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 22日目:PartV(美々津、延岡) PartW(延岡、九州山地・五家荘ほか)へ  写真集W 日本周遊ブロ
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日本周遊紀行(165)日向 「美々津」



美々津は、神武天皇の「御東征」の出発地である・・、

ここは日向市である・・、

先の宮崎の項でも述べたが、「日向の国」の中心は古代は宮崎であり、中世から江戸期にかけては島津氏や伊東氏の居城であった都城や佐土原がその中心であった。 
そして、古代神代の時代におけるここ日向の美々津は、神武天皇の「御東征」の出発地として知られ、初代天皇として名を残した神武天皇の伝説の地であって、古代の片鱗がここにも残るという。

「神武天皇」という名は有名ではあるが、近世に至るまで、天皇の名は諡号(シゴウ=おくり名)として後から付けられたものであって、その時代に人々にそう呼ばれたわけではなかった。 
たとえば神武天皇の名前は本来、古事記では神倭伊波礼毘古命・カムヤマトイワレビコノミコト、日本書紀では神日本磐余彦尊・カンヤマトイワレヒコノミコトといった。 

その他の呼び名もあるようだが、 神武天皇という名前は、彼の死後に送られた称号である。


ところで東征というと、東国、つまり我々の認識では関東や東北地方を平定したように聞こえるが、 邇邇芸命(ニニギ)の天孫降臨以来、九州に国家を構えていた天皇家(宮崎)にとっては、東国とは近畿地方あたりを指したようである。 
即ち、この神話は九州に都を持つ国家の王が、近畿地方までを勢力下に組み入れ、名実共に大八島(オオヤシマ=日本全州)の中央を制圧したという事である。


東征の出発・・、

神武天皇45歳のとき、宮崎市の皇宮屋(こぐや:神武天皇の居所、宮崎神宮・摂社)で東征のための軍議をなされ、大和へ向かうことを決心する。 そして船出の地に選ばれたのがここ美々津であったと伝えられている。 

この地から舟出した神武天皇一行は、沖に浮かぶ一ッ神と七ッバエと呼ばれる二つの岩礁の間を通って旅立ったとされ、その後、天皇一行が二度と戻られることがなかった。 
因みにその後、この岩礁の間を通ると二度と戻れないとされ、現在でもこの間を通って沖に出る漁船はないといわれる。

出港後は、豊国(大分宇佐宮)、筑紫岡田宮(福岡芦屋)から阿岐の国(広島安芸)へ、そして吉備国高嶋宮(岡山)から瀬戸内海を経て、浪速(大阪)に入った。 
浪速では、上陸を阻止しようとナガスネビコ(大和地方の豪族の長で、イワレビコの東征に抵抗したとされる)との戦いが行われ、この時、イワレビコは「日に向かって戦うことは不吉である」として更に、南の方へ回航しその後、紀州に回って大和に入ったとされている。 

大和を平定した後に橿原宮(かしはら宮:奈良)で即位し、初代天皇となるが、この日が紀元節と言われる現在の2月11日とされ、つまり「建国記念日」である。


神武東征御船出の地として美々津港の右岸、耳川に面して「立磐神社」いう社が建っている。
神武天皇東征の折、ここで戦勝と海上安全を祈願したといわれ、後に景行天皇の時代に、東征を記念して創建されたと伝わっている。 
東征の船出を待つあいだ、腰かけていたという「腰かけ岩」も祀られている。


又、この社のすぐ近くに「日本海軍発祥之地」の記念碑が建つ。 
神武天皇親率の水軍が初めて編成されて進発した地とされ、即ち、日本海軍は天皇が統治された海軍で有っことから、国が美々津の地を海軍発祥の地と定め建立したという。




紀元2600年奉祝会選定  「紀元二千六百年」  詩 増田好生  曲 森義八郎 (昭和14年日本放送協会製作)
金鵄(きんし)輝く 日本の
栄(はえ)ある光 身にうけて
いまこそ祝え この朝(あした)
紀元は二千六百年
ああ 一億の胸はなる
歓喜あふるる この土を
しっかと我等 踏みしめて
はるかに仰ぐ 大御言(おおみこと
紀元は二千六百年
ああ 肇国(ちょうこく)の雲青し
荒(すさ)ぶ世界に ただ一つ>
揺るがぬ御代に 生立ちし
感謝は清き 火と燃えて
紀元は二千六百年
ああ 報国の血は勇む

潮(うしお)豊けき 海原に
桜と富士の 影織りて
世紀の文化 また新(あらた)
紀元は二千六百年
ああ 燦爛(さんらん)のこの国威

正義凛たる 旗の下(もと)
明朗アジア うち建てん
力と意気を 示せ今
紀元は二千六百年
ああ 弥栄(いやさか)の日は上る


次回は、「延岡」

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日本周遊紀行(166) 延岡 「藩主・内藤家」


墓地
写真:鎌倉材木座「光明寺」の歴代内藤家の墓所(重文)


陸奥国・磐城平と日向の国・延岡の内藤家とは・・?、

国道10は日向市街の中心地、日豊本線・日向駅に達した。
市街地は海岸の方向に広がっていて、その町外れの海岸には壮絶な風景が広がっている。 
通常、黒潮洗う太平洋に面した宮崎の海といえば、すぐにフェニックスロードと言われる長閑な日南海岸を思い浮かぶが、こちら県北部は日南海岸とは対照的な「日豊海岸」(国定公園)といわれる壮絶なリアス海岸が、日南とは勝るとも劣らない特異な景観を誇っている。 

そのなかでも日向市西方郊外の絶景ポイントである「日向岬」は特に、馬ヶ背(馬が背)といわれる付近一帯の岩が柱状節理の断崖絶壁を成し、越前海岸の「東尋坊(とうじんぼう)」をも凌ぐともいう。
日向駅から日向市街、日向岬、日向灘と日向ずくしのこの地は、町並みと自然のおりなす大景観が隣合った珍しい地域の一つであろう。


門川町から延岡に入った・・、

この「延岡」は小生の田舎・実家(福島県いわき市)と非常に縁が深いということが判明している。 
「延岡」は水辺の町で、各河川が合流している水郷の町である。事実、「日本の水郷百選」にも選ばれていて、五ヶ瀬川、大瀬川、そして祝子川の清流を街の近隣に抱き、「水郷・延岡」の愛称でも人々に親しまれている。

この五ケ瀬川と大瀬川に挟まれた三角州・高さ50m余りの延岡山の山丘に縄張りしたのが平山城・延岡城である。 
今は「千人殺し」と言われる城跡の石垣が、その名残を留め、城山公園として市民の憩いの場になっている。 


最初に城が築かれたのは遥か遠くの昔・天平時代(奈良時代の後期)のことらしいが、江戸期まで下って1614年 (慶長19年)、有馬直純が島原から入封し、城および城下町建設に力を注ぎ、本格的城郭が完成している。 
以降城主は三浦氏、牧野氏と替わり、延享4年(1747)・内藤政樹が七万石で入封すると、そのまま世襲して明治に至っている。

牧野氏の時代、牧野貞道(1719〜1747年までの日向延岡藩二代藩主、寺社奉行や京都所司代を歴任)の出世で経費が嵩み、藩財政は困窮するに至った。 
そのため、江戸中期(1747年)の「三方領知替え」の制度により、牧野氏は常陸国・笠間藩に転封となり、代わって陸奥国・磐城平藩(たいらはん)より内藤政樹が7万石で入封した。 
なお、磐城平藩には笠間藩より井上氏が入封している。 


三方領地替え・・?、

三方領地替え」とは江戸期に徳川幕府が行った大名に対する転封処分の手法の一つで、大名三家の領地を互いに交換させることを言う。 
例えば、大名家Aを大名家Bへ、BはCへ、CはA領地へ同時に転封することで、「三方領地替え」、「三方所替え」、「三方国替え」とも称した。 
江戸時代を通じて何回か行われているが、中には、四家が関係した「四方領地替え」の例もあったという。


さて、話は飛んで、小生の実家・田舎、福島県いわき市(磐城藩)であるが・・、

江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、内藤、井上、安藤の四大名が領地を支配していた。 
中でも内藤家は永く、江戸初期の1622年から1747年まで125年間、六代の永きに亘って治めていた。 内藤家は、徳川家譜代として戦国期より活躍し、大阪の陣では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい。 

江戸中期、六代目内藤 政樹の時代の磐城平藩では、天地変による洪水や凶作、また過去の悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた。 
そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生するのである。 
四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ二万人ともいわれ、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲ったという。 4日間、武士団に抗し訴え続け、ついに減免措置を勝ち取ったという。 
だが、この騒動で領主・内藤政樹は責任をとられ、日向・延岡藩7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。 

去るに及んで次の歌を残している。


『 日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) 
                      またみちのくの(磐城平) 人に逢うべし 』

こうして九州・日向延岡・内藤氏は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治めることになる。 

江戸幕末、延岡藩・内藤家は、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕の立場を採らざるをえず、苦況に立たされるが。


このあたり、「鎌倉」(日本周遊紀行・特別編)の項でも記したが・・、

 「鎌倉・光明寺: http://orimasa2005.web.fc2.com/km-6.htm」


内藤家・江戸上屋敷は江戸城外郭門の虎の門に続く外堀辺りにある。 
内藤本家は磐城平藩より財政難の連続で、内藤貧乏の守・・と、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄(やゆ・たとえ)されたほどのであったという。 
しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興に尽くすなど、民衆に支持された名家でもある。


そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰している。 
菩提寺は鎌倉材木座「光明寺」で、寺院は徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・栴檀林の略 仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世、各宗で設ける、関東十八檀林の類、学寮のことでもある)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。 

総門より、巨大な山門をくぐると本殿があり、その横奥に内藤家の廟所があって、磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末までの、代々の墓所が一同に祭られている。 
このように江戸初期から末期まで、代々の大名の墓が整然と全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。 
墓石が順よく並ぶ姿は美的でもあり、壮観であって、鎌倉市の史跡にも指定されている。


先にも記したが、延岡城の内藤家は日向灘の海を望める高台にある。 
江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思い出していたに違いない。


城址内の一角、延岡城の西の丸、もともと延岡藩主の御殿があった地に「内藤記念館」があり、延岡藩の歴史を伝える貴重な資料や書・絵画などが保管されているという。

次回、延岡の「可愛山陵」

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日本周遊紀行(166) 延岡 「可愛山陵」



可愛岳は、天孫・ニニギノミコトが降臨した後の御陵墓が安置する山であった・・、

日南海岸の青島より美々津に至る海岸は、約60kmにわたっては直線状をなした美しい砂浜海岸で特徴づけられる。
これは大淀川・一ツ瀬川・小丸川・耳川などの大きな河川によって運び込まれた大量の土砂が、 沿岸流と波浪の作用によって集積され、形成されたものであろう。 
砂の堆積によって周辺は沖積平野を形成し、これらの河川の河口には発達した砂州が形成されている。

対して、北部地域の海岸線は、美々津より北の佐賀関あたりまでは、九州山地が海まで迫り、岬や入江や島が多く、沈水海岸(海面の上昇または地盤の沈降にもとづいて形成された海岸、河川にし浸食された陸地の沈水で形成される)で形成されたリアス海岸の様相を呈している。 
特に、延岡以北の海岸は屈曲の多いリアス海岸で、急崖が海に臨み、沖合には大小の島々が点在する。

岩手の三陸リアス海岸もそうであったが、こんな地形の箇所はなかなか海岸へは近付くことが困難である。 
したがって、風雅な日南海岸を北上してきた主要国道10号線も、ここ延岡から北側は内陸の山地へ向かっている。 
小生もこれに倣って国道10を行くようになる。

マラソンで有名な宗兄弟の旭化成、その赤白縞模様の巨大煙突を左に見ながら北川を渡り、その川沿いを走る。 
左側にそう高くはないが裾野を大きく広げる山容が見える。
気が付くとこの山は「愛可山」(あいらさん)という。 標高727メートル、この可愛岳は、ニニギノミコトが降臨した御陵墓伝説が伝えられてる山である。


ニニギ降臨の地・高千穂と可愛岳・・?、

先に、薩摩・川内の「新田の宮」でも記したが、古事記によると、天孫ニニギノミコトは高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰」に降りてこられたと記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられた時「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と記されている。

可愛岳の西方、県境の地に高千穂峡でも有名な高千穂町があり、神話の町としても知られている。 
天上界を治めていたアマテラスは、地上の国が乱れている事を知り、孫にあたるニニギを地上に降ろした。
ニニギは多くの神を従え地上、日向・くしふるの峰へ降り立つが、この時、ニニギは千の穂を持って降りたとされ、言い伝えにより、この地を「智穂(千穂)」となずけられ、そして高千穂と呼ばれるようになったという。

町には、にはアマテラスが身を隠した天岩戸(洞窟)を祭る「天岩戸神社」があり、百万(やおよろず)の神々が集まって相談したと言われるところ「天安河原」がある。
更に、古事記に「筑紫日向の久志布流多気・・、」と記されていて、ニニギが地上へ降り立った(降臨)の地とされている「くしふる神社」も存在する。 

ニニギが降臨されたのが高千穂であり、その東方、大洋を見下ろし天上界のも近い「可愛岳」(727m)に御陵墓を鎮めたことは、説得力がある。


可愛山陵」は、江戸期より調査がされて人々の関心を呼び、明治維新後、時の政府や国学者や宮内庁の調査によって可愛岳山麓の古墳が「可愛山陵伝説地」として認定されたともいう。
高く聳える可愛岳の頂上に「鉾山」といわれている所が御陵墓とされ、往時は、この山腹に社殿を営んでいたというが、人々の参詣に不便なため、さらに社殿をふもとの「江」(可愛)という里に移し、「可愛山陵大権現」として崇めて奉仕しているという。 


寛政4(1792)年7月、高山彦九郎(1747−93年、江戸後期の尊皇思想家、寛政の三奇人の1人)は、可愛岳に登り、「筑紫日記」の中で記している・・、

『可愛村に着く。北川でみそぎをする。石橋を渡り、鳥井を入る。壱丁余(約800メートル)登って行くと山間に可愛山陵大権現の社殿が南南東に向かって建っている。ニニギノミコトを祀る。西の山を可愛岳という。これを山陵と伝えている。可愛岳山上迄一里(4キロ)の登りである』と・・。

この山は特徴的なのが、中腹より上部は巨石群に覆うわれ、更に、人工的なストーンサークルが存在するとされている。 
頂上に散見するこれら巨大石の石組は、原始石槨(せっかく:石でつくった、棺を入れる外箱。
日本では古墳時代にみられる) とか弥生時代の立石(メンヒル)であるらしいと学者間でも言われている。

大正3年、考古学者・鳥居龍蔵は可愛岳頂上のこれらの巨石群を調査し、拝み石、鉾石、盤鏡などを一緒にして巨石遺跡としている。
可愛岳が、はるか昔から霊山として人々の祈りや儀式の場になっていたことが想像でき、初代・神武天皇の四代前の先祖というニニギノミコトは、日本が歴史を刻みはじめたとされる神話の世界の神である。 
陵墓の存在は「伝説」の域を出ないものの、多くの巨石群と相まって御陵墓とされている所以であろう。 小さな可愛岳の陵墓は、大きなロマンをかきたててくれる。

旧道、日豊本線沿線の可愛の地に「御陵伝説地」の御陵と碑があり、野口雨情の歌碑には

『 こころして吹け  朝風夜風  ここは日向の 可愛山稜 』 とある。


【追記】
同じような伝説地とされる鹿児島県川内市の新田八幡宮にも、ニニギの御陵墓とされる「可愛山陵」があり、所謂、宮崎と鹿児島で御当地論争が起こっている地柄でもある。

次回は、延岡の「西南の役」    PartWaへ
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