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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年5月29日 延日数 第8日
出発地 道後温泉 出発時間 8時15分
到着地 道の駅・あいおい 到着時間 19時15分
天 候 晴れ 体 調
走行道路名 R196 R11 琴平道 高松道 瀬戸中央道 山陽道 R250
主移動地名
松山⇒北条⇒東伊予⇒西城⇒新居浜⇒川之江⇒豊浜
⇒琴平⇒善通寺⇒倉敷⇒赤穂⇒相生
現在(宿泊)地 相生・道の駅・あいおい
道の駅(R)   風早の里  今治・湯の浦  豊浜・とよはま  あいおい
温 泉 道後温泉本館  相生温泉
名所・旧跡
(四国霊場)
道後温泉  51番石手寺  56番泰山寺
59番国分寺  62番宝寿寺  63番吉祥寺  石鎚神社
金刀比羅神社  瀬戸大橋

写真集 U

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 2736 今回入油 25.0 本日支出 8520 本日支出 10498
昨日表示 2418 前回累計 144.7 前日累計 9258 前日累計 38975
走行距離 318 今回累計 169.7 本日累計 17778 本日累計 49473
総距離 2736 . . . . .

西日本編   8日目:PartT(松山)   PartU(松山、菊間、波方)へ  日本周遊ブログ
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日本周遊紀行(78)松山 「道後温泉」


写真:道後温泉本館と浴槽・「道後温泉本館」


「道後温泉・本館」はやはり日本一の公衆浴場であった・・、

華やかな道後温泉から車で,約15分ほど山あいに入った所に道後の奥座敷・奥道後温泉があり、この山ふところに抱かれた静寂の地にNTTの奥道後保養所「拓泉荘」があった。

宿へ着くなり、先ずは湯に浸かるのが慣わしである。
お湯は、奥道後の源泉らしく、肌ざわりの良いツルツルしたお湯である。
浴槽の縁(ふち)に木の枕があり寝湯を楽しめるようになっている。
慌しかった今日一日の心労を、この瞬間に垢と一緒に洗い流す、至福の一時である。泉質はアルカリ性単純硫黄泉で、かすかに硫化水素臭が感じられ。
泉温・42度 、効能・神経痛・関節リウマチ・痛風・貧血など・・。源泉は当館地下800mから湧き出ている豊富な湯量で、道後温泉よりも良質であるといわれる。 
聞くところ、すぐ近くに巨大な温泉レジャーランドと称するホテル奥道後があって、なんと500円でジャングル温泉など、温泉三昧で一日遊べるらしい。 暇があれば覗くんだったけど・・ん。


今朝は、よく整頓された小奇麗な部屋のフカフカ布団で眼が覚めた。
今日も窓から差し込む明かりは良天気が約束されたようで、時計の針は午前5時半を指している。
未だ、睡気が覚めやらぬまま、着替えもせずに浴衣のまま「道後温泉本館」へ向かう。
本日最初の目標、早朝の本館入湯にで出かけるのである。

本館は未だ6時だというのに、浴衣着の浴客で既に賑わっている、中には記念写真組も。
外観は圧倒的な和風建築で道後温泉のシンボルに相応しく、木造三層楼の風格のある建物で屋上に振鷺閣(しんろかく:ギヤマンを張り巡らせた太鼓楼があり、朝に夕に時を告げる刻太鼓が温泉情緒を漂わせている)というのが取り付けられている。
明治27年に建築され、共同浴場としては初めて国の重要文化財に指定されている。

“道後温泉”と刻んだ由緒ありそうな看板を潜り、入湯料300円を払って入場する。 
広い桧板張りの更衣室で、ガラスの引き戸を隔てた浴室は明るく広々している。
浴槽は、御影石て造られ特徴的な湯釜から給湯されている。 
浴槽は大きく20〜30人程入れる大きさであるが、もう既に満員状態であった。
小生と同じく観光記念客が殆どであろう。
男風呂には「神の湯」という浴室が二ヶ所(東室、西室)あり、同じ大きさであるが、壁飾りの陶板焼壁画が異なる。 
女湯は、楕円形の浴槽が一つあるのみらしい。 48℃の源泉は無色透明、無味無臭の綺麗な湯で松山市で一括管理され、適温で配湯されているらしい。

早朝、人いきれのなかで、ゆったり手足を伸ばして名湯に浸かるのは、実に良い気分である。
睡気を洗い流し、身も心もスッキリさせて今日一日の活力を生む。


この温泉本館は夏目漱石が松山を舞台にした自伝的小説「坊ちゃん」でもお馴染みである。
この浴室、浴槽で、主人公で数学教師の坊ちゃんが泳いだことで、生徒に見つかり、冷やかされ、悶着を起こした・・、という下りがある。

夏目 漱石は、「吾輩は猫である」、「こころ」などの作品で広く知られ、森鴎外と並ぶ明治時代の文豪である。 
東京帝国大学時代に、ここ松山出身の正岡子規と出会い、子規は同窓生であった漱石に多大な文学的、人間的影響を与えたという。
この時期に、初めて「漱石」という号を表した。漱石28歳の時、子規の推薦があったかどうか定かでないが、松山の松山中学(現、松山東高校)に教師として転勤赴任している。
「坊ちゃん」の主人公は漱石自身とされているが、教頭の「赤シャツ」だとする説もある。 
写真の容貌から察すると、「赤シャツ」似かな・・?。

文豪・夏目漱石が松山中学の英語教師として赴任したのは、本館の完成した翌年のことである。
漱石はその建築に感嘆し、手紙や、後の彼の作品「坊っちゃん」の中で「温泉だけは立派だ」と絶賛している。 
実際に、頻繁に通ったともいう。手紙によれば、八銭の入浴料で「湯に入れば頭まで石鹸で洗って」もらうことができ、また三階に上れば「茶を飲み、菓子を食」うことができたようである。
小説の中では「住田」の温泉として登場する。
あまりにもこの印象が強いため、本館は別名、「坊っちゃん湯」とも呼ばれる。

余談だが、松山市内を走るチンチン電車(路面電車・伊予鉄道)に、今、「坊っちゃん列車」とやらが走っているという。 
明治期の模擬SLが牽引しているミニ列車のことで、小説「坊っちゃん」の中で、軽便鉄道時代の伊予鉄道が「マッチ箱のような汽車」として登場しており、四国・松山中学に赴任する坊っちゃんがこれに乗ったことから、坊っちゃん列車と呼ばれるようになったという。


湯上りに様子を伺いながら・・?、浴室内の様子をカメラに収めることにした。
「スンマセン・・写真一枚撮らせてください」、
「オ・・、イイヨ・・」と気兼ねのない返事が返ってきたので早速、パチリ・・!。 
途端に係員の女性に見つかって「写真は遠慮してください・・!」、「スンマセン・・」当り前である、非常識である、判ってます・・はい・・!!。 

湯上り散歩に館内をぶらつく・・、中央廊下の突き当たりから階段を上がると、二階には大きく仕切られた大広間の休憩所があり、更に三階には、老舗の旅館の客間を思わすような落ち着いた雰囲気の部屋休憩所がある。
さらに奥まったところは「坊っちゃんの間」というのがあって、夏目漱石ゆかりの記念の部屋らしい。

館(やかた)を出て建物を一周してみる。
城郭式の木造建築で、裏側という俗っぽい概念は無いらしく、四方が、それなりに意味をもった造りになっていた。 華やかな本館正面から見ると、左に今入浴した三層の神の湯、右手に二層の洒落た造りの棟があり、大小の建物が連結されている。 
反対側(東側)から見えるのは、三段屋根がある「又新殿」という皇族専用の浴場及び部屋で、やはり格式のある造りになっていて、明治中期に完成したものとか。この皇室用の各間は、さすがに優雅な造りで「武者隠しの間」などの特別仕立ての部屋も在り、明治から昭和まで皇族の御入浴は十回程あったという。 
北側の一階にある三つの入口は、往時当初の出入り口だという、振鷺閣の上で羽を広げるシラサギも、北を向いている。
 

「古事記」や「万葉集」にも登場し、3000年の歴史を誇る日本最古の道後温泉は、日本三古湯の一つとされる。  神話の時代、古事記に大国主命(オオクニヌシノミコト・大地創造の神)と少彦名命(スクナヒコノミコト・大国主と協力した国土の神)が出雲の国から伊予の国へと旅して、当温泉に浸たったと記されてる。 
聖徳太子が病気療養のため道後温泉に滞在したのをはじめ、奈良期には天皇や多くの皇族方が行幸したとされてる。

因みに、「道後」の名の由来は国府が伊予国(現在の今治市)に置かれた頃、京から見て国府よりも遠い地域を「道後」(道前、道中)と呼び、名残が道後及び道後温泉の名前の起こりとされている。

日本三古湯は一般的には、道後温泉(愛媛県)、有馬温泉(兵庫県)、白浜温泉(和歌山県)と言われ、何れも今回の周遊で立ち寄って来た温泉である。
小生の田舎(実家)の「いわき湯本温泉」(福島県浜通り地方)も古く、奈良時代には開湯されてて道後、有馬とともに三古湯とされる場合もある。 
いずれも神話の時代からの長い歴史を有する温泉である。


市街地に広がる温泉街は、例によって巨大なホテルや旅館が並ぶが、一方、古き良き湯の町の情緒も、そこそこに感じられ残っている。
駅前には新名所として、本館100周年を記念して造られたという人気のスポット、「坊ちゃんカラクリ時計」がある。1時間毎に漱石の小説「坊ちゃん」に登場する人物をモチーフした人達がユーモラスに登場し踊りだすという。

次回は、五十一番霊場・「石手寺」

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日本周遊紀行(78)松山 「51霊場・石手寺」




写真:伊予随一の石手寺本堂と「マントラ洞」入場門



『 伊予の秋 石手の寺の 香盤に 
                 海のいろして 立つ煙かな
 』  与謝野晶子


小一時間、本館の由緒ある温泉に入浴し、施設、周辺を見学して退出した。
奥道後のNTT保養所「拓泉荘」へ戻り、宿の朝食を格別美味しく戴いて、改めて本日の行程へと出発する。
先ず、本館のすぐ近く、昨日も今朝も門前を通過しながら車中より一見しただけの第五十一番霊場・「石手寺」である。 
入り口に大きな御影石に刻印された石柱に「熊野山・石手寺」とあった。
小川に架かる小さな狐狸橋を渡ると両側に、未だ開店前の土産物屋などが軒を並 べている。 
参道を進むと荘厳な堂々たる仁王門(国宝)が建ち、巨大な「わらじ」が通路の両脇に置かれてあり、その横に霊場巡りのお遍路さんであろうか、願掛けの小草鞋が多数吊るしてあった。

この門は鎌倉時代の造営で、両側内の仁王像・金剛力士像(阿ア形像、吽ン形像)は同時代の代表的彫刻家・運慶の作といわれ、これはもう完全に国宝クラスの像物である。 
門をくぐると右手に均整のとれた華麗な三重塔がそびえ、それと 並んで鐘楼が建っている。 
この鐘楼前の歌碑(冒頭)は道後を訪れた時「与謝野晶子」が詠ったものという。 正面一段高いところに緑に囲まれて本堂があり、並んで大師堂が建っていた。

今も尚、四国霊場第五十一番の札所では伊予地方随一の名刹として松山地方の大師信仰の中心であり霊験あらたかなところから、善男善女の参詣は後をたたないという。
建造物の大半は国宝、重要文化財となっており、四国霊場の中でも由緒ある寺の代表的な一つである。 又、小高い山の上に一際大きな弘法大師像が立つ、それは像体は中国を、顔はインドを向いているともいわれる。

地元出身の正岡子規もお堂の多さに・・、


『 石手寺や 何堂彼堂 弥勒堂 』

と茶目っ気たっぷりに詠んでいる。

この寺は、聖武天皇(奈良初期)、伊予国司・「越智玉純」(おちたまずみ)が天皇の勅願を受け、鎮護国家の為に伽藍を創建して、はじめ「安養寺」として名を付けた古寺であったという。
寺院境域は66000平方メートルという広大な敷地を持つ。 奈良中期に、「衛門三郎」と弘法大師の縁起から「石手寺」と名を変えたという。 


この衛門三郎こそ、「元祖、四国巡礼者」であったと云われる・・、 

ある日、伊予の住人「衛門三郎」が托鉢(修行僧が、各戸で布施する米銭を鉄鉢で受けてまわること。乞食・コツジキ)で訪れた弘法大師に向って「帰れ、このくそ坊主・・」と悪行をなした。
すると忽ち一家は破滅的天罰が下り、その原因が托鉢の僧にあったことを知る。
三郎は大師に一目会って懺悔すべく旅立ち、伊予から讃岐へ、更に阿波、土佐を経て大師の後を追い、四国の道を二十周して力尽き、息をひきとる間際、大師に会うことが出来たという。
大師は懺悔を聞きながら手に石を握らせた。 

次の年、伊予国司、河野家に「左手に石を握った男子」が誕生し、安養寺の住職は「衛門三郎の再来」として、寺の名を「石手寺」と改めたという。 
衛門三郎の善行を聞いた人々が、四国を巡る遍路に出るようになったともいわれる。

遍路行者達は、古刹・名刹に巡拝し心を清め、更に、名湯道後で身体を洗い流して明日への活力としたのであろう。


『 西方を よそとは見まじ 安養の 
                 寺に詣りて 受くる十楽
 』  御詠歌

石手寺の本堂前に展開する華麗な建築物は謂わば、大師の教えを貫く精神世界である、表の顔という人もいる。
ところが、この石手寺は珍しく別な顔を持つもう一つの世界があるという。
本堂裏手にある「マントラ洞」というのがそれで、怪しげな部分を代表するシロモノは「裏の顔、常ならざる陰の世界」とも云える世界を演出している。

先ず、入口は「曼荼羅」として木造の普通の門に相当する造りであるが、周辺の飾り物はイカにも奇妙な代物なのである。
曼荼羅とは、本質を有するものの意で、特に仏界では悟りの世界を象徴するものとされる。 
この奥に洞窟があって異次元の空間が広がっている。 その洞窟も幾つかあって「都卒天洞」(とそつてんどう)、「地底マントラ」、「大仙窟」等の名称がついていて、これらは人間の苦しみ、人間のむごさ、人間の痛みなどの苦しい人生模様を現しているともいわれる。

本堂前の華麗な世界は、精神が昇華する願いを込めた世界であり、一種、願望と理想を描いているが、反面、裏の洞窟に広がる暗欝な世界は、現実的な苦悩と不屈の精神界を表現しているようでもある。
「この苦しみに負けず、生きるものは幸福へと進もう」とする不屈の呼びかけであろうか。

石手寺は、二つの世界が体験出来るのである・・!!。

次回は、「正岡子規」

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日本周遊紀行(78)松山 「正岡 子規」


写真:正岡 子規の旅姿



 『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』 
・・、

余りにも有名な、松山出身の「正岡子規」の句である。 

  
本館の至近、湯築城址でもある道後公園の緑が映える。
湯築城(ゆずきじょう)は、中世、松山を拓いた河野氏が築城し、当時は松山の中心でもあった。
今では公園になっていて道際に、「子規記念博物館」があった。

子規は慶応3年、松山市花園町3番地(松山市駅から徒歩3分位、現在は石碑のみで生家は“子規堂”に移る)に生をうけている。
俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など、多方面に渡り創作活動を行い、日本の近代文学に多大な影響を及ぼし、明治時代を代表する文学者の一人である。 
中でも舶来したばかりの「野球」に心底熱中したことは先に記したが、尚且つ、旅に遊んだ。 
子規の徒然の旅の途中、奈良路では・・、
 

『 柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺  』

は誰でも知ってる子規の代表的な句である。


鎌倉路での・・、
  
『 大佛の うつらうつらと 春日より 』
も良い。

14、5歳の頃から機会あるごとに未知の自然風土や古跡に接して詩情を養い、見聞をひろめたという。 明治の頃、鉄道がようやく普及しはじめた頃、東北・陸奥の「芭蕉」の足跡を訪ねている。 
芭蕉は悲壮な覚悟を決めて出発したが、明治の子規はいとも気楽だった・・!、
  

『 みちのくへ 涼みに行くや 下駄はいて 』

・・、と芭蕉顔負けの秋田まで脚をのばしている。 

この時に、芭蕉の『奥の細道』にちなんだ「はて知らずの記」を残している。 
紀行文集の一編に「旅の旅の旅」というのもあり、日本周遊を終えた今、こうしてペン・・?をとっている小生には一端(ひとは)通じるのを感じる。

子規は、35歳の若さでこの世を去っている。

辞世の句、絶句になった・・、

『 糸瓜咲て 痰のつまりし 佛かな 』 辞世の句、享年34。


この句は、自分の死を既に仏に成るまで達観し、冷静に見詰めている。
子規の忌日の9月19日を(1902・明治35年)「糸瓜(へちま)忌」としている、これは「秋の季語」でもある。 
又、子規自身、自分のことを「獺祭亭主人」と号していたから「獺祭(だっさい)忌」ともいう。 獺(かわうそ)は獲物を集め、巣の周りにたくさん並べて置いておく、それを称して「獺祭」といい、子規の生きようとする意欲が食へのこだわりにつながり、看病する母や妹が枕元へ常に食物を並べて置いていたという。

子規は、死を迎えるまでの約7年前から結核を患っていたという。
病床の中から「病床六尺」を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録であると評される。 
反面、闘病日記である「仰臥慢録」は、読む人をして、心が痛んで、とてもまともには読めないともいわれる。

本名・常規(つねのり)であるが、雅号の「子規」とはホトトギスの異称で、結核を病み喀血した自分自身を、血を吐くまで鳴くと言われるホトトギスに喩えたものである。 
そのとおり子規の文学は、その病と切っても切り離せないものであった。

子規が最初に喀血したのは、1888年(明治21年)8月の、鎌倉旅行の最中であったといい、医師に肺結核と診断される。 
当時結核は不治の病とみなされており、この診断を受けたものは必然的に死を意識せざるを得なくなり、この時、子規は「ホトトギス」の句を作り、はじめて自分を「子規」と号するようになった。


『 新年や 鶯鳴いて ホトトギス 』

ホトトギスは、カッコウとも呼ばれ杜鵑、時鳥、子規、不如帰、杜宇、蜀魂、田鵑などカッコウ科に分類される鳥である。 
特徴的な鳴き声とウグイスなどに托卵(たくらん)して育ててもらう習性で知られている。
托卵とは、ある鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛させることで、仮親の卵より早く孵化し、本親の卵を巣外に排除してしまうという、特殊な習性をもつ。

俳諧雑誌「ほととぎす」は明治30年(1897)、正岡子規の友人・柳原極堂の手により刊行された。
発行部数は当初は300部程度であったが、出版が東京に移ってからは読者は全国に拡がり、名実共に日本俳句派の機関紙となった。 
和歌や新体詩が入り、幅広い文芸誌となり、38年からは夏目漱石の小説「吾輩は猫である」を掲載、これが大変な人気となって文芸誌としての道を歩んでいく。 
「坊っちゃん」も、「ホトトギス」が初出版している。

子規の病を大きく進行させたのは日清戦争への記者としての従軍であった、1895年3月3日、新橋をたち中国の大連に向っている。 新橋からの出発に先立ち・・、


『 雛もなし 男ばかりの 桃の宿 』

と寂しく詠んでいる。

むろんこの日は3月3日で桃の節句だった。
それなのに別れを惜しんでくれる女性もいないとスネているのである、だが心中、戦地に赴く「心意気」も感じられる。 
しかし、中号・大連に着いた頃は、既に事実上の戦争は終わっていたのである。 
帰国途上の船中で大喀血して重態となり、そのまま神戸で入院して須磨で保養した後、松山に帰郷し、当時松山中学校に赴任していた親友「夏目漱石」の下宿でしばらく静養していたという。

序ながら、俳人・正岡子規は幼少時代から「秋山真之
」とは親友であり、上京した後も共立学校の同級生として交遊、和歌や俳句などを教えたともいう。
その影響からか、秋山は軍人ながら名文家としても知られており、後に「秋山文学」と称せられるほどの文章家であったという。

秋山兄弟と正岡子規の物語は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」で日露戦争を背景として描かれている。

次回は、その「秋山兄弟」、   PartUへ

 
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