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日本周遊紀行(205) 敦賀 「松原と神宮」

気比松原
気比の松原


気比神宮

気比本殿
気比神宮大鳥居と本殿


敦賀半島の根元にあたる旗護山トンネルを抜けると、ここは既に敦賀である。

更に、若葉町の交差点を左に折れ、ぶち当たったところが巨大な松原と素敵で静かな海が広がっていた。 
砂の浜辺と壮大な松原は「気比の松原」と称した。 
広大な広さの中に17,000本にも及ぶ各種の松が並び、夏には美しい浜辺で海水浴も楽しめると言う。
普通、日本における海岸の松林はクロマツが多いと言われるが、気比松原では赤松が8割以上も占め、日本の白砂青松100選にも指定されていて三保の松原、虹の松原と共に日本三大松原として知られる。1934年(昭和9年)に国の名勝に指定されている。

リアス形のギザギザ若狭湾の西の端には、先ほど訪れた日本三景である松の名所「天橋立」があり、ここ、東の外れには、やはり松の名所、日本三大松原の「気比の松原」が在ったのは面白い・・!。


敦賀は、若狭湾に突き出た敦賀半島の影響で、季節風の強まる冬でも日本海沿岸の中では比較的穏やかとされる。  
古代より敦賀湾の静かな沿岸は天然の良港として栄え、又、近代以降は北陸と関西を結ぶ位置から鉄道や道路の要地ともなっている。 

かつては北九州や出雲と並んで古代朝鮮との交通の要衝でもあり、古書には『上古(じょうこ・むかしむかい、かなりの昔)における敦賀の港は三韓(古代朝鮮)交通の要地にして、三韓・任那人(みまな、にんな)等の多く此地に渡来し、敦賀付近の地に移住土着したる者少なからず。其族祖神を新羅神社として祭祀せるもの多く、信露貴神社亦共一に属す』とある。 

敦賀付近には新羅(シラギ)の宛字と思われる土地名や神社名が多く、例えば敦賀市の白木、神社名では信露貴彦(しろきひこ)神社・白城(しらき)神社・白鬚神社などがあるという。


気比の松原から東へ2km程度、 そこは既に敦賀の市街地でもあり、その中心部に「気比神宮」が堂々と鎮座していた。 
参道入り口には、高さ11mの朱色の大鳥居(重要文化財)が威風を放ち、奈良・春日大社の大鳥居、安芸の宮島・厳島神社の海上鳥居と共に日本三大木造大鳥居の一つに数えられる。

主祭神は、伊奢沙別命(イザサワケノミコト、別名 気比大神、笥飯大神)、他に、相祭神として仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊(仲哀天皇の父)、素佐之男命、玉姫尊(神功皇后の妹)、武内宿禰(タケウチノスクネ)と錚々たる著名な神々が祭れれている。

日本武尊の子とされる仲哀天皇と神功皇后は夫婦であり、その子が応神天皇で親・子の関係にあり、共に九州・宇佐八幡宮の主祭神でもある。

主祭神である「伊奢沙別命」の名義は不明であるが、神代より現在地に鎮座している地主神とされ、現在の天筒山(てずつさん・標高170mで金ヶ崎と連山をなし岬に突き出ている)に天下った神で、山域には神霊蹟もあるという。 
この神は、北陸道や日本海の海上交通の要地であるこの地において、古くから北陸道総鎮守として崇敬された神とされる。

次回、気比神宮・祭神

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日本周遊紀行(205) 敦賀 「気比祭神と食霊の国」


角鹿神社
写真:気比神宮摂社・角鹿神社(ツヌガ神社)


北陸地方と大陸との関係・・、

古代・気比神宮において、仲哀天皇即位の時期(2世紀末)、日本は朝鮮との緊張状態にあり、天皇は即位してすぐに当社へ戦勝祈願の参拝をしている。 
この時の主人公で女帝に順ずる「神功皇后」(仲哀天皇の皇后)も同行して、三韓征伐の前に武内宿禰、玉妃命とともに当社に祈願している。
このとき気比大神が玉妃命に神懸りして皇后の勝利を予言したともいう。 
さらに三韓平定の後、皇后は子である誉田別命(後の応神天皇)らを従えて参拝したともいう。 

三韓征伐
(さんかんせいばつ)とは日本書紀にも記述があり、神功皇后が行ったとされる朝鮮への(主に新羅・しらぎ)出兵をさしている。 
新羅が降伏した後、三韓の残り二韓(百済、高句麗)も相次いで日本の支配下に入ったとされるため三韓の名で呼ばれ、新羅征伐と言う場合もある。 

神功皇后が帰国の際、応神天皇を身篭り、出産したともされる。


気比神宮は、日本海を通じた敦賀と大陸との交流から、大陸外交に関する祈願の対象として大和朝廷も重視し、三韓征伐を前提として創建、鎮座したともされる。 神功皇后が仲哀天皇の命により敦賀から半島へ船出したという記述もある。
又、気比神宮は、若狭地方における御食(みけ)の国(食の貢進国、すなわち皇室・朝廷に海水産物を中心とした御食料〈穀類以外の副食物〉を貢いだと推定される国を指す)、食霊(けひ)の総社ともいわれる。

気比神社の境内に、摂社として「角鹿神社」(ツヌガ神社)が祭られている。 
祭神は、都怒我阿羅斯等命(ツヌガアラシトノ命)とされ、元々、渡来の任那(みまな、にんな・朝鮮半島の南部地域、三韓の一部)の皇子であり、気比の浦に上陸してこの地方を治めていたとされる。 後に、都怒我阿羅斯等命は朝廷に貢物(御食・みけ)を奉じたことから笥飯大神とされ、気比神宮の司祭と共に敦賀の地に祀られた。 
敦賀の地名は、古代「角鹿(ツヌガ)」と呼称されており、元々、この地方を治め、地名発祥の神であった。 
応神天皇が皇太子の頃、角鹿(つぬが)にてツヌガの神から御食(みけ)を賜わったことから御食津大神(ミケツオオカミ)と讃えられ、笥飯大神(ケヒノオオカミ)としても崇められたという。 ケヒとは「食(け)霊(ひ)」の意味であり、即ち、「気比」の名の起こりとされる。 
つまり、応神が太子の頃、角鹿の地(敦賀)へ遠征された時、この地を収めていたされるツヌガの神と談判し、その結果この豊穣の地を譲り受け、土地の領有支配、物資(食料その他)の調達を認めさせたとされる。 即ち、大和朝廷の支配下に置いたということか・・??。 つまり、敦賀を支配していた角鹿の神(ツヌガアラシトノ神)は、応神天皇らによって支配下におけれ、気比大神の摂社になってしまったというのである。

気比大神は、地元の神・伊奢沙別命(渡来の神である都怒我阿羅斯等命か・・?)、この地から大陸へ進出したとされる仲哀と神功の夫婦、更に息子の応神天皇らによって大社として祭られ、開祖、造営されたとも言える。 
気比神宮は、古くから御食津神(食物を司る神)として、海の航海安全と水産漁業の隆昌、陸には産業発展と衣食住の平穏に神徳・霊験著しいとされて鎮座した。 尚且つ、渡来系の神であって、海人族に信仰されてきた神とされるという。
以来、越前国一宮として隆盛したが、南北朝時代には南朝に、戦国時代には朝倉氏に付いたことから社勢は一時衰退したという。 江戸時代になって福井藩祖の結城秀康(家康の次男、秀吉の養子)の保護を受けて再興し、明治28年(1895年)、神宮号が宣下されて正式に「氣比神宮」に改称され、官幣大社に列格している。

いずれにしても、古き良き時代の神社や寺院仏閣の成り合いを紐解いてゆくと、そこに必ずといっていい程、当時の日本の歴史の一端が垣間見えてくる、これが何とも面白く、愉快なのである。
  
次回、敦賀原発            Part12(敦賀)へ   

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