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日本周遊紀行(227) 越中境 「市振の関」


市振関1


市振関
写真:市振の関(2枚)


「芭蕉」も泊まった地だが、その時うら若き女性に同行を頼まれるが・・?、

国道8号線を東進するに従って、屏風のような山塊が迫ってくる。 
後立山連峰・白馬岳の支脈が北方へ延びて日本海に落ちているのである。 そのため各交通路である国道、高速道、北陸本線等は海側の縁へ追いやられ、狭い区域を接近しながら通っている。

海の端に「越中境」という地域があり、往時は加賀藩最大の関所があった処である。 
越後に通じる親不知の難所を控え、交通の要所を押さえるように国境に設置されたもので、以前、戦国期の抗争には上杉や椎名、佐々等の名だたる武将たちが国境の攻防に凌ぎを削る合戦の拠点ともなった場所である。
やがて江戸時代は前田・加賀藩の統治下になり、親不知を控えた越中の東縁(ひがしへり)という地理的条件から越中の境に関所が設けられ、街道筋の「泊」は交通の要衝となり、宿場町として栄えた。

この先、小さな川であるが「境川」といって越中越後の国境の川である。 
国道には新潟県との標識が目に付いた、いよいよ最終ラウンドの新潟へ入ったという実感が身にしみる。


間もなく「道の駅・市振の関」があった・・、 

山地が海岸まで迫るこの地域にしては、意外と思うほどのゆとりある敷地を有している。 こちらで一服入れる。
間もなく国道に面して北陸線の「市振駅」(いちぶり)が見えた、木造平屋のやや古びた民家のような駅であったし、当然無人駅の様な佇まいである。 国道に「市振の関」と案内板があったので寄ることにした。
旧道であろう市振集落、玉ノ木集落があり、その市振の集落の小学校の一角に「関所跡」や碑があった。 こちらも境の関所同様、幕府が越後・高田藩主・松平氏(徳川譜代)に命じて市振の関を築いたとされる。 これは隣国の有力な外様大名・前田氏を牽制するためでもあった。 

又、この地は北アルプスが日本海に落ち込むところ、近くには親不知の難所が控えていて海岸平野部はないに等しい。 従って、険路である危うい波打ち際を避けて舟で通過しようとする者を、海上から監視する「遠見番所」も併設されていたという。

近くに「長円寺」という古寺があり、ここに芭蕉の句を記念する句碑が建っている。 
「市振」の地名は、芭蕉の「奥の細道」の句と共に登場する。

『 一家に 遊女もねたり 萩と月 』
(ひとつやに  ゆうじょもねたり  はぎとつき)

そして「奥の細道」の一文・・、

 「・・・今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば、枕引よせて寐たるに、一間隔て面の方に、若き女の声二人計ときこゆ。
 年老たるおのこの声も交て物語するをきけば、越後の国新潟と云所の遊女成し。伊勢参宮するとて、此関までおのこの送りて、あすは古郷にかへす文したゝめて、はかなき言伝などしやる也。 白浪のよする汀に身をはふらかし、あまのこの世をあさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云をきくきく寐入て、あした旅立に、我々にむかひて、『行衛しらぬ旅路のうさ、あまり覚束なう悲しく侍れば、見えがくれにも御跡をしたひ侍ん。衣の上の御情に大慈のめぐみをたれて結縁せさせ給へ』と、泪を落す。不便の事には侍れども、『我々は所々にてとヾまる方おほし。只人の行にまかせて行べし。
 神明の加護、かならず恙なかるべし』と、云捨て出つゝ、哀さしばらくやまざりけらし。・・・」


芭蕉は、越後・能生町を出発、糸魚川で休憩、夕刻、市振に到着し「桔梗屋」という旅籠(はたご)に宿泊したと地元では言っている。 
宿舎には宿帳記載も無く、本文のような事実は曾良の随行記にも無いので、この遊女の一件は虚構であろうとも言われているが・・?。

それは兎も角、本文では、若き女性が(遊女)が「お伊勢さん」へ参るには大変な道中であり、それが為に「芭蕉」を修行僧と観た遊女らは 同行を頼むのであった。 
だが、彼はあっさり、つれなく断っている。

普通、若い女性にモノを頼まれれば断れないのが男というもんであろう・・!。 
芭蕉は私的な道中の他に、公的な役割を担っていた(隠密・・?)ともいわれるが・・?。 
存外、そんなところに理由が有ったのやも知れぬ・・!。

いずれにしてもこの先、伊勢へ参るには北陸道から若狭(敦賀)へ出て、琵琶湖、米原を経ながら鈴鹿峠から津を越え、伊勢に到るのであろうが、実に500〜600kmの長道中である。 
当時、一生に一度は伊勢神宮参詣は庶民の夢であったといわれるが、芳紀女性同士の遠路の旅路で、何の願掛けか・・想像するだに難い・・・?!。

次回は親不知

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日本周遊紀行(228) 親不知 「親不知子不知」


親不知親子の像1


親不知(2
写真:親不知親子の像
写真:旧国道(親不知の見所)



親不知(3


親不知4
写真:建設当時岩壁に彫られた文字『如砥如矢』
写真:現在の親不知の景観


昔の親不知は、「如砥如矢」の地・・、

市振から天険トンネルを抜けると国道沿いにひっそりとした、その名も「天険」というドライブインがあった。 営業しているのか、いないのか全く明らかでない休憩所であるが、一角に「親子が肩に荷物を背負って旅路を行く像」が立っている。 
そう、ここは天下の険「親不知子不知」の中枢の地である。

無断で車を置かせてもらい、海側の細い道を辿ると旧道と思しき草生した道へ出た。 
一組のご夫婦らしい人がせっせと縁柵の補修をしているようで、ノンビリしたもので訪れた客らしい者は小生のみであった。 

珍しそうに、取り留めない話の後・・、
「昔は、ここは絶壁に草ぐらいしか生えておらんで、そりゃ下見ると断崖絶壁がモロで、恐ろしげな処じゃッた・・、だが今は草木が生い茂って見通しも悪く、迫力がまるで無くなったワサ・・」 「いっそのこと木々を切り払ったら、もっと、らしゅうになるけんに・・」
という。 

確かに言われるとおり、樹木が生い茂って見通しが悪く、木々の間から海面が見えてる程度であるが、しかし、足下急落している様子は十分に感じられる。 

この道は国道8号線の旧道で明治初年(16年)に開通している。 
現在では町道に格下げとなっているが親不知の最大のポイントに成っていて、天険・親不知観光の拠点にもなっている。 山側を振り返えると切り裂いたような絶壁がそそり立っている。 
その岩肌に『如砥如矢』と彫ってあった。
その下に解説版が有って・・、

 『 ここは、親不知の最難関“天険”の真上にあたる。気をつけて足下100mを覗いてみよう、波寄せる渚が“昔の北陸道”であり、旅人は命がけで通行していた。
 明治16年、絶壁を削って、今立っているこの道ができた。その喜びを一枚岩に刻んで表したのが、「如砥如矢」である。砥石のように滑らかで、矢のように早く通れるという意味で、この道の開削に尽力した“青海”の人、富岳磯平の書といわれる・・」
・・糸魚川 
 
と記してある。
ここは親不知でも最も厳しい所で、天険の断崖と言われる地であった。

この地を明治27年、33歳のW・ウェストン(イギリス人宣教師で、「日本アルプスの登山と探検」を著した人物)が北アルプスの登攀に臨む前に、ここ親不知を訪れ手記を残している。

『・・・青海(十二時)で、申し出により車夫を替えた。 親不知へ進み、午後二時に到着。すばらしい絶壁の風景とみごとな海。 注意。かめ岩、猫岩、駒返の崖。子不知(八町)トンネルから親不知、私は歩いて通過、七、八町。 二時に着いた。 たいへんすばらしい。三百フィートもある花崗岩の絶壁。 低木の茂る岩山のはげたところに碑文がある。この道を開鑿した人が刻んだ「如砥如矢」を通過。 「詩経」(中国の古典、一流の詩人)からの引用だという。 彼が完成させたばかりの道が「矢のように真直で、砥石のように滑らか」との意味である・・・』 (日本アルプス登攀日記,W・ウェストン)

これより後にウォルター・ウェストンは、「白馬岳」を登り北アルプスを踏破している。
W・ウェストンの日本での知名度(特に山岳関係、山愛好者)はその本業より、日本の自然や山岳を紹介した人物として知られ、又、日本における山岳会(日本山岳会)の創設を促し、近代登山はウェストンから始まったとも云われる。

天下の険、「親不知・子不知」というのは、一般に親不知から青海の間を「子不知の難所」といい、親不知から市振の間を「親不知の難所」と呼んでいるようである。 

北アルプスの白馬岳の北端がガクッと日本海に崩れ落ちて、古来より北陸道の最大の難所として知られている。 両側に断崖と荒波が迫り、旅人が危険を冒して通過したといわれ、幾多の遭難悲話も伝えられている。 
同時に日本海に迫る懸崖、絶壁、岩礁、など大断崖を成す雄大な自然景観は比類がないともいわれる。

又、糸魚川静岡構造線の日本海側の端に当たり、この親不知を境に北陸地方は二分され、東と西で地質構造や風土・文化が大きく異なるともいわれている。

親不知の道は明治16年に、高所に崖を切り裂いて新道(国道8号線の旧道の前進)を造成したが、それ以前は波打ち際に細々とした道があったに過ぎない。
芭蕉が通った頃は無論、波打ち際の道であったが、一行が難所の「親不知越え」にかかった頃は、季節はまだ夏、海も穏やかで何のトラブルもなかったようだ。

それでも「奥の細道」には・・、
『・・今日は親しらず・子しらず・犬もどり・駒返しなど云北国一の難所を越て、つかれ侍れば・・、』 と記している。


「親不知」の名称の由来は幾つの説があるが・・、

一説では、断崖と波が険しいため、「親は子を、子は親を省みる事ができない程に険しい道」である事から、このような名称が付されている。 
又、伝承もあり、壇ノ浦の戦い後に助命された平頼盛は、越後国で落人として暮らしていた。この事を聞きつけた奥方は、京都から遥々(はるばる)越後国を目指して、この難所に差し掛かった。 ところが、難所を越える際に連れていた子供が波にさらわれてしまい、その時、次のような悲しみの歌を詠んだとされる・・、


『 親知らず 子はこの浦の 波枕 越路の磯の 泡と消え行く 』

以後、その子供がさらわれた浦を「親不知」と呼ぶようになったともいわれる。



国道8号線は一部トンネルも有るが、岸壁を削り取って何とかオープンで通っている。 
だが、鉄道の北陸本線は7〜8割はトンネルである。 そして、近年開通した北陸自動車道(高速)は、殆どがトンネルと海上の高架橋を通っている。
この海上を通る高速道は、天下の険と相俟って一つの美的景観の構図となっていて、観光用パンフレットでお馴染みでもある。 近くには親不知にインターチェンジや道の駅・「親不知ピアパーク」も設置され、観光にも力を入れているようである。

次回は、糸魚川・「姫川」    Part7(糸魚川)へ

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