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西日本編    8日目:PartY(善通寺、讃岐・寒川、赤穂)    第9日目(相生、姫路、岡山)へ 
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日本周遊紀行(87)善通寺 「75番霊場・善通寺」


写真:善通寺・金堂


ここ善通寺は空海、「弘法大師」の生誕の地であった・・!!、

琴平の町並みを外れると、すぐに国道319に合流し善通寺方面へ向かう。 平坦な直線道路で、すぐ左に「土讃線」が並行する。 
程なくして善通寺の町並みに入ったようである。 

後で知ったことだが、ここ善通寺は空海、弘法大師の生誕の地であった・・!!。
勿論、善通寺市は弘法大師の誕生寺・「善通寺」の大本山でもあり、市はその門前町であって名称もそこから付されている。 

気がつくと、この辺りは観音寺、琴平、善通寺と由緒ある地名が多くある。 
又、「お大師さん」のお膝元だけに四国霊場のうち市内地域に第72番・曼茶羅寺、第73番・出釈迦寺、第74番・甲山寺、第75番・善通寺(真言宗善通寺派総本山)、第76番・金倉寺と五山の寺院が軒並みに並んでいる。

本山・善通寺は町の西方、香色山の麓に静座している。 
寺の敷地は広く、伽藍と呼ばれる東院と誕生院と呼ばれる西院で、併せて45万平方メートルにも及ぶという。 
寺名は父の名をとって善通寺と名づけられたと言われ、寺の背後に五峰がそびえていることから、山号を五岳山と称した。
御影堂は四棟からなり、礼堂と中殿は大師の父善通卿、奥殿は母玉依御前の館の跡で、大師はこの奥殿で誕生されたという。


弘法大師・空海とは・・、

俗名は佐伯真魚(さえき まお)という、父は、讃岐の豪族である佐伯直田公、雅称・善通卿と称して寺院名、地域名の基にもなっている。

空海は「弘法大師」とも言われ、法師は日本の長い歴史の中で時代を越え、宗派を越え、過去も現在も超えて庶民に尊敬され、愛し続けられている人物と言われる。 
日本史上最大級の宗教家と言われる空海は西暦835年3月21日、(現代の彼岸の中日にあたるのも何かの縁か・・?)大聖地・高野山で死去している。

天安元年(857)、文徳天皇は空海に「大僧正」の号を遺贈し、そして 更に延喜21年(921)、醍醐天皇は空海に「弘法大師」の諡号(しごう・生前の行いを尊び死後に贈られる位号)を贈り、彼の遺徳を讃えた。
歴史上、天皇から下賜された大師号は全27名に及ぶが、一般的に大師といえば殆どの場合、弘法大師を指すとされる。
空海を知らなくても「弘法さん」、「お大師さん」を知る人は数多い。 出家したのは20歳の時、はじめ教海、そして如空、やがて空海と名乗った。「空海」の名は、室戸岬の近くの御蔵洞という洞窟で自ら名乗ったことは先に記した。


空海は31歳の時、遣唐使として私費留学生で中国へ渡り、この時、第2船には彼の生涯のライバルとなる「最澄」(さいちょう)も乗っていた。最澄は空海と違って当時既にかなり名を成しており、身分も国費留学生であった。この時はまだ二人は出会っていなかった。
留学中、長安・青龍寺の名僧・恵果(けいか)に出会い、密教を会得する。 密教とは、大日如来を本尊とする深遠秘密の教えで、加持(かじ)・祈祷(きとう)を重んじる仏法として、7、8世紀ごろインドで起こり、唐代に中国に伝わり、日本には平安初期に空海・最澄によって伝えられている。 
空海の真言宗系を東密、最澄の天台宗系を台密とよび、対して通常の仏教を顕教(けんぎょう・密教と対比して、密教以外のすべての仏教を含む)と称している。

こうして空海は、「修禅の道場」として高野山で真言宗の法灯をかかげる。 
弘仁年間、空海40前後のときに自身と人々の厄難を除くため 四国霊場を開かれたと伝えられる。各札所の縁起にも弘仁年間の開創が記されている。 

一方では彼は中国で学んだ知識を活かし宗教家としてのみでなく、社会事業家、芸術家としても精力的に活動をしたのである。 
彼は書道でも非凡な才能を発揮、後に嵯峨天皇・橘逸勢(たちばなのはやなり・平安時代の書家・官人)と共に三筆と呼ばれる。周知の諺・『弘法、筆を選ばず』は空海のことで、すぐれた力量を持っている人は、どんな道具でもきちんと使いこなすことができるという意味である。

空海の誕生地・「善通寺」と真言密教の根本道場とされる「京・東寺」(世界文化遺産)、そして空海入定(聖者が死去すること、入滅)の地・真言宗総本山「高野山」(世界文化遺産)を弘法大師・三大寺院と言われる。


弘法大師・生誕の総本山「善通寺」は来年(平成18年)、創建1200年を迎えるという。
それを記念するイベントとして四国霊場88カ所の全長約1400キロを、自転車でリレーし走破する「四国霊場88サイクル駅伝」というのが8月8日から12日にかけて開かれるらしい。
企画・実行委は「四国4県の連携イベントとして、来年以降も開催したい」と話し、意気盛んなようである。計画順路として、スタートとゴールは、彼の生誕地・75番札所・「善通寺」をスタート地点として、先ず88番まで進み、次に1番の霊山寺(徳島県鳴門市)から高知県、愛媛県とタスキをつないでいく。約100時間で全行程を走破する見通しという。結果は如何に・・?、


【追記】


平成18年8月8日午前8時(末広がりの八・・?)に予定通り出発し、参加総勢129名のサイクリストがつないだタスキは8月16日、スタート地点であった善通寺に予定どうり全員無事帰ってきてゴールを迎えたという。 
当初予定されていた「100時間耐久」というテーマに関しては走行者の安全を考慮して、深夜の走行は中止して走ったという。

次回は、讃岐・寒川町と・・、

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日本周遊紀行(88)讃岐寒川 「大蓑彦神社」



寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、

若かりし頃、瀬戸内の直島で半年間仕事をしていたことは先に何度も述べたが、その頃、高松には青春の捌け口として、よく遊びに来たことがあった。こんな思い出多い「高松」ではあるが、今回は残念ながら寄らないで四国を離れることにする。

その前に四国・讃岐に関して最後に一筆だけ書き加えたいことがある。
高松の南西地域、南北に細長い「大川郡寒川町」がある、「さんがわちょう」と読むらしい。


ところで話はチョッと飛ぶが・・、
小生の住む神奈川県厚木市の南隣接した所に小さな地域で「高座郡寒川町」が在る、こちらは「さむかわちょう」と称するが。 
この小さな町の中央に地域でも有名な「寒川神社」が鎮座していて、小生、家族一同は正月の初詣や何かの祈願が有るときは必ずと言っていいほど参拝をする神社である。
寒川神社は「相州・一の宮」に定められ、相模国を中心に広く関東地方にまで知られ、相模国、関八州総鎮護の神として古くからの信仰が殊に厚い。
歴史的にも1500年以上もの昔に、天皇勅願として創建された由緒正しき神社であると言われる。 祭神は、寒川比古命(サムカワヒコノミコト)、寒川比女命(サムカワヒメノミコト)と兄妹神で、いずれも水の縁のある神様である。

水の縁といえば、寒川神社のすぐ横を相模の大河・相模川が流れる、昔はこの相模川は、かなり大きな川幅で流れていたか、或いはもっと東の方角で流れていたかのいずれで、 この辺りは広範にわたる低地帯であったことが想像できる。 
現在の相模川に架かる馬入橋(国道1号線)より東凡そ1kmのところ、神社より南へ4kmほどのところに、鎌倉期に建造された「“旧相模川架橋脚」の遺跡が発掘されている(国指定史跡)。

因みに鎌倉期創世の頃、この辺りは鎌倉と京都を結ぶ街道の道筋であり、交通の要衝でもあった。
この地区に源頼朝の家臣・稲毛重成が建造した相模川架橋の完成祝賀に主君・頼朝が招かれ、その帰り道、馬入川(当時は馬入川といい、現在も平塚地区では馬入川の愛称がある)のたもとで落馬し、これが元で頼朝は死去したと伝えられる。尚この時、頼朝の乗ってた馬が驚いて川へ突入したため、川の名前が「馬入川」と自然発生的に付いたというらしい・・?。
丹沢山系を水源とする急流・相模川は、大昔は相当の暴れ河であったらしく、周辺地域に度々大水害をもたらしたという。
相州・寒川神社は相模川の治水ために勧請された神様らしい。


では話を戻そう・・、

寒川比古・寒川比女とはいかなる神様なのであろうか・・?、
ここで、讃岐・四国の大川郡寒川町が関連登場してくるのである。 

町域のほぼ中央に「大蓑彦神社」(おおみのひこじんじゃ)というのが鎮座している。 

この神社の起縁由緒には「水霊の説いと由ありて聞ゆ故考へるに延暦儀式帳に牟祢神社は大水上 児寒川比古命寒川比女命と云う、又那自売神社は大水上御祖命なり。 大水上神、大水上御祖命同神にて、此大蓑彦命も大水彦神の義ならん。 郡名は寒川比古命、寒川比女命に由ありと思うべし」・・とある。 

大蓑彦命も大水彦神も水の神であり、その子達が寒川比古命、寒川比女命であるとして、どちらも水に関係する神様だと判る。 
そして郡名は寒川としてあり、現に寒川町周辺一帯の大川郡は以前は寒川郡であった。
地理的には讃阿山地の南に面し、中小河川の流域で鴨部川や津田川となって流出している。 
又、このあたりは門入池をはじめ無数の池が点在しているし、洪水時には水害の起きやすい地形と想像できるのである。
どうも大蓑彦神社も治水ために勧請された神様らしい。

治水工事というのは当時、最高水準の技術を必要とされ、その技術は呪術にまでも及んでいる。
川を鎮め、土地を太らせ、地域を安泰に導く。つまり、国家風水技術であり、方位の吉凶を知る技術でもある。
合わせて、ここに水の神が勧請されたのも理解でき、国家風水としての役目を終えた神社は、後には民衆を導く「八方除け」の神教となったのかもしれない。


では相模・寒川町と讃岐・寒川町はどのような関係、経緯があったのだろうか・・?、

古代の讃岐地方(隣国・阿波も含む)は忌部一族(いんべぞく・大和朝廷成立に大きな役割を果たした讃岐忌部氏・農耕の民)が支配していた。 
古代・中世の交通機関は船が中心だったため、忌部一族は黒潮ルートにのって房総半島に先ず渡来したと言われる。 
房州は、古くから関西との関係が強い。因みに、「勝浦」、「白浜」(紀州)や「安房」(阿波)など、以前の土地の名を付けたところも多い。
そして千葉市中央区寒川町にも「寒川神社」が存在し、「寒川比古命、寒川比女命」を祀っている。

又、古代・平安初期には三浦半島から相模にかけては平氏・桓武天皇の一族である三浦氏が支配し、三浦氏は元々は相模、房州の海をも支配していた海族でもある。
これらの祖先が相容れあって、讃岐から相模へ「水の神」を勧請したことは想像に難くないのである。


ところ変わるが、神代の地・伊勢市の西隣、玉城町・外城田地区に伊勢神宮の摂社「御船神社」がある。 
社地は外城田川(別名、寒川ともいわれる)の上流地で、 外城田川が神社の東のあたりを流れている。 この神社の由緒は 垂仁天皇の頃、 倭姫命(ヤマトヒメノミコト:垂仁天皇の皇女で日本武尊の叔母と位置づけられ、神託により大和の国から天照大神を伊勢の地に遷宮され、伊勢神宮、伊雑宮を建立したとされる。
伊勢神宮最初の斎宮)が、坂手の国(鳥羽市坂手町、伊勢神宮の御厨・みくりや)から外城田川を遡ってこられたとき、 この辺りの水域は大変荒れてて、 しかも、その水に水難の相が見受けられた為、 この川を「寒川」と名付けられ御船神社を奉じたという。 
倭姫命が名付けられたという寒川の故事により田丸町(現、玉城町)辺りは明治初期「寒川村」と改名を命じられたとも言われる、だが、直後に再び田丸町に復しているという。 

御船神社の社殿の内に「牟弥乃神社」(ミムノジンジャ・皇大神宮・末社)が同座されている。 
同じく倭姫命により祭られたもので、こちらの祭神は御馴染みになった「寒川比古命」、「寒川比女命」である。 
寒川の里(外城田川の上流地区)には、その他に、大水上神(オオミナカミノカミ)、天須婆留女命(アメノスバルノミコトノ)、大歳神(オオトシノカミ)等の神々が祭られ、何れも神格は水神や農神であるという。
地理的には、この地域は外城田川、宮川、櫛田川の上流域にあたり、周辺は斎宮池をはじめ無数の池、沼があり、やはりというか低地・水郷地帯であるようだ。
いずれも克っては水難の地相と想像できるのである。 
斎宮・倭姫命は、この地の洪水、水害を嘆かれ「御船神社」、「牟弥乃神社」を創建し、大水上神の子で兄妹神を「寒川比古命」、「寒川比女命」と命名して奉ったとも想定できるのである。

斎宮・倭姫命が外城田川を寒川や寒川村と称しているように寒川比の両神、そして各地の「寒川」と称する社名、地名は、この地が大元、発祥であるとも想像できるのである。
詰まるところ、伊勢の「皇大神宮・伊勢神宮」に、その古縁を求められることができるのである。

伊勢の地から讃岐へ、そして相模の寒川、房州の寒川、その他の各地へ分社されていったのだろう。
いずれも、水難治水、水防治安のために勧請されたものと想像できる。

これらは、あくまでも仮説であるが・・、歴史というものは、事実に元ずいているものが理想であるが、事実を集合させて一つの仮説を組み立て想像するのも、歴史の面白さであろう。

尚、伊勢神宮周辺には別宮、摂社、末社などが多数鎮座していて、人々の生活に密着した多数の神々が祀られている。

 神宮宮社の一覧表
所管区分

正宮

別宮

摂社

末社

所管社

別宮所管社

総計

皇大神宮 1

10

27

16

30

8

92

豊受大神宮 1

4

16

8

4

 

33

 計 2

14

43

24

34

8

 125社




2002年(平成14年)4月大川郡津田町、大川町、志度町、長尾町そして寒川町の5町が合併して市制施行し「さぬき市」となっている。 
今回、縁あって大川郡寒川町を記述したが、歴史的町名が又しても消滅していくのは残念である。 
しかも、新市名が「かなもじ」であることは、これまた如何なものか大いに疑問を生ずる次第である。

又、東に位置する香川県大川郡引田町、白鳥町、大内町が2003年4月1日に合併、市制施行して「東かがわ市」となってる。やはり仮名文字であり、更に「東」の方位文字は深い意味合いは無いらしい。
この結果、大川郡という古名は消滅した。

この辺りの大部分の地域は明治期まで千年以上も「大川郡」と呼ばれてきたらしく、地域住民、行政担当諸氏は1000年以上もの由緒ある歴史的地名を、あっさり捨てたのである。 
部外者で大きなお世話であろうが、せめて、さぬき市は堂々と「讃岐市」、東かがわ市等は古名に則って「大川市」(福岡県に既に有る)、又は、「讃岐大川市」などと思ったりもしてしまうする・・!。

地域の名称は、必ずと言っていいほど歴史的意味を持つものである。 
新名称を付与するに当っても、最近の流行や感情に流されず、歴史を顧み、その事実を尊重して可能な限り未来へ残したいものである。 
過去に付与されている漢字の地域的名称は、独特の歴史的意味合いをもつものであろう。

「かな文字」は元来、漢字から発生、派生したものであり、平仮名文字に変換された時点で漢字の持つ意味は、半減または無意味なものにしてしまうのである。 
四国全般を見ると、平仮名文字で表した市町域が、その他にも「まんのう町」(香川県)、「東みよし町」(徳島県)など六カ所にも及んでいるようであるが・、如何なものであろうか・・?。
尤も、小生の実家、田舎も福島県の「いわき市」といって「かな」表示であり、これも重々不納得であるが。

次回からは四国を離れて・・、

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日本周遊紀行(89)赤穂 「忠臣蔵」


写真:赤穂城の傍らに、四十七士の像が整然と並ぶ「大石神社」


「忠臣蔵」という言い方は、史学・学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという・・!、

四国と別れて、瀬戸大橋から中国・山陽道へ到る。
高松自動車道の善通寺I・Cから坂出JCTを経て、瀬戸内三橋の中央、瀬戸大橋を行く、所謂、「児島・坂出ルート」である。
迫力のある巨大大橋は、ある種の人工美を誇り、余りの圧倒的美観に車を路上で止めてカメラに収める。
首都圏ならともかく、地方ではさすがに車の量は少ないからチョッとの駐車は安心である。 
途中、与島PAで景観を楽しむ、そしてランプ橋といわれるループ状の道を下りる。 
与島PAは海面近くであり、瀬戸中央自動車道(いわゆる瀬戸大橋)の橋自体が航路上を跨ぐため、水面からの高さが非常に高い。
このため、島との高低差が大きいため、ループ橋で高度を稼いでいるのである。
この辺りの海域は瀬戸内航路の主要部になっていて、時折、大型船も航行しているようである。 
倉敷方面の岩黒島、櫃石島に架かる「斜張橋」といわれる富士山形をした橋形が並ぶ。これまた美観である・・!!。 

この坂出、倉敷を結ぶ瀬戸大橋は、六つの長大大橋が三種類の橋形で架かっている。 
斜張橋の他に、長い距離に適している「吊橋」が南備讃瀬戸大橋、北備讃瀬戸大橋、下津井瀬戸大橋、三角形を組み合わせて安定した形の「トラス橋」の与島橋である。
いずれも世界最大級の橋梁が連なる姿は壮観である。因みに、下津井瀬戸大橋が、香川県坂出市と岡山県倉敷市との県界に当たる。

時折、ゴーという走行音が聞こえるのは鉄道電車の音であろう。
そう、この橋は道路と鉄道の併用橋で、上部が自動車道(瀬戸中央自動車道)、下部が鉄道(瀬戸大橋線)になっている。
鉄道で四国へ渡る場合は、岡山駅から南に進み茶屋町、児島を通って瀬戸大橋を通り、宇多津(うたづ)に至る路線である。
宇多津〜高松の予讃線を合わせて瀬戸大橋線と呼んでいる。
瀬戸大橋線を走る特急は岡山発松山・宇和島行き特急「しおかぜ」、高知・中村・宿毛行き特急「南風」、特急「南風」に併結されて運行される徳島行き特急「うずしお」、そして東京発高松行きの寝台電車特急の「サンライズ瀬戸」などが走る。
サンライズ瀬戸は、現在東京発22:00⇒高松到着07:26・乗車時間9時間26分・乗車券14,670円(普通乗車券11,010円, 特急券3,660円)・走行距離804.7km。 


瀬戸大橋は、道路鉄道併用橋としては世界一の規模を誇るそうだ。
橋の構成から岡山・鷲羽山トンネルは、世界初の二階建で四つ目のトンネルになってる。
上の二つは車、下の二つは鉄道専用になっている。 6つの橋と4つの高架橋の総延長12.3kmで、鉄道併用橋では世界最長だという。 
総工費・1兆1,200億円で、工事の期間は9年半、1978年(昭和53年)10月10日に着工して1988年4月10日に開通している。 強度は、秒速66mの風(家が倒れたり、ビルが崩れる)が吹いても大丈夫な様に設計されているそうで、また100年に一度起こるかも知れない様な大地震(マグニチュード8)が、土佐沖 100kmの場所で起きても大丈夫な様に造られているという。

瀬戸内の島々も合わせて雄大な眺めを堪能し、尚かつ、人間の底知れない科学の力に驚嘆しつつ、出発することにする。  

この四国を離れ、岡山・倉敷のJCTより逆戻りする感じで山陽高速道を行く。



赤穂ICを下りて旧赤穂城を目指す、ご存知、「忠臣蔵」の赤穂城である。

I・Cから凡そ3km、海岸近くに赤穂城址があった。
その石垣跡は風雨に晒されながらも、昔の面影をしっかりと残している。そこに、丸みを帯びた石碑に「赤穂城址」とあり、すぐ横に説明用の看板があがっている。 
看板には『赤穂城は生保2年(1645年)、浅野長矩の祖父・長直が常陸国・笠間から入府し、近藤三郎三衛門正純に築城設計を命じ、実に13年の歳月を費やし、寛文元年(1661年)完成したものである。 城郭の縄張りは・・・・昭和46年3月、赤穂城址は国の史跡に指定され、本丸等の整備が進められている』とあり、城郭境内略図が記されている。
図によると、ここは「塩屋門」にあたるところのようだ。

奥の敷地には当時の赤穂藩士の屋敷跡になっていて、「片岡 源五右衛門」、「間瀬 久太夫」、「磯貝 十郎左衛門」、「大石 瀬左衛門」等、御馴染みの赤穂浪士の屋敷が点在する。
更に奥の方に「大石神社」が在った、参道両側には大石良雄(内蔵助)を筆頭に四十七義士像が整然と並んでいる。 
城郭跡周辺には本丸表門、三之丸への大手門、三之丸に連なる二重の隅櫓等、整然と復元されている。赤穂城周辺では、現在でも発掘調査が行われているという。

【追記】、赤穂城は2006年には、財団法人日本城郭協会の選定する日本100名城に選ばれている。


この本丸表門から1701年(元禄14年)、家老・大石内蔵助を先頭に浅野家家臣団の一行が、播州赤穂・浅野家五万三千石の城を無血開城にて退出していったのである。 
幕藩体制が安定しつつある元禄の世、突如として起こった大石内蔵助以下、赤穂浪士四十七士による主君の仇討ちは、ここから始まるのである。


元禄14年(1701年)3月、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩は、江戸城・殿中松の廊下で高家筆頭(江戸幕府の職名、幕府の儀式・典礼、朝廷への使節、伊勢神宮・日光東照宮への代参、勅使の接待、朝廷との間の諸礼をつかさどった家)の吉良上野介義央に刃傷に及び、即日切腹、播州浅野家は断絶となった。

その後、元禄15年12月、大石内蔵助を始めとして47名が、吉良邸に討ち入り吉良上野介の首級を上げ、主君・浅野内匠頭の仇を討った。 いわゆる「忠臣蔵」の物語である。


この元禄15年末に起きた赤穂浪士の討ち入りは、二つの意味で世を動かす大事件であったと言われる。 
一つは無論、名家の当主、吉良上野介暗殺という刑事事件として。 
もう一つは武家政権の徳川幕府が開かれてから凡そ一世紀、時代は泰平を謳歌する元禄の世に、「武士道とは・・?」という根源的な問いを突きつけた事にある。

辱めを受け、無念の思いを残して切腹した主君・浅野内匠頭の仇を晴らしたのは、成る程武士として「あっぱれ」である。 
しかし、内匠頭に即刻切腹を命じる一方で、吉良に「お咎めなし」としたのは幕府であった。 
その幕府は、開祖の徳川家康以来、朱子学(儒学、おおまかには大義名分論のうち 何が正で、何が邪か、と言う事の根本思想)を根本理念とし、「臣下は分を守るべし」を強調し、所謂、戦国期よりの「非道」を戒めてきた。

赤穂浪士事件は「義挙」かもしれないが、幕府にすれば守るべき「分」を越えていたとも言えるのである。 然るに、これは皮肉なことで朱子学者の間では「浪士の仇は、内情は吉良であるが、実質は一方的な裁定を下した幕府ではないのか」という声も上がっている。 
官学者の筆頭とされる林大学頭(信篤のぶあつ・幕府の行政学者、儒学社)は、「天(幕府、将軍)は、忠義の臣を助けなかった」と嘆いたのは知れるところである。 

一方、武士道の根本を書した「葉隠」(宮本武蔵の愛読書)を著した肥前藩士・山本常朝は、「主君が死んで、仇を討つまでが長すぎる。(1年9ヶ月)肝心の吉良殿が死んでしまえばどうにもならぬ。上方のものは世間の覚えをめでたくするのは上手だが、無分別ではないのか」と評している。 
要するに、「江戸城で浅野内匠頭が、松の廊下で吉良上野介に刃傷に及んだ時、何故、成否をかえりみず、即刻行動しなかったのか・・、それが武士道ではないのか」と批判しているのである。

討ち入りの時、大石蔵之助が山鹿流の陣太鼓を打ち鳴らして志士を鼓舞するが、その山鹿流の始祖「山鹿素行」直伝の浅野家・家臣たちは、殆どが「無条件開城」を主張したといい、これらも葉隠や山鹿流の教えには無い行動であるという。 
時は元禄であり、時流と時代背景がそうさせたのかもしれないし、「武士道」も個人差が出る程度に成り下がった哲学になっていたともいわれる。

尚、旧赤穂藩士の吉良邸討ち入り事件の元禄赤穂事件を題材をとった、歌舞伎や演劇・映画の分野での創作作品である「忠臣蔵」という言い方は、赤穂浪士方を善、吉良方を悪とし、赤穂浪士に対する賞賛の意をこめた呼名である。 
従って、客観性がなく非歴史的であることから、学術的な用語としては使用を避ける傾向にあるという。


赤穂城は「海平城」といわれる。
今でこそ発電所、施設、企業が沖合いに並ぶ産業地であるが、往時、お城の前は広大な砂浜が広がっていて、塩田開拓が盛んであったという。
浅野長直(初代赤穂藩主、浅野内匠頭長矩の祖父)は、赤穂城築城と平行して城下町の整備に取り組むとともに、入浜式塩田の開拓と塩の流通にも力を注ぎ、赤穂浅野家の繁栄の礎を築いた。 
一方、三河の吉良家も三河湾での製塩が盛んであり、この塩の製法、流通が浅野家、吉良家の間に若干の確執を生み、赤穂事件の遠因になったとも言われる。


『 あら楽や 思ひは晴るゝ 身は捨つる 
                   浮世の月に かゝる雲なし
 』

大石内蔵助が見事本懐を遂げて、晴れやかな胸のうちを残した和歌である。



国道250で姫路へ向かう、途中、道の駅「あいおい」が在った。

相生湾の最奥の海に面したところに、「白龍城」とかいう中華風のカラフルで豪奢な建物があり、ここが道の駅で、その名の通り中華料理が自慢らしい。
又、ここには何よりの温泉があった、ペーロン温泉という天然温泉らしい。 
すぐ近くには飲食店も並んでいる、時間も頃合だし、温泉に浸かり、食事を摂って、この地に車泊としよう。

次回、相生の「ペーロン」   第9日目へ

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南紀旅行2002

古都鎌倉紀行
「山行リスト」 

立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
北ア・槍−穂高(1968年)
上高地・明神(2008年)
南ア・北岳(1969年)
南アルプス・仙丈ヶ岳(1976年)
八ヶ岳(1966年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
谷川岳(1967年)
尾瀬・燧ケ岳紀行(1973年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
奥秩父・金峰山(1972年)
「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」