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日本周遊紀行(167) 九州山地 「米良地方」



次に、米良地方(めらちほう)について・・、

先ず、伝説を一つ・・、
日向・高千穂に降臨したニニギノミコトが巡遊しているとき、好漢と見たオオヤマミズミコトは二人の娘のイワナガヒメ(姉)とコノハナノサクヤビメ(妹)の両方を嫁にしようとした。 だが、ニニギは、花のような美人である妹のコノハナノサクヤだけを選び、妻とした。 
失意のイワナガヒメは一ツ瀬川を遡り、この地に田を開き、実り豊かな稲作を作られたという。 ヒメの作った米が非常に「良い米」であったので、この地方に「米良」という名が起こったという。 そして後々、良い米から米焼酎が作られ、好まれるようになったという。


日向、肥後国境付近の山間には椎葉(椎葉山・椎葉荘)と米良(米良山・米良荘)呼ばれる地域があり、山深い地域のため、有力大名の支配も及びにくく、半独立的な地域であった。
米良地方は椎葉同様、平家落人の隠遁僻地として知られる。 

なかでも「村所」を中心とする米良部落は、南北朝時代の末期、肥後の菊池一族が足利方の九州探題・今川氏に敗れ、この米良の山奥に隠れ住んだといわれる。 
入山した菊池氏は、それ以来、米良姓を名乗り、文武に優れ、礼節を重んじ、村では合議制による民主的な施政を敷き、幕末までの約400年にわたり統治したという。 

そして、明治期の版籍奉還に際し、最後の領主となった米良(菊池)則忠公は、領地の全てを領民に分かち与え、人々の生活を担保したとされ、その遺徳は今もなお、米良の歴史とともに語り継がれているという。 九州では、現在でも米良姓を名乗る人は、その菊池一族ゆかりの末商だとも称している。

この米良地方は、近年になって明治22年(1881)に西米良村と東米良村に分割され、更に、昭和期の1962年に一ツ瀬川の銀嶺地区辺りを境に、東側の東米良村は西都市・木城町に編入されている。
西米良村は、九州山地にへばりついている村で、一ツ瀬川の最上流部が村を貫通している。

江戸期まで米良地方は肥後・人吉藩の領地であったらしいが、明治初期の廃藩置県により日向・宮崎県に割譲された。 
従って、地風は肥後・菊池氏の影響もあって、人吉・球磨地方の色合いが濃く、宮崎県になって130年たった今でも、米良地方と肥後・球磨地方の人々は、年賀を欠かかさず、お互い交流しあっているという。


人吉、米良地方は焼酎つくりの元祖・・?、

ところで、焼酎処とも言われる西米良村の中心地、「村所」の酒屋の店先には、「白岳」、「極楽」といった球磨焼酎の銘柄が正面に並び、日向の「霧島」などは隅っこに追いやられているという。 
酒屋さん曰く、「西米良では今は焼酎はつくっとらんが、球磨焼酎がやっぱり地元になりますね、白岳がよう出ます」といった具合で、西米良村民達は、独特な球磨焼酎を求めているという。


人吉地方は、球磨焼酎作りのメッカといわれる・・、

垣根の向こうから「ちょっとお茶でもせんかね」(ちょっとお茶でも飲んでいきませんか)と、声がかかる。「それでは えんりょなく」と、垣根の内に入れば 爺さんが球磨焼酎の一升びんと湯のみを持ってくる。 

肴は自家製の漬物。これを指でつまみながら、焼酎をちびりちびりとやるうちに心と心がつながってきて・・、 一方、日向地方は、薩摩が焼酎作り日本一なら、宮崎は焼酎消費の日本一だそうである。
米良地方は日向・宮崎に属しているが、歴史の流れからも窺えるように、人脈、物資の流通は昔から肥後・人吉、八代との繋がりが強いといわれる。今でも流通路である国道など、熊本県方面は概ね整備が進められているが、宮崎・西都市方面は交通が困難な難所区間がある。

肥後・球磨地方の湯前町から西米良へ通ずる横谷峠越えは、通称・横谷越え(現、国道219号線)と言われる難所中の難所で、昔は、凡そ20k行程の山道を荷駄で行き来した旅人や焼酎のびんを積み上げた馬方さんが往来し、その旺盛な脚力には敬服していたとされる。 
又、近年に至っても、道路の状況はあまり変わらず、ここを走っていた定期運行の国鉄バスのドライバーのテクニックには感心したといわれている。 

現在は、横谷峠直下に長大なトンネルをぶち抜いて、相当に交通が楽になっている。
村は、村所地区を中心にして菊池氏・所縁(ゆかり)の城址、御所跡、神社仏閣、記念館など歴史、文化、自然や風土など地域固有の観光資源がある。 
又、最近では特に、生涯現役元気村と名打って、「カリコボーズの休暇村・米良の庄」等、テーマ性を持たせた地域づくりを推進しているという。 

カリコボーズ」とは、山を守るもの、森の精霊、神的存在の言霊ともいうべきもので、村おこしのイメージ・キャラクターとしているらしい。
米良で善政を施した菊池氏の本拠は、現在のその名も熊本県菊池市で、古来から市名に名を残す由緒ある一族であり、平安期までは九州の政治・文化の中心地として栄えた。このような関係から現在、西米良村と菊池市は「友好姉妹都市」を結んでいる。

米良地区は、これまで、2004(平成16)年度に地域づくり総務大臣表彰、2000(平成12)年度に過疎地域自立活性化優良事例国土庁長官賞、優秀観光地づくり賞を受賞している。 
更に、2004(平成16)年度は黒木村長が観光カリスマ百選にも選ばれ、2005(平成17)年度は、オーライ!ニッポン大賞を受賞していて、正に、地域振興の牽引的役割と見本を示している。 

次回は、「佐伯」

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日本周遊紀行(168) 佐伯 「豊後・佐伯の荘」


写真:佐伯を代表する三の丸・櫓門の威容


秀吉子飼の毛利高政が、現在の「佐伯」の基礎を形造った・・、

北川町の道の駅、「北川はゆま」で一寸遅い朝食をとる、朝食とはいっても、一片のパンと飲物くらいであるが・・。 ところで「はゆま」とは早馬(はやうま)から転じたもので、江戸期に設けられた駅制度により、駅(宿場)に置かれた馬のことであるらしい。 
ここは現在は国道10号線であるが、この地に昔の駅舎が在ったかどうか定かでないが、九州南北を往来する昔からのメインルートでもあった。 

列車レールに駅があるように、車の道路にも全国的に駅やサービス・ステーションがある。
この「道の駅」は、休憩のためのパーキングとしてはもちろん、人と町の交流ステーションであり、地域の文化や歴史、名所や特産品などを紹介、発信する情報交流の場としても魅力を発揮している。 小生のように、全国を股にかけている旅の者にとっては実に重宝で、一宿一飯の地にもなっている。 
それを示すように、駅の一角に巨大な「駅馬」のモニュメントが建っている。


国道10号線は、宮崎県から大分県に入ったようである。 
緑鮮やかな山間の地で、起伏曲折は多いが、さすがに1級国道で造りは立派、時速にして60kmで悠々と走れている。
内陸部の宇目町、直川町の山地をようやく抜けて、佐伯の町に来たようで、佐伯市は、2005年(平成17年)3月、上浦町・弥生町・本匠村・宇目町・直川村・鶴見町・米水津村・蒲江町が合併し、新市制によって広範な佐伯市が発足している。

元々、この地域は南海部郡(みなみあまべぐん)といって、以前から「佐伯南郡」と呼ばれ、強い結び付きを有しているらしく、住民の日常社会生活圏は連帯意識をもち、経済圏もほぼ一体的であったという。
そのため、県内でも最も早く合併に向けて2000年12月には佐伯市・南海部郡5町3村任意合併協議会が設置され、2005年に合併したことから、面積が九州最大となる新たな佐伯市が誕生している。 本来、各地域は支所や支庁と言われるところ、ここではユニークにも「振興局」という名称が付けられているという。

国道10号線が番匠川に達した辺りから沿岸域に出たようである。
この辺りの海岸線は、凡そ200kmに及ぶ「日豊海岸国定公園」にも指定されてるリアス式海岸が続く峻険な地である。 そんな中、佐伯市街は九州有数の清流・番匠川の豊かな水に恵まれた地域であり、市の中心地はその番匠川の河口に広がる小域な沖積平野に市域を形造っている。

番匠大橋を渡って右折し、川沿いを行くと間もなく佐伯市街に入ったようで、街路案内によって左折すると、いきなり巨大な城門が現れた。 
歩道には石畳を敷き詰め、クロマツの並木を造り、一部区間では電線を地下埋設していて、シットリとした白壁の土塀が続く。旧藩政時代の武家屋敷の佇まいで歴史的景観、街路の調和が実に良い。

この地域、市内中心部の大手前から城山の麓にそって養賢寺(ようけんじ)までの約700mは「日本の道100選」にも選ばれているという。 城門は、三の丸御殿の正門として、寛永14年に創建された櫓門(やぐらもん)といい、江戸時代の城郭建築を色濃く残す、歴史的建造物でもある。

佐伯は、元より海の幸、山の幸に恵まれた富める海辺の村であったが、江戸開府と同時に大いに発展してゆくことになる。


佐伯藩初代藩主・毛利高政は慶長6年(1601年)、日隈城(ひのくまじょう:大分県日田市亀山町)から佐伯二万石を封ぜられ、番匠川下流の左岸に位置する八幡山(城山)に佐伯城を築き、番匠川の河口付近の干潟を埋め立てて城下町を整備している。 
町の南側を大きく曲がり込む番匠川の本流が外堀となり、支流や入江も自然の防御線となっている。 更に湿地帯が内堀のようにして残され、軍事的な防備だけでなく、防火線にもなっていると言われる。 番匠川は、下流部を中心に古くから舟運が発達しており、江戸時代から舟運のための流路や水深を確保するための工事が行われていたという。 江戸時代の船着き場は藩主専用の乗船場、藩士の乗船場、一般の乗船場などに分けられていて、渡し船や定期船も多く、河川に沿って街が賑わいを見せていたという。
櫓門を起点にして武家屋敷の町並みが尽きるところに、藩主・毛利家の菩提寺であった名刹、養賢寺があり、裏の高台にもある毛利家累代の御廟所も壮麗である。


この地方は平安期より「豊後・佐伯の荘」と称していた・・、

鎌倉期には豪族・佐伯氏が領主として豊後守護・大友氏に属し、番匠川の上流の標高224mの栂牟礼山(とがむれさん)の山上に山城を築き、ここを本拠としてたが、戦国期の九州騒乱で主家・大友氏が失脚にともない佐伯氏も改易、城を去っている。 

現在の佐伯城(城址)は慶長6年(1601)、豊後日田の日隈城から移封された毛利高政が11年の歳月を費やして、標高140mの八幡山に築城した山城である。 

高政は、豊臣秀吉子飼いの武将で、元々、森を姓としていた。 
天正10年(1582年)秀吉による中国攻めの最中、本能寺の変で織田信長が凶刃に倒れたため、秀吉は中国の毛利氏と急遽和議を結んで、森高政を毛利方への人質とした。 
ところが高政は、当主・毛利輝元に気に入られて、「苗字の唱ふる所の同じきこそ怪しけれ、然るべくは我名字まいらせて、和君等と永く兄弟の契り結ばん」と輝元に言わしめたと藩史にもあり、以後、毛利姓を名乗るようになる。 

その後は、大坂城の築城や秀吉による朝鮮出兵の際の対馬に城を築くなど活躍、豊後・日田二万石の大名となって五層の天守(日隈城)を築くなど威勢を張った。 
しかし、毛利高政は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の合戦で石田三成方の西軍に組したため、徳川家康によって佐伯二万石へ転封された。 

以後、佐伯城は、毛利氏12代の永きに亘って居城となし、明治維新まで続くことになる。 関ヶ原の合戦を経て佐伯藩に移封、築城と町づくりの礎を固めることになるが、江戸期、多くの藩が移封、転封される中、秀吉子飼いの大名でありながら、綿々と引き継がれ明治維新まで存続できたのは佐伯藩だけであるという。

尚、戦乱の時代も去った寛永14年(1637)、毛利氏三代目・高尚は八幡山麓の三の丸に居館を移したため、佐伯城は山城としての役目を終えることになる。 

そして、三の丸への登城門が現在の「櫓門」である。 尚、佐伯城城郭は、明治の「廃城令」で城が取り壊されて現在は遺構のみが残っている。山城へのルートは幾筋かあるが、いずれも昔の面影を残しており、山頂からは佐伯の町が一望できる。

次回は、「津久見」

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日本周遊紀行(169) 津久見 「大友宗麟」



津久見は、大友宗麟の最後の居住地であり、終焉の地でもある・・、

道路は、番匠大橋で国道10号線と別れ、佐伯市内は海岸沿いの国道217号線となっている。市内を去って程なく海岸の高台に至ったとき、佐伯の町並みが鮮やかに望下できた。その正面遠方に元越山(もとごえざん・582m)であろうか、尖がり山が佐伯の町を見守っているようだ。
こちらには、ほぼ三角形の彦岳が眼前に迫り、その裾野の海岸ギリギリのところを日豊線と国道が走っている。 これらの地域は、山腹がいきなり海岸に落ち込んでいる険しいリヤス海岸で、所々、トンネルが貫通して無理やり通ってる感じでもある。 

程なく津久見へ達している、市域としては比較的小さなエリアのようである。 
平成の大合併で自治体の数が少なくなり、その分、各自治エリアが広くなっている感があるが、そんな中、津久見は隣の市町、臼杵市、上浦町に対して合併協議を申し入れているが、いずれも合併に対して、慎重な姿勢を変えていないという。

ところで、九州のなかでも大分県は、日本の「懐」というべき瀬戸内海や豊後水道に面し、台風の襲来や冬の厳しい季節風から守られているため、比較的温暖な気候に恵まれているという。 そういえば、九州地方が台風や梅雨時の大雨による被害が報告される中、大分地方は意外とニュースになっていないのに気が付く。 
津久見は、この温暖な気候と地形を利用してのミカンの栽培が盛んで、「津久見ミカン」は全国でも有名ブランドでもある。

その津久見は、戦国期には大友氏の支配下にあり、大友宗麟が津久見を最後の居住地と位置づけ、宗麟(1530〜1587)終焉の地でもあるという。 
宗麟は、大友家の嫡男として豊後府内城に誕生、世に言う「大友二階崩れの変」(豊後大友家での御家騒動)で家督を継いだ。 
その後、毛利氏や秋月氏等との抗争を続けながら、その最盛期には豊後、豊前、筑前、筑後、肥前、肥後、日向と四国・伊予半国を支配し、強大な戦国大名となった。 

ところが、九州の関が原といわれる「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人達の反乱が相次ぎ、島津義久などの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。 

こんな中、天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請し、了解した秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破っていく。 
だが宗麟自身は、戦局が一気に好転していく中で病気に倒れ、豊後国・津久見で病死している、58歳であった。
九州征伐後、秀吉の計らいで大友義統(よしむね・宗麟の長男)には豊後一国を安堵したが・・、その前に秀吉は、宗麟に日向の地を与えようとしていたらしいが、宗麟自身は既に統治意欲を失っていて、これを辞退したという・・、もしくは直前に死去したとされている。
墓は津久見市内と京都市北区の大徳寺にあり、さらに津久見市上宮本町の響流山・長泉寺に位牌がある。


キリシタン大名としても知られる宗麟であるが・・、

天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との最初の出会いであった。
その後、キリシタンに帰依(洗礼名をフランシスコ・ソウリン)し、キリスト教の領内での布教を許可したり、施設団をローマ教皇のもとに送ったりしている。 宗麟がキリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。 

一方では、キリシタンになったことが大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人衆の蜂起という形で、不利な立場に置かれることに成ったのは皮肉である。 
又、宗麟は、キリスト教をかなり厚く信仰していたため、神社仏閣を徹底的に破壊したという逸話があるようだが。
しかし、これは隣国の日向の国侵攻において新たなキリスト教国の建設を夢見たとされ、宗麟が日向国内において限定的に行った行為であり、本拠である豊後国内では宗麟が寺社仏閣を破壊したという資料は見当たらないという。 

耳川の合戦で敗色濃厚となって篭城する際に、宗麟は、キリスト教徒もそうでない者も城内に避難させ、自ら握り飯をつくって配ったともいう。
又、宗麟は、信仰を深めるほど、キリスト教の「汝、殺すなかれ」という教えと、戦の上で殺生は避けられない戦国乱世との間で葛藤し続けたともいう。

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