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日本周遊紀行



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西日本編    6日目:PartW(室戸、田野、安芸)    第7日目(南国、高知)へ
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日本周遊紀行(65)室戸 「岬と最御崎寺」


室戸崎灯台



室戸崎へ・・、


国道55は、いよいよ室戸岬を目指す。
道路は「土佐浜海道」、「土佐東海道」とも称し、室戸への“V形の辺”を40kmほど左窓に太平洋を眺めながら、長い長い海岸沿いの道を南下する。 
特にR493が分岐する東洋町・野根と言う集落を過ぎると、打ち寄せる波濤と山崖が車窓に迫り圧巻である。
しかし、沿道に集落、人家がなくなってしまいモノ悲しい雰囲気は否めない。
延々と走ってようやく集落が現れた。佐喜浜の浦という集落だが、人の気配が全く無く過疎化が感じられる集落でもある。

ここから先は急に道が細くなり、普通車のすれ違いもままならないほどである。
アップダウンも激しく、所々で人家の真前(まんまえ)を通過するようにもなる。
台風の備えであろうか、民家の前は石垣でしっかりガードしてあり、一種風物にもなっているとか。気がつくと新道らしきのと合流した、知らぬ間に旧道を走っていたようであるが、こらはこれで良しとする。

暫くして「室戸岬」のバス停のある公園風のところに到着した。
背後の山の中腹にある展望台に上って岬の先端を眺める。 真に雄大の極みである、例によって地球の丸さを感じる地点であるが。(実は視界が丸みを帯びて見えているにすぎない) 
岬の先端からは大きな岩礁や奇岩が連なり無限の太平洋に延びていて、こちらも奇怪(きっかい)にして驚きの眺望である。 
背後は山腹が覆っているように、岬は太平洋に突き出た山地がそのまま海に落ち込んでいる様子が分かる。

渚の公園入口の道脇には、大きな土佐の志士「中岡慎太郎」の像があった。


中岡慎太郎は、室戸岬半島の付け根に当たる北川村の村役場の付近で、庄屋の倅として生まれている。 
7歳にして論語や孟子など四書を学び、14歳の時にはすでに塾の代講を務めるまでになっていた。
その後、藩校・田野学館が開校した時、18歳で武市半平太と出会い、その人柄に惹かれた彼は24歳の時に半平太率いる土佐勤王党に参加、高知の城下へ出て行く。 
26歳で土佐を脱藩、藩の庇護を離れ倒幕活動に奔走したが、大政奉還後に坂本龍馬と一緒のところを京・河原町「近江屋」で「見回り組」の刺客に襲われ暗殺されている。

中岡慎太郎はじめ、土佐脱藩浪士の多くは志半ばで非業に倒れたが、その活躍は明治維新で土佐藩が薩摩・長州に次ぐ地位に立つ下地となった。 
「中岡は、この世に2人といない智慧者ぢゃったが、竜馬先生はハンコを押すだけぢゃった・・」という著名氏の見方もあるとか。 享年30歳。

中岡慎太郎像の入口から海岸へ出ると、「乱礁遊歩道」とい長さ約3kmの散策道が延びている。
太平洋の荒波に浸食された奇岩や岩礁が屹立し、ダイナミックな景観が堪能でき、付近にはタコの足のように気根が伸びる亜熱帯植物のアコウという木(天然記念物)が鬱蒼と繁る。



最御崎寺の境内


二十四霊場・最御崎寺へ・・、 

山腹の上部に灯台と第24番の霊場が在るはずなので、急ぐことにしよう。 
国道55を一旦岬の西側へ出て、標識に従って右折する。
土佐湾が雄大に広がり、室戸港を眺めながら、急勾配の大きなヘアーピンカーブを数度曲がって、暫く行くと「最御崎寺」の参道入り口が右に在った。

第二十四番 最御崎寺(ほつみさきじ)」と書かれた石刻柱の横に、緩やかな参道が林の中に延びている。
300m位行ったところで、左へUターンするかたちで山門へ出た。
なるほど入り口側は寺院の裏手(北側)になるのだが、横を通り境内の南側(大洋側)へ一旦来て、それから本堂へ向かうようである。

この寺院まで今では室戸スカイラインができて便利になったが、徒歩巡礼の場合は昔ながらの下の岬から急な山道を辛苦しながら登って山門に達する。 
更には、阿波の最後の札所である薬王寺(23番)から、こちらの高知県最初の札所・最御崎寺へ達するのには、Vの字を描いた室戸半島の長い長い海岸線の道が続く。 
特に宍喰町を過ぎてから室戸市の入木までは、雨宿りの場所もなく荒波が打ち寄せる四国でも一番の難所といわれ、最長の距離(約80km)と最難関である。 その名も最御崎寺は、「土佐・修行の道場」の一番目に当たる。 

さて、山門を潜ると境内には沢山のお地蔵様が目に付く。参道左手に太子堂、 右手に古き貫禄の鐘楼堂が建つ。
この寺院の鐘楼は、NHKの大晦日の除夜の鐘でも有名で、記念碑に昭和37年ラジオ、昭和53年ラジオ、昭和55年テレビ、平成元年ラジオ、平成13年テレビなどと記されている。 
正面に大屋根・四柱造りの本堂、その手前に丸みの多宝塔があった。


この地を訪れた大師は、この四国でも最も僻地の室戸岬を修行の地と定め、お寺を建立し、虚空蔵菩薩を刻んで本尊として安置したという。 
岬 一帯は若き日の弘法大師が修行を積んだ場所といわれ、至るところに大師ゆかりの遺跡が残っているとも。 
徒歩の遍路道近くに大師が修行した御蔵洞があり、この御洞の正面は「大空と大海」のみが望め、「空海」の名は、この大自然を黙視しながら「わが心空の如く、わが心海の如く」という境地を体験したことから付けた名前であるという。

嵯峨天皇の時代(平安初期・9世紀初)、勅願により伽藍を建立し、室戸山・最御崎寺と号し、第24番の霊場に定められた。
室町時代には土佐の安国寺に定められ、以後各武将の寄進により七堂伽藍も整う大寺院になった。
当時の「安国寺」とは、足利尊氏・直義兄弟が、夢窓疎石(夢窓国師)の勧めにより、南北朝の戦死者の追善または国家安穏の祈祷場として、1338年から日本六十余州の国ごとに設営させた臨済宗の寺である。
 

室戸山・最御崎寺の山門を出て、真南の一段低いところに基礎から丸型の白亜の室戸岬灯台があった。
フェンスに囲まれ、やや草生したところに一棟孤高に建っている。 
完全無人の灯台と思しきが、何故か上部に展望用であろうか・・?一周柵のテラスがあった。   

明治32年(1899)の完成以来、休むことなく海の安全を守り続けている室戸灯台は、日本−の大きさを誇るという、直径2・6mのレンズは、光度190万力ンテラ、光遠距離は56kmと長い。 
毎年7月20日の海の日と灯台祭りの日(11月1日の灯台記念日に最も近い日曜日)の2回、無料公開されているらしい。


帰路は、室戸スカイラインを行く。屈曲した上下動の激しい道路だが、真っ赤なハイビスカスと亜熱帯特有の緑濃き樹林が気持ちを癒してくれる。
山上より室戸岬港が遠望でき長い防波堤が印象的である。
室戸半島の東側は手付かずの無味な海岸線が延々と連続するが、こちら反対側の西海岸は岬の近場に室戸港をはじめ人々の息吹がある。 
暫く、スカイラインの山腹を走ったあとは、室戸の市街地へ出た。戸室でも比較的賑やかな交差点である、法務局や郵便局、商店街など室戸市の目抜き通りを静かに抜けて、R55を今度は北上することになる。

途中、国道横に大きな鯨の剥製か模型が目に付いたので立ち寄ってみた。「道の駅・キラメッセ室戸」といい、鯨館・鯨の郷でもある。 
室戸は捕鯨で栄えた歴史があり、今でも「ホイール・ウォッチング」が盛んなところである。ここには鯨の資料館があり、鯨の生態、勢子舟(せこふね・捕鯨では最も重要な役目を持ち、網の中にいれ易いようにクジラを追ったり、網の中に入ったクジラに銛(もり)を打ち込んでクジラを殺す舟である)、捕鯨図、鯨組の羽織など古式捕鯨を展示し、全長10mのマッコウクジラとザトウクジラの模型が対で並ぶ。レストランでは鯨の刺身やステーキが楽しめるという。


室戸市吉良川町という集落には所々特異な建物が目に付く。

蔵のような垂直の白い漆喰壁に、数段の軒瓦風のものが周囲に付帯している。
この瓦は水切瓦と云い、漆喰は土佐地方独特の土佐漆喰の壁という。 台風銀座といわれるこの地方、気候と適合するような建築法をあみ出したらしい。 
雨の他に風対策も必須で、土佐漆喰の厚塗りで固めるのもその一法だが、やはり農民達の住まいは石垣を張り巡らした住居が目立つ。石の材料は当地産の丸石、平石を積重ね、空積(からずみ・セメントなどの接合剤を用いないで、石を積み上げること)のものもあるが、練積(れんずみ・接合剤を用いる)が多く、それが家々を防御するように設置されている。 
いわゆる石垣住居は室戸半島の東西地域の風物にもなっている。

この土佐漆喰と水切瓦建築は、土佐の厳しい気候に適合させた見事な意匠であり、又この町の代表的町並景観として国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。

次回は後免・奈半利(ごめんなはれ・?)

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日本周遊紀行(66)田野 「二十三の郷士」



土佐勤王の志士とライオン宰相・・、

「ごめん−なはり・・」、「奈半利」という町に来た。 ナハリと詠む。

人名や地名は、時に不可解な名称は当たり前であるが、何か気になるときがある、ナハリもそうである。この語呂が気になったので一応調べてみたが一向に見当たらない。
一見アイヌ語ような響きがあるが、定かでない・・?「ごめん−なはり」とシャレ謝りをしておく。

実は、“ごめん−なはり”は後免−奈半利のことで、この奈半利は最近の平成14年7月に開通した「土佐くろしお鉄道」の起点であって、南国市の後免駅より東へ20番目の東の端の駅にあたる。
別名「ごめん・なはり線」ともいっている。 これはさて置き、奈半利は由緒ある歴史の町でもある・・。

奈半利の町から北東にR493が、東海岸の東洋町野根へ連なっている。
地図上でみても細く曲りくねって描いてあり、一見して山間の難路が続くようである。
R55の土佐浜街道と比較して、距離にして20kmほど短縮できる野根山越ながら、国道493号の道は決して快適とはいえない。だが、現在も土佐・高知と阿波・徳島を結ぶ最短のコースに代わりは無い。
しかし昔は、阿波と土佐を結ぶには野根山街道のみであった。 

往時の野根街道は、奈半利から尾根づたいに野根に至る約35キロの只一つの街道で、国司、土佐流人の移動、調庸物搬入出の道として開発され、古代・養老年間(奈良中期)にはすでに利用されていたという。
戦国初期、長宗我部氏が四国制覇進行の軍略路として通い、藩政時代は参勤交代の通行路ともなった。
また幕末の激動には、中岡慎太郎をはじめ志士達の脱藩の道、二十三士動乱の道でもあったという。

室戸岬に立つ「中岡 慎太郎」は、この街道沿いの北川郷柏木で生まれている。
野根山街道は、今でも当時の面影をそのまま留めた、全国的にも珍しい歴史の街道であるといえる。


「道の駅・田野」で一服する。 
正確には「田野駅屋」といい、“田野へ来いや”(土佐弁で田野へいらっしゃいと言う意味)という意味らしい。 
鉄道(土佐くろしお鉄道)の駅と一体となった道の駅でもあり、駅舎にしては珍しく一連の施設の建物は巨大な木造と瓦屋根の建築である。聞くところ、 田野町は古くから木材の集積地であり、木材製材工業が盛んであった。
現在でも木材製品の流通の中心地であるという。 
この駅舎は、そのアピールであり、シンボルでもある。

田野町は奈半利川西岸を挟んで、総面積6.56km2、住戸1300戸と小さな町域である。
しかし、江戸期は田野村の藩の御用商人(5人衆といわれる・・)が、奥地の山林資源の開発により富強となり、田野千軒が浦として繁栄した。
その一部の豪商邸宅が完全に保存され、当時の建築様式がそのまま残されている。

幕末には安芸郡奉行所が設置されるとともに、藩校・田野学館が併設されて、安芸郡における政治・経済・文化の中心地として栄えた。 
幕末、高知の城下で尊王攘夷を唱える「土佐勤王党」が成立し、この田野の地区からも数人参画している。 

土佐藩は一時期、藩内の抗争、藩政に反抗する者として首領・武市半平太(瑞山)はじめ、主だった者14名が投獄されている。 
この時、田野の郷士・清岡道之助を首領とする二十三士は、武市半平太らの出獄などを求める嘆願書を藩庁に提出した。
しかし、相容れられず逆に兵を向けられ、志士たちは抵抗すること無く捕らえられ、ここ奈半利川河畔において斬首されたという。

現在、河畔近く福田寺境内に二十三士の墓と碑および武市瑞山像があり、国道をはさんだ同公園内には、二十三士殉節之地碑が残る。 
清岡道之助旧邸は、典型的な郷士屋敷で、田野町が保存管理している。 

因みに道之助の妻は、昭和初期“ライオン宰相”と呼ばれた浜口雄幸首相(田野町出身、明治生まれの初の内閣総理大臣)の叔母にあたる。 
近くに浜口雄幸旧邸も復元保存されている。

浜口は、明治生まれの初の第27代・内閣総理大臣であった。 
官僚出身でありながら、その風貌から「ライオン宰相」と呼ばれ、謹厳実直さも相まって強烈な存在感を示しつつも大衆に親しまれた首相であった。 
浜口は「我国の貧しきを以て米国に追従せんことを到底思ひも寄らず」、「我国は国力の関係上仮令一切を犠牲とするも英米二国の海軍力に追従することを能はず」とまで述べている。

日本の国力、実力を知る浜口は、英米との対決は不可能であることを理解していた。
このことは国民生活の負担の軽減と見事にリンクし、戦後不況、社会不安が増大する中で、軍拡から軍縮に転換し、その軍縮余剰金を財源に、国民負担を軽減する施策を提示したのである。

次回は讃州・安芸「土佐の海」

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日本周遊紀行(67)安芸 「土佐の海と岩崎氏」



ベテランになった大相撲の「土佐の海」・・、

鮎漁で知られる、安田川の安田町から安芸市へ入る。

高知県安芸市出身、伊勢の海部屋・・』、 幕内力士「土佐の海」のことである。

立会いで仕方なく「待った」をすると大きな声で「スイマセン!」と相手に礼をする、立会いから取り組み中は“ウオッツ、ウオッツ”と気合を入れながら取り、殊勲の勝利を挙げ、インタビューに答える時は、嬉しそうに極めて明瞭に返答する。 
又、敗れたときは土俵際で丁寧に“お辞儀”をし、且つ、突き押しの戦法を一途に取る彼は、姑息な手段で敗れても嫌な顔ひとつせず正々堂々と花道を引き上げて去ってゆく。

大相撲ファンの小生にとって、気合の入った角界でも最も紳士的な、こんな姿の「土佐の海」は大好きな力士の一人である。 
近年、30代半ばにさしかかり、力量不足も否めず、幕内下位に甘んじている。 尚且つ、土佐ノ海は、年寄名跡「立川」を取得したそうで、年寄株を取得すると、引退も近づいてきたようで寂しいが、年寄名跡を取得したことで、引退後も相撲界に残れるわけで、そういう意味ではややホッとはしている。 
もしもの引退した場合は、是非、NHK相撲解説で、あの明晰な口調によって相撲内容、相撲界を語って欲しい。

因みに、2003年夏に引退した元関脇「安芸乃島」(藤島襲名)は、同じ安芸でも、広島県豊田郡安芸津町の出身である。(金星16個・三賞・19回:殊勲賞7回、敢闘賞8回、技能賞4回 は共に歴代1位である)。 
この力士も正攻法の取り口で始終し、小生の好きな力士の一人であった。


江戸末期の安芸の著名人に「岩崎弥太郎」がいる。 三菱財閥の創始者である。
身分制度(後述)の激しい土佐国の「下士浪人」の子として生まれている。
地下浪人とは、無禄の藩士であり、収入を得るために自ら商売をしたり、力仕事をしなくてはならなかった。
即ち、正規の土佐藩士たちから蔑まれ、常にいじめられる存在だった。
家の事情を知る弥太郎は、幼少の時分より勉学に励み、幕末時に坂本龍馬や後藤象二郎の知遇を得る。


『 後日 英名ヲ天下ニ轟カサザレバ 再ビ帰リテ此ノ山二登ラジ 』

山とは弥太郎生家(保存邸宅)の近く、妙見山の星神社のことである。

1873年に現在の大阪市の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に「三菱商会」(後の郵便汽船三菱会社)を設立、海運業を経営する。
この時に、三菱の商標(三菱マーク)が定められたそうで、見慣れたこの三菱マークは、岩崎家の紋である三蓋菱(三層にかさなった菱形を側面から見た形)と土佐藩主山内家の三葉柏(柏の葉三枚を図案化したもの)の紋を組み合わせたものだと云われている。 

台湾出兵・西南戦争の頃は軍事物資の運搬を独占し、莫大な利益を上げて三菱は急成長する。 
国内船舶の7割を押さえ海運業を独占した時期もありその後、日本郵船となり三菱財閥の源流を創る。
岩崎弥太郎は元々、海援隊員(坂本龍馬が中心となり結成した貿易結社)でもあって海運業に力を入れ、「東洋の海上王」と呼ばれるまでに発展する。

「海援隊」を創った坂本龍馬は、幕末の政局急変の時期、主役には躍り出ず脇役で通した。
彼は政治家より、海外貿易などを通した経済人が望みだっらしく、長崎時代は、かのトーマス・グラバー氏(英国商人・グラバー商会を設立)に強く影響を受けていたという。

グラバーは1881年(明治14年)、官営事業払い下げで三菱の岩崎弥太郎に高島炭鉱(グラバー経営)を譲るが、三菱財閥の相談役としても活躍し、岩崎に勧めて後の麒麟麦酒(現・キリンホールディングス)の基礎をも築いている。
岩崎弥太郎はグラバーの思いに従い、坂本龍馬の意思をも継いだのかもしれない、明治18年(1885年)、52歳の若さで亡くなっている。

なお弥太郎の娘婿から加藤高明及び幣原喜重郎の2人の内閣総理大臣を輩出している。



安芸の市街を抜け、阪神タイガースのキャンプで知られる「安芸ドーム」をを右にみながら、夕刻迫った土佐街道を行く。「土佐くろしお鉄道」と並行し、芸西村、夜須町等を後にしながら「物部川」を渡って南国市に来た。

ところで本日は、未だ宿泊の場所を決めていない、どうすべきか思案しながら、先ず近くの温泉地の有無を確かめた。
スタンドのオニイサンに聞いたところ「ながしま温泉」が近くに在るとのこと。 
R55より北方、後免駅の近くらしい、電話番号よりカーナビを頼って目的地へ向かった。
市街地より離れ、田園地帯も混在する静かな住宅地の離れたところに、一際大きな建物が「ながしま温泉」であった。 

新装したばかりの和式のゆったりした館内であり、浴室、湯船、露天風呂とも石を基調とした造りとなっている。湯に浸かり、道中の緊張した体を解す、このリラックスした気分は変えがたい。
泉質がナトリウム・塩化物温泉の天然温泉というところも良い。
休憩は畳みの大広間で食事を摂りながら過ごす、今日一日の状況をメモに取りながら。
休泊は、田園路上の車泊としたが、側溝の水路の水音が些か気になったので、少々移動し、今度は蛙の声を子守唄に眠りに就いた。

次回は、土佐の国司・「紀貫之」  第7日目へ

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