北海道・道北部旅行 PartV-3
道北旅行:3-3(小平、増毛、雄冬岬)
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   【 第五日 】


羽幌⇒苫前・小平番屋⇒留萌⇒増毛⇒雄冬岬(日本海オロロンライン)⇒浜益・石狩⇒札幌(泊)  

宿泊地;札幌   「ホテル・ブルーウェイブインサッポロ」   011−511−7531



   
《 
小平ニシン番屋 》

  翌朝、久しぶりに朝風呂を戴いて、バイキング朝食のテーブルを囲んだ。
 ホテルの直ぐ裏には「はぼろバラ園」があり、今や盛りの334種・約2000株のバラが咲き誇っている。


  暫し鑑賞して次に、訪れるのは苫前町である。
 こちらも風力発電が盛んで、北海道最大級の風力発電風車群は圧巻であり、北海道らしい雄大な風景を演出している。 
 国道沿いの日本海を一望できるところに「道の駅・風Wとままえ」へ立ち寄った。
 風力発電が町のシンボルとなっていることから、風Wは、“ふわっと”と読ませ、Wは風のWindと電力のW・ワットをも模じったものであろう・・、併設の天然温泉はその名も「ふわっと」である。

  上さんが北海道は道の駅が多く、現在盛んにスタンプラリーを実施していることから、駅に立ち寄ってスタンプを押しているようである。
 因みに、スタンプを5駅以上押したら集めたスタンプ数に応じて、該当する賞品が応募によって戴けるらしい・・、道内では現在100余りの「道の駅」が存在しているようである。


  次に、小平町の「道の駅・おびら鰊番屋」へ向かった。
 巨大なこの木造建物が二棟たっているが、手前北側の建物は、番屋を模倣して造ったもので、本物のニシン番屋は隣で「旧花田家鰊番屋」とあった。 
 国の重要文化財だという建物で、内部は鰊漁具等が展示してある資料館になっている・・。

  花田家番屋の創立の歴史は一説に明治29年といわれている。
 故花田作三氏の生前の話によれば、明治29年頃山林を入手伐採、この頃から製材等に着手したものと思われている。
 この番屋は、すべて地元・大椴地区(おおとど)の山から切りだし船で海上を運び、木挽の手によって製材されたものという。
 小平町では、昭和46年重要文化財の指定とともにこれを買収し、3年の歳月と約1億9千万円の費用を投じて解体修復したもので、すでに稀有となった古民家建築物鰊番屋の代表的遺構であると。

  花田家の先祖は安芸の国の人と言われ、文久3年には家族と共にテントカリ(現在の広富)に寄留し本格的に鰊漁場を経営した。
 最盛時には、18ヶ統の鰊定置網(俗に建網という)を経営、雇人も500人を越え、米蔵、網蔵、船蔵、粕蔵、作業場等、100棟に近い建物を所有、蒸気機関を設置しウインチ、トロッコの使用と共に各漁場間に私設電話を設置する等当時としては最新の近代化漁法を駆使した大鰊漁家であったという。

  その鰊は昭和30年代まで日本海に押し寄せたという。
 銀鱗が海を染めると言われたほど、産卵期の鰊が大群で本道の西海岸に押し寄せ、特に、小平町鬼鹿の海岸は千石場所とも呼ばれ、中でもこの鰊番屋が建つ天登雁村(てんとかり)の前浜一帯には、ヤン衆が歌う「沖揚音頭」が響き渡り、もっこ背負いの人たちで沸き返っていたという。

  ところで小平町は、昔の天登雁村、鬼鹿村(おにしか)からなり、しかも番屋という住所も存在した。 
 因みに、概ねこの時期に小平地区は、留萌炭田を抱える産炭地でもあって、昭和の中頃にはその最盛期を迎えていた。 鉄路も留萌本線留萌駅から留萌炭鉱鉄道、羽幌線、達布森林鉄道などが延びていて昭和40年代までは活況を呈していたという。  ニシンが去って、合わせるように炭鉱も下火になっていくのであるが、一時期はニシンと炭鉱で、この北海道の片田舎は、大いに沸きかえったという。


  入場料を払って中を覗いてみた、すぐ右手に鰊漁でヤン衆が使用した各種鰊漁具が展示されている。 400uほどの広い溜まり場は三つの”いろり”が仕切られた居間になっていて、狭い通路土間を介して雛壇状の三段のデッキと呼ばれるヤン衆の寝所が構成され、全体的に劇場的な大空間が造作されてある。

 左方は主人の部屋や親方衆の部屋、客間、応接間などが当時のまま展示してあり、その豪勢さが偲ばれる。
 日本最北端の国指定重要文化財は、平成13年には北海道遺産にも認定されている。 

  この地に道の駅を併設し、年間を通じて公開されている。 
 また、国道232号線をはさんで海側には「にしん文化歴史公園」があり、先にも紹介した北海道の名付け親・松浦武四郎翁の像が建っている。

  芳紀女性が翁像の前で写真を撮ろうととしていたので小生が手を貸してやった。
 「ところでお嬢さんたち、この人どんな人だか知ってるの・・?」
 「知らなーい」とあっさりしたもんである。 
 かい摘んで松浦武四郎の人物像を話してやったら、「すごーい」、「道理でかっこいいと思った・・」とこんな具合であった。
 彼女らは、“わの字”のバックナンバー車で、颯爽と北へ向かっていった。

  この道の駅では、毎年5月下旬には「鰊番屋まつり」を開催し、各種ゲームやイベントが行われているようである。

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《 
増毛・雄冬岬 》

  国道は留萌市内の繁華街、目抜き通りを行く。 
 少なくとも「市」と称する街であるが、町並みはともかく、午前の時間帯で本来なら人々が活発に往来しているはずであるが、何故か閑散としてカラフルなイメージが無い様である。 

 留萌は、一昔前までは炭鉱と鰊で栄えた町で、道央地区の深川や旭川にも近く、鉄道も往来している。だが、炭鉱と鰊が閉塞状態になったでは斜陽の一途をたどっていると言い、鉄道も、日本海と道央・函館本線を結ぶ幹線であったが同様の影響がでていると。 
 ただ、2000年には映画の「すずらん」のロケ地となり,SLすずらん号の運行が始まった当座は、にわかに賑わいを見せていたという。

  現在は、市の財政も大変らしく、平成の合併年度に合わせた増毛町・小平町の合併協議では、町民にとって留萌は「沈みゆく船」と表現され、合併協議会の解散が決まったという。 
 留萌は、北海道、否、国内を代表する斜陽都市と言えるようで、夕張市に近ずきつつあるともいわれるが・・?。


  国道231号線は増毛町に入った、果樹園の出先売店が目立つ。
 特に今頃はサクランボの最盛期らしく、ご婦人方の選別や売り子が店の前に立ち、客寄せに余念がない。
 われ等も、一軒のサクランボ店に寄って、品の良さそうな“佐藤錦”を求めた。闊達な年増のおばさんが話をしながら大サービスをしてくれたので、記念写真を一緒に撮ったら、今朝取立ての日本海真イカだとして数匹戴いた。

  増毛町は日本のサクランボの北限にあたるという。 
 増毛は、後背に暑寒別岳(しょかんべつだけ)を抱き、その裾野には広大な果樹園が広がっている。
 扇状地にあり、水はけの良さと寒暖の差によって、甘くてみずみずしい果物ができ上がるという。

  林檎の栽培も盛んで「増毛の果物農家は無理して手を広げないようにしている。
 そのほうが、手が行き届くからね。だから増毛の果物は美味しいんだ。それで農家が元気なのさ!」と農家の主人は言っている。

  増毛の見晴らしのいい海岸で車中昼食を摂っていると、一羽のウミネコがジッとこちらを伺っている。
 手を延ばさばとどきそうなところであり、われ等から餌をねだっているようで人懐こい。

 車の横へ煎餅の欠片をを分け与えると、恐れる風もなく啄ばんでいる、可愛いもんである。
ただ、海上のフェリーの上のウミネコとは異なり、手の先へは用心して来ない。
 仲間が飛んでくると、”ここは俺の縄張りだ”と言わんばかりに追い払っていた。

  一時の心和む風景であった。



  この辺りの陸地というよりすでに山域であっては増毛山地とも言われる。 
 その主峰・暑寒別岳の最高峰を(標高1,491m)中心に千m級の山並みが連なり、日本海に傾(なだ)れている地域なのである。 この山塊の北側を水源とする「暑寒別川」の急流が日本海に注いでいる。この暑寒別川は、秋になると道内でも有数のサケが遡上する地域で有名であるが。

  増毛の町からその暑寒別橋を渡ると、いよいよ海岸の山地へ突入する。
 切り立った崖っぷちのような部分が多く、トンネルの多い深い山の中を走り、通称「ダイヤモンド道路」とも呼ばれる部分になる。

  近年・平成の始めに「雄冬岬」(おふゆみさき)にトンネルが開通するまでは長い間「幻の国道」と呼ばれていた。
 このあたりは切り立った断崖部分に道路を造るという大変な難工事で、十勝の広尾から襟裳岬間の「黄金道路」より工事費がかかったためこの名前が付いたという。 
 お陰で、札幌から日本海側の海岸沿いを走る留萌までの国道で、難関だった雄冬岬が開通してからは相当近道になったという。

  この西端の岬、トンネルとトンネルのチョッとの隙間にある「雄冬岬」(おふゆみさき)に到った。 
 国道の単なる休憩所であるが、立派な雄冬岬の碑が整っている。又、急峻な崖から海岸線には滑り落ちるように「銀鱗の滝・白銀の滝」が流れていて一見の価値はあろう。

  この地域一帯は厳しい断崖絶壁の中に位置しており、「北海道三大秘岬」の一つとされていた。 
 ちなみに後の二つは室蘭市の地球岬、根室市の落石岬といわれている。 秘岬といわれるだけあり、岬近くにある眺望台からの日本海の雄大さと周辺の荒涼ぶりは印象的だという。 
 「陸の孤島」から雄冬は解放されたとはいえ、冬季間の増毛〜雄冬の通行止めは依然続き、この区間かつ国道231号全区間が通年供用可能となったのは1992年以降のことである。 
 現在、雄冬岬は展望台・岩石公園などが整備され、北海道を代表する観光スポットに変わりつつあるようである。

  雄冬岬は、地域的には既に浜益村であった。 
 続く厚田村も同様の暑寒別山地の南側にあたり、やはり険しい地形の村である。この両村は石狩市に編入合併され、従って、浜益、厚田の両郡は消滅している。


  昨今の小規模市町村では単独では、地方分権の流れ、時代の変化、更に財政運営ができないのではないかという懸念から、平成の大合併と称するのに拍車がかかっている。
 合併の際には幾多の合議を経て最終的に県知事(北海道知事)に「廃置分合(合併)申請書」を提出して知事が承認し、総務大臣による廃置分合(合併)に関する官報告示が行われ、法律に基づく合併の手続きが完了するのである。


  石狩市に到り、石狩川を渡ると間もなく札幌である。 
 石狩市名の「石狩」は、市のほぼ中央を流れる石狩川からできた名前で、その石狩は先住民であるアイヌ民族の言葉で石狩川を指す「イシカラペツ」に由来している。その意味は「曲がりくねって流れる川」また「神様がつくった美しい川」と言われている。

  因みに、石狩本流の源流は大雪山系で、ここから上川盆地の旭川、石狩平野を経て石狩湾へと注ぐ。 
 流域面積は利根川に次いで全国2位、長さ268km は信濃川、利根川に次いで3位であり、北海道遺産に選定されている。 
 石狩川は語源となったアイヌ語、「イ・シカラ・ベツ」に見られる様に非常に蛇行繰り返す河川である。当初は現在の苫小牧市付近で太平洋に注ぐ河川であったが、約三万年前に支笏火山群の噴火に伴う火山灰・溶岩などの堆積物によって流路が北西に変更され、現在の様に石狩湾に注ぐ様態になった。 

 尚、支笏湖を水源とする「千歳川」は、苫小牧の太平洋に近いが、同じ理由で石狩低地帯を北へ流れ、江別市街で石狩川へ合流する。


  石狩を過ぎると、既に北の都、北海道最大の都市「札幌」のビル群が近づいてくる。 
 間もなく市内へ突入である。  本日は訳ありで札幌市内滞在である。 
 市内で天然温泉に浸かり、「すすきの」で食事を摂って、「すすきの」のホテルで夜を明かした。

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