北海道・道北部旅行

第三日へ続く
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日 程 主要(観光)コース 宿泊地
第1日  厚木自宅⇒羽田⇒⇒⇒新千歳空港(12:00⇒13:35)⇒
札幌・岩見沢(レンタカー)⇒旭川(親戚 泊)
旭川
第2日

 旭川⇒士別・名寄・音威子府⇒浜頓別(クッチャロ湖)⇒猿払(  )⇒宗谷岬⇒
稚内→→利尻 連絡船 (稚内発15:30〜17:10利尻・鴛泊着:泊) 
 宿泊地:利尻「ペンションみさき」  0163-82-1659

利尻
第3

 利尻めぐり(利尻観光バス) 8:20発(4時間コース)
(鴛泊FT〜姫沼〜野塚展望台(車窓)〜鬼脇資料館〜オタドマリ沼〜仙法志御崎公園〜人面岩.寝熊の岩(車窓)〜沓形・海底探勝船遊覧)
 連絡船 利尻・沓形→→礼文・香深(沓形発12:35〜13:15香深着)

 礼文島めぐり(レンタカー) 13:30発(約4時間コース)
(香深⇒金田岬:礼文空港(廃)⇒スコトン岬⇒澄海岬(すかい)⇒元地展望地⇒地蔵岩
⇒桃岩・猫岩展望地⇒知床港⇒香深(泊))
   宿泊地:礼文「旅館光陽」  0163-86-1610 

礼文
第4日 連絡船 礼文→→稚内 (香深発08:45〜10:40稚内着)
 稚内公園⇒ノシャップ岬⇒サロベツ原野(こうほねの家:兜沼:サロベツビジターセンター)⇒手塩⇒遠別⇒初山別⇒羽幌(泊)
 宿泊地 羽幌:「はぼろ温泉サンセットプラザ」0164-62-3800
羽幌
第5日  羽幌⇒苫前・小平番屋⇒留萌⇒増毛⇒雄冬岬(日本海オロロンライン)⇒浜益・石狩⇒
札幌(泊)  宿泊 「H・ブルーウェイブインサッポロ」 011−511−7531
札幌
第6日  札幌⇒千歳空港⇒夕張⇒日高⇒占冠⇒富良野(ファーム富田ほか)
⇒美瑛⇒旭川⇒層雲峡温泉(泊)
  宿泊「朝陽リゾート・ホテル」 016585391
層雲峡
第7日  層雲峡(黒岳ロープウェイ・リフト→→降りハイキング、流星・銀河の滝)⇒
石北峠⇒留辺蕊(るべしべ・温根湯温泉)⇒遠軽⇒丸瀬布・白滝⇒上川・旭川(親戚 泊)
旭川
第8日  旭川⇒美瑛(四季の塔、四季の丘)⇒天人峡(羽衣の滝)⇒旭川⇒岩見沢⇒
新千歳空港19:25⇒⇒⇒21:00羽田⇒厚木自宅
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   【 第一日 】

  旅行や旅好きの人の行き方として、同じ場所を何度も尋ねて行き、その地を極める所謂、「一色多彩」タイプと他方一辺コッキリの「多色一彩」のタイプとが有る様である・・。小生の場合はどちらかと言うと後の多色一彩の方かも知れない・・。
 北海道旅行については、スキーツアーも含めてチョッと数えるのに難儀する程の回数を訪ねているが、気が付くと未だ道北方面へは、上さん同伴としては未知の地域であった。今回は特に季節柄も考えて道北の島、利尻富士で有名な「利尻島」、花の楽園と言われる「礼文島」の両対照的な島々を中心に訪ねることにした。
 
  羽田空港を昼の時間とゆっくりの出発である。と言うのも息子の嫁さんが北海道・旭川出身であり、孫の顔見せの里帰りも兼ねていたのである。定刻に羽田を出発したANA機は、定刻に新千歳空港に到着し、旭川の両親の笑顔の歓迎を受けた。レンタカーを手配した後は真っ直ぐ当地へ向かった。そして、心配りのレストランへ招待されて鋭気を養ったのである。

   東京国際空港ロビー 出発ロビー(2階)
  羽田空港(東京国際空港)は、日本最大規模で国内線主体にも関わらず利用者数は1日平均17万人の世界でも有数の規模を誇る。 特に、深夜から未明の時間帯にかけては国際線チャーター便や貨物便(ヤマト運輸の「超速宅急便」などの高速宅配サービスが行われている)が離発着していることは余り知られていない。因に、道北部において当日の夜遅く荷出しをしても、関東地方には翌々日の午前中には指定便で自宅に到着している、これは驚異的である。


   【 第二日 】

旭川⇒士別・名寄・音威子府⇒浜頓別(クッチャロ湖)⇒猿払(  )⇒宗谷岬⇒稚内→〜〜→利尻 連絡船 (稚内発15:30〜17:10利尻・鴛泊着:泊) 
  宿泊地:利尻「ペンションみさき」  0163-82-1659

  《 道北 》
  昨夜は、親類の家にすっかり厄介になって朝食もそこそこに飛び出した、稚内からの渡島便を考慮して・・。  幸い道北へ向かう道央道が数年前に「士別・剣淵IC」まで開通していた。
 士別と言えば・・、小生が東京本社へ転勤になって初めて仕事をさせられたのが、或る設計業務で、それは「日本甜菜糖株式会社・士別製糖所」の製糖工程の或る部分であった。然るに当時、「ビート」とか「甜菜糖」とかいう言葉をよく耳にしたもので、今では懐かしい思いである。 その士別の郊外は今、広大な緑の絨毯が広がっている、これが実はほうれん草によく似た“砂糖の材料になる甜菜”であったのだ・・。
 初めての人は、「甜菜」って何だ?と思われるだろうが、事実、甜の字は、「舌に甘い」と書く、「甜菜」は北海道特産の、砂糖の原料になる植物なのである。 普通、砂糖といえば、「さとうキビ」のことを思い浮かべるが、ヨーロッパあたりでは、砂糖といえば甜菜糖のことを指し、日本では約3割がこの甜菜から作られた砂糖で占められるという。 甜菜が砂糖・・?、それはビート(SUGAR BEET)とも呼ばれる砂糖大根のことで、外見はカブに似ていて、この根の部分に蓄えられている糖分を取り出して砂糖を作るのである。 北海道では、まだ雪の多い初春に種を蒔き、苗を育て、雪解けを待って畑に移植、短い夏を経て成長し、収穫の秋を迎える。 北国の風にそよぐ青葉は、大地を緑のじゅうたんで敷きつめ、黄金色に輝く小麦やジャガイモの清楚な花とともに、北海道の代表的な田園風景を演出する。甜菜から作られた砂糖は正真正銘「舌に甘い」、100%ピュアなお砂糖であると・・。  因みに、日本における甜菜糖の歴史は、明治初期にヨーロッパから(ドイツ)伝わったもので、育ての親は「ナポレオン」と言われる・・。

  名寄市の西の郊外を無料の有料道路・・?が走っていた。名寄市といえば、往年の名力士「名寄岩」を思い起こす。 大相撲の力士で最高位は大関まで昇進、当時同じ立浪部屋の双葉山、羽黒山と「立浪三羽烏」と称されたほどであった。 2006年春には、孫(長女の子)が松ヶ根部屋(若島津親方)へ入門、祖父に続き関取昇進を目指しているという。

  国道40号線は、天塩川と平行して北上する。 名寄以北は車もぐっと減りハイウェイ状態であるが、途中大きな都市もなく、空もドンよりと曇り、何となく淋しい感じを受ける国道である。
 名寄を過ぎて20キロほどで美深に着き、市街地を過ぎてしばらく行ったところに「道の駅」があった。 さらに北上すると大きな「天塩川温泉」の看板が目立つ、道北部では豊富温泉に次ぐ温泉場らしいが・・?、更に一走りで「音威子府」へ着いた。 読み方は“オトイネップ”という、如何にもアイヌ語らしい名称の地名で「オ・トイネ・プ」(河口・土で汚れている・もの)からきており、音威子府川が天塩川に合流する地点が泥で濁っていたことからの命名とされたという。
 国道は、宗谷本線の音威子府駅前から40号線と275号線に分かれ、我々はオホーツク海・宗谷岬へ向けて275号線を行くことになる。
 ところでこの音威子府村は蝦夷地開拓の祖と言われる「松浦武四郎」が、天塩川流域を探査していた際、川筋に住んでいたアイヌの長老出会った時の話から「北海道」という名が誕生したという、いわば北海道の元祖の地であった・・。
 天塩川流域に関する詳細な調査は江戸幕府の命を受けた松浦武四郎が最初で、幕末の安政四年(1857年)6月のことであった。 その調査記録を要約・刊行したものが「天塩日誌」であり、日誌にはそれまで知られることのなかった蝦夷地最北端の内陸部の様子を詳しく観察し、川の流れや深さ、川岸の様子、自然や生き物をアイヌ語地名とともに記されていると・・。そこには、アイヌの人々の生活の様子とともに前人未踏の天塩川の自然が描かれている。 武四郎はその中で、音威子府村の川筋に住んでいたアイヌの家に宿泊し、アエトモという長老から話を聞き「ホッカイドウ」という名の発想をしたという。 武四郎はアイヌの言葉を十分理解していたが、「カイナー」(男の意、カイチーが女の意)という言葉を不思議に思っていた。 アエトモは「カイ」とは「この国に生まれた者」という意味で、ナは敬語であると武四郎に話し、武四郎はこれを元に「北加伊道」と命名し、その後「加伊」を「海」にあて、古代の五畿七道に因んで「北海道」という名が誕生したという。 1869年、蝦夷地に新たに北海道が置かれた際、五畿七道に北海道を含め、五畿八道とも呼んだ。
 音威子府村では「北海道命名の地」を宣言しており、天塩川の川辺には碑が建立されている。

 国道275号を行く・・、中頓別の道の駅「ピンネシリ」で小服する。 山小屋風の瀟洒な駅舎で、ピンネシリとは駅舎裏に聳える山の名前で男の山と言われる「敏音知岳」と書き、ちなみに隣には「女の山」を意味するマチネシリ(松音知岳)も聳えている。
 間もなく前方が大きく開けてきてオホーツク海が近いことを窺わせる。 その前にクッチャロ湖の寄ることにした。

 浜頓別・クッチャロ湖と白鳥公園・・、白鳥は未だ来ていない、10月半ば以降シベリヤより飛来するという。 ラムサール条約とは、正式名称を「特に水鳥の棲息地として国際的に重要な湿地に関する条約」という。 クッチャロ湖は、日本で3番目に登録湿地指定を受けている。
 白鳥がやってきた・・、正式名は「コハクチョウ」、その数一万数千羽、勿論日本最大の飛来地であるらしい。 一部はここで越冬するが大部分は本州を南下し山形・新潟・宮城方面へ飛んでいってしまう、ここは中休みの地である。 三月の暖気、ここを中継してオホーツクをこえて、元のシベリヤへ帰って行き繁殖する。


  浜頓別を過ぎるとやがてポロ沼や瓢箪沼といった湿原地帯を走る・・、「猿払村」の村名の由来は、その名もアイヌ語「サラ・プツ」(葦原の河口)からきている。 オホーツク海の海岸線と併走するようになるとやがて海岸沿いに猿払・道の駅「さるふつ公園」が現れた。村のシンボル的存在の公園で、園内には温泉、風雪の塔、インディギルカ号遭難者慰霊碑、いさりの碑、日ロ友好会館などがある。 又、村はホタテの漁獲高日本一で村内は豊かであり、ニシン御殿とは聞いたことあるが、こちらはホタテ御殿が多数存在するという。
 ところでインディギルカ号・・?、 昭和14年12月中、寒冷吹き荒ぶ(すさぶ)、オホーツク海に一艘の大型輸送船が咆哮していた、ソ連船インディギルカ号だった。 カムチャッカ半島より漁夫等千数百人を乗せてウラジオストックへ向かう途中であり、彼らは鮭・鱒等の魚場の作業を終えて一旦ウラジオへ戻る途中であった。 冬のオホーツク海は気候が変わり易く、尚且つこの時期、低気圧が日本海に有って勢力を増しながら東北に進みつつあった、この時の天気予報は北海道北部沿岸に暴風警報を出していた。 同船はそれを聞かずか、或るいわ知らないままに、当然宗谷岬より西に進路を執らねばならぬのに、この時化と急潮流でこの猿払の沖まで流されて来てしまったらしい。そしてトド岩という岩礁に乗り上げ、底を引き裂かれて横転した。 乗組員数人が猿払の部落へ救援を求め、村人は小船を操って救助に当たる、周辺各地域も大騒ぎとなり救助救援に大童だった・・。 しかしその頃はすでに水死体が岸に打上げられ、朝になると無数の死体がときには二重になって、浜鬼志別・知来別・浜猿払の海岸30kmにわたって打上げられていたという・・、遭難者は700人を超えたという。
 昭和14年(小生の誕生年、満州国で誕生した年でもある)というと「ノモンハン事件」が勃発し、日本とソ連は険悪な対立状態にあった、そんな最中でも村人、周辺各層の人は人道的立場で命を懸けて事に当たったという・・。 この遭難碑と同様、美談は今でも村人の間に伝わり残っていると・・。


  《 宗谷岬・稚内 》
  右に青のオホーツク海、左に緑の丘陵地帯を進むとやがて大きく左へカーブした辺りが「宗谷岬」であった。
 「北緯45度31分14秒」 駐車場コーナーの土産店の入り口のブルーの三角屋根が、日本最北端に位置する岬であることを示し、序に本日の日付や気温も明記されている。 岬の先端、オホーツク海に突き出た突端には北極星をモチーフにとい最北端の三角錐型の地が立ち、付近に蝦夷の探検家・林蔵の立像や宗谷岬音楽碑もあり、ここからダ・カーポの「宗谷岬」が最果ての地への旅情を更にかき立てる。本日は生憎の曇り空ながら、宗谷海峡の向こうにサハリン(樺太)微かに望むことができる。 一通り見物しながら記念写真を収めて、丁度昼時でもあり、日本最北端のその名も「最北端食堂」で最北端ラーメンを食す。
 食後、岬の反対側階段状に広がる宗谷丘陵へ上がってみた・・。高台は宗谷岬公園として整備されていて、宗谷岬展望台のからは岬一帯が一望できる。この展望台は築100年も経過しているらしい・・、何でも明治37年(1904)の日露戦争の際にバルチック艦隊を監視するために造られたもので、船のブリッジを模した石造りの望楼であった。他にも宗谷海域海軍戦没者慰霊碑や昭和58年(1983)に起こった大韓航空機撃墜事件の遭難者慰霊などの碑や塔が建つ・・。
 内陸部は緑が波を打った様な広大な「宗谷丘陵」が広がる。この丘陵は北海道遺産にも指定されたもので、約2万年前の最終氷期の間に形成された特徴的なもので、氷河周辺部での凍結融解の繰り返しによって出来たものという。日本最北端のこの兵陵には広大な肉牛牧場が広がり、厳しくも豊かな自然に育まれた健康な黒牛が約3000頭も放牧されている。遠方には発電用の「風車」が林立していて、これまた一つの風物を演出している。  現在、風車は57基建っていて、この辺り一帯を「ウインドウ・ファーム」と名付けているらしい・・、上さんには、この風景がヨッポド珍しいらしく、車をそちらの方へ向けることにした・・。
北緯45度31分14秒の表示店 北極星をモチーフにとい最北端の碑 「最北端食堂」で最北端ラーメンを食す
「宗谷丘陵の周氷河地形」(稚内市)
宗谷岬展望台のからは岬一帯が一望できる  内陸部は緑が波を打った様な広大な
「宗谷丘陵」が広がる
 遠方には発電用の「風車」が林立していて、
一つの風物を演出している

  

  岬を後にして一路稚内を目指した。途中、左手に稚内空港があって丁度ANA機が出立離陸しようとしていたため様子を伺って見た。

  
 稚内―千歳間(7月現在1往復)、稚内―東京間(7月現在2往復)にボーイング737型機(126人乗り)、関西直行便(7月現在1往復)のA320型機(166人乗り)が就航している。又、道央圏及び利尻・礼文を結ぶ北海道北部の輸送拠点空港であったが、2003年に利尻空港、礼文空港線は廃止になっている

  稚内は、西側に位置するノシャップ(野寒布)岬の付け根部分に広がる御存知の最北の都市で、利尻島や礼文島は勿論、最近ではロシア・サハリン州と交流も深い。 稚内とはアイヌ語のヤム(冷たい)ワッカ(水)ナイ(沢、川)からきており、「冷たい水の流れる沢」という意味である。
 稚内F・Tは、宗谷本線の「稚内駅」を更に北へ向かった埠頭の先端にあった。 乗り場の途中に特徴的な防波堤ドームが異様である・・、ここに通じる道路や鉄道へ波の飛沫がかかるのを防ぐ目的で建設された防波堤で、町のシンボルでもあり古代ローマ建築物を思わせるような太い円柱となだらかな曲線を描いた回廊は、世界でも類のない建築物として内外の注目をあびているという。高さ13.6m、柱の内側から壁までが8m、総延長427m、柱の総数70本、半アーチ式の構造形式で、2001年に北海道遺産に指定されている。
 全日空ホテルの前の市営の無料駐車場へ車を置いてF・Tへ向かった。
 3500トンのフェリーは利尻島へは1日4便、礼文島へは1日5便就航しているようで、頃良い時間である本日最終便15時30分にて、我らは利尻島・鴛泊へ向けて出航した。 2等船室はほぼ満員であり、やはり今の時期利尻、礼文の人気の高さが伺える・・。左にノシャップの岬が近づいてきて、やがて次第に遠くなると今度は目的の利尻が近づいてくる、生憎、利尻富士は雲の中でみえないが・・、ほぼ定刻の17時10分には鴛泊の岸壁に横付けされた・・。
 海岸に面したペシ岬の三角の峰が我々を歓迎し、そして今夜の泊まり宿である「ペンション・みさき」も港に面して確認できた。宿へ付いた後、日帰り施設の利尻富士温泉へ案内してもらった。公園の一角に温泉場があり、さっそくお湯に浸かる、やや熱めの黄緑色のお湯はやわらかい肌触りで、肌がつるつるしてくる。湯を飲んでみると、うすい昆布茶のような味であった。露天風呂もすばらしい、広めの湯船に浸かって北の空を見上げるとなんとも言えない開放感があり、湯船のふちに腰掛けると利尻富士も見えるはずであるが・・、山頂に続く原生林の黒々とした緑も北海道らしい雰囲気を漂わせる。
 宿の食事は、海鮮主体の食堂での夕食となったが、食卓には生ウニ、刺身(イカ、エビ、ヒラメ)、ズワイガニ、サケ、イクラ、昆布など新鮮な海の幸が勢揃いし、とても美味しかった。特にムラサキ、バフンの両ウニの混ぜ合わせは最高であり、昆布焼酎も昆布の味がしてなかなかでありました・・。     
 
                       第三日へ続く・・。


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