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日本周遊紀行(71)窪川、佐賀 「“あぐり”にカツオ」



窪川町に「あぐり」・・?

車は横浪半島の付け根を抜けて、国道56へ合流し須崎へ到る。
須崎の港は近代的な築港の貿易港で、貨物取り扱い量は高知県内一を維持しているとか。
この辺りから内陸山地を行くようになる。 

直後の「久礼」から久礼坂、七子峠は物凄い山岳ロ−ドで、七折八曲・急登降の連続で緊張する。 
だが、最後のトンネル・七子峠を過ぎると全く好対照な穏やかな風景に一変する。
鄙びた山郷、山腹に佇む里家は何とも長閑で穏やかな景観を醸し出していて、心が和む。

こんな自然豊かな地に「道の駅・あぐり窪川」があり、ここで一息入れる。 
「あぐり」とは、何処かで聞いたような名だが・・、国道沿線沿いにあるサイロをイメージした造りの洒落た道の駅である。


余計だが、小生の意識に中にある「あぐり」とは・・、
2007年7月10日に満100歳の誕生日を迎えた現存する「吉行あぐり」氏のことで、子供達に女優・吉行和子、小説家・吉行淳之介、小説家、詩人・吉行理恵等がいる。 
1997年度・NHKの朝の連続ドラマ・『あぐり』のモデルで、実話のエッセイから展開されたドラマである。
主人公・吉行あぐりの美容師にかける情熱と、それを取り巻く人間関係を当時の時代背景等も絡ませて描いている。
ヒロインに田中美里、主人エイスケに狂言和泉流・野村萬斎が演じ、お茶の間の人気を集めた。


さて、こちらの窪川の「あぐり」は、アグリカルチャー(agriculture)の略語で、農業を意味していてその名が付されたという。
訪れた何処の「道の駅」でもそうだが、地元産の新鮮な野菜や加工品を販売している。

因みに、地内には少女が翼を広げたようなブロンズ像のモニュメントが建っている、名称を「あぐりーな」と言うそうだ。
作品は、日本でも代表的な造形作家、地元・窪川町出身の友永詔三氏によるもの、過去にNHKで放送され、人気を博した連続人形劇「プリンプリン物語」の作家としても知られる。

ここで、休憩しながら今夜の宿泊地を詮索していたところ、道後温泉のNTT保養所が確保できたので安心して旅立つことにする。

窪川町は、西隣の大正町、十和村と平成18年3月20付で合併し、「四万十町」に成ることが決定している。
気がつけば新町名のとおり、三町村は、その中央部が国内でも最後の清流と言われる「四万十川」の上流域に当っている。 

上流部の四万十川沿いに開けた窪川をあとにして、相変わらず山間の道へ入り込む。
峠を越えると間もなく「土佐くろしお鉄道」と並行する。
この鉄道は北部山中でJR予土線と合流しているが、付近は高度順化させる為であろう、トンネル内がループ状になっているのが面白い。
予土線は、四万十川の流域と並行して西へ走り、伊予の宇和島に達している。
この沿線の鉄道と四万十川の景観が実に良いらしく、日本一の清流の眺めを楽しむために、一日一往復トロッコ列車が運行していて、いつも予約で一杯だという。


「佐賀」は、四国の佐賀で正確には「土佐佐賀」、こちらは日本一のカツオ漁の基地・・、

国道は、くろしお鉄道の「土佐佐賀駅」と伊与木川も合わせて土佐佐賀の港に達する。
こじんまりとした港町は、この伊与木川を中心に開けているようで、港の正面に可愛らしい「鹿島」という島が防波堤の役目をしているようでもある。 

この小さな・・?佐賀漁港には、中小型船の所謂、「黒潮の狩人」と呼ばれる「土佐カツオ一本づり漁業」のカツオ船団がビッシリと停泊している。 
佐賀の港は、日本一のカツオ一本づりの地であるという。

「カツオ」は、佐賀沖の春の「のぼりガツオ」、秋の「もどりガツオ」といわれ、早春の頃、グアム島沖のマリアナ海域に始まり、季節とともに北上、3〜4月には南西諸島、5月には土佐沖に達するという。
更に日本列島に沿って流れる黒潮にのって北上する。 
海の狩人「佐賀カツオ船団」は、太平洋をカツオとともに北上する。 
カツオと春の訪れが早いことから、町全体を総称して「黒潮一番地」とも称しているようである。 
波止場には、その名も「黒潮一番館」があり、釣り上げた鮮度抜群のカツオの刺身やタタキが戴け、又、新鮮なカツオを使った「カツオのタタキづくり体験」ができると言う。


因みに、漁港とは「漁港漁場整備法」によって四つの区域を定められているという。
第1種漁港(利用範囲が地元の漁船を主とするもの)、第2種漁港(利用範囲が第1種より広く、第3種に属さないもの)、第3種漁港(利用範囲が全国的なもの)、第4種漁港(離島その他辺地にあって漁場の開発、または避難上、必要とされるもの)とされている。

太平洋に面した土佐の海岸沿線の港は、大小88もの漁港が点在しているといわれ、この内、第3種漁港に属しているのは4港のみで、その中に佐賀の港は入っているという。(他に、宇佐、土佐清水、室戸岬の4箇所)

この佐賀町は、隣町の大方町と協議合併が決まり、平成18年(西暦2006年)3月20日に新町名称は、その名も「黒潮町」として発足する。
日本一のカツオの町が、黒潮町と命名したのは賢明な選択かもしれない。


R56、通称「中村街道」を行く、大方町の海岸であろう、左に見える緑の絨毯は「入野松原」といって長大な海岸松林を形ずくっている。
県立自然公園でもある白砂青松は長宗我部元親の重臣、谷氏が中村城代であった時(1576〜80)に囚人を使役して植えたのが始まりとされる。 ウミガメの産卵場所としてもしられるという。

南端にホエールウオッチングセンターがあり、土佐沖は各所でホエールウオッチングが盛んであり、主にニタリクジラ(シロナガスクジラの一種)やマッコウクジラを対象とした見物ツアーが行われていという。

次回は、四万十川

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日本周遊紀行(72)中村 「四万十川」


写真:遊覧船、澄んだ水の青さに季節によって顔を変える四万十川、この船で食事やお酒を飲みながら遊覧する。


日本最後の清流、「四万十川」・・、

「中村市」・・、とはいっても旧中村市のことで、本年4月に北部・山間地、西土佐村と合併し新市「四万十市」として発足したばかりである。 
四万十川の町として知られる土佐中村は、河口よりやや内陸に入った河畔、四万十川と支流河川の中洲に広がる町並みである。

中村の町並みは、15世紀半ばの室町期、朝廷の関白家の一条氏が応仁の乱の混乱を避け、所領であった土佐幡多の荘(現在の中村・四万十市)に京都から下向してきたことから始まる。 
一条氏は、雅やかな京都に対する思慕の念から、この土地に京風の町造り、町並み造りを実施し、中村御所(現在は一条神社)を中心に碁盤目状の街並みや祇園神社、東山、鴨川といった地名を残している。
又、前関白という身分の高さもあり一条氏は土佐の人望を集め、国中の豪族もこれに臣従し「中村」は土佐の小京都とも呼ばれるほど。 
一方ならぬ賑わいを見せたという。以降、土佐一条氏は、新興勢力長宗我部氏が幡多に侵攻するまで続くことになる。


実は、中村という名称は、長宗我部氏から始まる・・、

土佐中村城は、土佐くろしお鉄道の中村駅から西北に3kmのところ古城山とその山麓を占めるところにある。
この城郭は現在、郷土資料館になっているが、当地は昔から交通の要衝であり、かっては、この地方の豪族、為松氏が城を造り居城としていた。
後に、為松氏は土佐国司となった一条家の家老として仕え、為松城は中村御所の詰の城として整備された。
中村御所跡はいま中村一條神社となっている。


町並みを過ぎて、四万十川の渡川大橋を渡り、そのまま西側の河畔土手を走る、成る程、その名に聞こえた清流である。
川幅は1kmもあろうか、草生した洲だまりもあるが、広くは流水部が占めて悠々と移流している。
合流河川の所はさらに川幅は広くなり、雄大さを誇る。河口付近は、巨大な中洲も発達しているようである。

川岸に造形された船着場に、数艘の屋形船が着岸している、中央の川面に漁であろうか・・?一艘の川船が佇んでいた。
四万十川らしい風景と雰囲気を感じ、思わずシャッターに手が延びた。 
川岸に沿って「四万十屋」や、“うなぎ”と銘うった数件のドライブインと御土産屋があり、「遊覧船乗り場」の大きな看板も目につく。 
名所に、四万十川らしい生活景観を厭味無く演出している。 

風物詩等のTVでお馴染みであるが、四万十川は特に生活に密着した川である。 
古くから独特の漁(りょう)が盛んに行われて、天然ウナギ、ゴリ(チチブ、ヌマチチブ)、ツガネ(モクズガニ)、テナガエビなどの魚介類のほか、青海苔の産地として知られている。 
四万十川は、川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。

全長196km、吉野川に次ぐ四国第二の川で、本流に大規模なダムなどが建設されていないことから、「日本最後の清流」と呼ばれている。 
四万十川には、中上流域、支流も含めて47もの名物・沈下橋(もぐり橋)があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。


もぐり橋(潜水橋、潜没橋、潜流橋、沈み橋、潜り橋などともいう)とは・・、

これらの橋の上には欄干が無く、水面からの高さも高くないことが特徴である。
これは、増水時に、橋が水面下に没するようになっており、流木や土砂が橋桁に引っかかり橋が破壊されたり、川の水が塞止められ洪水になることを防ぐためでもあるという。
また、壊れても再建が簡単で費用が安いという利点もある。
その構造から建設費が安く抑えられるため山間部や住居の少ない地域など、比較的交通量の少ない地域で生活道路として多く作られた。 
しかし現在では山間部でも広い道路や本格的な橋が造られることから徐々に姿を消しつつあるという。

源流部は、県内の東津野村(本年・2005・2月、葉山町と合併し津野町として発足している)の布施坂付近で、この辺りの水域は日本名水100選にも選ばれている。 
蛇行を繰り返しながら南下し、先にも記したが窪川、大正、十和の町村を西へ移行しながら、更に四万十市(西土佐村、中村市)を潤して南下し、土佐湾に到る。

本流は珍しく、高知一県のみを流れる一級大河川で、一つの都府県のみを流域とする河川としては、山形一県を流れる最上川本流(224km)に次ぐ長さである。
 
次回は、土佐清水から足摺へ

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日本周遊紀行(73)土佐清水 「ジョン万次郎」




写真:足摺灯台とジョン万次郎の像


足摺岬に「ジョン万次郎」の勇士が立つ・・、

河口付近で国道321は四万十川と別れ、一路、足摺岬を目指す。 

山域に入り伊豆田峠のトンネルを抜けると土佐清水に入る。 川沿いを緩やかに下ってゆくと、加江という所で再び海岸に出る。 こちらも見晴らしの良い快適なドライブウェイである。 

間もなく足摺半島の付け根部に当たる以布利でR321と別れ、県27(足摺岬公園線)にて足摺の岬を目指す。 今度は、いきなり細い曲がりくねった道で、些か閉口しながら上り下りを繰り返す、すぐに二車線の広い道に出たようであるが、これは足摺スカイラインに通ずる内陸への道のようである。
小生はこのまま沿岸道を目指す、海岸の高目を道が延びていて、土佐湾の見晴らしも良く快適である。

窪津の小さな港・漁港に着くと漁船の傍らに年配の婦女が数人タムロしていて、水揚げされた魚類を選別しているようである。うらぶれたような地域だけに、妙に印象的な風景である。 

この先を登りきった所が窪津埼で、突端に白亜円形の灯台が立っていた。 灯台は草生した、誰も訪れる人がないように、孤高に海に向かって立っている。 
海面より50mの高さで、約30km先の海洋を照らしているという。 

鄙びた漁港のすぐ上に投光があり、漁船・漁民にとっては、かけがえのない「安心の光」であろう。 
周辺は、南国の日差しはとても暖かく、灯台の周辺は色とりどりの花が咲き、蝶も舞っている。 
灯台のすぐ下は断崖絶壁で、海岸には岩礁が発達し、岩場が点々と大洋に延びている。 
太平洋の紺碧の眺めは雄大で、窪津の漁船であろうか・・?、のんびりと・・?漁をする船の姿も散見される。
孤高の灯台と対比させながら、人影一人と無いこの地に立って、長閑で、大らかで、心が伸びやかになるのを覚える。
「孤独の味」を味わいながら、それでも旅に出て良かった、としみじみ実感する瞬間でもある。 チョット、センチになった気持ちを入れ換えて、更に前進する。


ダートのコースではないが、細く、曲がりくねった道が暫く連続する、時には南国の樹林帯の中を潜るように、くねって、くねって・・。 
忘れかけたような小さな集落を目にしながら、こんな僻地にも人が住んでいるのか、と不思議に感じながらも、その民家の庭先とも思えるような道を遠慮がちに通過する。

時折、チラッと左手に大洋を望みながらも、緊張感で何の感慨もなく、ただ、ひたすらに目の前の道をめがけて突き進む。 
時折、二車線の新装なった綺麗な舗装道路に出るときもあるが、又、再び鬱蒼とした林の中のクネクネの一本道である。 
白装束のお遍路さんとすれ違う時など、遠路の安全を祈らずにはいられない、やはり四国らしさを感ずる。 
幾つかの部落を通り過ぎて、明るい開けた、見通しの良い地の岬に達したようだ。

更に車を前進させると、今迄とは、うって変わって明るい賑やかな広場に達した。
ざっと見渡しても右手に第38番札所の「金剛福寺」が有り、道路をはさんでお寺の前の駐車場近くには、「中浜万次郎」の大きな像があった。
一帯が広場になていて、公園風によく整備されている、区画された駐車場の横には数件の御土産屋さんも並んでいる。 舗装された遊歩道は、岬の先端に延びてて、足摺灯台へ達しているようだ。


ところで、土佐の高知は、大きく弓なりの土佐湾を東西で室戸半島(岬)と足摺半島が挟むような姿である。
この足摺岬が高知は無論、四国の最南端に当たり、強いて言えば土佐湾と太平洋を隔てている。 
そのため足摺周辺は黒潮の影響も強く受ける温暖なところでもあり、ビラン、アコウ、椿など亜熱帯性の植物も繁茂している景勝地である。
この地域一帯は足摺宇和海国立公園にもなっている。 先刻、室戸岬を訪れた時は、名前のわりには人の手が加わらず、自然のままの姿が印象に残っているが、この岬は、よく手が加わえられ整備されていて、室戸とは好対照なのが面白い。

早速、灯台へ向かおう・・、
自然遊歩道に従って行くと、うっそうとした椿のトンネルがあり、散歩気分で程なく高台の草原に立つ「足摺灯台」が現れた。
四国の最南端の突端に立つ、白亜でロケットをイメージした灯台は、ひときわ大きく目立って佇立している。 
標高(平均海面〜灯火)が60m(地上から塔頂までは18m)、光達距離は約40kmといわれる。
残念ながら内部の一般公開はさていないようだ。 断崖絶壁に立つ灯台の周囲は展望台にもなっていて潮風が強く、岩礁に砕ける白い波頭や無際限な太平洋の風景は実に圧巻である。自然遊歩道沿いには、「足摺自然七不思議」なる物があるそうで巡ってみたいが、時間の都合もあり遠慮した。


戻って、広場に立つ「中浜万次郎」(ジョン万次郎)の前に来た。
高知を巡って何れの偉人像もうであったが、四角い台座に大洋を見ながら堂々と立つ。 


『 万次郎は不思議な人だ。大名とも話すし、乞食とも話す ・・中浜博(ジョン万次郎のひ孫)「私のジョン万次郎」より。


当時、海外渡航は国禁だった。 
米国へ渡った万次郎は、日本人としては最高の英語の使い手であり、 この「必要性」が封建時代を支えてきた身分制度を突き崩したのである。


万次郎のことは先にも若干記したが・・、

この地・土佐の国・中浜村(現在の土佐清水市)の漁師として生まれている。 
14歳の時に漁に出て遭難し、奇跡的に太平洋に浮かぶ無人島の鳥島に漂着した。 
そこでアメリカの捕鯨船に仲間と共に救われるが、日本は当時、鎖国であったため、万次郎はアメリカへ護送されることになる。 
「ジョン」という愛称はこの時の捕鯨船の名前ジョン・ホーランド号とって付けられたという。

以降、鎖国中の日本には帰らず、船長の家(ホイットフィールド船長)で養子となって約3年半のアメリカと生活となる。
その間、万次郎は学校にも通わせてもらい、個人教授を受けて英語を完璧に話すようになり、名門の学校にも通って基礎的勉学も身に付ける。
航海術、測量術も修め、再び捕鯨船に乗って働き、やがて米国船の副船長にも選ばれて太平洋・大西洋・インド洋を巡航し、鎖国時代の日本人としてはめずらしい世界体験をしている。

世界の各地を航海した万次郎は、その後、船を購入しハワイに寄港、1851年に日本への帰国を果たす。帰国は鹿児島に上陸している。 だが、直ちに故郷には帰れず、長崎で鎖国中の幕府から尋問や取り調べを受け、一時、牢屋にも入っている。
そして遂に、嘉永5年10月(1852年)、故郷土佐の中村に帰ることが許された。


この時期の日本は、黒船の出現など対外国の圧力が強まり、政治的にも世情騒然、分明開化の嵐が吹き荒れる最中であった。
万次郎は土佐藩に西洋技術を教えるなど才能を買われて土佐藩士となり苗字帯刀をゆるされる。(武士になった)この際、生れ故郷の地名を取って「中浜」の姓が授かっている。

幕府は、ペリーの来航によってアメリカの知識の重要性を認識していたことから、万次郎を26歳の若さで幕府に直参旗本という前例のない待遇で召し出した。  
江戸では通訳も務め、またアメリカで身につけた学問を基に各地で講師としても活躍する。 
地元高知では、坂本龍馬も万次郎から聞いた世界観に影響を受けたと言われる。


ところで、アメリカ合衆国は20世紀の一時期、日本と戦火を交えたが現在の国際化時代、日本と最も友好関係にある国といえる。 
アメリカは150年前の国の歴史に、おそらく日本人として一番最初に名を留めた人物はジョン万次郎であったろう。

太平洋、遥かなアメリカに影響を直接受けたジョン万次郎が、大洋に向かって立っている姿は、至極、納得させられるのである。


足摺岬』 唄・鳥羽一郎  詩・星野哲郎 

が裂ける 岩が吠える        虹をつかみ 雲にのって
足摺の 荒ぶる岬に立てば      足摺の 波立つ岬を廻りゃ
小さい世間は 吹っ飛ぶぞ      若い竜馬の 声がする
俺も行きたや 万次郎さんの     命惜しんじゃ 何も出来ん
花と嵐の 人生を            捨てて勝つ気が 明日を呼ぶ
波に浮かべて わだつみの涯て   海に貰うた 度胸の宝


次回は三十八霊場・金剛福寺   PartWへ

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