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西日本編   7日目:PartW(宇和島、宇和・大洲、松山)   第8日目(松山)へ
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日本周遊紀行(76)宇和島 「和霊神社」


写真:和霊神社本殿


宇和島・和霊神社は一藩士が神霊として祀られてあった・・、

宇和島城の北・須賀川畔に高さ12mの石造りの大鳥居と夏祭りで名高い「和霊神社」が鎮座している。この神社は宇和島・伊達家に縁起するものであり、伊達家のみならず宇和島の守護神でもあるという。


南伊予(宇和島地方)の中世・守護(鎌倉、室町期)の時代は闇だったという。 

京の都から「西園寺」という食いつめ公卿一族が流れてきた。
一部の例外者を除けば、白粉を塗った中央官庁の役人が、南西の果てに流されてきて、土着の国、民に善政を施せる訳はなかった。 
鎌倉初期から室町末期(戦国時代)の凡そ350年間、西園寺氏から長宗我部氏の時代のことである。
戦国期、短期間ながら藤堂高虎が赴任した頃は築城もさることながら、まずまずの善政を執いたといわれるが、この前後の戸田氏や富田氏は、同様にいけなかったらしい。
領民は長年の悪性に荒(すさ)み、疲弊しきっていた。

戦国期も終わり、世は江戸期の安定期を迎えた頃の1614年、奥州の覇者・伊達政宗の嫡子・秀宗が、宇和郡十万石として赴任してきた。
宇和の疲弊し、荒みきっている事情を話に聞いて知った伊達政宗は長子・秀宗の宇和島執政に当たり、仙台・伊達家家老団の一人・民生・財政に詳しく、正宗の信任厚い「山家 清兵衛」(やんべ せいべい)を抜擢し伴わせた。 
清兵衛は藩財政の苦慮する中、藩内には厳しく、領民には善政を施した。
特に農民に対する徴税を出来るだけ安くし、租税能力のない者は機に応じて免除したともいわれる。
この時期、日本史上でも民政家・山家 清兵衛ほど一地域の民衆の間で、深く尊崇されている例は絶無であろうといわれる。

藩主・秀宗が入部する際、本家・仙台より相当額の借金をしてきた。
その返済の時期が迫り、本家よりの返納督促もあった。
この時、清兵衛は領民には藩事情は一切知らせず、藩内藩士の給金を一部返上(半額という説もある)して、その処置を行おうとした。 
この事が一部藩士の恨みをかい、政敵・桜田一派との確執のなかで政争に敗れ、1620年ついには暗殺されるにいたった。 
領民は深く嘆き悲しみ、藩主に清兵衛の霊を慰むべく社を建てるよう懇願した。
願いは叶って小さな社ができ、民衆はこぞって御参りしたという。  

藩主・秀宗は民の意を悟って数年後、この社を土俗神から京都の正使・奉幣使(ほうへいし:勅命によって幣帛〔へいはく 供物〕を山陵・神宮・神社に奉献する使者)を呼んで御祓いを上げ、正規に神社とし一社を改たに建立した。
これが和霊神社の起こりであり、 民意によって、しかも一藩士のための神社を起こした例は日本では皆無であろう。

清兵衛という、領民のための政治を行った江戸初期では珍しい行政家が、一藩の中心的「神」に成ってしまった為、この藩の行政体質がその後引き締まったことは想像に難くない。 
そのことは江戸末期、伊達宗城(だて むねなり)という名君が生まれたのは、無関係では無さそうである。

因みに、土佐・高知の龍馬の祖先である才谷屋(現「南国市才谷」出身で、高知城下で質屋を営んでいた。幕末は土佐藩の家老や中老の家禄を抵当にして金銀の融通を行う商家。坂本家の祖先に当たる)が、この社の事情に感じ入って和霊神社を坂本家の守り神として宇和島から分霊し建立している。 
幕末、脱藩の決意を固めた龍馬は、この和霊神社(高知市神田)に立ち寄り、同志・沢村惣之丞とともに水盃(別れの杯)をしたと伝えられている。 
高知・和霊社は、脱藩して大きく飛躍し新しい日本をつくった坂本龍馬の事跡を讃え、後世に伝えていくことを目的に例年、「龍馬脱藩祭」が行われているという。
 
宇和島・和霊神社は、海上守護神としても信仰を集め、地元では「和霊さま」の名で親しまれる。
境内には「和霊土俵」といって、宇和島の代表的な闘牛場があるという。 
宇和島最大の祭り、和霊大祭と相まって名物の闘牛大会が例年の時期に行はれる。

宇和島の闘牛は全国的に知る人ぞ知る・・で、当地方の代表的行事である。 
人間の相撲と同様、前頭から横綱まで番付があるが、闘牛は横綱は横綱、大関は大関、同じ格付けで闘う。
もし仮に横綱と前頭を対戦させたとしても勝負にならないという。
闘牛は、八百長なしの真剣勝負の世界なのである。 
相撲には賞金が出るが、闘牛では「給金」とよばれるファイトマネーが支給されるという。 
しかも敗けた方の牛に多く支払われるといい、勝牛4割、負牛6割と決まっているという。
これには敗けた方の牛主に対する慰めの意味があり、宇和島ならではの麗しき伝統でもあろう。


闘牛の歴史は鎌倉時代に遡るという・・、

農民が農耕用の強い和牛をつくることから自然に野原で牛の角を突き合わせ、これを娯楽にしていたとの説もある。 
明治・大正期や戦後のGHQ(連合軍総司令部)により、一時期、規制や禁止されたが、庶民の闘牛熱はきわめて盛んで愛媛、隠岐、越後(新潟地震で大被害を被った、あの山古志村)の闘牛関係者等から陳情が繰り返され、2年後には解禁となった。 

今では正月場所と夏の和霊大祭場所は特に賑わい、客席は手弁当や一升瓶を提げた観客であふれ、2時間に及ぶ大勝負にやんやの喝采を送る。 
和霊神社のほか、駅東方の丸山山頂に、ドーム型の宇和島市営闘牛場がある。

平成10年8月、島根県隠岐郡西郷町の提唱により「全国闘牛サミット協議会」が発足、関係市町村において「全国闘牛サミット・全国闘牛大会」が開催される運びとなり、宇和島市は築城400年祭記念事業として、平成12年には「第3回全国闘牛サミット・全国闘牛大会」を盛大に開催したという。


海岸沿いにR56のバイパス新道が走っているが、市内の旧道をそのまま前進させる。 
賑やかな栄町の五差路を過ぎると、和霊という町名や建物、施設がやたらと目に付く。 
緑濃き和霊公園の須賀川を挟んだ向こう側に和霊神社が鎮座している。 
和霊の交差点を左折して須賀川を渡り過ぎると、すぐに街の喧騒からも離れる。

次回は、宇和から大洲方面へ

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日本周遊紀行(77)宇和、大洲 「おはなはん」


写真:完成ホヤホヤの大洲城


古風で教育熱心だった宇和地方の小都市・「宇和」・・、

南伊予の海岸は山並みが海岸線にまで押し出し、これが複雑に重なり合っている所謂、リアス海岸を形成している。
従って、そこを走る道は山間を縫う様に、曲折しながら延びている。 
吉田町は、こんな沿岸山地の一角にある。

陸奥・仙台から赴任してきた宇和島藩主の伊達秀宗の五男・宗純が三万石を分与されて吉田藩を創立、居館をこの吉田の地に定めている。
今でも武家屋敷や豪壮な商家など風格ある家並みが、往時の姿を留めている。


トンネルが連続する中、法華津トンネルは宇和町と吉田町の町境にあたる。

近世まで、南伊予・宇和島あたりは街道の行きつく果てと云われた。 
旧道の峠は、かつては宇和島街道最大の難所といわれ、この最後の道程に「羊腸の小径」(箱根八里の歌詞から引用)たる法華津峠(ほけず)を越さねばならない。 

仙台の伊達秀宗一行の小勢が、瀬戸内海を渡り、遥々この地まで来て法華津の峠に立ち、宇和海と行き着く土地柄を眺めた時の感慨は如何ばかりであったろう・・?、
今では、名勝とも言われる法華津の峠である。 
頂上に立つと、眼下にリアスの入り組んだ海岸と紺碧の宇和海が織りなす、伊予屈指の大展望が開けるという。
現在、この下を立派な国道が峠を刳り貫いて法華津トンネルが通貫している。 

峠を下ると田園文化の町・宇和町に達する。藩政時代・宇和島藩に属し、純農村地帯として藩の米倉の役目を果たしていたらしい。
又、宇和町の国道を右に、古風な中町の町並みが整然としている。 
幕末から明治初期、宇和島街道の宿場町として栄えた面影を残している。その北の一角に、外観洋式の「開明学校」がある。 

明治15年に建築された西日本最古級の現存する小学校舎で、モダンな校舎は国の重要文化財に指定されている。
尤も、明治5年の学制発布以前に、開明学校の前身である「申義堂」というのが、既に開かれていたという。
シーボルト(ドイツの医学者、動、植物学や民族学者、出島のオランダ館長、日本に深い造詣・・)の弟子蘭学者・二宮敬作と彼に師事した高野長英(陸奥・水沢出身、江戸後期の医者・蘭学者)、村田蔵六(山口・周防出身、後の官軍総督・大村益次郎)、シーボルトの娘・お稲などが学んでいたといい、明治以前から学問が盛んな土地柄であった。 
現在は教育資料館として私塾時代の教科書など数千点を展示している。

因みに長野県松本市の松本城(黒城といわれる国宝)近くにある日本最古といわれる校舎・「開智学校」とは親善友好、文化財保護、教育文化等の進展に寄与し合おうと、「開明学校」とは姉妹館提携を結んでいるという。


宇和の町外れ北部に、昨今、松山道も開通している、その松山道に乗る。
南海の僻地も今では近くなった。


大洲と長浜・・、

松山道を一旦「大洲」で下りる。
トンネルを抜けると突然、大洲(おおず)の町並みが広がる。
清流の一級河川・肱川(ひじがわ)の肱川橋付近、すぐ左に美しく華麗な天守閣が見えている。
平成16年、豊富な資料をもとに木造で復元したというピカピカの「大洲城」である。

初期の築城は鎌倉末期、伊予の守護として赴任してきた宇都宮氏が築いたという。 
宇都宮氏の本家はご存知栃木・下野の国で、鎌倉戦国期、源頼朝をして「関東一の弓取り」と言わしめた武家本流の家柄で、伊予・宇都宮氏はその庶流(分家・本家から分れた家柄)といわれる。

戦国期、脇坂安治(近江出身戦国時代の武将、豊臣秀吉の部将賤ヶ岳の七本槍の一人、小田原征伐)が関ヶ原戦後は伊予大洲に封じられた時、現在の近い姿に改築された。
お城の天守は通常は三層か五層の奇数階であるが、こちらは珍しく四層四階の天守構造に成っていて、更に複連結式天守(大小の天守が繋がっている様)と呼ばれる構えでもある。 
大洲城はその後戦乱に合うこともなく、明治維新後、政庁布令によって天守は取り壊された 。

しかし、城下町は今でも、その古い佇まいを残しており、武家屋敷や臥龍山荘、赤煉瓦館といった名所等、伊予の小京都と言われる風情をみせている。 
昭和41年のNHK朝のテレビドラマで明治中期の大洲市を舞台にした樫山文枝、高橋幸二らが演じた「おはなはん」のロケが行われたことから、「おはなはん通り」という名称もあり、市民に親しまれているという。


河を渡った大洲の街並みも静かな落ち着いた佇まいである。肱川(ひじかわ)が、この地区で大きく湾曲していて、そのため古くは河湊としての「津」(湊、港)があり、克っては大津と呼ばれていた。 

ところが、赴任してきた脇坂安治が出身地の近江・大津と紛らわしいので「大洲」としたといわれる。
この湾曲した川州を利用して城下への交易、流通を盛んにし、商家として大いに発展した。
更に上流(現在の肱川町あたり)からは筏流しや川船で木材や木蝋などの特産品を水運していた。


愛媛県を代表する川でもある肱川の河口に長浜町(現大洲市)があり、この河口に珍しい橋が架かっている。 
長浜大橋、通称「赤橋」と呼んで地元民は親しんでいる。 

架橋当時の旧長浜町は、秋田・能代(秋田杉・・)、和歌山・新宮(熊野杉、桧・・)とともに日本三大木材集積地として繁栄。上流から運ばれる木材を機帆船で京阪神地区へ出荷していた。
その際、上流に造船所や木材等の物資を運ぶ機帆船が航行することから、開閉式の橋が建設されたといわれる。 
この橋は一部が動いて船を通す可動橋であるという。

一般に、可動橋の方式には三種類あって、一つは橋桁が跳ね上がる「跳開橋」で、赤橋はこのタイプである(バスキュール式)、二つ目は橋桁が旋回する「旋回橋」(日本三景の一つ「天橋立」に架かる小天橋回旋橋)、三つ目はエレベータのように上下に動く「昇開橋」である。 

跳開橋には、東京の勝鬨橋(かちどきばし)のようにハの字型に開く橋もあるが、赤橋は片方だけが跳ね上がる。
昭和10年、待望の長浜大橋が完成している、現役の道路可動橋では日本最古となるという。
日本の代表的な開閉橋である勝鬨橋(※、東京都中央区にある隅田川に架かる橋)より5年早いという。
一時、撤去の話しも出たたが、地元の強い熱意で保存が決まり、生活道路として利用されているという。大戦中には米軍機の機銃掃射を受け、その痕が今も残っている。

なお、1977年(昭和52年)、河口寄りの国道378号にコンクリート造の橋梁(新長浜大橋、長さ333m、幅10m)が架かり、旧橋は幹線道路としての役割はそちらに譲ったが、現在でも生活道路として地元の車や通学の児童生徒によく利用されているという。
1998年には国の登録有形文化財になっている。 

過日、サンケイ新聞で1頁全面カラーで、この橋のことを記事にしていたのを思い出した。
「伊予の小京都」と呼ばれる大洲市は、2005年(平成17年)1月、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併し、新しい大洲市となっている。


※、因みに、小生初めて東京へ出て銀座見物した折、偶々(たまたま)、勝鬨橋を通ろうとして、その開閉に出会ったことがあり、その時の迫力に圧倒されたのを覚えている。
隅田川の第一橋梁である勝鬨橋は、昭和15年に竣工している。
しかし、残念ながら昭和45年以来「あかずの橋」になってしまったようである。

完成当時は、東洋一の規模をほこり、わが国最初のシカゴ式二葉の跳開橋として知られてうたという。 戦後、アメリカ軍がこの橋を見たとき、日本人が設計・施工したことを信じなかったそうで、近代史としても技術史としても大変価値ある橋である。
この「動く橋」を再起動させて、定例行事にすれば,東京の活性化,隅田川国際観光の大きなシンボルになり、動態保存にもなるということで、保存運動が盛んだというが、果たして・・?。 


再び、松山道を行く、もう陽がだいぶ斜めに落ちてき。

内子町の街並みが山々に囲まれて、押しつぶされそうに佇んでいる。
平成17年1月に、内子町、五十崎町、小田町の3町が合併し新内子町が誕生している。

この先、松山まで重畳たる山波が連続する、もっとも今までもそうだったが、大洲盆地を含む喜多郡、伊予郡もみな波濤とような山並みが浮き沈みしているのである。 
大洲の東、保内町で、その大山脈の片割れ片鱗が、東へ大きく大洋に向かって細長く伸び、佐田岬へ達している。
佐田岬は、付け根から先端まで「岬十三里」と呼ばれて50kmを超す「日本一長い岬」だそうだ。 
豊予海峡に突き出ていて、大分県・佐賀関までの海峡は直線でわずか15kmまで接近している、天気が良ければ九州の山並みが見ることが出来るという。

「さたみさき」は、九州本島最南端である佐多岬(さたみさき)があり混同し易い、「た」(田・多)の字が異なる。 
この後、訪れる予定でもあり楽しみにしている。

次回は、先ず野球王国・「松山」

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日本周遊紀行(78)松山 「野球王国」



伊予松山に野球王国を作り上げた大元は、「正岡子規」であった・・、

松山道は、松山市の南端で西よりへ向かい、瀬戸内の西条市からさらに高松へ延びている。
松山ICより、待望の松山市内へ入ったようであり、一旦、国道33号線へ出る。
この国道は土佐の高知から内陸部を通って松山に到るもので、松山側からは「土佐街道」、高知側からは「松山街道」と称しているようである。 

次に、松山のほぼ市街に入ったところで、国道11号線と合流する。こちらは阿波の徳島を起点として讃岐の高松を経て、伊予小松と、ほぼ瀬戸内沿岸から松山に達している。
通称、松山側で「伊予小松街道」、この先を「讃岐街道」と言っているようだ。

小生、20代後半、仕事で瀬戸内の直島(岡山県玉野市のすぐ前にありながら四国・香川県所属=香川郡直島町)で半年間、出張勤務してた時期があった。
作業勤務が終了して、本社(東京)へ戻るとき、休暇をとって四国の主要都市を巡る一周の旅をしたのが、この二つの国道ルートであった。


松山市街は夕刻時でもあろうか、車の往来も激しく、人の行き来も気ぜわしく感じる。 
しかし、首都・東京周辺の気違いじみた渋滞や喧騒は無く、やはり、田舎の都会なんだなあ・・、と実感する。 
石手川の立派な橋を渡って間もなく、都会の真中に「松山商高」があるのに気がついた。 

四国は高校野球が盛んで全国的にもレベルが高い、愛媛県はその筆頭だろう。
その中で松山商高は歴史、伝統ともに抜きん出ていることは、高校野球ファンならずとも大衆が認めるところであろう。
 

記憶の名勝負、「松山商」対「三沢高」・・、

高校野球ファンの小生には、この松商の試合で強烈に印象に残っているのが二試合ある 。
一つは昭和44年・夏の大会決勝戦の試合である。この時は小生、勤務を早引きして近所の公民館でテレビ拝見した時の事である。
相手は青森県・三沢高校である、通のファンなら「ああ、やっぱりあの試合か・・」と思うに違いない。

優勝経験が豊富な甲子園常連の伝統校と、本州最北端の文字どおりの田舎チーム。 
戦前からこのような試合展開を予想した人がいただろうか。 

松商といえば、全国2,500余校の野球部が目標とするには申し分のない、日本高野連も太鼓判を押す模範校である。 
一方、青森県東方・田舎の都市の代表・三沢高校は、高校野球不毛の地として定着していた。
陸奥から突然変異的に現れたポッと出の無名チーム、ハナから勝負にならないだろうと思う人がいても無理はない。

投手は、松商・井上明、三沢・大田幸司。 
試合は両投手とも好投して0対0のまま譲らず、遂に延長15回を迎える。 
松商は、無得点で、その裏、三沢の攻撃である。 今まさに、この田舎チームは伝統的な日本野球そのものみたいな松山商業に対してとんでもないことをしでかそうとしていた。 
それは、陸奥(みちのく)の人々の誰もが見た「全国高校野球の頂点」という夢に、史上最も近づいた瞬間であった。

先ず、5番菊池からの攻撃。粘った菊池が5球目を左前に運んで出塁。 6番高田は2球目を三塁前にバント、三塁手谷岡が猛然とダッシュしてくる、これを名手谷岡がジャックルして一塁も二塁もオールセーフだ!両軍を通じてこの試合初めてのエラーが、何と鉄壁の守りを誇る松山商業に出て、無死一二塁である。 三沢高校はサヨナラの走者を得点圏(2塁上)に置いてなおノーアウト。 7番谷川は、プレッシャーの中で初球のバントを失敗し、続く2球目を投手前へバント。 井上が猛ダッシュして一塁に送球、アウトで見事送りバントが成功・・!、松山商業は1死二三塁という重大なピンチに立たされた。 8番滝上、9番立花は今日ノーヒットで当たりが出ていないのでスクイズも十分考えられる。 球場全体が異様なムードに包まれる中、滝上への初球、井上は外角に外してボール。 松山商業の一色監督はバッテリーに敬遠策を指示したようで、滝上は敬遠の四球を選ぶ、これで1死満塁・・!、9番立花が打席に入る。 井上−大森バッテリーはスクイズを警戒しながら、立花への初球、さらに2球目も、外し気味に流れる外角のカーブで0−2。 三塁側アルプスの三沢高校応援団は大歓声だ。 井上は暫し間をおいて、立花に対してカーブを続けた0−2からの3球目は直球、コースは決まらずストライクを取りに行った球が内角高めに外れるボールだ。

その瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。1死満塁、カウントは0−3!大変なことになった。井上が絶体絶命の危機に立たされ、3球続けてストライクを投げないと押し出し!無常にもこの試合は終了し、陸奥の地に初めて深紅の大優勝旗が渡る、その瞬間が迫っているのである。 
小生もこの瞬間を固唾お呑み、手に汗を滲ませながら食い入っていた、気がつくと、TVの前は初め数人であったが、いつの間にか黒山になっている。公民館の職員も、はたまた近所の勤め人も、一時仕事を放り投げて、この場所に詰め掛けたのだろう。
小生も東北出身(福島県・いわき市)のはしくれであり、深紅の優勝旗が白河の関を越えることは、東北、北海道人にとって永年の悲願であった。今だから書けるが、小生の出身母校である磐城高校は、この年の来々年の昭和46年、第53回夏季大会の決勝戦で神奈川県・桐蔭学園に1対0で敗れ、悔しくも、惜しくも優勝を逃しているのである。その後も、宮城の仙台育英、東北高校が夏の決勝戦に臨んだが、いずれも敗退している。

さて、こうなった以上、決着はついただろう、この様子を見守る誰もが、そう信じたに違いない。どうする!井上・・!!、 後日談だが、松商ナインは0−3になった時点で負けを覚悟したという、しかし井上は違ったらしい。 4球目、渾身で投げた球は真ん中低めのストライクで1−3。 問題の5球目は更にドロンとした低めの真ん中である、この瞬間、我々傍(はた)では、「よし、決まった」・・と思ったに違いない、打席の立花も、背番号10の主将で三塁コーチャーをしていた河村も低いと思ったはずだ。 「やった!」三沢ベンチに座っていた太田が腰を浮かせた次の瞬間、ひと呼吸おいて郷司球審が右手を上げてストライク・・!、球場内の至るところから「アーッ!エーッ」」という歓声とも悲鳴とも聞こえる声が上がった。 この時、試合中だというのに、この判定に対する抗議の電話が全国から大会本部に殺到したという。
以下、攻守交替するまで、1球、1投、1打すさまじいドラマが連続するが、ここでは割愛する。 松山商業は絶体絶命のピンチを井上の決死の粘投で奇跡的に切り抜け、井上投手にとっては、まさに15回裏・奇跡の25球であった。試合はその後、両者得点無く延長18回終了で翌日再試合になり、結局、松商が4対2で勝ち、優勝しているのは周知である。

次には平成8年・第78回夏季・決勝戦で松商は熊本工と対戦、延長11回、やはり奇跡的とも言える粘りの試合で全国優勝をものにしているのである。

因みに、この記憶に残る大試合から実に35年後、悲願の深紅の大優勝旗は昨年(2004年)、白河の関はおろか津軽海峡を越えて、一気に北海道の地へ上陸した。
東・北海道代表「駒大・苫小牧高校」が全国制覇したのだ・・!!。 くしくも、この時の相手が愛媛県代表の済美高校である。 
更に驚くべきことに本年(2005年)の大会も駒大・苫小牧高が連続優勝している。

小生、2004年の秋、東日本周遊の際、全国優勝したての駒大・苫小牧高校を訪れて見た。 
正門の前に立ち、大きく張られた横断幕「祝い・全国制覇・・・」を感慨深げに拝見したのが記憶に新しい。
 
【追記】
平成18年(2006年)の 第八十八回夏季大会に於いて、何となんと・・!、駒大苫小牧が3年連続、決勝へ「駒」を進めたのであった。 相手は早稲田実(西東京)・・、
決勝戦は8月20日、早稲田実・斎藤投手、三回途中から救援の駒大苫小牧・田中投手の両右腕が冴え、息詰まる投手戦は1対1のまま延長戦となり、十五回両者譲らず、驚くことに引き分け再試合となった。(大会規定)
決勝戦・再試合は翌日行はれ、早稲田実が4―3で勝利し、27回目の出場で初優勝を果たした。 早稲田実は1回、2死一、三塁から船橋の適時打で先制し、2回にも川西の適時二塁打で1点を追加。6回、7回には、四死球で得た好機を生かして加点した。準々決勝から4連投の先発・斎藤は、140キロを超える速球と鋭い変化球で13三振を奪い、無四球で完投した。 駒大苫小牧は6回、三谷のソロ本塁打で1点を返した。9回には中沢の2点本塁打で1点差に迫った。主戦の田中は、先制を許した直後の1回2死一、二塁から登板し、後続を断った。その後も連打を許さず投げ続けたが、無念ながら、駒大苫小牧の史上2校目の大会3連覇はならなかった。


それにしても、今年の高校野球は、中盤から接戦・熱戦で盛り上がり、決勝戦に至っては近年、稀な程の熱気で、そのピークに達した。
無論、北海道の駒大苫小牧が3連覇なるかにあったことは言うまでもないが、早稲田実の斎藤投手が「ハンカチ王子」と持て囃され、一種のヒーローが出現したことにもよる。
そのため、少女から中年のオバサンまでもが甲子園に足を運び、大騒ぎで大盛況であった。

因みに、今年のプロ野球で、パ・リーグは北海道・札幌に根拠を持つ「日本ハム・ファイター」が優勝している。
高校野球も、プロ野球も今年の野球は大盛況であり、特に北海道民の野球ファンは、堪らない年であったはずである。


さて四国、そして愛媛は野球王国と知られているのは衆知である、それはプロ野球の出身者を見ても判る。
野球発祥の地・アメリカに倣って「野球殿堂」というのが有る。
日本のプロ野球などで顕著な活躍をした選手や監督・コーチ、また野球の発展に大きく寄与した人物に対して、その功績を称えるために創設された殿堂である。 
この殿堂に現在160人が居て、その内の9人が愛媛出身であり、さらにその内の6人が松山商高の出である。

この中で目を引くのが、最近(2002年)に殿堂入りした松山出身の「正岡子規」であろう。

正岡子規については次項にも記すが、この子規は上京して野球を知り、熱中するようになった、合わせて、愛媛に野球を伝えたという。幼名は升(のぼる)、この名に因んで野(の)球(ぼーる)を野球と命名し、四球、死球、飛球、打者、走者といった、今も使っている訳語をつくり出し、定着させたという。
この正岡子規によって愛媛の野球が盛んになり、古豪・松商の存在があるとも云われる。


『 夏草や ベースボールの 人遠し 』  (明治31年 子規)


松山商高のすぐ近くを走る国道11より、道後温泉へ向かう・・、

「勝山」という、国道同士が交差する大きな交差点より、松山の路面電車が並行するようになる。
都市型の乗り物の代表格であった市電(又は、都電)も、今では交通事情によって次々と姿を消し、珍しい存在になりつつある。 
明治36年開業し、東京都内を縦横に走っていた都電も完全に姿を消したようだが、北海道の札幌、函館では今でも現役で、今朝の高知でも、その姿を拝見したが。 
失礼、都電は1972年以降は、荒川線(荒川区・三ノ輪橋駅から新宿区・早稲田駅、12、2km)のみは運行されている。 
市電とは市営電車の略称で、市営の路面電車のことである。
ただし、市営でない路面電車のことまで市電と呼ぶこともある。この場合は市街電車・市内電車の略と思われる。
松山の市電は伊予鉄道(株)という民間会社が経営する路面電車、所謂、市街電車のようである。 


松山駅前から来たのであろうか、「道後温泉」行きの市電とすれ違う、このまま路線を辿って行けば道後温泉に着くようである。 
「上一万」の交差点を右に行くと、間もなく温泉地へ着いたようである。 
奥まった旅館、ホテルや土産商店街が並ぶ中心に、あの夏目漱石の「坊ちゃん」で知られる「道後温泉会館」が貫禄たっぷりに在った。 

周囲を、ほんの少々ブラツイテ・・、温泉会館の情報を伺うと早朝6時より営業していると聞いた。 
小生の今夜の宿場は「奥道後」で、これより更に4kmほど奥まった所であり、時間も迫っているので本館入浴は明日早朝と腹に決めた。

こんもりした道後公園、子規記念館から、第51番霊場の「石手寺」の前を通り、石手川に沿って山あいを行くと、目指すNTT保養所「拓泉荘」が判りやすく在った。

次回は、松山・「道後温泉」  第8日目へ


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