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日本周遊紀行(53)大阪 「浪速とミナミ」


水の都・大阪は浪速とも云われる・・、

大阪市内に入ると、水辺や橋の多さに驚く・・!!。 
古来、譬え(たとえ・引き合いに出す)として、大江戸・八百八町、京都・八百八寺、浪速・八百八橋といわれる。 

江戸は町屋が多く、京はお寺が多い、そして、大阪は橋が多いという意味である。 

大阪は古くから都へ通ずる水上交通の要地で、江戸期には幕府直轄地として庶民、商人の町として繁栄し、出船千艘、入船千艘と謡われたれた。
大阪、昔は「なにわ・浪速」といわれ、古代の日本書記には、たくさんの川があって、いずれも流れが急であったので「浪速・なみはやの国」と名付けられていたという。

又、大阪の古い呼称で「浪花・難波」ともいって、共に水に縁があるのが面白い、大阪は、やはり「水の都」といってもよい。
現に、中ノ島などは川の中洲にある官庁・オフィス街である。

又、この地域は、やはり水運に関連した「船場」があり、往時の周辺には船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋などが軒を並べ、政治、経済、流通の中心地となっていた。 

江戸時代になってからは「天下の台所」として北部を中心に日本の商業の中心ともなっている。 
現在は、東西南北の船場が有り、大大阪の中心地として繊維問屋や商社、証券会社、銀行等が集中しており、大阪より発生した大商社・伊藤忠商事や丸紅などは、この船場を出発点とする企業だと言う。
中ノ島の北側を流れる堂島川は、江戸期には水上交通の要衝であり、米市場があって相場をなし、いわゆる相場の発祥地でもある。ここで大阪商人により江戸をはじめ全国各地へ送られていった。


難波は、「なんば」ともいって、道頓堀以南、浪速区の北部にわたる一帯を指し、私鉄・地下鉄の難波駅がある。 
大阪の広域的な通称で、「キタ・北」や「ミナミ・南」と云ったりすして、北は、大阪駅を中心とした北区辺りを指し、南は、通天閣のある天王寺、難波を中心とした地域を指しているようである。 
所謂「ミナミは」、難波、道頓堀、心斎橋、法善寺横町、天王寺といったエリアで食い倒れ、難波花月、ひっかけ橋(戎橋)といった、いわばコテコテの大阪的なものは全てここに集まっている。

さしずめ、難波は、南場といったところか・・?。


小生、20代後半の頃、仕事で国鉄・大阪駅(現、JR大阪・・乗り入れてる私鉄の駅名は何故か梅田駅という・・?)から難波の南海電鉄で堺東へ何回となく行き来し、ついでにミナミでよく遊んだのが懐かしい。 


因みに、大阪駅、梅田駅については・・、

大阪駅は北区・梅田にあっても国鉄、JRの駅であって、所謂、広域的な全国区である。
梅田駅は同地域に在っても私鉄や地域鉄道が主で、所謂、地域的名称であり、地元っ子に言わせても「梅田」が適っているという。
例えていえば、JR東京駅が丸の内にあるから丸の内駅・・、なんて名前だったらやはり可笑しいし、丸の内にあってもやはり全国区は東京駅である。


浪速・大阪人の反骨精神・・?、

ミナミの中心とも云える上本町、千日前の繁華街道路は、さすがに車も人も多い。
疲れ気味の小生の運転では余程神経を集中しないといけないようだ、要注意、要注意!!・・。
そういえば大阪人は人も車も、交通マナーの悪さは日本一だと言われるとか・・?。

大阪人の気質をあらわすのに、「いらち」(苛ち)という言葉がある。 
意味は、いらいらする、せっかちであるで、単にせっかちな人ではなく、現時のその人の状態、人々の様子をいっているようである。
例えて「あんた、ほんまに“いらち”やなぁ、」といい「あなたは、本当に、せっかちで、すぐイライラする人ですね、」という意味であるとか。 「赤信号、皆で渡れば怖くない」、この言葉遊びも大阪から発信されたものというが・・?。
又、違法駐車なども多いという。

とかく大阪人は、「マナーが悪い」、「自分勝手」といわれるが、こういった気質の裏返しには「権威」や「お上」の対する、ある種の反骨精神もあるという。
江戸の権威に対して、こちらは「上方」と言っている、お上をあてにせず、権威に媚びず、笑いのネタにして、笑い飛ばす気質があるのかもしれない。 

大阪人の挨拶に「もうかりまっか・・!」、「ぼちぼちでんな・・!」という、所謂、曖昧表現がある。 
だが、その裏にはしっかりと計算された胸三寸もあるとという。 
このことは特に、日本人独特の表現の仕方でもあり、外国人には意味不明で理解できないらしく、日本人の曖昧さ、いい加減さは存外、この大阪あたりが発祥なのかもしれない。

しかし、大阪人は大阪の「橋」をはじめ、国公立大、病院、大阪城・天守閣等、私財を投入した大阪商人をはじめ、民間人によって建てられたという。
これらを見ても大阪人は、自分で出来る事は自分でする、といった独立自尊の哲学、精神があり、これらから、単に自分勝手で意味不明とは云えない様でもある。


さて、その橋である・・、

東京は「大江戸・八百八町」、京都は「八百八寺」、そして大阪は「八百八橋」と言われるほど川筋、掘割、橋が多いことでは前述したが、この道の界隈は心斎橋、道頓堀、御堂筋といった、いわば大阪の顔とも言える主要な筋、道が走る。
一般に大阪は道のことを筋といって、○○筋というのが多数ある。道頓堀の東西には道頓堀川が流れて、両川筋は「法善寺横町」、「宗右衛門横町」といった、唄でも御馴染みの歓楽街が並ぶ。

又、この川を跨いで「戎橋」、「相合橋」が両横町を交んでいる。

御馴染みの「戎橋」は、2003年の阪神タイガース優勝時、又、2002年のワールドカップ(コリア・ジャパン)での日本勝利・決勝トーナメント進出時には、この橋から道頓堀に飛び込む若者が相次いだ(この飛込みで死者も出した)。 

又、この橋は、客引きやナンパも多く、通称「ひっかけ橋」、「ナンパ橋」とも呼ばれるらしい。
難波のナンパ橋で軟派した」、など洒落にもならぬが、天下に知れた名物の橋である。

2005年の「阪神」優勝時には、大阪市がフェンスをめぐらして警察官を配置するなど対応をしたが、その目を掻い潜って道頓堀に飛び込む若者が少数ながら存在したという。
これも、大阪人の反骨精神の表れかもしれない・・!!。


大阪ラプソディー』 作詞 山上路夫

あの人もこの人も そぞろ歩く宵の街
どこへ行く二人づれ 御堂筋は恋の道
映画を見ましょうか それともこのまま
道頓堀まで 歩きましょうか
七色のネオンさえ 甘い夢を唄ってる
宵闇の大阪は 二人づれ恋の街

次回はやはり大阪・「四天王寺」

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日本周遊紀行(53)大阪 「四天王寺」



「四天王寺」は日本仏教の最初の寺・・、

この「浪速」の地方は古来、大和の都(奈良)、京の都の至近にあって大和民族のもっとも重要な活動舞台であった。 
この浪速の津は瀬戸内海の始点でもあり、終点でもあって海外の朝鮮半島、中国大陸へは北九州を通じて、そして太平洋から国内の各地へと、その大動脈を握っていた。

古代、推古天皇の御世、聖徳太子がこの地に「四天王寺」を建て、中国の「隋」、「唐」といった通商交通の外来客を招き、接待を行なう館としたのも頷けるのである。


その四天王寺へ向う・・、

環状線を安倍野の近くで下りたのであろうか・・?、定かでないが通天閣の上部が建物越しに見えていた。
天王寺駅の賑やかな駅前を通ったようだが、四天王寺がどの位置にあるか、なかなか見つけられない。でも、どうやら五重塔や伽藍の建物が見え出した、しかし、こんどは入り口らしいのが判らない。
車を止め、塀の周りをうろつきながら近所の人と思われる方に覗って、どうやら確認できた。

そこには「大日本仏法最初四天王寺」と名盤石柱が立ち、何故か、ここにかなり大きな石材の鳥居が建っている。 

「鳥居」とは、普通神社の参道入口か参道に立てて在って、神域を示す一種の門であろう、しかるに神社でなく寺院に鳥居とは、些か不可解な気もするが・・?。

尤も、近代になって神仏分離でお寺とお宮は別々の存在になってはいるが、それ以前は神仏一体で、同居同座していても不思議ではなかった。 
そればかりか大きな寺院は鎮護のため、その一角に社宮を造営し鎮座させ、厄災を護除したものである。 
しかもその時は、方位を決めて鎮座させ、方位の邪(鬼門)を除けたものでもあった。


本来、鳥居とは神社などにおいて、神域と人間界が住む俗界を区画するもの(結界)であり、神域への入口を示すもので一種の「」である。
その意味から神社に限ったものではなく、御陵や寺院にも建てられていることもあるという。 
そういえば、インド仏教の様式や中国の寺仏にも、形や造りは異なっているが鳥居や門はあった。 
それでも日本では、一般的には神社を象徴するものとして捉えている。 


四天王寺の石の大鳥居は珍しく、13世紀末に造られた日本最古の石造りの大鳥居の一つとされていて、しかも、日本三大鳥居の一つであるという。 

因みに、日本三鳥居は、吉野・金峯山寺の銅の鳥居(かねのとりい:重要文化財)、安芸の宮島、厳島神社の朱丹の大鳥居(重要文化財/世界遺産)と、こちらの大阪・四天王寺の石の鳥居である。
気がつけば、金峯山寺も寺院であった。

四天王寺は、鳥居脇の石柱に「大日本仏法最初四天王寺」としてあるように、やはり由緒ある大寺院であることを、どこか誇っているようにも見える。 
鳥居の奥に、巨大な総門か山門(西大門・極楽門)が天を覆うほどの大きさで存在感を示している。
そこをくぐって四天王寺の寺舎が確認できた。 立派な五重の塔が右に在った、コンクリート製である。


四天王寺の意義と歴史・・、

四天王寺は、遥かなる歴史をもつ日本でも最古の寺院という。
しかし、残念な事に、それらしい荘厳な雰囲気は全く感じられない。 
又、古刹寺院のもつ格式の中で信心、信仰といった崇高な参詣や名所といえる観光的要素の参拝による人々の賑わい等も全く無く、ただ閑散としていたが。
これも、今では大阪という大都会の真ん中に鎮護しているためか・・?。
   
四天王寺は推古天皇の御世、西暦539年に造営され、本来、聖徳太子が物部氏との戦いに勝利を祈願して創建されたといわれる。
仏教における 四 人の守護神のことで源は、須弥山(古代インドの聖なる山)の頂上に住む帝釈天に仕え、その中腹でともに仏法を守護している神、護法神のことで、東の持国天、西の広目天、南の増長天、北の多聞天を指している。

この四神には仏法伝来の奈良期において、それぞれモデルがあるとされて持国天は蘇我馬子、広目天は迹見赤檮(とみのいちい)、増長天は小野妹子、多聞天は秦河勝(はたのかわかつ)といわれる。 

4人に共通しているのは、いずれも渡来系氏族であり、迹見赤檮は太子の同族であり、秦氏は中国の秦氏で太子を軍事的、経済的に支え、小野妹子も中国系氏族の出身であること、蘇我氏は同じ渡来系でも百済王族の系統で朝鮮半島がルーツという。
いずれも聖徳太子を支えた一族であったことである。
渡来人は、いずれも九州の地から上陸し、九州王朝と融合したと考えられる。 

この時期は未だ正式には仏教は日本には定着してないが、渡来人に依ってそれなりの仏式による寺院が建立されていたといわれる。
その後、仏教が伝来、定着するに及んで、太子は「四天王寺」として九州の地から、ここ浪速の地へ移築したと考えられるという。


四天王寺の「四箇院の制」・・、

四天王寺縁起』には、インドの四天王になぞらえて「四箇院の制」を取り入れ、仏法の根本精神の道場、実践としての主な寺院である敬田院、悲田院、施楽院、療病院を配した。 

信仰、学問の中心寺院である金堂の「敬田院」、 病者に薬を施す「施薬院」、病気の者を収容し、病気を癒す 「療病院」、身寄りのない者や年老いた者を収容する「悲田院」の四つの施仏堂や、他に五重塔、聖徳太子ゆかりの太子堂など建立するとある。

四天王寺は、聖徳太子が建立したことは先に記したが、年代は飛鳥時代の推古天皇期の西暦593年であり、奈良・斑鳩の法隆寺(創建607年)より更に古い。

飛鳥時代とは、一般に奈良盆地南部の飛鳥地方を都とした推古朝前後の時代のこと。推古天皇を中心に、仏教渡来から平城遷都(奈良期)まで広く含めていたが、今では政治史や文化史でも6世紀末から7世紀前半までとするのが普通で推古時代ともいうらしい。

仏教伝来は538年、百済(当時、古代の朝鮮半島の国名)からもたらされたという。
仏教伝来以来の一時期、仏教は蘇我氏(飛鳥時代の有力豪族。崇仏派で物部氏と対立。
孫の入鹿まで中央で勢力を張り、大化の改新直前に本家は滅びる)と物部氏(飛鳥時代の有力な軍事氏族で、日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派である。
蘇我氏と対立して敗れる)の争いで停滞していたが、聖徳太子が出現するに及んで仏教を世に知らしめ、布教するために四天王寺の先ず金堂・敬田院を建立したという。 


戦乱の犠牲となる古刹・・!、

隆盛時の大寺は、境内には大小40余の伽藍堂宇が建ち並んでいた。 
これも、現在の境内とは比較に成らないほどの、はるかなる広大な敷地で各々の寺院が点在していたものと言われる。
しかし、さしもの栄華を誇った由緒ある古刹寺院も、幾多の戦乱の中でその殆どが破壊され、焼かれ、消失してしまっていた。 
ただ、現在重文指定の建造物が、ほんの僅かに残っているともいう。
今の建物は昭和30年後半、建造したもので五重塔をはじめ、金堂、講堂、太子堂など塀囲に囲まれ、当時の飛鳥時代の様式で再建されているという。 
しかし惜しむらくは、これら建築物は日本古来の木造ではなく、コンクリート造りであった。 
今は、それらの建物は都会の中の粉塵にまみれて、ただ静かに時の移ろいを見つめるだけであるが。 尚、歴史の厳然たる事実として、堂々と存在しなくてはならないのである。


驚愕の日本最古の現存企業・・!!、

境内を回参して再び、石の大鳥居へ戻ってきた。
1400年前の飛鳥時代に建立された大阪・四天王寺、手がけたのは578年に聖徳太子が百済から招いた3人の工匠たちであった。 
その1人の名を「金剛重光」といった、企業として日本、世界でも例がないほどの歴史をもつ建築会社「金剛組」の初代社長であったという。
この鳥居の程近く、四天王寺の西方を守るように「金剛組」は1400年を経た今日も存在しているのである。 
現在、寺院から特別に「四天王寺正大工第39世金剛広目利隆」という名称が与えられているという。 
利隆は、現在の代表者の名前であり、広目とは四天王寺の西方を守る広目天のことで、現在の四天王の一角を占めているらしい。


ところで、四天王寺は過去に7回、焼失や倒壊の憂き目にあっている。 

信長の焼き討ち、大阪冬の陣、室戸台風、空襲なで、その都度再建してきてのは金剛組であった。状況が一変したのは、やはり明治初頭の廃仏毀釈であった、この時、37代目は「先祖に申し訳ない」として自殺しているという。
室戸台風で損壊し、そして再建した直後、今度は昭和の戦争による空襲で殆どが焼失してしまった。
金剛組は同じ轍を踏むまいとして、やむなく戦後は鉄筋コンクリート造りにしたという。 

四天王寺とともに寄り添うように金剛組が存続してきたは、やはり確かな宮大工の技術であった。 
平成14年、金剛組は四天王寺に「番匠堂」という、聖徳太子が道具の曲尺を持つ像とともに、御堂を寄進したという。 以来、全国から参拝する大工方が絶えないという。 

「老舗」とは、「仕似せ」
であり、似せて物事を造り挙げ、続ける事であった。

妙な思いを巡らしながら、四天王寺を後にした。

次回は、「大阪城」

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写真:大阪城天守閣

日本周遊紀行(53)大阪 「大阪城」



「太閤はん」の天下の象徴は、何といっても「大阪城」・・、

道は、谷町四丁目に至り、既に大阪城の一角で天主が見えてきている。
ところで、谷町四丁目を「谷四」、天神橋筋六丁目を「天六」というように、○町△丁目を「○△」と頭で略す独特の習慣が大阪にはある。
東京の人は、銀座四丁目を「銀四」と言ったり、新宿三丁目を「新三」と言ったりはしない。これらも、大阪人の「いらち」の特性なのであろうか、ともあれ大阪は地域に土着し、それらを愛称で呼んでいるのである。


早速、近くの大手門前の広場にヒョイと車を置いて、カメラ片手に出かけた。
大手門は大阪城の正門で、良く整備された広い上り坂の頂にどっしりと構えている、別名で追手門ともいう。
続いての多門櫓も迫力あり、城郭に近ずくにしたがって、巨大な造り、文字通り天を突くような天守閣の威容が迫る。

城郭は、概ね白を基調としたもので、各層の壁に切妻風の屋根型を嵌め込んで、独特の偉容と豪壮感を形造っている。破風部分の飾りもいいが、切妻の壁の上部と左右部に金色で施した装飾が光輝いて、華美を誇っている。

大阪城は、大阪の象徴であり、誇りである。
築城者は、大阪で最も親しまれている、あの「太閤はん」である。


歴史は遡る・・、

大阪城は室町時代の僧・本願寺第八世の蓮如(れんにょ)に始まるのである。
他宗派に押されていた浄土真宗は、本願寺(京・西本願寺)を中興し、現在の礎を石山の上町台地の北端にある小高い丘に本願寺別院として「石山本願寺」を造営した。
寺院とともに町屋も出来、周辺を寺内町と称した。
ここが台地にそった坂の上にあることから「小坂」と言っていたが、後に「大坂」と呼ばれるようになったという。 
これが大阪城の起こりであり、地名も大阪に成っていった。


要塞化した門徒集団と風雲の「大阪城」・・、

戦国期には、城郭に匹敵する堅固な石垣をめぐらして要塞化した。 
織田信長との石山合戦は良く知られているが、この時は、主に篭城戦で戦ったが、長引く戦闘の後、信長の攻勢に顕如は敗北する。 
信長が、本能寺で逝った後、石山本願寺とその寺内町であった地に、豊臣秀吉が築城を開始し大阪城とした。 
完成に1年半を要したが、本丸は石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので、巧妙な防衛機能が施され、城のすぐ北部には大淀川が流れ、堀溝を築いて水を引き入れ、天然の濠としている。 

しかし、当の秀吉は京都の聚楽第や伏見城に住んでいて、大阪城を居城とはしなかった。 
秀吉死後は、遺児の豊臣秀頼が母(淀君)とともに大坂城に移り、徳川幕府の成立後も秀頼は大坂城に留まり摂津(大阪)を支配していた。 

1614年の「大坂冬の陣」、翌1615年の「大坂夏の陣」で徳川家康の率いる大軍に、さしもの大坂城も落城し、豊臣氏の滅亡とともに大阪城は落城し灰燼に帰した。
江戸期は幕府直轄領(天領)として、徳川秀忠によって再建が始められる。 
大坂城をより豪壮な城郭として、豊臣時代の城を圧殺するかごとく全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を全国に示したと言える。 
現在の天守閣は概ね、この時代のものである。

幕末、鳥羽・伏見の戦いで、城内の建造物はほとんど焼失し、昭和の太平洋戦争では、1トン爆弾が多数投下され、猛烈に破壊された。 
そして、昭和期、平成期、天守閣の大規模な改修工事が行われ現在の城郭・天守閣が完成する。歴史の大波にもまれにもまれた五層の大天主・大阪城も、今は平和日本の象徴として浪速の空に聳え、大阪の民の安穏を祈り見下ろしている。 


現存最長記録の大阪城・・、

因みに、豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になっていて、国の登録文化財でもある。 
登録文化財 (登録有形文化財)とは、文化財登録制度(文化庁'96〜)により、文化財登録原簿に登録(リスティング)された建造物などを指し、名古屋城、熊本城と共に日本三大名城の一つといわれる。

大阪城天守閣は、内部が豊臣秀吉や大阪城にかかわる豊富な文化財を収蔵する歴史博物館となっており、シアタールームやジオラマなどを使ってわかりやすく歴史を解説している。
地上50mの展望台からは、大阪の街を一望でき、天守閣を含む周辺一帯は大阪城公園として整備され、桜の名所としても有名。
又、櫓、門の各種建物の見所も多く、各施設、神社、お城に関する七不思議等、多数の名所がある。


普請大名自慢の大阪城石垣・・、

しかし、何といっても大阪城の特徴的な見所の一つに、お城を取り囲む「石垣」であろう、この石垣は主に江戸初期のものであるという。
天下の徳川幕府は、主に西国等の大名に命じて大阪城の大修築を行わせた。 
この時の石垣はなるべく良質で大きな立派なものが喜ばれ、工事を請け負った大名達は、自分の「紋」をその石に刻み込んだ。その石のことを「定紋石」と呼んでいる。 
長州の毛利家、日向・薩摩の島津家、岡山の池田家、松江の堀尾家など諸大名の家紋が刻まれているという。

徳川・「大阪城」の石垣用石材は約百万個と推定される。
これらの採石場所は加茂(京都府)のほか、六甲(兵庫県)や小豆島(香川県)など、瀬戸内一円から切り出されたことが知られている。

巨石のビック5は、一に桜門の蛸石(59.43m2・備前犬島・岡山池田家)、二に京橋門の肥後石(54.17m2・讃岐小豆島・岡山池田家)、三に桜門の振袖石(53.85m2・備前犬島・岡山池田家)、四に大手門の見付石(47.98m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)、五に大手門の二番石(37.90m2・讃岐小豆島・熊本加藤家)等などである。


小生は、大手門よりの入退出であったため大手・見付石(4位)と大手二番石(5位)を拝見、その圧倒的な大きさに驚愕しながらカメラに収めた。

因みに両石は、巨石と巨石の隙間に、笑い積みというユニークな石積みが施されているという。
石の隙間が、笑った口の格好に、なんとなく見えることから笑積みという。 
徳川大阪城建設の際の、担当大名 加藤忠広(秀吉子飼いの重臣・加藤清正の次男)の遊び心が冴える石垣であるという。

因みに、肥後・加藤忠広の父・清正は、名城・「熊本城」の築城者で知られる。

次回は、悲劇の「尼崎」   PartY

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