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日本周遊紀行(172) 中津 「耶馬溪」


写真:本耶馬溪・「八連の石橋」(オランダ橋)


頼山陽(らいさんよう・江戸後期の歴史家、漢詩人、文人で芸術にも造詣が深い)が「耶馬溪山・天下無双」と言わしめた・・、

宇佐神宮から、このまま、裏参道の緑陰の中を戻り、整然と並んだ茶店で冷たいものを戴いて車中の人となった。 本日中に九州を抜ける思いで先を急ぐ、国道10号線を再び飛ばす。

この辺りは豊後平野、青々と広がっている大地の向こう、左方向に耶馬渓の山地が望める。 
清流・山国川を渡る頃、気がつくと、この川が県境で渡り終わると既に、筑後・福岡県であった。 
この山国川の遡ると中流から上流奥部は、「耶馬溪」といわれる九州の代表的な景勝地の一つである全国耶馬渓の総本山でもある・・?。

振り返ること数過月、「東日本・・、」で北海道の襟裳岬から日高地方へ向う途中、様似町にある道内でも高山性植物で著名な「アポイ岳」の麓の海岸を「日高耶馬溪」と称していた。
山塊が海岸にまで押し迫り、それが断崖絶壁や奇岩怪岩となって大平洋に落ち込み、美しい海岸美を形造っている。


そして、こちらが本耶馬溪である・・、 

今、小生が本耶馬溪と称したのは、景勝地としての耶馬溪全体を指したものであるが、実際に観光地域としての「本耶馬溪地区」と行政地名としての「本耶馬溪町」とが存在する、尚、耶馬溪町も在る。 
ところが、平成17年3月1日、耶馬渓町、本耶馬渓町は、山国町・三光村とともに中津市に編入され、各々の行政上の地名は消滅しているのである、チョットややこしかった・・?。


「耶馬渓」は中津・日田・宇佐の三市と玖珠町とに跨る広大な地域で、全68景ともいわれる絶景が展開する景観地である。 
大分県の北部、福岡県との県境を北流する山国川の中流に位置し、英彦山(ひこさん)系の小山群が連なり、山岳地帯は溶岩侵食により奇岩奇峰が起伏し、小さく開けた平野に集落が点在している。

「耶馬溪」は本耶馬、深耶馬渓、裏耶馬、奥耶馬と各地区ごとに別れ、何れも、山国川沿い、或いは周辺に奇岩、奇峰群が連なっている景観が圧巻である。
その中で一際壮観なのが本耶馬(耶馬溪町)に展開する「青の洞門や石橋」や古刹・羅漢寺が名所のポイントにあげられる。 
又、耶馬溪の奥には英彦山(ひこさん)など歴史の宝庫も存在する。 
江戸後期の歴史家・陽明学者、漢詩人と言われる頼山陽が「耶馬溪山・天下無双」と称えた名勝なのである。


其々の耶馬渓を一言で紹介すると・・、

本耶馬渓は「青ノ洞門」を中心とする山国川上流一帯をいい、羅漢寺の禅海和尚が参拝客が難所を渡る際に命を落とさないようとノミ一本で掘り抜いた自然のトンネルとして著名である。 

深耶馬渓は、山国川支流金吉川支流に位置する渓谷で、「一目八景」が有名。 一度に秀峰の峰々が八つ眺望できることから名付けられたといい、近くには鴫良(しぎら)、深耶馬渓などの温泉がある。

裏耶馬渓は金吉川上流の渓谷で、浸食を受けた岩壁が屏風のように屹立した光景は見事であり、近くには伊福温泉もあって温泉水を使って養殖したスッポン料理が名物であるとか。

奥耶馬渓は、山国川上流に位置し、「猿飛の景」と名付けられた猿飛千壺峡が有名。 
他にも椎屋(しや)耶馬渓といわれる岳切(たっきり)渓谷一帯、そして津民耶馬渓といわれる山国川支流の津民川に位置する渓谷等、手付かずの自然が残る穴場もある。
又、かつてはこの他に羅漢寺耶馬渓(本耶馬渓に含む)、麗谷耶馬渓(深耶馬渓に含む)、東耶馬渓、

南耶馬渓もあり、これらを称して「耶馬十渓」とも呼ばれていた。


ところで、本耶馬渓の「青ノ洞門」のことであるが・・、

この中津の街より凡そ10km上流の地、羅漢寺の住職・禅海和尚がノミ一丁で掘った手彫りの洞門として有名である。 
江戸中期、諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれていた難所を越す際、通行人が誤って転落し命を落とすこともあったことを聞かされて、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと托鉢勧進しながら掘削のための資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれている。 

完成を見たのは江戸中期の1746年のことであって、後に資金還元の為洞門の通行を有料にし、人は四文、牛馬は八文徴収したそうで、この手彫りのトンネルは日本最初の有料トンネル、有料道路とも言われている。 
洞門の長さは350mあり、工夫が3人並んで掘っていたと推定されていて馬に荷物を積み込んでも十分通行出来るだけの大きさに掘られていたという。

この手彫りの洞門は、明治期に大型重機移動の為の道路を作る必要性から、爆破によりことごとく破壊されたが、現在の国道212号線から一段下がった所に、当時のノミの跡がハッキリ残された洞門の一部が発見され「手彫りの洞門」として保存され、現在公開されている。 トンネルの傍の園地に禅海和尚がノミで掘削している立像が建っている。
この逸話を元にして書かれたのが菊池寛の『恩讐の彼方に』であり、「青の洞門」という名称は、この小説の中で命名されたものという。

青の洞門の下流500mに位置している橋で、「耶馬溪橋」というのがある。
 「八連の石橋」(オランダ橋)で当時陸軍の工兵中尉、永松昇県技士によって設計されたという。 
観光道路として大正11年に着工し大正12年に完成し、我が国唯一の長崎式石積みのアーチ形石造橋として美景を誇っている。
こちらも、青ノ洞門同様、文豪菊池寛の小説「恩讐の彼方に」の舞台となった橋で、長さは116m、アーチ形石造橋としては日本一の長さで、「耶馬溪三橋」の一つであり、県の有形文化財に指定されている。

次回は、中津城

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日本周遊紀行(172) 中津 「中津城」


写真:中津城(天守閣は昭和39年に建設されたもの)


ビッコの軍師・「黒田官兵衛」が中津の礎(いしずえ)を造った・・、

山国川河口には、壮麗優美な「中津城」が立つ。
築城の名手といわれた黒田如水が、心血を注いで築城を開始した名城で、戦国期の16世紀後半頃より築城が始まり、継承して細川氏の時代に完成をみている。 
その後、江戸・藩政時代は小笠原氏、奥平氏と変じて明治を迎えている。

豊前・中津は天正16年(1588) 、豊臣秀吉による九州征伐の軍功により豊前16万石を与えられた黒田官兵衛孝高(如水・よしたか) が入部し、中津城の築城に着手しながら城下町造りをもスタートする。 しかし、孝高は城および城下町づくりが未完のうちに福岡へ転封され、その後を受けて入部したのが 細川 忠興だった。 
実際は家督を 忠興の三男・忠利(ただとし) に譲って中津の町づくりが継続しておこなわれることになる、これが今の中津の原形となっている。 県北の雄藩として歴史や文化を育み、「西の博多か、東の中津」(明治の鉄道唱歌)と唄に歌われている。


秀吉の側近・軍師、「半兵衛」の後は「官兵衛」・・、

黒田如水は戦国期、豊臣秀吉の側近として、竹中半兵衛亡き後「ビッコの軍師・官兵衛」として活躍する。 織田信長に反旗を翻した荒木村重の説得に向かったが、「友人の荒木村重が私に危害を加えることはない」と“たか”をくくっていた為に油断し、捕縛されて土牢に押し込められる。 
1年後に救出されるが、長きにわたる土牢生活のために脚部の関節に支障を来たし、上手く歩くことが不可能となったという次第である。

官兵衛孝高(かんべえよしたか)の軍師としての活躍については、小生も読んだ司馬遼太郎の「播磨灘物語」( 播磨は官兵衛の出身地)に描かれている。
官兵衛は、さらに主君・秀吉にもその底知れぬ才覚を逆に恐れられたという。
それは後に、秀吉の名だたる側近が軒並み大大名となるなか、官兵衛は天正15年(1587年)、僅か豊前国内6郡(現・大分県中津)に12万石を与えられただけであった。 

官兵衛の才覚は、本能寺の「信長討ち死」の報を聞いた時、即座に秀吉に天下取りを進言したとも言われる。 そのことで秀吉は、「自分の死後天下を取るのは黒田官兵衛である」と思うようになり、更に、「私の後釜を孝高が狙っているのではないか・・?」と、秀吉に危惧を抱かせたためとの説もある。 
その子の「黒田長政」は筑前国・福岡藩の当主として活躍していることは、既に、福岡の項で述べている。

中津藩(大分県中津市)城下の蔵屋敷で下級藩士・福沢諭吉が生まれている。 
明治期の思想家で慶應義塾の創設者として有名、明治の六大教育家に数えられ、一万円札の肖像にも使用されているのはご承知である。



国道10号を走り出してまもなく、豪奢な施設の「道の駅・豊前おこしかけ」というところで小服した。 
先ず立派なトイレにビックリした、なんでも“駅造り”の目玉に、TOTOとプロジェクトチームを組んで“日本一思いやりのあるトイレ”の完成を目指し誕生したという。 
駅の名が「豊前・おこしかけ」という変てこな名称も、文字通り“お腰掛け”で、なんとなく頷けるのである・・?。 尤も、あの宇佐神宮に祭られている「神功皇后」が旅の遠征の途中、休憩と景色を眺めるために座った大きな石がこの地に有るとされ、この石を「おこしかけ」というそうだが・・。

国道10のバイパスになっている有料道路「椎田道路」を行く。 
行橋から再び一般道のR10を北上する頃、苅田町辺りから左遠方に点々とした山波状の丘陵地が見えている。
「平尾台」といって、高知県と愛媛県の県境にある天狗高原・「四国カルスト」、山口県「秋吉台」とともに、日本の三大カルスト台地の一つである。

「カルスト」とは、ヨーロッパ南部の小国・スロヴェニアのカルスト地方に見られることから、その名が付いたといわれる。 石灰岩の台地でカレンフェルト(鋸歯状の地形)、ドリーネ(スリ鉢状の窪地)などといった石灰洞などが発達する特有な地形である。 
石灰岩の表面が雨水によって溶解浸食を受けやすく、又、割れ目に沿って滲み込み、周囲の岩石を溶解して内部に鍾乳洞などの洞窟を造りやすい。

ここ平尾台も、広大な草原のところどころに「カレンフェルト」と呼ばれる大きな石灰岩が散在する独特の風景で知られる。 
標高300〜700m、南北6km東西2kmの日本でも有数のカルスト台地で、緑の中に白い石灰岩が羊の群れのように顔を出す風景から“羊群原”とも呼ばれ、千仏鍾乳洞や牡鹿洞などの鍾乳洞が有名である。 
台地全体が国指定天然記念物になっていて、場所柄も福岡南部の至近でもあり、地域の人々の行楽地にもなっている。 

次回は、下関

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日本周遊紀行(173) 下関 「本州西端の都市」

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下関唯一の天然温泉・「日の出温泉」・・、

九州道の小倉東I・Cから関門橋を経て、13日間滞在した九州を離れた。 
先刻、九州へ向かう折、下関側から高速道の「壇ノ浦PA」で関門橋の勇姿や真向かいの門司の港は特と拝見したが・・、ここで、過ぐる年(2008年)北九州地方を巡遊したとき門司を訪れているので、序に一言・・、

関門橋のほぼ真下に位置する門司は海の街と想像しがちでzるが、地形的には凹凸のある山の町でもあろう・・!。 
九州の最北端に位置しており、企救半島(きくはんとう・関門海峡に突き出た半島)の大半の地域を占めていて、沿岸部は門司港や門司港駅周辺を中心とした「門司港レトロ」と称して賑わっている。

門司港レトロ」(もじこうレトロ)というのは、門司港にある特に整備された観光スポットで、JR門司港駅や外国貿易で栄えた時代の建造物を中心に、ホテルや商業施設などを大正レトロを基調とした観光スポットとして多くの客で賑わう。 
1963年の五市合併により、旧門司市の地域が現在の北九州市門司区となっていて、国土交通省の「都市景観100選」をも受賞している。



高速道・下関I・Cを下りて、とりあえず今夜の宿泊所を訪ねてみた。
海峡に面した「火の山」という小山の山腹に「ユースホステル火の山」というのがあり、その名も火の山ロープウェイの乗り場(駅名は壇の浦)のすぐ近くで、緑に囲まれた清閑な地であった。

「火の山」(ひのやま)というと火山をイメージする山のようだが、その名は実は、かつて山頂に敵の襲来を都に知らせるための狼煙台(のろしだい)が設けられていた事に由来しているという。 
明治の中期には、山頂に砲台が置かれていて重要な軍事拠点でもあったらしい。現在は瀬戸内海国立公園の最西端にあたり、関門海峡に面した風光明媚な場所になっている。

玄関を入ると食堂兼広間があり、カウンターにハキハキした男性の係員がいて、とりあえず受付を済ませた。 なかなか清楚、清潔な建物であり、過日世話になった安芸の宮島口のY・Hとは大違いである。 表の庭園は野外食事場でバーベキューなどが出来る様に設備が整っていて、尚且つ、関門海峡にも面しているので、往来する大小の船舟や豪快に架かる関門橋も一望できる景観の地でもある。

部屋に案内されると既に若者二人が先着していた、一人は千葉在住の日本縦断徒歩旅行者、もう一人は大阪・浪速の自転車全国巡りの旅人であった。 
その場に相応しくないような老年(熟年・・?)の小生も、一通りの挨拶と自己紹介をした。 
その後、入浴、食事のため部屋を後にし下関市街へ向かった。


国道へ出ると其処は既に関門海峡に面していて、海峡沿いには歴史を刻む史跡でもある公園が細長く展開している。 勿論、頭上はるかに圧倒的迫力をもって、あの「関門橋」が両陸を渡している。 
又、国道を挟んで、こちらは関門(下関−門司)を結ぶトンネルが、地下に下関側入口としてあった、「関門トンネル人道」というらしい。 



写真:関門トンネル人道 、イラストがいい・・、

入口からエレベーターで地下へ降りること30秒、あっという間に地下55mに到着し、武蔵と小次郎のキャラ絵が迎えてくれた。 
四角い隧道であり、天井コーナーには蛍光灯が明るく照らしている。普通の地下道の様でもあり、数人の歩行者がいて会話がボワーンと響いて聞こえてくる所は、やはりトンネルである。


ところで、関門を渡るルートは幾通りかある・・、
先ずはご存知関門海峡のシンボル的存在の「関門橋」で、本州と九州を結ぶ高速自動車道に架かる橋である。 それと関門を繋ぐトンネルで、先ず新幹線が通る「新関門トンネル」と在来線が通る「関門鉄道トンネル」、更に、上が自動車道、下が人道の二重構造になっている「関門国道トンネル」と、トンネルだけで三ルートある。 
あとは航路で、下関市場近くの唐戸港と門司を結ぶ関門連絡船が五分で九州を結んでいる。その他、関門海峡フェリーなどを合せると実に7ルートが存在するのである。



先刻、調べておいた下関唯一の天然温泉「日の出温泉」へ向かう。

カーナビに従って、海岸の国道9号線を下関市街からJR線を過ぎ、メーンルートでもある駅の西側を少々行き、コンビニの前の路地にその温泉はあった。 
何かの引っ込み線であろうか、やや古びた線路の向側に運河のような小瀬戸が見渡され、すぐ向かいは彦島が横たわっている。 

夜になると人影も疎らになり、こんなところに温泉があるのかとちょっと不安になったが、温泉マークのネオンがチャンと点いていた。 
玄関上には派手な赤色の電飾看板が辺りを照らしていて、如何にも銭湯といった雰囲気はある。






写真:下関の天然温泉「日之出温泉」と浴室

日の出温泉は、昭和28年(1953年)に銭湯を開設しようと井戸を掘ったところ、偶然にも湧き出す水は生ぬるくて、湯気がたちあがったという。
早速、水の分析をしたところ正真正銘の温泉であることが判り、昭和34年に正式に温泉利用許可を得て、天然温泉の銭湯として営業しているらしい。
脱衣所は明るくて清潔な感じで、近所の人で賑わっているようだ。 

タイル張りの浴室も所謂、町の銭湯といった感じで派手さはないが、大浴槽には無理やり取り付けたようにジェットバスが付いている。 又、小生は苦手だが、サウナもあるようだ。 

それでも無色透明の天然温泉であり、成分的には弱アルカリの単純温泉で、備品などはなく石鹸持参は正解であり入湯料360円は納得であった。

「日の出温泉」 下関市大和町1-12-12 Tel. 083-266-4403
URL  http://www5.ocn.ne.jp/~hinode/ 


湯上りに、市内駅近郊の「下関シーモール」(ショッピングセンター)の一角で、下関港名物の“回転すし”で舌ずつみをし、今夜の泊まり宿へ戻った。

次回は、「下関・壇ノ浦」     第23日目へ
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