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日本周遊紀行(63)海南、海部 「大師と海部氏と甲浦」


鯖大師(八坂寺)・本坊



四国の海南地域は歴史の表舞台でもあった・・、


道の駅・日和佐を出ると海岸部から離れて再び山間部を走る。
海岸線は「南阿波サンライン」といって極めて風光明媚な所・・と言いたい所だが、起伏が激しく悪路も予想されるので国道55を直進することにした。 

Jr牟岐線とともに日和佐トンネルなど大小トンネルを抜けながら山間部を走る。 
山河内からも延々と山間部を走り続け、寒葉坂峠を境に牟岐町に入る。ここからは下り勾配を4〜5キロ走り山間部を抜けて平野部を牟岐川に沿って行くと牟岐の街へ出る。 
途中、海上に浮かぶ出羽島の姿が美しく、牟岐町きっての観光の目玉らしい。

Jr牟岐線はここの地名を付けたもので、牟岐駅は当初の牟岐線の終点であったが、近年この先の海部まで延びている。
この沿線に沿って明るい海岸が見通せる、景勝「八坂八浜」と称している。
その名のとおり屈曲した八ッ坂があり、その度に八ッ浜が見られるという、路行く者には大変な難所の海岸線だった。
この中間に「鯖大師」、別名でその名も「八坂山・八坂寺」というのがある。


日和佐の23番薬王寺から室戸岬の24番最御崎寺までは凡そ80キロの長丁場で、歩けば2日以上かかる距離であり、1日歩いても一つの札所にさえ行き当たらない。
そのため、番外札所と言われるのが八坂寺であった。
鯖大師は別格二十霊場にも数えられ、弘法大師と鯖に因んだ話が伝わっていて、鯖の話はこの八坂八浜の大坂を舞台にしたものである。

「馬の背に鯖を積んだ馬追に、大師が鯖を1匹くれとたのんだ。馬追が断ると大師は次のような歌を詠んだ。」


『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれで 馬の腹や(病)む 』

すると馬が苦しんで歩けなくなった。
驚いた馬追が鯖を差し出すと大師は別の歌を詠んだ。


『 大坂や 八坂坂中 鯖ひとつ 大師にくれて 馬の腹や(止)む 』

そうすると馬の苦しみはおさまったという。
「で」と「て」と「や」で歌の違いはが判り、面白い。


高台を走る道路は時折、優美な海岸風景を見せている。
左手に浅川湾を見ながら走る。再び山間部を走り、間もなく海部川の清流を渡ると海部町である。
海部川は四万十川より美しいといわれる清流で時期になると鮎の太公望で賑わうという。

ところで、海部町は四国・徳島でも極めて小さな町域である。
しかし歴史は古く、中世よりこの地方を「かいふ」と呼称し、海部氏が海部川流域を支配しながら勢力を拡大していたとされる。 

中世・平安時代から室町時代にかけて、現在の海南地域(海南、海部、宍喰)は、「海部郡司の領地」であったとも「宍咋庄」という荘園に属していたともいわれる。
そして、中世の阿波南部・海部地方に勢力をもっていたのが「海部氏」であった。
水軍の側面も有する海部氏は特産品である「海部刀」をもって朝鮮や中国との貿易を行い、その交易によって大いに勢力を伸張したものと言われる。 記録によれば、114万振の海部刀が輸出されたことが知られる。

戦国初期、四国を制覇しつつあった長宗我部元親によって滅ぼされているが、江戸期は、蜂須賀氏の出城で、隣国土佐高知の防衛線としての要をなしていたという。


海部川を渡って、すぐのところが海部町である・・、

所謂、海南地域といわれる海部町、海南町と南隣の宍喰町と三町で合併の話が進んでいるらしいが、最初は宍喰町に反対論が多かったという。
海南町役場と海部町役場は、海部川を挟んだ対岸に位置しており1kmも離れていない。いわば海部川を共有した兄弟といった感じの関係なのである。宍喰町が疎外感を覚えるのも判らぬでもないが、その後どうなっているかは定かでない。

追記:2006年(平成18年)3月31日 海部町、海南町、宍喰町と合併し、新しく「海陽町」が発足している。


宍喰町の国道55沿いには洒落た「道の駅・宍喰温泉」があった、真向かいには、雄大な太平洋が広がる。 
この道の駅は、通常の観光ターミナルの他に、道の駅としての宿泊施設と王宮のような建物で南国情緒を漂わせる「ホテル・リビエラししくい」、そして温泉が同居していた。 

物産館の横に、尾崎将司の「すこやかに さわやかに おおらかに」と石碑が建っていた。 
尾崎 将司は、ここ海部郡宍喰町の出身のプロゴルファーである。
「ジャンボ尾崎」の別名でもよく知られる。公式ゴルフランキングでも“Masashi Jumbo Ozaki”と表記され、世界ランキングの自己最高位は8位としてあった。
この町を境に、いよいよ高知県に入る。


東洋町・甲浦について・・、


「東洋町」とは大仰な地名である。 
行政名は東陽町であるが、どうも地域に馴染んだ名称は甲浦(かんのうら)が一般的のようで、地名、港湾名、学校名、はたまた神社、駅名の名称まで甲浦である。

山内一豊が土佐に移封されることに決まった慶長5(1600)年の暮れ、大坂を出発し、翌6年1月に、この地、甲浦に上陸し、8日に浦戸城(高知)に入城している。

又、この甲浦で「佐賀の乱」(明治7年に江藤新平・島義勇〈しまよしたけ:北海道開発、特に札幌の開拓の父とも呼ばれる〉らをリーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ)に破れた江等新平が捕まっているという。 江藤は、鹿児島から四国に渡り高知で再起を計ったが失敗し、虚しく立ち去らねばならなかった。
更に高知から東進して、ここ甲浦に至った。この進行には艱難を極めたらしく、江藤をして「自分は母の胎内から出て、未だかつてこんな苦痛に遭ったことがない」と言わしめた。

この時既に甲浦にまで江藤の人相書は出回っていた。
甲浦は、当時上方へ渡る船の入出する港であり、江藤らがここを通過することが十分予想されたのであって、江藤はこの網に引っかかったのである。佐賀の乱の敗走から1ヶ月であった。

甲浦という僻村が歴史に登場したのは、江藤の騒動が最初で最後かも知れない・・?。
この様な鄙びた町に、東洋町と言う大仰な地名、否、行政名を誰が付けたのだろうか・・?。 
たしかに東に大洋を望む地域だが・・、いっその事、高知の東の端に当たるので「東端町」にでもすれば良かったものを・・、と勝手に思ったりして。 


甲浦地区の一集落に点在する古い建築様式に、「仏頂造り」という建築物が在る。
昔ながらの和式住宅が建ち並ぶ通りに、家の雨戸にあたる部分が面白い形状をしているのである。 板でできた戸が、上半分と下半分に分かれており、それぞれ上下に開く、ちょうど観音開きを横向きにしたような形である。
開くと上半分は庇のようになり、下半分は縁側のようになる。

克ってはこの甲浦は、土佐藩主山内氏が参勤交代の際にも利用され、藩主の宿舎や関連施設、浦奉行などが置かれていた。 
街道集落でもあった甲浦では、この仏頂様式の縁側で商品を陳列したり、旅人を接待したりしたという。この造りは人で賑わう玄関港と台風の通過地という場所で生まれた生活の知恵でもあったようである。
街並みは徐々に最近の一戸建て住宅に更新が進んでいるようであるが、いくつかの古い民家には、今も仏頂造りが残っている。


甲浦駅は鉄道の終点でもある。 
JR牟岐線がR55と並行して、更に海部駅から甲浦までを結ぶのが阿佐海岸鉄道である。
一応、徳島(阿波)と高知(土佐)を結んでいることになり、「阿佐」の線名に相応しい。 

もともとこの海部から高知市に近い駅を結ぶ、国鉄阿佐線として計画されていて、室戸岬を経由する気宇広大な計画だったのだが、国鉄再建、民営化に伴って工事は中断されてしまったという。一方、高知県側の後免−奈半利間は「土佐くろしお鉄道」が開業している。

次回は、閑話休題「四国」について・・、

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日本周遊紀行(64)閑話休題 「四国について」




「高知県」へ到ったが、その前に再び閑話休題・「四国について」・・、


阿波・徳島を周って、土佐の高知に到った訳だが、ここで更に「四国」について触れて見よう。

一般に四国は北四国、南四国といって瀬戸内海側と太平洋側とに区分される、だが、気候、風土的には瀬戸内海沿岸地域、四国山地地域、南四国地域の三地域にも分けられる。

瀬戸内海は日本最大の内海で、穏やかな波や美しい島々があり、一大美観で大半が国定公園に指定されている。
瀬戸内海とは、北側は関門海峡、東側は鳴門海峡、そして西側には豊予海峡(速吸瀬戸)と何れも強力な潮の流れの激しいところの内側の海域を指した名称である。
因みに、「瀬戸」とは幅の狭い海峡、潮汐の干満によって激しい潮流を生ずるところを指す。

瀬戸内海沿岸地域の気候の特性は年間降水量が少なく、しばしば渇水になる特性があるようだ。
これは後日、高知の沿岸(太平洋側)と愛媛の瀬戸内側を巡るうち、河川の水量が全く異なることに気がついている。
特に、この時期になると(4〜6月・・?)高知の四万十川等は満々と水量が豊富なのに対して、瀬戸内側の大小河川は、ほぼ完全に渇水状態であったこと。
これはダムの残水量等、時折、生活上問題にもなっているようで、吉野川水系の明浦ダムが渇水に見まわれ、連日水不足がニュースや新聞のトップ項目に挙げられるなど全国的にも話題となっている。

又、四国山地地域は、四国の中央部を東西に貫く山地で、中央構造線の南に千数百メートル級の急峻な山々が連なり様々な様相をなしている、四国山脈ともいう。
この地域では多くの自然と景観が合間って信仰の地でもある。険しい山々が荘厳で神々しいことから古代より山岳修行が盛んであり、西日本最高峰の石鎚山や剣山などはその代表格である。
さらには弘法大師ゆかりの四国八十八箇所遍路は、四国の全山、全域が霊場といっても過言ではない。

南四国地域は、気候は海洋性で温暖湿潤であり、台風の通過も多い。
徳島に四国一の河川である急流・吉野川が流れ、高知に四国二の河川てある四万十川の清流が流れる。
然るに水資源が豊富で住民の節水意識が薄いとも言われるが、これは北四国がたびたび水不足に見舞われる地域であるのとは対照的である。四国山地の影響度もある。

経済的に観ると、北四国が瀬戸内海ベルト地帯の一環として経済発展したのに対し、南四国は発展から取り残され、所得水準や工業生産高では大きく差が開いているとも云われ、全国的に見ても開発が遅れた地域であるとみなされているようだが・・。
しかし、近年は四国各地を結ぶ「四国縦横断自動車道」の開通など交通の便が改善されたこともあり、現在では四国を南北のブロック分けすることは少なくなっているともいう。


四国は、古くは奈良時代の古事記『身一ニシテ面四ツ有リ』と書かれていることは先に記したが、更に、「伊予之二名島」とも記されている。

伊予国の愛比賣(エヒメ)と土佐国の建依別(タケヨリワケ)、阿波国の大宜都比賣(オオゲツヒメ)と讃岐国の飯依比古(イイヨリヒコ)との男女二神ずつが一対として表わされている。

つまり、伊予の愛・ヒメと土左の建依別 (愛らしい姫様と力強い建の男)、阿波(粟)の大宜都ヒメと讃岐の飯依ヒコ(男女一対:両方とも穀物・食事関係して神)を現しているという。 俗に言う、愛媛女と土佐男、讃岐男に阿波女といわれる。 「伊予之二名島」の二名とは、その二対のことであった。 
讃岐は香川県,伊予は愛媛県,土佐は高知県,阿波は徳島県である。 

四国は、国造時代から四カ国が寄り添いあって現代に到っている。 
尤も、領土的には変遷もあったようで、伊予国守・高安王(たかやすのおおきみ・敏達天皇の孫である百済王の後裔といわれる)が阿波、讃岐、土佐三ヶ国を合わせて領したこともあった。
一時期、中世の細川氏、戦国初期の長宗我部元親が四国を一国として統治していたが、長宗我部は豊臣秀吉によって征伐され、元の鞘(四ヶ国)に戻っている。


さて、これより訪ねる土佐の高知であるが・・ 

奈良後期、国郡の制が定まり、駅制が整備されてからは京都と四国の国府を結ぶ官道の往来が賑やかになった。
国の格付は土佐が中の国で、他の三ヶ国は上の国といわれた時期もあり、都から見れば土佐は最も遠い国であったが為かもしれない・・?。

国守では、「土佐日記」を著した土佐守・紀貫之が有名(後述)で代表格であろう。 
この頃から平安末期頃まで、土佐は遠流の国となり、貴き方々(都人)が流人として配流されている地域となった。 

戦国末期、土佐は長宗我部氏のあと、1601年(慶長6)に山内一豊が20万石余で入国している。(来年・2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」で放映、詳しくは後述・・、) 
その後の江戸末期、土佐の国から日本を背負い立つ傑物も現れている。 

土佐もっこす」という言葉もあり、「坂本竜馬」に代表される、一本気で骨太で信用がおけるが、頑固で融通がきかないといった土佐人の県民性を表した言葉のようである。
古事記に言う、土佐は「男の国」なのである。

次回は、高知の室戸崎

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