
 道道106号線から沼地が直接見えるわけじゃないが、景色にも少し変化が出てくる。 
 ややアップダウンと変化のあった道も、真平坦の直線道が続くようになる。 


  間もなくサロベツ原生花園の浜勇知園地の見晴休憩地に来た。 
 稚内天塩線の唯一のパーキングであり、ここで一息の散策である。 
「こうほねの家」という木造の洒落た休憩施設があった。 
屋上からは、日本海にそびえ立つ利尻富士が見られ、美しい夕日も見られる絶好のビューポイントでもある。

 「こうほね」という妙な名であるが・・?、
 小屋の裏に広がる池塘に浮かぶ水生植物のことで、その名をこうほね・河骨と称する。睡蓮(すいれん)科の一種で、可憐な黄色い花を付ける。 川などに生え、水中にある根茎が白くゴツゴツして骨のように見えるので河骨と称している。
 河骨の根茎は「川骨(せんこつ)」の名で漢方薬としてよく用いられ、二つ割りにして干して、止血剤や浄血剤、強壮剤として使われる。 

  現在、池の面には分厚い葉と茎が確認できたが、黄色の花弁は確認できなかった。
 周辺には処々に僅かに真赤なハマナスの花が咲き、移り行く季節を惜しんでいる様である。 ハマナスの花の色は北へ来るほど赤味が増すといわれるが。


 この地を森繁久弥氏も映画のロケで訪れたようで、園地に歌碑が刻んであった。

     「 浜茄子の 咲きみだれたる サロベツの 
                     砂丘の涯の 海に立つ富士 」
   森繁久弥


  ここサロベツ原野は北緯45度丁度で北半球の緯度ではど真ん中にあたる。(赤道から北極点の90度の中間点)

  ここに広がる日本最北の湿原には、寒冷地植物が100種類以上もあるとか。 
 又、大陸風景・満州平原(中国東北部で旧日本の支配地)に相似していることから、「人間の条件」、「戦争と人間」、「不毛地帯」等の映画の撮影の舞台にもなったとか。

 次に、ここをすると左折してサロベツ原生花園の湿原地帯であるへ向かう。 
 日本低地における代表的な湿原でとくに高層湿原から中間湿原へ移行するといわれる植物が多く、モウセンゴケ、ショジョウバカマ、ツルコケモモなどの花々が季節を華やかに咲き競うはずであるが、その湿性花園と思しき内陸地の「兜沼」へ向かった。 

 ことろが兜沼は沼を配した人工的な園地で、自然の趣の花園とは無縁であった。
 やや気落ちして当地を後にした。  
 国道40号から豊富の駅前を通り、再び日本海の海岸通りへ向かうことにした。
 豊富の町を抜けると直ぐに平坦な原野らしきものが現れた。

  国道40号の豊富町と、道道106号(稚内天塩線)の稚咲内とを結ぶ道道444号線の、ほぼ中央部にビジターセンターはあった。
 周辺は見渡す限りの大平原で、真っ直ぐに延びた見学用の木道コースは、1周1km程度・20分と、ショートカット・5分の2種類があるらしい。
 草原には既に終わりを告げようとする橙色の「エゾカンゾウ」、紫の「ヒオウギアヤメ」、真っ赤な「ハマナス」等と地味ではあるが彩を添えている。


  遠方には遥か利尻富士が見渡せる。
 とにかく、だだっ広い平原のど真ん中にあることは確かなので、そういう意味では気持ちがいいし、観光バスも絶えることなく来ていた。
 しかし、元山家の小生にとって、絨毯のようなお花畑を限りなく見てきているので、特別な感慨は無かったが、しかし、上さんは一応納得の様子で何よりであった。

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