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日本周遊紀行(98)呉 「江田島・海軍兵学校」



ここでは、明治天皇が陸海軍軍人に対して下した訓誡・「軍人勅諭」が今も生きている・・、

明治初期、広島には広島鎮台、呉には海軍鎮守府が設立せれるに及んで、1883年(明治21年)江田島に、海軍士官養成を目的とした学校「海軍兵学校」が開設された。
呉港の、ほぼ正面に位置する江田島の東の玄関口に小用港があり、そこから約1.5kmの地点にその学校は在る。 
呉に鎮守府を置くことに決定した流れの中で、瀬戸内海でも数少ない内湾で水深も有り、鏡のような波静かな江田島湾、純朴な島民気質、寒村であるが故に教育に最適の地として、当時の関係者に「ここしかない」と決断させたという。


海軍兵学校(海兵)とは、海軍士官を養成する機関であり、帝国大学(旧制第一高等学校・現東京大学教養学部)や陸軍士官学校と同じレベルの試験で選抜され、入校と同時に英国式の術科重視の教育が行われる。
江田島で三年間の高等教育を受けると、卒業後は少尉候補生として練習艦隊に配属され、遠洋航海など実地訓練や術科講習を経て任官する。
ヒラの水兵から、少尉に昇進するのは大変なことであったことから、彼らが、いかにエリート集団であったことが分る。

広大な敷地には、歴史を感じさせる古い建物が今も数多く残っている。 
緑の芝生に覆われた赤レンガの「生徒館」(校舎)は、明治26年イギリスから直輸入されたものという。この赤レンガは、イギリスで焼かれた最高級のものを一枚一枚輸入したもので、赤レンガ一枚の値段(20銭)は当時の大工さんの日当の2倍だったとか、1世紀を経た今も、その華麗な美しさは変わらない。

そのほか、2千人も収容できる「大講堂」、ローマのパレテノン神殿を思わせる円柱が特徴の「教育参考館」など貴重なものが残されている。 
「大講堂」は入・卒業式、各種式典、講演が行われる。

「生徒館」の自習室(教室)正面には、「五省」という訓戒額や広瀬中佐、東郷元帥の肖像画が掲げられているという。 
海軍兵学校の生徒達は、夜の自習止め五分前のラッパ「G一声」(敬礼、答礼ラッパ)が静寂な生徒館に流れると、当番の一号生徒が「軍人勅諭」五箇条に続いて、「五省」を各項目一つ一つをゆっくり拝誦し、他の生徒はこれに合わせて黙誦し、その日一日の自らの行動や言動を反省自戒し、自ら人格の陶冶に努めていたという。


『 軍人勅諭 』 (明治15年、明治天皇が陸海軍軍人に対して下した訓誡)

一.軍人は忠節を尽すを本分とすへし
一.軍人は礼儀を正しくすへし
一.軍人は武勇を尚(とうと)ふへし
一.軍人は信義を重んすへし
一.軍人は質素を旨とすへし
    


『 五省 』 

一、至誠に悖(もと)るなかりしか (誠意に欠けた事はなかったか)
一、言行に恥づるなかりしか (恥ずかしい言動はなかったか)
一、気力に缺くるなかりしか (意気込みは充分だったか)
一、努力に憾(うら)みなかりしか (最善を尽くしたか) 
一、不精に亘るなかりしか (怠けなかったか―を己に問え) 
 


「学生館」(学生寮)では、毎朝六時(冬季は六時半)に「総員起こし」の放送で飛び起き、「お早うございます」と同室の者に挨拶し、ベッドメイクをして、服を着、靴下&靴を履き、カーテンを開け、窓を開け、電気を付け、四階の部屋からグランドへ駆け下りてくるのに約2〜3分、4分もかかろうものなら「遅い・・!」と叱られる。

教育参考館」は、昭和11年に入って建てられた鉄筋コンクリート造りの建物であり、海軍の栄光と先人の偉業をしのぶ歴史的な資料を収蔵しているいわば海軍の聖堂である。 
東郷平八郎、ホレーショ・ネルソン(イギリス海軍提督)、山本五十六の遺髪、海軍将校の書、特攻隊員の遺書など、旧海軍関係資料1万6千点が展示、保存されている。
今の展示館、資料館に相当するものであろう。 

「 生徒をして帝国海軍の淵源甚だ遼遠なるを知らしめ、且つ先人苦心の跡を味得せしむると共に、身を以て国に殉じたる幾多先輩偉人の忠烈に私淑せしめ、光輝ある帝国海軍の伝統を、永遠に警鐘発揮せしめんがためなり 」 の主旨が現在にまで生き続けている。 

又、当時の若い特攻隊員達の遺書も見事な達筆で残されている。
「国難にあたり一命を投じて日本国の盾となります」と記され、遺書の多くは、「父上様、母上様、私に会いに靖国神社に来てくださいね。」と結ばれているという。


終戦後、米軍に接収されていた江田島・旧海軍兵学校は、1955年(昭和30年)に占領軍から日本政府に返還され、それに伴って海上自衛隊第1術科学校と海上自衛隊幹部候補生学校として使われることになり、現在に至っている。 
陸・海・空の中で海上自衛隊は、際立って旧海軍との繋がりを意識する組織で軍艦旗もセーラー服も、そして校舎も昔の面影を残しているという。

「赤レンガ学舎」北方後方に、江田島のシンボル、標高392メートルの古鷹山が聳え立つ。 
日露戦争時の定刻海軍作戦参謀・秋山真之が、暇を見つけては毎日のように登ったとか、巡洋艦「古鷹」がその名を付けていた。
山頂途中には、東郷元帥直筆といわれる「五省」が、道標を兼ねて立てられている。 

この山は、兵学校生徒の運動強化、体力向上を目的とした登山訓練の場でもあり、通常、一般の人は麓から凡そ1時間のところ、20分位で頂上到達するという。 現在も自衛隊員がこの山で訓練を続けている。


愛唱歌 「同期の桜」

貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
咲いた花なら散るのは覚悟
見事散りましょ国のため

貴様と俺とは同期の桜
同じ兵学校の庭に咲く
血肉分けたる仲ではないが
なぜか気が合うて別れられぬ

貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
仰いだ夕焼け南の空に
今だ還らぬ一番機

貴様と俺とは同期の桜
同じ航空隊の庭に咲く
あれほど誓ったその日も待たず
なぜに散ったか死んだのか

貴様と俺とは同期の桜
離れ離れに散ろうとも
花の都の靖国神社
春の梢に咲いて会おう


  兵学校校歌 「江田島健児の歌」

澎湃(ほうはい)寄する海原の
大波砕け散るところ
常磐の松のみどり濃き
秀麗(しゅうれい)の国秋津州
有史悠々数千載(すうせんざい)
皇謨(こうぼ)仰げば弥(いや)高し

玲瓏(れいろう)聳ゆる東海の
芙蓉の嶺を仰ぎては
神州男児の熱血に
我が胸さらに躍るかな
ああ光栄の国柱
護らで止まじ身を捨てて


古鷹山下水清く
松籟の音冴ゆるとき
明け離れ行く能美島の
影紫にかすむ時
進取尚武の旗上げて
送り迎えん四つの年



次回は、安芸の宮島・「厳島神社」

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日本周遊紀行(99)宮島 「厳島神社」



厳島神社が海上に建つ訳は、往時は神域のため島内に人は住まず、神官も対岸から島を拝していたからと・・、


呉の港から、南下すること5〜6kmの南端に「音戸の瀬戸」がある。 
ここに倉橋島への瀬戸大橋が架かり、更に、能美島への早瀬大橋から江田島へ到る、つまり江田島へは実質的には車を使えば陸続きで行ける。

音戸の瀬戸は、呉市と音戸町の間にある全長1km、最小幅100m余りの水路で、ここは1日500隻以上の通過船がある重要行路でもある。 

「音戸かわいや 音戸の瀬戸で 一丈五尺の 櫓がしわる」と唄われたほど、潮の流れが速く、古来難所と言われた。 
音戸大橋の下には、今もなお、小さな渡し舟が激しい潮の中を行き来しているという。

音戸の瀬戸は、大昔は干潮時になると陸地に成る浅瀬であったが、約800年も前の平安期、平清盛が厳島神社造営、参詣のために難工事で開削したと伝えられる。
音戸町役場の前の岩礁に「平清盛の塚」がある。   


「 音戸の舟歌 」  (広島県民謡)

(アードッコイドッコイ)
ヤーレーノ船頭可愛いや
音戸の瀬戸でヨー 
(アードッコイドッコイ)
一丈五尺の ヤーレノ
艪がしわるヨー 
(アードッコイドッコイ)
   ※以下 掛け声同様

ヤーレーノ船頭可愛いと 
沖行く船にヨー 
瀬戸の女郎衆がヤーレノ 
袖濡らすヨー

ヤーレーノ泣いてくれるな
出船の時にゃヨー 
沖で艪櫂のヤーレノ
手が渋るヨー



その「安芸の宮島」は、江田島の西方に浮かぶ・・、

平清盛が築いたといわれる安芸の宮島・厳島神社へ急ぐ。
山陽本線の宮島口、国道2号線のすぐ前に連絡線(フェリー)の船着場がある。 
JR連絡船、松大汽船の両船会社が旅客、フェリーとも頻繁に運行し、数分間隔で凡そ10分の短時間で宮島桟橋へ誘導してくれる、片道170円は安い・・?。

連絡船は、宮島のシンボルとも言える海上に浮かぶ朱色の鳥居の正面にて、ほんの一時ではあるが停泊してくれる。特にガイドはされないが、無言の案内をしてくれるのは有り難い。 
紺碧の海面に新緑の宮島・弥山(みせん)をバックに、毅然と立つ大鳥居は華麗であり豪華である。 
高さ16m、柱の周囲10mの大鳥居は拝殿から約200mの海上浮かんでいる。 
鳥居は楠の自然木で、その重みで海中に立っているといい、今のは明治8年(1875)に建てられたものだという。


本日は、気温が27度と暑い日和であるが、海の冷風に煽られて清々しい。
海上約1kmに厳島があり、桟橋を下りると「歓迎、宮島町」と書かれた巨大な石灯篭と野生の「宮島鹿」が迎えてくれた。 
参道は御土産屋が軒を連ねる商店街の表参道と海岸参道の両方が在るようだが、景色を眺めながらの海岸コースを行く。 日本三景碑を見ながら、松林に囲まれた鳥居をくぐると、素晴らしい景観が眼前に広がる。


島の華麗なる歴史的産物と天然自然のコントラストが実にいい・・!!。

島は周囲28km、北東から南西に延びた長形で、島の中央に542mの最高峰の御山が聳えている、御山は弥山(みせん・・と呼ぶ)とも書く。 
御笠浜という海岸歩道の先端まで来ると、右に海中の大鳥居、左に海に浮かぶ荘厳華麗な大社殿の厳島神社が見渡せた。 
黒褐色の桧皮葺の切り妻屋根と深紅の造棟は、承知はしていたが実際、目の当たりにして、さすがにその威容さを知り感服し、圧倒された。 
時は干潮時であろうか、付近は砂浜の海底をのぞかせ、鳥居の下部は黒模様の海跡が見られる。

入拝所の朱色の柱には「国宝 厳島神社」と墨色で記されてあった。


本殿、弊殿、拝殿、祓殿と、その前には舞楽を演奏する高舞台がある。
そこを東西あわせて約300mの回廊が結んでいる。 昨年、平成16年9月7日の台風18号では国宝・左楽房の倒壊や桧皮葺の本殿屋根、社殿回廊の床の破損など大被害を受けた。
それらは今も修繕工事中で、その爪痕は残っているが、着々と修復は進んでいるようである。

回廊を渡って本殿正面に出る、一段と大きい中央回廊が青銅の灯篭を挟んで海原へ延びている、ここは確かに「神」の通り道に相応しい・・!。


厳島神社の社殿は、593年(推古天皇即位元年)に創建されたと伝えられる。 
古来から神の降臨する「神の島」として島全体が人々の信仰の対象であり、清浄な場所として崇めれていた。 
往年、島内に人は住まず、神官も対岸から島を拝していたという。
社殿が、海水のさしひき(干満)する所に建てられているのもそのためであり、海上に浮かぶ大鳥居もそのためであった。
宮島には中世以降人家が建てられたが耕作をしない、死者を埋葬しない風習は現在も守られているという。

大神は古くは九州・宗像神社(筑前国宗像郡玄海町・宗像三女神、筑紫の海上交通の神)の流れを汲む伊都伎嶋(いつきしま)神社ともいい、また厳島大明神とも称した。

市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)の女神三神を主祭神としている。

厳島神社が、平氏崇敬を受けて平氏の氏神となった経緯には、当時の大神主の様々な働きかけがあったといわれる。 

平家隆盛時、清盛によって造営された社殿は厳島にある本宮(内宮)・本殿以下37棟、対岸の地御前にある外宮が本殿以下19棟を数え、全て完成するまでに数年が費やされたといわれる。
社殿造営は寝殿造り(平安時代貴族の邸宅建築、現在の京都御所がその一例)の建築様式を巧みに取り入れ、美と調和を創造した日本に残された最も優秀美な建築物と言える。特に本殿は繊細かつ華麗な切妻両流造りで、平安の風格をよく再現している。

厳島神社は、元々は日宋貿易航路の守護神でもあったという。 
瀬戸内へ筑紫の国・太宰府から宋人を招聘する一方、平家一門や皇族・貴族の厳島参詣は年々頻繁になり、このための海上ルートがそのまま宋貿易へのルートとなっていったという。 
神社へ、貴人の参詣が頻繁になるにつれて、社内の拡大、整備が一段とされるに至ったという。

次回は、世界遺産としての「厳島神社」

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日本周遊紀行(99)宮島 「世界遺産・厳島神社」


写真:国宝・世界遺産「厳島神社」


日本三景・厳島(宮島)の真価は、弥山頂上の眺めにあり・・、

日本三景の一つ「厳島」(宮島)は、厳島神社を中心とした島全体をいい、世界遺産にも登録されている。


世界遺産について・・、

日本三景は他に天橋立(京都府宮津市にある砂嘴)と松島(宮城県松島町を中心とした多島海)があるのは周知であるが、この二箇所いずれも世界遺産登録に動いたが、現時点では「厳島神社」以外は登録に至っていない。 

「厳島神社」が世界遺産に指定されたその基準として、厳島神社の歴史的社殿群が周囲の環境と一体となった景観を呈し、又、その後の日本人の美意識の一基準である精神文化の重要な資産となっていることが条件にもなっている。 

建築物は、日本に現存する社殿建築の中でも、平安時代の古い形態の「寝殿造り」の様式を踏襲する重要な見本であり、又、厳島神社は、神道、仏教との所謂、神仏混交と分離の形態が良く現存していること等が理由としている。 
そして、平成8年12月、「厳島神社」が、正式に世界文化遺産として登録された。 登録された区域は、社殿を中心とする厳島神社と、前面の海および背後の弥山原始林(天然記念物)の森林を含む区域で厳島全島の約14パーセントを占めるという。 
登録された遺産のうち、厳島神社の本社本殿・弊殿・拝殿等の建築物、大鳥居・五重塔・多宝塔建造物群、それにバッファゾーン(緩衝地帯)と言われる「厳島全域」を指している。


社宮の南側、弥山の山麓に厳島神社の別当寺としてそれまで祭祀を行っていた厳島の総本坊「大聖院」(真言宗御室派仁和寺)が在り、ここより「弥山」の頂上への登山道が開かれている。 
斜面は、温暖帯の天然記念物の弥山原始林が広がる。弥山は古来より神聖な地域で、人間が自然の力に浸る修行の道場として考えられた。
そのために、乱りに樹木を切ることをせず、天然の姿を今に残すことが出来たという。


「弥山に登らずして、宮島を論ずる勿れ」・・!、

又、「日本三景の一の真価は、弥山頂上の眺めにあり」ともいわれている。
「弥山」は、宮島最高峰の山で海抜530m、頂上の展望台からは瀬戸内海が絶佳一望できる。 
山頂には大小様々な奇岩怪石が散在し、これに応呼するように806年弘法大師(空海)が開基した真言密教の道場・「弥山本堂」や、その他の伽藍が並ぶ。 

特に「霊火堂」(不消霊火堂)は開祖以来、凡そ1200年間途絶えることなく燃え続けている弘法大師の「消えずの火」が灯っている。 

この火を採って、かつては八幡製鉄所の種火や広島の平和公園の「平和の灯」が点じられたという。
ところがである、本年(平成17年)5月5日、ゴールデンウイーク真っ最中の午後、失火で本堂が全焼してしまったそうだが、しかし幸いなことに「消えずの火」は、いち早く僧侶が、ろうそくに移して無事だったという。

因みに、最澄(さいちょう・空海と同時期に入唐した高僧、天台宗の始祖)が創建した延暦寺の総本堂である「根本中堂」の本尊、薬師如来像の前には「不滅の法灯」(消えずの火)が開山以来1200年にわたり灯され続けている。

その弥山には登らなかったが、神社そのものの余りの美事さに感服しながら帰路に就いた。

途中、宮島名物「紅葉饅頭」を自己土産に買った。

次回は、岩国・「錦帯橋」   第10日目へ


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