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 22日目:PartWa(延岡、九州山地・五家荘、五木村) PartWb(椎葉村、南郷村)へ  
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日本周遊紀行(166) 延岡 「延岡版・西南の役」


最後の談義
写真:北川・表野の児玉熊四郎邸(西郷隆盛宿陣跡資料館)の西郷の最後の軍議の様子


可愛岳周辺は、「西南の役」における西郷軍の最後の激戦地であり、退却地でもあった・・、

現在、北川の「表野」辺りは実に長閑で雛びたところであり、時が止まっているような地である。 

だが、明治初期の一時期、この辺りは一大騒乱の地であった。

可愛山稜の伝説の地から東側に沿っての表野集落の一角に旧邸らしい「岡田邸」があるが、元は児玉邸という邸宅であったらしい。 
現在、この地は可愛岳への登山口になっており、、登山愛好者が集うところでもある。  
併せて、ここには「桐野利秋宿営の地」と白の看板が立ち、更に、横に「可愛嶽突囲戦薩軍登山口」とある。 

案内板の主文には『明治18年8月15日、和田越の戦いに敗れた西郷軍は、ここ表野に集結した。17日の夜には官軍の包囲網は完成していて、翌朝は西郷本陣を総攻撃する手筈になっている・・・』 とある。


児玉熊四郎邸は、当時、西郷軍の本陣であり最後の軍儀が開かれた所で、最後の決戦か、降伏か、あるいは鹿児島への脱出か、三者択一を迫られた場所であった。 

本営地の頭上は、岩峰鋭い天険の山・「可愛岳」が聳えていて行軍には最大の難所であるが、それでも西郷は栄光の脱出行を決断し、選択したのである。 
そして遂に西郷は、薩軍解散の命を出し、陸軍大将の軍服を裏庭で焼いて捨てたと言われている。 

現在この場所は「西郷隆盛宿陣跡資料館」となっていて、西郷軍が最後の軍議を開いたときの様子が、人形(ひとがた)を使って再現してある。


西南戦役」については先に熊本の項・「田原坂」でも記したが、熊本では谷干城司令官(土佐藩士、軍人・坂本竜馬の同輩)率いる政府軍がたてこもる熊本城に総攻撃をかけたものの城を落とすことはできず、頼みの田原坂の防衛ラインも分断され、田原坂も政府軍の手に落ちてしまう。

この後、西郷軍の敗走が始まるのである。 


西郷軍の九州山地・脱避行・・、

政府軍に追われて右往左往する西郷軍は、矢部(現、上益城郡山都町)から「椎葉越え」をして人吉へ、更に、薩軍は人吉盆地での攻防戦を経て小林−野尻−高岡から宮崎と向かっている。
(別働隊は人吉から米良村の横谷峠を越えて村所、一ノ瀬川沿いを宮崎方面へ)

実に九州の脊梁山地といわれる急峻なる難所を踏破し、漸く(ようやく)にして現在の宮崎市広島1丁目近くの農家・黒木某宅に本陣を置き、約2ヶ月滞在している。 
跡地には「西郷隆盛駐在の地」として「敬天愛人」の石碑と案内板が当時の様子を伝えている。

しかし、そこにもそう長く落ちつくことは出来ず、佐土原−美々津と日向各地を転戦し、さらに延岡まで退却することになる。 

延岡が官軍の手におちる直前、延岡の山中から五ヶ瀬川を下り、東海港(延岡市東海)を経て北川を遡り、野峰の吉祥寺(国道10、326号の分岐点)に入る。 
隊士たちも続々北川・長井村に集結し、西郷軍は最後の決戦となる「和田越戦」の軍議を開き、この席で、西郷は「明日の和田越戦の指揮は、直接自分が執る」と伝えたと言われている。

和田越の戦い」は、西南の役、最後の激戦地としても有名で、西郷軍三千に対して、政府軍は山県有朋指揮いる五万の大兵力であり、朝から昼過ぎまで灼熱地獄の中での死闘5時間続いた戦闘であった。
しかし、善戦はしたものの多勢に無勢、所詮勝ち目はなく西郷軍は敗れて空しく敗走、再び北川の俵野に至る。 和田越は、現在、延岡市無鹿町の北側丘陵に当たり、北川西岸の国道10号線と日豊本線の和田越トンネルが抜けている。

和田越の案内板より・・、

『8月15日晴天、南洲翁は開戦以来初めて戦場・和田越山上に立つ。薩軍3,500は長尾山、小梓山、和田越、無鹿山に布陣し、樫山山上に立った。この戦い南洲翁死処を求めし最後の決戦なり。』

トンネルの入口には「西南の役・和田越戦跡」の標柱と、反対側の出口には野口雨情の・・、

『 逢いはせなんだか あの和田越で 薩摩なまりの 落人に 』 

の歌碑や案内板が建っている。 


西郷隆盛最後の本陣となった俵野の児玉熊四郎宅で最後の合議がなされたのは、時に明治10年8月15日であった。
そして、8月16日、最終的に西郷が解軍を決意し令を出した。

『我軍の窮迫、此に至る。今日の策は、唯、一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際、諸隊にして、降らんと欲するるものは降り、死せんと欲する者は死し、士の卒となり、卒の士となる、唯、其の欲する所に任ぜよ』 

これより降伏するもの相次ぎ、精鋭のみ 1,000名程が残ったという、そして、8月17日の夜、可愛岳突破を敢行するのである。

先頭に2人の猟夫と数人の樵夫(きこり)を道案内に立て、険しい岩場や鬱蒼とした樹木の間をくぐり、傷だらけになっての山越えであったという。 
実際に、この山を越えたのはわずか200名足らずだったそうで、あとはこの地で、官軍に投降したという。 
その後、薩軍は、上祝子(かみほうり)、鹿川(ししがわ)、三田井(みたい)、七ツ山(ななつやま)、松平、御門と九州山地を南下するが、道なき道の山岳逃避行は故郷・鹿児島まで半月近く続いたという。 

そして、9月1日には懐かしの鹿児島に到着し、城山・岩崎谷において最後の籠城するも、同24日、西郷らは自刃し、ここに半年間に亘る西南戦争は終結するのである。

次回は、「九州山地」

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日本周遊紀行(167) 九州山地 「五家荘、五木村」



序(ついで)ながら、「西南の役」で敗れて、敗残の薩摩軍が辿ったといわれる、所謂、「九州脊梁山地」の町村について述べてみよう・・、 

北は阿蘇山系、南は霧島山系に挟まれ、宮崎と熊本の県境の九州の屋根と言われる山峡の地に、郷愁と伝説を秘めた村々や部落が点在する。 

先ず、肥後・熊本に属する「五家荘」(ごかのしょう)と「五木村」について・・、


「五家荘」について・・、

1300〜1700m級の九州山地の奥深い位置に点在する五家荘は現在、八代市泉町(旧:泉村)の中の旧村であった椎原、仁田尾、樅木、葉木、久連子の五つの集落の総称であって、特に五家荘という行政地名としては地図には載っていない。

五家荘地方は、平家落人伝説の残る九州中央山地の奥深い山間に点在する集落のことで、九州の秘境中の秘境と言われている地域である。 
管原道実の子孫や平家の落武者と源氏の追討など追われる者と追う者達が山奥深く入り込み、そのまま住みついてしまったという興味ある伝承の地でもある。

菅原道真は、藤原氏の策略によって太宰府に左遷されるが、道真の死後、長男と次男にも追討の手が延び、それを逃れるためこの地に入り、左座(ぞうざ)という氏名を名乗って、仁田尾(にたお)、樅木(もみき)辺りに住みついたという。

又、平家一門の平清経(平重盛の三男)は、源義仲が上洛したことにより豊後竹田の緒方氏を頼って四国から豊後鶴崎を経て竹田に入ったとされている。 
緒方氏の娘を妻として緒方姓を名乗ったが、緒方維義が叛旗を翻し源氏方へ寝返ったため、清経は太宰府から山賀の城、柳が浦へと落ち、世をはかなんでそこで入水したとされる。 
だが、五家荘の地へ逃げ込んだという伝承もあり、その後、三人の息子たちが其々の里に住み着き、庄屋として領地を開拓したという。 

五家荘にある「平家の里」は、都を偲ぶ隠れ里の雰囲気が漂い、朱色が鮮やかな神殿造りの「平家伝説館」(資料館)には平家落人伝説の資料などが展示してある。
又、能舞台や当時を偲ばせる古民家が点在し往時を偲ばせている。 
他に、最奥部の樅木(もみき)地区には、現在は観光名所となっている「ロープの吊橋」が多数見られる。 

「五家荘」は川辺川の上流域にあり、深い渓谷に架かる藤の蔓を使用した吊橋が、地域住民の日常生活に重要な役割を果してきた。 だが現在は、大部分がワイヤーロープの吊橋に架け替えられ、五家荘の名所となっている。

「五家荘」は、豊かな自然とロマンが今も残っている地域である。


次に、五木村について・・、

おどま盆ぎり盆ぎり・・」と、どことなく哀愁をおびた子守唄である。

五木の子守唄」で有名な五木村は、川辺川上流に沿って集落が点在している。 
現在、この五木の近辺はダム工事のために狭い道をダンプカーが行き来しており、道路工事などの最中であるらしく、いづれは、子守唄の里でもある五木の中心地は、ダムの底に沈むことになるようである。

壇の浦の戦に破れた平家の一族である武将17人、そして従者135人が五木、五家荘の山中にひそみ、さらに世人の目をくらますため、源氏の武将の姓である土肥、椎葉、那須、黒木らを名のり、居着いた(いつき=五木)であろうという伝承(平家伝説)がある。

五木村から肥後・八代へ抜けるのに「大通峠」というのがあり、かつて貧しい五木の名子(なご・中世から近世、一般農民より下位に置かれ、主家に隷属して賦役を提供した農民)達は、娘たちが七つ八つになると、ロベらし(クチ減らし・家計が苦しいので、家族の者を他へ奉公にやるなどして、養うべき人数を減らすこと)のため、町(八代)に女中奉公に出したもので、そのための親子は、必ずこの峠で別れなければならなかった。

「マチさ行けば毎日マンマ(御販)が食べられるとバイ」
・・と、母親の声を後に泣きながら山を下って行く光景がしばしば見られたという。 
五木の子守唄の一節に・・、
「おどま親なし七つの年に、よその子守で苦労する、つらいもんばい他人の飯は、煮えちゅおれども のどこさぐ・・」

と、当時の悲しい様子が見て取れる。

子守唄公園には温泉センターや歌碑、ユニークな子守唄像が立っており、かやぶき茶屋や子守茶屋の店もあり、お茶や椎茸などの地元名産品などが販売されている。

  「五木の子守唄」  熊本県民謡 伝承者 吉松 保


おどま盆ぎり盆ぎり 盆から先ゃおらんと
盆が早よくりゃ 早よもどる

おどまかんじんかんじん あん人たちゃよか衆(し)
よか衆ゃよかおび よか着物(きもん)

おどんが打死だときゃ 誰が泣(に)ゃてくりゅか
裏の松山ゃ せみが鳴く

せみじゃござらぬ 妹でござる
妹泣くなよ 気にかかる

おどんが死んだなら 道端ゃいけろ
ひとの通るごち 花あげる

辛いもんだな 他人の飯は
煮えちゃおれども のどにたつ


歌詞にある「おどま勧進勧進」の勧進とは、「もの乞い、乞食」のことで、「私は乞食(こじき)」という意味である。
哀愁を帯びたメロディーと切ない思いが伝わる日本でも代表的な子守歌であるが、レコード等で全国的に有名になった「五木の子守唄」とは別に、五木村で古くから唄い次がれてきた「正調五木の子守唄」もある。


正調・五木の子守唄』  伝承者 吉松 保

おどまいやいや 泣く子の守にや
泣くと言われてにくまれる
泣くと言われてにくまれる

ねんねこした子の可愛さむぞさ
おきて泣く子のつらにくさ
おきて泣く子のつらにくさ



全国的にも有名な「五木の子守唄」であるが、歌詞は様々なものが伝えられているという。 
特に、正調五木の子守唄は歌詞で1番、2番というもはなく、どれが元唄で、何番まであるかなど全然判っていいないという。 専門家によると、多分、即興的に歌われ、そして消えていったものも多数有るともいわれている。

又、歌詞やメロディの発生時期・時代についての記録も伝承もなく、自然発生的に歌われだしたものが、今日まで伝承されてきたと解釈されている。
伝承者によって似たようなものもあれば、ひらがな、漢字などを含め、記述した人によっても微妙な違いがあるともいわれる。

次回は、椎葉村     PartWbへ

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