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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年5月27日(金) 延日数 第6日
出発地 淡路S・A 出発時間 7時15分
到着地 南国市「長島温泉」 到着時間 19時15分
天 候 晴れ 体 調
走行道路名 R28、県28、淡路鳴門道、県12、R55
主移動地名
東浦⇒洲本市⇒福良⇒鳴門⇒徳島⇒日和佐⇒海南市⇒
宍喰温泉⇒室戸⇒田野⇒南国市
現在(宿泊)地 南国市「ながしま温泉」
道の駅(R) 淡路S・A  東浦T・P  うずしお  なかがわ  日和佐
宍喰温泉  キラメッセ室戸  田野
温 泉 日和佐温泉(足湯) 南国市「ながしま温泉」
名所・旧跡
(四国霊場)
洲本城  鳴門うずしお  1番霊山寺  2番番極楽寺
18番恩山寺  23番薬王寺  室戸岬(灯台)  24番最御崎寺

写真集T

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 1990 今回入油 37.0 本日支出 2680 本日支出 4771
昨日表示 1653 前回累計 144.7 前日累計 9258 前日累計 38975
走行距離 337 今回累計 181.7 本日累計 11938 本日累計 43744
総距離 1990  . . . . .

西日本編   6日目:PartT(四国・淡路)   PartU(四国・鳴門、徳島)へ   
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山
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スキーの記録  
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日本周遊紀行(56)淡路 「日本標準時」



.日本の時間は「明石」の時刻で決まる・・、

念願だった本州四国の連絡橋を渡った。 
残念だったのは夜の渡橋であった、だが、眩いばかりの光の中での「明石海峡大橋」であった。
そして今朝は霞の中にボンヤリと見えている、特に、本州・明石側は霧の中に溶け込むように見えなくなっている。

この橋には、三原色のイルミネーションランプが取り付けられているという。 
平日では、春は緑、夏は青、秋は赤、冬は黄、そして休日は緑と青と・・、そして地元や国民的行事等、イベントに合わせた色でライトアップされるという。このカラフルな色彩照明は、国際的な照明デザイナーである石井幹子氏(いしいもとこ)が担当したという。

2001年、皇太子ご夫妻に、宮様が生まれたのを記念して上部赤色、下部白色に、2002年、FIFAワールドカップ開催を記念して青色、(日本代表チーム勝利時には上部赤色、下部白色)、2003年、阪神タイガースのリーグ優勝を記念して縞模様、又、2005年のリーグ優勝では縞模様に加えて30分毎に上部赤色、下部白色のパターンなど、その時の催事に合わせて色模様を選んでいるという。 

但し、阪神・淡路大震災の1月17日だけは鎮魂の願いを込め白一色となり、ライトアップは日没から24時までであったという。


明石海峡大橋は本四架橋の三箇所のうち、淡路市(北淡町)と神戸市垂水区とを結ぶ明石海峡を縦断して架けられた吊り橋である。
全長3911m、中央支間1991 mで世界最長の吊り橋であるが、現在計画が進行中のメッシーナ海峡連絡橋(イタリア)は中央支間3330m以上の吊り橋が予定されており、同橋が完成すれば世界一の座を降りることになるという。 
明石海峡大橋の主塔の高さは、海面上約300mであり、東京タワー(333m)や横浜ランドマークタワー(296m)に匹敵する。 
1998年(平成10年)4月5日に、供用が開始された。建設費は約5000億円。建設当初は全長3910m、中央支間1990mであったが、1995年1月17日の阪神・淡路大震災で1m伸びたことは、先に記した。
この橋は四国と関西、更には本州の各大都市間を結ぶ交通としては、最も至近距離にあり、交通量も本四架橋の橋の中では最も多い。 
本州・淡路又は本州・四国間が陸続きになった事で、様々な利点を生じたことは事実であろう。 
徳島県・地場産の農水産物の生鮮品を京阪神方面へ即出荷できるようになったともいう。


現在、時刻は午前7時直前で、所謂世間では通勤時間帯である。 
内海は朝もやがかかって、やや見通しは悪いが、大橋の上り方面、つまり明石や神戸方面の通勤と思われるマイカーが数多く見受けられる。 
これも架橋の効果の一つであろう。


車中で簡単な朝食を摂って、そろそろ出発である。 
淡路島から四国へと、本州とは何かしら違った旅路になるはずで、気持ちも浮き浮きしているのが判る。 勿論、体調も十分である。

時に「午前7時15分」である。


明石・日本標準時・・、

ところで、明石といえば気が付いたことがある。
現在時刻は『午前7時15分』である。 

これは日本全国、普く(遍く・あまねく)沖縄諸島から北海道、伊豆諸島から南海の小笠原諸島まで共通した時間である。 
では一体、日本国のこの時間は何処で、どの様にして決められるのであろうか・・??、実は小生が現在立っているこの位置、東経135度の位置・明石の日本標準時で決まられているのである。  

海外旅行に行くと(小生は未だ行ったこと無いが・・)、その土地ごとに違った時刻を使っているのを体験するであろう、「時差」である。 

地球は1日1回自転している、地球から見ると、太陽が24時間かけて地球を360度ひと周りしていることになり、1時間あたりにすると、地球上の経度15度分ずつ動いていることになる。
地球上の時間は、地球の自転で決められているのである。そして地球上の時間は、ある基準点で決めねばならない。 
イギリスのグリニッジ天文台を通る子午線が経度を測るときの基準とされている。これを本初子午線といい、時刻の場合も本初子午線上の時刻を世界の標準時として使用するよう取り決められている。 
そして各地の時間については、基本的に本初子午線から東西に15度離れるごとに、標準時に1時間の時差を加減して定めている。
東に向かう場合は、経度15度ごとに1時間ずつ加えていき、西に向かう場合は15度ごとに1時間ずつ減らしている。 

イギリスと日本では経度(東経)135度あり、9時間の時差が生ずる、つまり、ロンドンが午前0時の時、東京は午前9時に当たるのである。
日本では1886(明治19)年に、世界時(標準時)に9時間加えた時刻となる東経135度子午線上の時刻を、自国の標準時として定めた。
それは明治天皇勅令によって決められたといわれる。


◎ 英国グリニツチ天文台子午儀ノ中心ヲ経過スル子午線ヲ以テ経度ノ本初子午線トス
◎ 経度ハ本初子午線ヨリ起算シ東西各百八十度ニ至リ東経ヲ正トシ西経ヲ負トス
◎ 明治二十一年一月一日ヨリ東経百三十五度ノ子午線ノ時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定ム


日本の場合は、一国内で一つの標準時であるが、アメリカのように大きな国土を持つ国では時間差が大きい為、本土だけで東部・中部・中西部・西部の4つの標準時があり、加えてアラスカとハワイの合計6つの標準時を採用しているという。

日本標準時(Japan Standard Time: 略称JST)は、日本時間あるいは中央標準時ともいい、兵庫県明石市を通る東経135度の子午線で、子午線上にある明石市立天文科学館がその位置に当たる。 

ここには標準時を刻む大きな時計が設置されていたが、1995年の阪神・淡路大震災で破損し停止してしまった為、現在の大時計は3代目で、服部セイコーからの寄贈であるという。


神戸淡路鳴門自動車道という、チョット長ったらしい名称の有料高速道路を、すぐ隣の淡路ICで下りて国道28号を行く。 
朝日に輝く大阪湾を久しぶりに眺めながら、長閑(のどか)な海岸道を進む。 
現在、東浦町を走っているはずであるが、2005年4月1日、淡路島の北端から中央部にかけて位置する淡路町、津名町、北淡町、一宮町、東浦町の5町が合併し「淡路市」が発足している。

暫くすると広大なパーキングのある「道の駅・東浦ターミナルパーク」へ着いた。
今は時間も早く、閑散としている。 

大きな和風建築で白壁の瓦屋根は珍しく、未だ真新しい。 こちらは物産館、その他の施設であろう、ここもひっそりと人の気配は無い。
この道の駅は大阪湾に面した温暖な気候で、阪神圏の行楽地として人気があるという。 
夏の海水浴をはじめ、四季を通じて花の美しさを実感できるのがうりで、海水浴場、ガーデニングセンター、パターゴルフ場、文化ホール(図書館含む)、等もあり、浦海浜公園・浦県民サンビーチは、平成13年認定の「日本の水浴場88選」(環境省)にも選ばれているとか。

東浦地区の東隣の北淡町地区は、阪神・淡路大震災のほぼ震源地にあたり、「野島断層」が露出しているのが見てとれるという。 
ここに野島断層保存・北淡震災記念公園があり、学術的な価値をもつとして認められ国の天然記念物に指定されている。
又、この断層は日本国内はもとより、外国からも大きく注目されているという。
震災直後の平成7年1月31日、天皇・皇后両陛下が御来島の際に、この場所にヘリコプターで来られた。皇后陛下は、被災の状況に心を傷められ、被災者への励ましの意味を込められて詠んだ歌碑が在る。
   

『 被災せし 淡路の島の ヘリポート 
               かのあたりにも よもぎ萌えゐむ
 』  皇后陛下

次回、洲本 幕末の 「稲田騒動」
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日本周遊紀行(57)洲本 「稲田騒動」



「稲田騒動」(庚午事件)とは・・、

国道28は、淡路東浦海道、四国海道ともいう。 

淡路島から大阪湾の航路要地でもある「津名」の港を通り、淡路の本拠である「洲本」を目指す。 
やはり淡路島の中心だけあって、街の様子も一味異なるようである。
洲本川の洲本橋を渡り、海岸へ向かうと大浜海岸の多数の老松に囲まれた風光明媚な場所に出る、大浜公園と隣接する大浜海水浴場が広がる。
 
一角に淡路文化資料館がある。 
ここはかって、江戸期に洲本城の平城が在ったところで、往時の小さな石垣も見られる・・?この正面入口に「お登勢」の像がある、下駄履きで、水桶と柄杓(ひしゃく)を持ってニッコリ笑っている。
その横に「庚午事件とお登勢」と題して、解説入りの石版が建ててあった。
 
「お登勢は」は、実在の人物かどうかは不明だが・・、(幕末期の寺田屋の女将のお登勢は、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊皇攘夷派の志士たちを保護した女性として知られるが・・、同名だが当然異なる)
 
船山 馨の時代作品、『お登勢』で・・、淡路の貧しい農家に生まれたお登勢の、けなげでひたむきな生涯を、幕末から維新へと時代が大きく変わる歴史のうねり(明治維新と庚午事件)とからみ合わせた、ダイナミックな歴史ロマンとして描いている。 
この時代の女性は、その時代的制約からどうしても受け身であり、耐えることを強いられることが多いが、この船山作品の主人公であるお登勢は、恋する人との身分の差をどうしようもなく感じながらも、自分の心に忠実にひたむきに行動してゆく。 
 
「お登勢」の像は、幕末の淡路・稲田騒動のヒロインとして建立されている。

  
明治維新と庚午事件(こうごじけん)について・・
 
時代は遡るが、戦国期、豊臣秀吉によって天下は、ほぼ治まった。 
秀吉の重臣であった蜂須賀氏は、四国攻めに功が有ったとして、阿波の国(徳島)一国(石高・17万5千石)を与えられる。 秀吉と蜂須賀の関係は、彼が幼名「日吉」の頃、矢作川で出会って以来、終生子分になることを誓っていた。(蜂須賀小六、太閤記) 

その蜂須賀小六の重臣に稲田氏がいた、重臣とはいっても小六とは義兄弟の仲だったという。二人はともに豊臣秀吉のために戦い、大いなる功績を残している。
秀吉は、やがて蜂須賀家を主とするようになり、稲田家はその客分として従属させた。
しかし、稲田にしてみれば・・わしらは蜂須賀とは同僚であっても家来ではないぞ、という気概と気分が最初からあった。 
その後、江戸期になってもからは、両家は相反発し、それからの長い歳月が経ち−−やがて明治初期の稲田騒動につながってゆく。
 
この時期、蜂須賀家は阿波 16万石になっていて、、城代家老としての稲田氏は1万4千で、淡路・洲本城代に任じている。 
稲田家は、瀬戸内を中心に豊かな経済力をもち、また貴族や公卿とも縁組をするなど、その地位を高めてゆく。 
又、蜂須賀家は徳川家と縁組を持ち、松平家を名のるほどになる(松平阿波守至鎮)。
 江戸末期、尊皇攘夷の風が吹く中、稲田家とその家臣は積極的に尊王攘夷派の運動に参加していった。 
蜂須賀家は、徳川家を中心とした公武合体論に終始した。
 
稲田家は、維新戦争の際にも多数の人員を派遣し、明治維新には大きな功績を残したはずであった・・。 
このような因果で、両家は更にに確執を生ずるようになる。
 
明治政府は、明治2年、版籍奉還、廃藩置県を実施した。 
特に武士の身分を士族と卒族(平民)に分け、俸禄も減じられた。 
稲田家は元々蜂須賀家の家臣だった為、その減額は甚だしかった。 
稲田家臣は死活問題であったため、士族への編入を嘆願するとともに、稲田家の分藩独立運動をおこした。 
これに堪りかねた蜂須賀家の一部の過激派が決起し鉄砲、大砲を持ち込み洲本城の攻撃を始めるなど、一大紛争を巻き起こした。 
 
明治政府は仲裁に乗り出し、解決に至ったが、その決断・判決は両者に厳しいものであった。 
蜂須賀・徳島藩側主謀者には、10人に切腹、八丈島への終身流刑27人、その他禁固、謹慎など多数に及んだ。(武士社会に於ける、最後の切腹事件といわれる) 
又、稲田家側は、朝廷から主人の稲田邦植以下、家臣全員に北海道の静内郡と色丹島(後に返上、現北方領土)への移住開拓が申し渡された。 
勤皇派で、明治維新に大いに貢献した稲田家にとっても過酷な内容であったが、見方によっては両家の怨恨を無くする為に遠ざけた結果とも云える。
 
この事件を庚午事変(こうごじへん・稲田騒動)と称してる。 


「版籍奉還」と「廃藩置県」
 
戊辰戦争終結後、勝者の官軍であった薩摩、長州を中心とした新政府が曲がりなりにも誕生し、天皇を中心とした親政政治がスタートする。
なにしろ、朝廷政治が行われていた平安期以来だ実に700年ぶりである。その間は源 頼朝の鎌倉幕府から徳川幕府の、所謂、武家を中心とする政治が行はれていた。 
 
平安期と明治の最大の違いは、外国事情を知った明治人が、外国と互して 強固な国土を造ることだった、富国強兵である。 
その為には中央の政権がが強力でなくてはならない、封建政治(封建制度・天皇の下に、多くの諸侯が土地を領有し、諸侯が各自領内の政治の全権を握る国家組織)から中央集権国家の造営である。
 
先ず、1869・明治2年、中央集権を促すために全国の各藩主が旧来領有していた土地と人民とを朝廷に返還する、すなわち「版籍奉還」を行い、わが国、封建政治を終結させる大変革を行った。
これは、次に行うべき「廃藩置県」の前提でもあった。
薩摩、長州、土佐、肥後の四藩が実施し、次に徳川家も同じように行っている。
しかし版籍奉還後も旧藩主が知藩事となり、世襲制などの封建制度が存続していた。 
此れを更に打破すべく、薩摩の西郷、大久保、大山、長州の木戸、山県、井上ら7人が合議し廃藩置県を押し進めよとしていた。
 
新政府出仕の主要な人物たちは、皆往々にして下級武士の出であった。
西郷や大久保の上に立つ、薩摩の島津久光は強固な封建主義者であり、これらを実施することは不忠者の汚名を着せられ、後々まで久光に頭の上がらないのは必定であった。
当時の武士たちにとって不忠の汚名ほど心理的に苦しいものはなかったのである。
ここで西郷は私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の趨勢である・・。地元については、わしが全責任を持つ、おはん等は粛々と進めよ・・」
 
これによって7人は廃藩置県を奏上し、天皇詔書(みことのり)により勅令は発せられ、1871年(明治4年)、廃藩置県は施行された。

明治維新の一大画期であり、一種のクーデターとも言われる。 

各藩においては、意外と騒動らしいものは無かったらしいが、薩摩藩だけは久光公が花火を打ち上げ、最後の抵抗と意義申し立てを行ったという。 
諸外国も日本の変革を知り、大いに驚きながら歓迎された。
 
中央集権国家は固まり、明治5年「全国徴兵令」の発動、6年には「地租改正」という税制改革、学校制度の発令も実行された。この間、初めて新橋〜横浜で鉄道が走り、これを期に阿波・蜂須賀氏や元藩主による「鉄道公団」が発足、鉄道敷設等の産業改革とうも着実に進む。
 
始め藩主(知藩事)達は、廃藩に反対していたが、先の戦争で藩財政は何処も困窮していたため、結局は承服せざるを得なかったという。 
藩は、全国におよそ300存在し、それらの藩主をいわば一様に「クビ」にし、中央が派遣した「県令・権令(権令の方が格が低い)」をその知事に任命する。3府75県(後に少しずつ変化して行く)に振り分けられた。これによってクビになった藩主と家臣団である士族らは、いっせいに失業したのであった。
 
そのころ士族とその家族らは全国におよそ190万人いて、当時の日本の人口を3千万人とすると、6.3%の人間が職を失った事になる。
これらの元藩士・家臣達は、農耕、殖産、兵役や移民団の開拓へと道を開いていったのである。 中には不平士族が反乱を起こす「佐賀の乱」(1874年、江藤新平を首領に起きた)や「西南戦争」(1877年、西郷隆盛を首領に掲げた薩摩軍と政府軍の間で戦われた日本史上最後の内乱)に到った事例もあるが。

  
明治3年、版籍奉還がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた稲田邦植と137戸、546人の旧家臣たちは、三隻の汽船に分乗し洲本港を出発する。 
春まだ浅い静内の海岸に到着。  
ここに淡路・稲田藩士による、北海道・静内町の開拓の歴史の第一歩が刻まれたのである。
 
船田 馨作品のヒロイン・お登勢は、この時期、稲田藩士・津田貢と所帯を持ち、北海道移住を二人で決意する。移住には困難が伴い、先行きに暗い影もある中で希望をすてないお登勢の強い心に貢は励まされる。物語は、稲田藩士とその家族が新天地を目指すところで終わる。
 
又、北海道・静内町の開拓の歴史、稲田家家臣の壮絶な開拓者魂を主題にした映画「北の零年」が昨年製作された。
これは製作費15億円を投じて、長期ロケを敢行、豪華キャストに加えて延べ7000人のエキストラなど、すべてが近年の日本映画の常識を打ち破る文字通りの『大作』と言われる。 

キャストに、吉永小百合、渡辺兼、豊川悦司、柳葉敏郎、石原さとみ、香川照之、石田ゆり子、他名優多数・・、本年、2005年1月大公開された。
 
又、船山馨の時代小説「お登勢」はこの時代、ここ淡路・洲本を背景に描いている。この「お登勢」がNHK金曜時代劇で、沢口靖子主演で昨年秋TV放映された。
「お登勢」と「北の零年」は登場人物こそ異なるが、まるで「お登勢」の続編を描いているようである。 

小生は、残念ながらNHKの「お登勢」は拝見してないが、ヒロイン・沢口靖子が吉永小百合に成り代った様である・・。
 
尚、この記述に関しては、前編の「東日本・海道一周」の北海道・静内の項でも記載してある。

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日本周遊紀行(58)淡路 「大鳴門橋」



「道の駅・うずしお」から大鳴門橋



瀬戸内海の最大の「瀬戸」、鳴門の渦潮と大橋・・、

洲本城址から海岸線をそのまま直進して「由良」方面へ向かったが、マリーナあたりで、沿岸を行く県道は工事区間も多く道路事情が良くないとの情報を得たので、やむなく引き返すことにした。

「由良」は、淡路国が徳島藩主・蜂須賀氏の領地となり、家老の稲田氏一族が由良城代として居城していた。
古来、友が島を挟んで紀州・和歌山には至近で、浪速・大阪や紀州とも海運が盛んであった、それは南北に細長く横たわる「成ヶ島」を正面にした由良は、昔から天然の良港であったのである。 
しかし、由良の地は背後は険しい山が控えていて発展性の乏しい城下でもあった。 
1631年、稲田氏は 由良の地幅が狭く城下の経営には適さないとして、城下町ごと洲本に移転することになる、所謂、「由良引け」が行われた。以後は洲本が淡路の中心となっている。


戻って、国道28の内陸を行く・・、

淡路国道とも言われ中央部は松の緑の美しいところであり、その名の如くこの辺りを緑町と称している・・?。 そして、淡路島の南端の「福良」の港へ出た。

鳴門海峡を臨む「福良」は、古くから福良港として明石の瀬戸に始まり、阿波に至る阿波路の要衝として知られる。 
往時より阿波への渡り口として「福良の渡」と呼ばれ、豪快な渦潮を眺めながらの渡海であった。近年の大正期の頃からは汽船航路、更に車社会の陸上交通の発展に伴い、四国へのフェリー航路も相次いで開設された。
だが、昭和60年の大鳴門橋開通に伴い、ついに渡津としての役割を終えた。

波止場の正面にはかなりモダンな半円状の建物が在る、そこに鳴門海峡クルージング咸臨丸が停泊している。 又、建物をくぐって海辺に出ると、次に見えたのは堂々とした白の帆船・「日本丸」で、両船は福良の港にレプリカ船として渦潮観光に活躍しているようである。

咸臨丸は、1856年オランダで建造され、1860年に勝海舟等によって日本人ではじめて太平洋横断しアメリカへ渡った蒸気帆船である、その勇姿をいまに復元したものという。 
又、日本丸は昭和5年(1930)文部省航海練習船として神戸の川崎造船所において進水した。 

地球を約45周半(延べ183万KM)航海し、昭和59年まで「太平洋の白鳥」、「海の貴婦人」と呼ばれながら訓練航海に従事し、日本丸がその間に育てた実習生の数は11,500名にもおよぶという。
現役を退いた日本丸は10を越す湾岸都市からの熱いラブコールを受けたが、第2の人生を横浜で過ごすことになり、現在、帆船日本丸は、MM21(横浜ミナトミライ21)の「日本丸メモリアルパーク」にて一般公開されている。


鳴門海峡の淡路の最先端である門崎岬へ向かった見た。
先端は「道の駅・うずしお」があり、ここは既に「大鳴門橋」が頭上に架かっている。

車を置いて徒歩2〜3分のとことろに観潮台があり、又、巨大な大鳴門橋の下部ゾーンが見渡せる。
小粒な人間が、これだけ巨大なものを造りだせるものなんだと承知はしていても現物を間近に見せられると、やはり感嘆し圧倒される。 

渦潮は、小生どの程度の規模か判断がつかないが、左方に小島(飛島)があり、その付近が帯状に白く泡立っているのが確認できる。
多分、渦潮なのだろう・・、本日の潮目は何日頃なのかのか不明であるが・・?


渦潮の発生要因としては・・、

勿論、大海の海水が瀬戸内海へ流入、流出する際、淡路島という障壁の隙間をぬって、北側からは明石海峡、南側がここ鳴門海峡の狭窄の地を直接流れこみ、渦を巻きながら激しく流動する時に起こる。

それは、鳴門海峡は中央部がぐんと深く約100mほどあり、この部分は潮流は抵抗なく早く流れる、この流れを本流と呼ぶ。 
一方、本流の両岸は浅瀬になっているため、抵抗があって流れは緩やかである。 
渦潮は、この本流と両岸の緩やかな流れの境目付近で、本流の速い流れに巻き込まれるような形で発生するという。  
大きなものになると直径20メートルにも達し、渦が巻いている時間は数秒から数十秒、渦が出来ては消え、消えては新たな渦が発生し、そして消え、また発生する。
上記のようなメカニズムにより、鳴門の渦潮は潮の干満によって発生し、大潮の新月の頃及び満月の頃に最大規模になる。


大鳴門橋は、本州四国連絡橋の神戸〜鳴門ルートに属し、渦潮で有名な鳴門海峡の大毛島、孫崎と淡路島門崎を結び、昭和51年7月に着工、工事費約1千億円で建設でされた。
1985年6月に開通して以来、本年(2005年)で20年の節目を迎える。
橋長は1,629m、中央径間は876m、幅は25m、主塔の高さは144.3m、海面より45m、マグニチュード8の地震、風速83mに耐え得る構造になっているという。 
橋は上下2層式となっており、上部は片側2車線の道路、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっている。

しかし、本州よりの明石海峡大橋が道路単独橋で建設されたため、神戸からの鉄道が大鳴門橋に通じる可能性は無くなってしまったともいう。 
尚、紀淡海峡に鉄道を通し、和歌山から鳴門に至る鉄道について、大鳴門橋を活用しようとする模索は続けられているというが、果たしてどうなることか。 

尚、四国側の橋端は大毛島といって、一見四国本土のように見えるが、小鳴門海峡という細い海峡を挟んで、その名のとおり島である。
この島には、ほぼ中心に大鳴門橋・高速道の鳴門北I・Cがあり、又、県道11号が最北端の観潮船乗り場、記念館や鳴門公園等を経て孫崎の岬に至っている。 
小鳴門海峡には、本島へ到るのに「小鳴門橋」という赤い瀟洒な橋が架けられている。

門崎の観潮台を後にして、四国側へ渡るために一旦、淡路島南I・Cまで戻る。


因みに、淡路島は本州最大の島は衆知のとおりで、暫くは洲本市・津名郡・三原郡の1市10町体制が続いていたが、平成の大合併に伴って、2005年1月には三原郡4町が「南あわじ市」に、2005年4月1日には津名郡五色町を除く津名郡5町(淡路町・北淡町・東浦町・一宮町・津名町)が「淡路市」となった。残る五色町は2006年2月11日に洲本市と合併し、新たに「洲本市」となる予定である。 

したがって淡路島は北部、中央、南部の三市の行政区域になることが決まっている。

次回は、阿波・鳴門と四国霊場「霊山寺」  PartUへ


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