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写真:有馬温泉「銀の湯」

日本周遊紀行(56)神戸 「有馬温泉」



三古泉・三名泉の一つである「有馬温泉」・・、

国道176号を、宝塚駅を過ぎて少し走り、中国道を左折すると県道51号の有馬街道に入る。 
道端には古い道標が残っていて、これは太閤秀吉が有馬街道で迷う人のないようにと、有馬への道標を刻ませたという道標だという。

すぐに急な登りのヘアピンがあってそこからカーブが連続する。 
六甲の北の山麓にあたり、前方にはパノラマのように「蓬莱峡」の景色が広がっている。灰褐色の鋭い岩が乱立している光景は不思議な風景である。

蓬莱峡を過ぎて、長い上り坂を登りきったところに「船坂」の集落がある。
ここは標高400m近くあって寒冷な気候を生かし、今でも冬季には昔ながらの製法で「寒天づくり」が行われているという。


寒天といえば・・、

拙宅(神奈川)から長野の別宅・白馬村へ行く途中、長野県中部に「諏訪」がある。
諏訪地方が全国一寒天の生産地である。

寒天は、寒風吹きすさぶ厳しい寒さと昼間の晴天という気温差による気候が寒天作りに適しているそうで、材料は海のもので天草(テングサ)を原料として作られている。
テングサは、現在は伊豆、伊豆諸島あたりから諏訪地方へ出荷されているようで、心太草と書くが、「太」がテンになり、それがなまってトコロテン(心太)になったらしい。

このトコロテンを寒晒したものが寒天で、トコロテンは俗字で本当は「凝海藻(ころもは)」と書くと平安時代の書物に記されているとか。
食用化されたのはもっと以前の奈良時代で、僧侶の間で盛んに食べられており、朝廷の供物にも用いられていたという。今ではダイエット、健康食品として新しい姿を見せている。


西宮へ至る六甲北道路を直進し、更に芦屋に至る芦有ドライブウェイを過ぎると間もなく「有馬温泉」である。 
清らかな有馬川沿いを行くと風情のある朱色の太閤橋が見えた。 近くに神戸が始発の神戸電鉄有馬線・有馬温泉駅が伺える。 
主要道路は、温泉街の中心ともいえる善福寺の前あたりが、程よく行き止まりになっている。 
車を置いて暫し周辺の様子を確かめる、奥まった周辺は坂道の多い傾斜地に旅館やホテルが密集しているようだ。
左手に有馬温泉の名物の日帰り湯の「金の湯」が在ったが、残念ながら休館であった。 伺うと「銀の湯」は開業しているらしい。



有馬温泉の由来は神代の時代に遡る・・、

古代 の7世紀には舒明天皇が約3ヶ月滞在したことが日本書紀に見られる。
又、孝徳天皇が妃の小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中、待望の皇子が生まれたので名を「有間」と名付けたといい、後の有馬皇子である。 
この皇子は奇しくも白浜の湯で政変を企んだとのかどで絞首にされている。


中世には、清少納言が枕草子で有馬温泉に言及している・・、

源平合戦の直後の戦乱で荒廃しきっていた有馬を救ったのは、吉野(奈良県)からやってきた仁西(にんさい)という僧で、有馬の再興を果たし湯治場としての原型を作ったという。

又、太閤秀吉が愛した温泉地としても有名である。
有馬温泉に「太閤の湯殿館」という旅館が在るが、この地の温泉寺の近くに「湯山御殿」を建てたと伝えられている。
阪神淡路大震災で有馬一帯もかなりの被害が発生したらしいが、温泉寺(極楽寺)修復の際に、地下から400年の時を経て、数々の物が出土したという。 
併せて、極楽寺本堂横の庫裏下から岩風呂や蒸し風呂,庭園跡などが発掘されたという。

豊臣秀吉が11年間で9回訪れた有馬温泉の「湯山御殿」の遺構が、現在公開されている。


有馬温泉は大阪より1時間、神戸三宮より30分とアクセスも良く、関西の奥座敷として親しまれる。
泉質は、含鉄強塩泉の金泉(金の湯)と呼ばれる赤褐色の湯と、無色の炭酸泉・銀泉(銀の湯)の2つ、交互に浸かれば相乗効果があると言われる。


車を池坊満月城ホテルの駐車場に預けて、先ずは銀の湯へ向かう。
それにしても満月城のひと際巨大なホテルが目立っている。

西南の方向、温泉寺と念仏寺の急坂、階段を行く、有馬でも一等地の高台である。
この辺りは太閤秀吉が有馬を訪れていた頃は、足元から湯が湧き出していたと言われ、この温泉を「上之湯」とか「願の湯(ねがいのゆ)」と呼ばれていたらしい。

阪神・淡路大震災で壊れた有馬温泉の極楽寺の庫裏 (くり・お寺の食事を作ったりするところ)の下から、安土・桃山時代の遺跡が発掘されたが、念仏寺は太閤秀吉・北政所の別邸跡とも言われる由緒ある寺院で、雰囲気も良く見晴らしも素晴らしいところである。


温泉寺と念仏寺の先に「銀の湯」が在った・・、


金の湯のモダンな洋風に比して、こちらは木造の純和風造りで、瀟洒な雰囲気をだしている。 
暖簾(のれん)をくぐり自動販売機で券を買い、受付でロッカーの鍵を貰って、そそくさと浴場へ。  
中は「太閤の蒸し風呂」と言われるサウナと泡風呂、一般浴槽のみで、残念ながら露天風呂はなかった。
せっかくの有名温泉地で、しかも周辺は自然豊かな所なので露天風呂も欲しいところであるが、先ずは有馬の湯に浸かる。
金の湯とはお湯の質が異なるようで、こちらは炭酸泉・放射能泉(ラジウム泉)の無色透明な温泉で、全体にさらっとした感じの湯である。

情報によると、源泉からの湯量が低下した場合は不足を補うために加水することがあり (不定期) 、湧出温度が低いため加温して、循環(補充)しながら塩素による消毒を実施しているという。
さすが古来名泉といわれた有馬温泉も、現在では湯量、湯温には悩まされているようである・・? 
昨日から今朝にかけて訪れた南紀白浜とはチト・・、状況は異なるようである。


銀の湯の裏手高台に温泉神社があった。
南側に愛宕山公園も隣接していて清閑な地にあり、この山の中腹に有馬の氏神・温泉守護神として崇められている。 
歴史は古く、日本書記 (720年)に舒明天皇・孝徳天皇・白河法皇などの参拝が記されているという。
草創期の祭神は、有馬温泉を発見したと伝えられる大己貴命(大国主の若い頃の名前・大黒さま) と少彦名命 (スクナヒコナ・医薬の神) とされ、この神社にある熊野曼荼羅図は、国の重要文化財に指定されているという。


温泉タウンで、格安安価な宿を探したが、いずれもべらぼうに高価で割に合わず、断念した有馬を後にした。

一旦、中国道の西宮北I・Cから山陽道へ行き、一気に淡路へ向かうことにする。
夜のライトに照らされた優雅な明石海峡大橋を渡って、淡路島の北端「道の駅・あわじ」にて今夜の宿、車中の人となる。 

対岸の神戸の夜景が、眩しいくらいの輝きを見せ付けていた。

次回は「神戸」

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日本周遊紀行(56)神戸 「一の谷」



平家終焉の序章・・、


昨夜、あれだけ鮮明に見えていた神戸の街は、今朝はモヤのベールに包まれてボンヤリとしか望めない。
関西圏では、京都や大阪数回・・、また岡山や四国、はたまた昨夜の有馬温泉といい、過去に、所によっては数回訪れてはいるが、大阪と並ぶ主要都市「神戸」は一度もなかった。結局、今回も素通りすることに、なってしまった・・が。

東の横浜、西の神戸といわれているが、エキゾチックで異国情緒あふれる神戸は、昔の面影を残す港の雰囲気溢れる町並みであろう。 

海と山の迫る東西に細長い市街地を持ち、十分な水深の有る扇状の入り江部に発展した理想的な港湾・神戸港を有する日本を代表する港町である。
市域中央に横たわる六甲山地の山上の高原一帯は日本における別荘・リゾート等の発祥地として有名であり、昨夜訪れた有馬温泉は六甲北麓、神戸市街の反対側に当たる。 
有馬温泉は日本三古湯の一つとして古来より名高い保養地であり、今では神戸市街の喧騒を六甲山系がシャットアウトし、都市神戸の奥座敷として願っても無い至近距離にある。


「神戸」という地名と灘・・・、

「神戸」は、かんべ、ごうど、こうべ、といろんな読み方が有る。
主に地域の氏神である神社の経済的基盤となった住民や土地の地域のことを指していて、日本各地に神戸(読みはいろいろ・・、)という地域名として存在する。

神戸は現在の三宮・元町周辺が古くから生田神社の神封戸の集落(神戸「かんべ」)であったことに由来しているという。 
神戸の民は、生田神社をはじめ、神戸三社(他に、長田神社や湊川神社)、市内ある神社の神事に使うお神酒の生産にも係わり、それが、現在の灘五郷という「灘の生一本」で知られる日本酒の一大生産地につながったと言う。


灘(なだ)とは本来、風波が荒く航海の困難な海のことを意味しすが・・、


酒類業界では通常清酒の主産地である神戸市東部から西宮市今津(灘区、東灘区)に至る大阪湾に面した約12kmに及ぶ沿岸地帯を指している。

気候や立地に恵まれた「神戸」は、すでに古代から歴史の中に登場している・・、

大阪湾、瀬戸内海に面している神戸は京・大阪にも至近で、古くから海運、貿易港として、「港」とともに発展を遂げ、奈良時代には既に存在した港「大輪田泊」という名称で登場し開港している。
平安後期には、その利点に目を付けた平清盛が、自国の荘園だったこともあって神戸の港・大輪田の泊を改修し、中国(当時は「宋」)と貿易を行っている。 

この時期、清盛は京都から神戸の福原に首都を移転して、所謂、現在の兵庫区を中心に「福原京」が設けられた。
つまり、海洋国家としての樹立をめざしたのであろう。 実際のところは、源氏勢力から一時的に逃れるため、自らの強い勢力圏に天皇を移そうとしたという背景もあるといわれる。

そうした建設途上、東国における源平の争乱はますます激化し、富士川の戦いにおいて平氏軍は大敗を喫した。 
清盛は状況に抗しきれず、遂に福原をあきらめ平安京への還幸を決意することとなる。 
その後、清盛亡き後源氏の勢いは益々盛んで、平宗盛を総帥とする平氏一門は、源義仲に追われて都落ちを余儀なくされた。 
宗盛らはその途上で福原に立ち寄り、邸宅のことごとくを焼き払っている。 
源平合戦では英雄・源義経が、この地の「一の谷の戦い」で源氏が大勝利していることは周知である。

平家物語・「一の谷の戦い」の段における古書には・・、

『 山陽道七ヶ国、南海道六ヶ国、都合十三ヶ国の住人等ことごとく従え、軍兵十万余騎に及べり。木曽打たれぬと聞こえければ、平家は讃岐屋島を漕ぎ出でつつ、摂津国と播磨との堺なる、難波一の谷と云う所にぞ籠りける・・先陣は生田の森、湊川、福原の都に陣を取り、後陣は室、高砂、明石まで続き、海上には数千艘の舟を浮かべて、浦々島々に充満したり、一の谷は口は狭くて奥広し。南は海、北は山、岸高くして屏風を立てたるが如し。馬も人も少しも通うべき様なかりけり・・』、とある。

福原の都(経ヶ島が中心)でもある一の谷城のほぼ正面には、現在の神戸市兵庫区鵯越町にあたる。有名な「鵯越の逆(坂)落とし」で、義経を主将とする源氏軍は平家軍を破っている。
平家の予想を裏切る奇襲作戦だったようで、 平家物語には「およそ人間の仕業とは思えないことだ」と記されている。


場所については説が分かれているようだが・・、


義経は、この峻険な高地に立った時、この攻撃は無理だと内心思ったという。
傍らに居た佐原十朗義連(三浦党、三浦義連・よしつら)が、「 こうゆう崖は、われわれ三浦の方では、普通の地形で、いわば三浦の者にとっては馬場のようなものだ 」といったという。

人の目から見ると、たしかに難攻な斜面であるが、馬の目で見ると、そうでないかもしれない。 三浦党は馬の目をもっていたのだろう・・!。 

義経の鵯越えの逆さ落しはこうして生まれたという。

義経の鵯越作戦の地は、今は西神戸有料道路走り、一の谷の経ヶ島付近には、巨大なポーアイランドが浮かぶ。


青葉の笛』 ―敦盛と忠度―  

一の谷の 軍破れ           更くる夜半に 門を敲き
討たれし平家の 公達あわれ    わが師に託せし 言の葉あわれ
暁寒き 須磨の嵐に         今わの際まで 持ちし箙に
聞こえしはこれか 青葉の笛    残れるは「花や 今宵」の歌


神戸の地は、150年後の南北朝時代においても再び戦乱に塗れた。

次回は、皇将・楠木正成の最後    Part[

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