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日本周遊紀行(176) 萩 「長州・毛利氏」



『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり』・・、

萩の歴史の本山・「萩城址」へ向かう・・、
町の西の端から今度は、東の端の位置にある。
10分も経たず着いてしまったが、城下町や松蔭ゆかり地と違って、静寂たる所で全く人の気配は無かった。 

微風に揺らぐ壕池の小波と、通用路入り口に立つ「萩城址」と彫られた石柱が一本、物悲しく存在している。 しかし、壕池に浮かぶ、そう高くはないが横幅一杯に広がっている城石垣は豪快で、往時の姿が想像できる。 

壕池は日本海の海に通じていて、元々は指月島といって砂洲で繋がっていた島であり、日本海の波が直接洗う城だった。 指月島の東側の場所は、石垣の下まで波が来ているという。
右方に、こんもりした丸山・指月山(標高143m)が、天然林緑に覆われている。 
嘗て城は、詰の丸(本丸の中に別の区画として構築したもの)を指月山に築き、山麓に本の丸・二の丸を設け、五層の大天守があったという。 明治維新の主役・長州藩が山陰の萩から山口へ政庁を移すまで、毛利氏14代の居城であった。


「関が原の合戦」において長州藩は、東軍に内通していた一族の「吉川広家」の取り成しで粛清や改易こそ免れたが、周防・長門の2国36万石に減封された。 
又、この萩城築城に当たっても、三方を山に囲まれ一方は日本海に面していて当時、交通の便が比較的悪い萩に築城する事を徳川幕府に命じられている。 
これらの経緯から、徳川氏への恨みは深く、毎年正月には幕府への恨みを確認する儀式を行うのが慣わしであった・。


毛利氏に関しては、処々方々で記載してきたが、最後に長州・毛利氏について、おさらいをして見よう・・、  

毛利氏は、鎌倉幕府の名臣・大江広元(おおえひろもと:学問の大家・京で朝廷に仕えた冷静で明哲な実務官僚)の四男・大江季光(おおえすえみつ)を祖とする一族である。 
名字の「毛利」の起こりは、四男・季光が父・広元から受け継いだ所領の相模国愛甲郡毛利庄(もりのしょう、現在の小生の居住地・神奈川県厚木市周辺)に由来する。 
「毛利」の元来の読みは「もり」だが、後に「もうり」と読まれるようになった。


毛利家は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて、安芸国高田郡吉田(現在の安芸高田市)へ移った後に国人領主として成長し、戦国時代には国人領主から戦国大名への脱皮を遂げ、中国地方最大の勢力となった。 
しかし1600年の関ヶ原の戦いでは、西軍の総大将に祭り上げられ、西軍敗戦の結果で周防国・長門国の二ヶ国に減封されるも、江戸時代を通じて安泰であった。 そして、江戸時代末期には数々の優秀な志士を輩出し、明治維新を成就させる原動力となる。  

戦国時代、安芸国の国人として土着した毛利氏は一族庶家を輩出し、中でも毛利元就が当主となると、元就はその知略を尽くし一族の反乱や横暴な家臣を粛清、安芸国の吉川氏と備後国の小早川氏を乗っ取り、次第に勢力を拡大してゆく。 
尼子氏に対しては策略を以って誅殺させ、そして大内義隆に謀反した陶晴賢を1555年の「厳島の戦い」で破り、大内氏の旧領をほぼ手中にする。

その後は北九州に侵入し、筑前国や豊前国の秋月氏や高橋氏を味方に付け、豊後・大友氏とも争った。 
1566年、仇敵の尼子氏を滅ぼして、中国地方(安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見)を領有した。 毛利元就の子である長男の毛利隆元、次男の吉川元春、三男の小早川隆景らは皆優秀であり、有名な「三本の矢」に喩えられる。

又、元就が毎年元旦に、家臣に伝えた言葉として・・、

『 一年の計は元旦にあり、 一月の計は朔(ついたち)にあり、 一日の計は鶏鳴にあり 』

と訓示している。


戦国期、毛利元就の孫の毛利輝元は、豊臣秀吉に属し、安芸、周防、長門、備中半国、備後、伯耆半国、出雲、隠岐、石見を領し、吉田・郡山城から地の利の良い瀬戸内海に面した広島城を築城し本拠を移している。 
輝元は、後に秀吉政権下、五大老に就任し、秀吉亡き後、関ヶ原の戦いでは西軍の名目上の総大将に担ぎ上げられる。 

西軍は結局敗れるが、吉川広家の内通により毛利家の所領は安泰のはずであったが、徳川家康は約束を反故にし、輝元は責任を問われて周防国・長門国(長州藩)の二カ国に減封させられた。 
領土が120万石から37万石に減封され、新規に藩庁を「萩」に置き、萩城を築城して移住したのである。

偉大なる叔父と祖父に囲まれ、やや甘やかされて育てられた輝元は、器量と覇気に欠けたお坊ちゃまであったとも言われている。 
決断力に欠け、ここぞという時に判断が下せない場合が多く、結果として毛利氏は「中国地方の太守の座」を転がり落ちることとなる。


後年の江戸期、毛利藩は新年の会において家臣より・・、

『 本年は、倒幕の機は如何に・・?  』    
と藩主に伺いを立て、それに対し・・、

『 時期尚早・・ 』

と藩主が答えるのが毎年の習わしだったという。


江戸末期の毛利敬親(もうりたかちか)の時、長州征伐等により幕府から圧迫を受けたが、吉田松陰や高杉晋作、桂小五郎(木戸孝允)等の有能な人材を輩出し、明治維新を成就させている。

次回、長州・藩政改革     Part9へ

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日本周遊紀行(176) 萩 「村田清風」

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「来て見れば 聞くより低し 富士の山 
                釈迦や孔子も かくやあるらん」  清風・・、

萩城・毛利藩は1604年(慶長9年)萩城建造に着手して以来、幕末の1863年(文久3年)、時の藩主・毛利敬親が幕府に無許可で藩庁を山口政事堂(山口市)に移すまで、萩城は260年間の藩庁としての役目を果たした。

その幕末、700万石とされた徳川宗家(幕府)の石高は別格としても、長州藩の経済規模である石高・37万石は、300諸侯と呼ばれた諸藩の中では10傑のどんじりあたりである。 
これは、将軍を出す資格のある御三家の水戸藩(35万石)や外様の広島藩(42.6万石)、佐賀藩(35.7万石)などと同規模となる。 
因みに、薩摩藩(77.1万石)は長州藩の二倍、佐幕派の雄・会津藩は28万石、大老・井伊直弼が藩主を勤めた彦根藩は35万石だった。

尤も、これらの数字は「表高」であり、18世紀後半、長州藩の実際の収入である「内高」は既に90万石に達していたとも言う。 
しかし、藩内情は、借金まみれの大赤字財政であったといい、藩の表高の数倍に当たる150万両の借金まみれの大藩であった。 
この借金財政の建て直しを行ったのが「村田清風」、この人であった。

清風は幼少時から優秀で、藩校・明倫館に入学し、ここで優秀な成績を修め、学費免除のうえ、明倫館書物方となった。 以後、藩主・斉房から五代の毛利敬親の代まで要職を歴任し、さらに、江戸に上って兵法や海防策を学び知識を広げた。

彼は、江戸に上るときの秀句を詠んでいる、


『 来て見れば 聞くより低し 富士の山 
                 釈迦や孔子も かくやあるらん 』


その後、彼が55歳の時、表番頭と江戸仕組掛を兼任して藩政の実権を掌握する。
そして、藩主・毛利敬親の下で長州版・天保の改革に取り組んだ。

この敬親は政治的にはやや暗愚で消極的であったらしく、事に及んで何事も「そうせい」といい、「そうせい侯」とまで呼ばれたが、それが逆に幸いして清風は何一つ遠慮すること無く、藩政改革に手腕を振るうことになるのである。 
財政の再建、軍制改革と、贅沢に慣れた士風の建て直しに着手する。 
「倹約」、「勤勉」そして「能力主義」などを全面に押し出し抜本的改革を、やや強引に思えるほど断行する。 こうなると当然、藩士から反感をかうことになり、暗殺を企てる者も一人や二人ではなかったという。
しかし清風は、改革の途中で中風に倒れ、家老職は後継に譲って隠退した。 
その後、病から回復した彼は子弟教育に力を注ぐ。
彼という先人によって、「吉田松陰」のような藩士としては身分は高くはないが、有能で志のある後進・後輩が台頭する道が大きく開けることも繋がった。 

後に一時、長州藩を絶望のふちに追いやるが、倒幕、維新を成し遂げる原動力ともなるのである。 
この時期、松蔭と清風は47年の歳の開きがある。 
藩の軍政をになう俊才であった松蔭は、少年の頃から清風とは面識があったようだが、この祖父と孫ほどの二人が手を携えて行ったのが、藩校・明倫館の改革、拡張でもあった。

明倫館(めいりんかん)は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌と並び、日本三大学府の一つと称される。 1718年(享保3年)、萩藩6代藩主(毛利吉元)が萩城・三の丸追廻し筋に創建、後に、14代藩主毛利敬親が藩政改革に伴い萩城下に移している。
萩明倫館は、現在、萩市立明倫小学校の敷地内となっており、有備館、水練池、聖賢堂などの遺構が残っている。
1919年、国指定史跡を受けている


城址からの海沿いの道を行くと菊ヶ浜という松緑、白い砂浜が現れ、遠くに城址のこんもりした指月山の姿と相まって実に秀美である。 
気が付けば「萩」の町には至る所に松ノ木が有り、これが古跡の町の風情に良く似合っているのである。
町外れの国道沿いに、萩・反射炉の遺構がある。 
1858年(安政5)に萩藩が鋼鉄製の大砲製作のために建設した西洋式金属溶解炉(史跡)である。 薩摩藩や水戸藩などがあいついで建設したが、現存するのは、ここと静岡県伊豆韮山の2基のみという。

2005年3月6日、旧萩市が阿武郡川上村、田万川町、むつみ村、須佐町、旭村、福栄村と対等合併し、新市制による「萩市」となっている。

次回は、益田 

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日本周遊紀行(177) 益田 「柿本人麿呂」



「足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿」・・、

阿武町から須佐町、田万川町は海岸にへばりつく様に、鉄路(山陰本線)と道路が並行して走る。 午前の頃、モヤで余り視界も効かなかったけど、今はスッカリ晴れ渡り日本海の青が目に眩しいくらいである。

ところで、海岸線に沿って開けている阿武町は、自然豊かな海の町で海の幸も豊富であろう・・?。 
ただ、周辺の近隣地域であった須佐町、田万川町、むつみ村、福栄村の町村は、萩市と合併して新市制の萩市になっているのに、この一町の阿武町だけが新萩市に完全に囲まれるようにして独立自尊を決め込み、見たところ孤立して宙に浮いている感じは否めない。 

他事(ひとごと)ながら、萩市から合併の話は有ったのかどうか、又、有ったとしても阿武町自身が、それを断ったのかどうか・・?、定かではないが妙な感じは受ける。 
何事か理由があっての、単独町政を行うことを表明したのだろうか・・?。

後になって判ったが、同町の町長は始めから合併を拒み単独町政を選んだといい、「阿武町の基金は阿武町で使いたい」などとして、広域合併の拒否を貫いたという。
だが、人口約4000人の町の現実は厳しいとされ、国と地方の税財制を見直す三位一体改革によって、この間、同交付税が大幅に減った。
それでも町の担当者は「合併でも、単独でも都市部から離れた周縁部という町の置かれた立場は同じ。合併を巡って揺れたお陰で、住民に自立意識が芽生えた。今後は町の独自性を出したい」 と意気込んでいるらしい。


田万川町の「道の駅・ゆとりパークたまがわ」で一服した後、仏峠と言われるトンネルを越えると、ここは既に「島根県」であった。 海岸に突き出たように「サンシャインP・A」があり、余りの展望の良さに車を寄せてみた。 
寄せ木で造られた床地に、品よく石のモニュメントが施してあり、開放感ある大海原を目前に思わず深呼吸する。 日本海の荒海と言うけれど、今は砂浜に小波が静かに打ち寄せていて、すぐ其処に浮かぶ島々も、紺碧一色に模様と彩りを添えている。


益田の町に入った、高津川の大橋を渡ると益田市街である。
益田は、急峻な山陰の山々に囲まれている地域に高津川及び益田川が主要河川となり日本海に注いでおり、そこに、小さな益田平野が三角州状に広がっていて、その中心に益田の市街地が開けている。 
その市の西部、高津川の袂に「高津柿本神社」があり、歌人として知られる「柿本人麿呂」を祀っているという。 
どっしりとした風格の入母屋造の本殿を持つ神社で、地元の人は「人丸さん」と呼んでいるようで、読み方によっては「ひとまる・火止まる」で、火災よけの神様、「 ひとうまる・人産まる」で、安産の神様と開運、火難除け、商売繁盛、安産の神様として人々の信仰を集めているとか。

元来、柿本人麿呂は歌聖であることから、学業成就を願う学生も多く、人麻呂を偲ぶ参拝客が後を絶たないという。


『 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾之 長永夜乎 一鴨將宿 』-----万葉集元歌

「 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む 」-----百人一首


【 夜になると谷を隔てて独りさびしく寝るという山鳥の長く垂れた尾のように 長い長いこの夜を、私は独りさびしく寝るのだろう 】-----現代訳  


この歌は、小生たちが高校生頃、習い覚えたもので、百人一首を嗜(たしなむ)む人達は、どなたも御存じの一句である。 
柿本人麿呂(かきのもとのひとまろ)は万葉集のみならず和歌史を代表し、しいては日本文学史をも代表する人物で、奈良朝以前の飛鳥時代の歌人である。 

生涯で300首以上の歌を詠み、「万葉集
」に人麻呂作歌75首、および柿本朝臣人麻呂歌集として歌25首、計100首を載せてる。 
又、百人一首・百人秀歌の中で三番目に置かれている。

「柿本人麻呂」といえば、我々にも馴染みのある歌人で、せいぜい平安期ぐらいの人物と想像していたが、これほど大昔の人とは存じなかった。 
上記、韓文字歌(万葉集歌)は一見したところ、何のことやら判らぬが、飛鳥時代には未だ平文字は無く、韓文字で書かれた原文、原歌なのである。

因みに、「万葉集」が発刊されたのは、奈良中期ごろで、集歌は天皇、貴族から名もない防人、遊女ら様々な身分の人間が詠んだ歌を4500首以上も集めたものという。 
人麻呂についての人物史書や記録記載はあまり無く、その生涯については謎とされている。 
宮廷での皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、政府筋の高官であったことは伺えるが・・。


人麻呂は、石見ノ国へ国府の役人として下向したのであろうと言われているが、その痕跡、足跡は確かでなく、当時の国府がどこにあったのかも諸説あり、現在の浜田市ともされている。 
人麻呂の終焉の地も定かではないとしながらも、有力な説として現在の島根県益田市(石見国)であるとされる。
地元では人麻呂の終焉の地を既成事実としてとらえ、「柿本神社」としてその偉業を称えている。 
そして人麻呂が没したとされる場所は、益田市沖合にあった「鴨島」であるとされている・・が、現在はその鴨島そのものも存在していない。 

万葉集に残されている死を目前にした人麻呂の歌など(鴨山五首)から、人麻呂が石見の「鴨山」で亡くなったこと、そして、そこには「石川」(現在の高津川・・?)という川が流れていたらしいが、いまだこの鴨山がどこなのか確定されていないという。 

平安期、11世紀初頭の大津波で流失したともいい、海中からその遺痕が発見され、神社に奉納してあるとも云われるが、これも定かではないと・・?。

益田市は2004年11月1日に、内陸部の美都町・匹見町と編入合併し、新益田市が誕生している。

次回は、津和野    Part9へ


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