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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年6月11日 延日数 第21日
出発地 指宿温泉 出発時間 8時45分
到着地 宮崎 到着時間 19時00
天 候 雨⇒曇り 体 調 今一(腹具合)
走行道路名 指宿スカイライン、R226、九州道、宮崎道
主移動地名
知覧⇒鹿児島⇒隼人⇒国分⇒都城⇒宮崎
現在(宿泊)地 宮崎・シーガイヤロードPA
道の駅・PASA 宮崎・シーガイヤロードPA
温 泉 宮崎・からっぽの湯
名所・旧跡
池田湖、知覧

写真集 W

  21日目:PartT(知覧)   PartU(知覧、鹿児島)へ     写真集 W  日本周遊ブログ
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日本周遊紀行(160) 知覧 「特攻平和会館」


飛行機
写真:特攻平和会館前の実物大の戦闘機(零戦・・?)、チビは愛孫です。



以前に、知覧の項で「特攻」について述べたが、更に・・、

食後、ホテル周辺の緑豊かな庭園を孫達とじゃれ合いながら散策したい・・、と思っていたが、ところだが生憎の雨模様である。 
代わって広い館内をぶらつきながら、部屋へ戻って孫たちと一暴れした。 テレビがニュース、天気予報を伝えていて、地元地方の予報によれば、本日は「曇り時々雨」と伝えていた。 
ぼちぼち出発である、先ず、景勝「池田湖」へ向かった。

近くを通るR226(南薩道路)を池田湖の南部から辿ってみた、薩摩富士の開聞岳が至近のはずであるが、今は靄に煙っていて、その姿はホンノリ見えるのみであった。 それでも僅かながら三角錐の形が幽かながら見て取れた時、「ヘー、あれが薩摩富士か、やっぱり富士山だな・・!」と婿殿が感心していた。 

西側湖畔を行くが、湖面は灰色に沈んでいて、この辺りは鹿児島南部の景勝地の一つでもあるが、この日ばかりは、その美事さは感じられず、その辺の湖沼と変わらないような陰気な様子で佇んでいる。
やはり、自然の景観は晴れた日の、太陽の下での立体的な輝く姿が、より印象的であろう。 

小生が先日訪れた湖畔の園地を訪れてみたが、やはり、小雨に煙ぶっていて芝生は濡れて歩きにくく、本来、湖面より浮かび上がる薩摩富士の勇姿は、こちらも同様であった。
 


知覧特攻平和会館を再び訪れた・・、

指宿スカイラインを、昨日とは逆に北上する。
知覧付近は、例によって延々と(遠々と・・)茶畑が広がっている。 
静岡に次いで西日本一の知覧茶の産地ということで、皆々驚いていた。

先ず、知覧の「知覧特攻平和会館」へ既行者として案内する。 幸いに館前に着く頃には、すっかり明るくなって雨も上がってきたようだ。
特攻平和会館は、特に子育て真っ最中の若夫婦にはジックリ見てもらいたいのである。 
 
広ーく、整備された公園を孫達は、跳ねるように車から飛び出していった。 
その先は、やはりあの二機の戦闘機が外部展示してあるところであった、「ワー・・飛行機だ・・!」 乗り物に興味を持ち始めた4歳の男孫である、「かっこいいナ・・」実物大の飛行機を、こうやって触りながら見るのは、勿論初めてだろう、父親も「おお、スゲー!!」といってニコニコ顔で一緒に写真に納まっていた。


所定の入館料を払って全員で入場した。
先ず、壁一面にずらりと並んだ1036名の若い顔の遺影、達筆で書かれた遺書品々、日の丸への寄せ書き等々、小生は、一応拝見しているので冷静であったが、若夫婦をはじめ、年寄りの義母、そして上さんも、それらの品々に食い入るように観ていて、徐々に吸い寄せられていくようである。 
面白がっていた孫達も親と一緒に眺めてて「これ、ナーニ・・?」と質問されて、親は説明、返答に窮しているようだが・・、そのうち飽きてきて嬌声を発し、飛び跳ねはじめた、子守は勿論、小生である。 

大人の真剣さと、孫の無邪気さが好対照で面白い・・?。

近くで見物していた茶髪の少女・女学生風の数人が「ウッソー・・」、「マジ・・?」などと言って、俄かに信じられない風であったが、次第に食い入るように特攻隊員の遺書を読んでいる姿が見て取れる。 
当時、桜の小枝を打ち振って特攻隊員の死への門出を見送る知覧高女の女学生達がいたのはご存知かな・・?、これら隊員たちを見送ったのは、丁度貴女たちの年代でしたよ・・!。

次回は、知覧・特攻隊員

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日本周遊紀行(160) 知覧 「特攻隊員」


食堂


食堂1
写真:現在の富屋食堂(ホタル館、資料館併設)と出撃隊員に書いた記念タオル



歌詞には・・、

『 散るために 咲いてくれたか さくら花 
                    散るこそものの みごとなりけり 』 
 と記されている


特攻隊員たちを励まし、癒した「富屋食堂」とその女将・・、


館内に展示されている若き隊員達の「遺書・文言」には、強烈に胸を打つものがあり、純真さ、健気さを強調する内容とも言えるが、当時は手紙一通にしても軍の検閲があったことは確かである。 
従って、全くの本心は書き難い面があったかもしれないが、しかし、そこに書かれた言葉は決して嘘や偽りでは無く、万感の思いで書かれたことも確かであろう。

だが、こんな検閲厳しき兵舎内で、しかも、特攻隊員という死に際にあった彼らにも自由を謳歌し、純真無垢にする時と憩いの場所はあった。その場所の名は「富屋食堂」といい、彼らの集散の会食の場であった。そこには彼らを母と呼ばせた女主人がいた。


富屋食堂の常連、板津忠正に出撃命令が下った、しかし・・!、

昭和4年、鳥浜トメ氏は27歳の時、現在の知覧町役場近くの通りに「富屋食堂」を開いた。 
南国特有の明るい性格と、気さくな性格の彼女は、たちまち若い隊員たちの人気となった。 食堂は陸軍の「指定食堂」でもあり、やって来る少年兵を我が子のように可愛がり、誰言うともなく隊員たちはトメを「母さん」と呼ぶようになっていた。 


こんな時期の昭和20年、突然、知覧は特攻基地に変身した。 
毎日のように出撃命令を受ける少年兵たちはトメに出撃を報告し、故郷に住む母への手紙を託したとも言う。 次々に知覧の飛行場を飛び立ち、誰一人帰ってくる者はいなかったし、トメに託した手紙こそ真心、本心の手紙だったのである。

こんな中に、板津忠正という隊員がいて、彼は1945年5月、知覧飛行場より出撃した。
だが、沖縄へ向かう途中エンジンの不調に気がつき、それでも編隊飛行を続けようとしたものの高度1500mのところでエンジンが完全にストップし、徳之島へ不時着してしまった。
その後、二度ほど出撃命令を受けるが天候不良のため出撃中止となり、結局、出撃する機会を失ったまま終戦を迎えることになった。 
生き残った特攻兵、板津忠正は虚脱状態を引きずっていた。

こんな時に、鳥浜トメが言うには、「生き残ったことは、残されたということだよ。神様があんたに、“他に何かをやりなさい”とおっしゃっていることがあるはずだよ」と、 自分だけ生き残った罪の意識を抱えながらも、この一言で彼は意思を取り戻し、その後、遺族の元を一人ずつ訪ねる巡礼の旅に費やされたという。 
戦友たちがこの世に託したかったことは何だったのか、彼ら一人一人のわずかな言葉を拾い集めることに、戦後の全てを捧げた。 それはある意味で、死んだ者よりも長く厳しい道のりだったのであるが・・。

こうして昭和62年、板津氏は彼らの声を永遠に語り継ぐために、この地に自己の財を全て投げ打って「知覧特攻平和会館」を設立したのである。 
遺影や遺品のほとんどは彼が独力で集めてきたものといい、収集に区切りがついたのは戦後50余年を経てからという。 この時、板津氏は知覧特攻平和記念館の初代館長をも勤めている。

ここに、小生は、板津氏の行った行為は、赤穂浪士の「寺坂吉右衛門信行」を彷彿させた。
首尾良く本懐を遂げ、全員打揃って泉岳寺に向かう途中、大石内蔵助は、吉右衛門に対し一人結盟同士を抜けて使者に立つように命じた。 吉右衛門は命に従い、討入りの顛末を仔細に申し伝えるべく、また義士らの残された遺族らの生活を助けるべく、遺族たちの元へ旅立っていくのである。


動員された朝鮮出身の特攻・・、

館内展示遺品に、出身地が「朝鮮」となっている者が11名いて、中には日本名と朝鮮名が併記されている者が7名いるという。 
この事は先刻、訪れた時に記したが、館の公園の一角に「アリランの歌碑」があり、更に、「ホタル」の石碑がある。 その、朝鮮人とホタルについて・・、

富屋食堂の常連、宮川三郎(当時、軍曹)に出撃命令が下った。
「父上様母上様、幼き日よりの数々の慈しみ、不肖、決して忘れは致しません。中学校時代、寒い中を出迎えに来て下さった父上の顔、今もなお、深く頭の中に残っております。」

その遺書には“お国のため”、という言葉はなく、ひたすら故郷への想いが綴られている。
出撃前夜、富屋食堂にやってきた宮川(朝鮮人・現、韓国人)は、トメさんと子供達に別れを告げた。
そして「死んだらホタルになって戻ってくるから」と言って、飛び立っていったのである。 
トメさんは後に語っている、「サブちゃんはホタルになって会いに来るといっていたが、そしたら本当に時間どおりに参りましたヨ、ホタルが・・、」「ホラ皆さん、このホタルは宮川サブちゃんですよ」、「本当かね、カアさん」といって、皆んなで「同期の桜」を歌ったという。 

これは実話である・・、そして、この事実は映画にもなった。

次回は、「映画になった特攻隊員」

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日本周遊紀行(160) 知覧 「映画になった特攻隊員」



石原慎太郎氏が作った映画・『俺は、君のためにこそ死ににいく』・・、

2001年、「ホタル」という映画が上映された。
小生は残念ながら観ていないが・・、(後日、ビデオで観ました)当時、富屋食堂(実名)は若者達に、母親のように親しまれていた山本富子(鳥浜トメ役:奈良岡朋子)が経営していた。 ここは、少年たちの自由に出入りが出来る憩いの場であり、彼女は何くれと無く彼等を面倒見た。 彼らは食堂の主人を「カアさん・・!」と自然に呼ぶようになった。 或る日、韓国出身の金山少尉(実名・宮川三郎役:小澤 征悦)に出撃命令が下った。その夜、富屋食堂で彼が自国の唄・「アリラン」を歌い、「私が亡くなったら、明日この時間にホタルになって帰ってくるという」と言い残し、戦地へ旅立った。 翌夜、何時ものように富屋食堂には、若い特攻隊員たちが集まっていた、この時、予告した時刻に一匹のホタルが食堂に入ってきた、皆シーンとホタルを見ていた。

そして画面は現代に替わる・・、
鹿児島の小さな町・・、 山岡(高倉健)は病弱の妻(田中裕子)とともに静かに暮らしていた。 特攻隊の生き残りである山岡の脳裏には、折に触れて戦争当時の悲しい思い出が甦る。 志半ばにして命を散らした若者たち、引き裂かれた恋、この物語の中心に位置するのが富屋食堂であり、その女主人であであった。 ある時、この女主人(カアさん)から金山の遺品を届けるのと慰問のため、山岡に故郷の韓国へ行くようにお願いする。 やがて、彼はさまざまな思いを胸に、金山の故郷の韓国を訪れる。
幾つもの傷を心に負った生き残り特攻隊員の出会いと運命を描いた、東映50周年記念製作で、主演、高倉 健、田中裕子を始めとする充実のキャスト、監督・降旗康男である。

鹿児島湾、桜島、開聞岳や青森の八甲田山など、美しい日本の四季の移ろいを交えて 丁寧かつ重厚に描き出す。 物語のクライマックスは韓国の魂が息づく伝統の村・ 河回(ハフェ:金山少尉の実家)の地に高倉らがロケーションを敢行。 富屋食堂の主人・鳥浜トメを演ずるのは名女優の奈良岡朋子、そして、ここ特攻記念館も脇の役目で登場している。
映画「ホタル」が平成13年夏に上映されて以来、知覧を訪れる人が急増したといわれる。



記念館の前には、『慟哭の誓い・・この鎮魂、慰霊、慟哭のなかに、我ら国を超え、民族を超え、世界人類永遠の平和をここに誓う』と歌った、堂々たる歌碑もある。 

当時、運輸大臣・石原氏(現東京都知事)が当館を訪れ、その後、鳥浜トメ氏を尋ねている。 
彼はトメさんの感動的な話を聞き、身を正したという。 
拝見した古いアルバムは、ほとんどの写真が剥がされ、黒い台紙が残るのみであった。それは戦後、知覧を訪れた遺族に乞われるまま、貴重な写真を分け与えてしまったからである。
そして、「ここにこうして残っているのは、韓園と台湾出身の方々のものばかりです 」・・と。

その際、石原氏はトメさんを「国民栄誉賞」に推薦したそうであるが、時の首相・宮沢氏の無理解により賞の授与には至らなかったという。
石原都知事は“タカ派”の国会議員として知られるが・・、記念館を見学し、鳥浜トメ氏のに会って、現状日本を政治家としてどう感じたか、興味のあるところである。

その後、石原氏は2007年5月、『俺は、君のためにこそ死ににいく』という映画を、脚本・制作総指揮して製作している。 
太平洋戦争末期、知覧で飛行訓練を受けていた美しい青春が、特攻のために無残にも散っていった物語で、そこには、陸軍飛行兵や母親のように慕われていた鳥浜トメ氏、そして特攻隊員となった青年達を描いている。

ところで、館内に掲示されている1036もの遺影は、60年間続いた平和日本に安堵しているのであろうか・・?。 
何時々々までも、この館が人々にノーモァー戦争を、そして憲法9条の遵守を呼びかけ、平和を希求する館であって欲しいとは思うが、尚言えば、現状、半ば平和ボケしている「日本の実情」をどう感じているか・・?も、気になるところではある。 
館内にいると次第に、何か心が閉ざされた、やや陰鬱な気分になるのは先日の訪館の時と同じであった。
会館から出て公園の緑と空の明るさを見て、気持ちも元に開放されるのである。


車へ戻る、今はまだ十数台の数であるが、この大きな駐車場は平日でも大型バスを連ねて、ほぼ満車状態になるというし、まして休日などは見物客で大混雑するという。

少々、穿った(うがった)見かたをすれば、知覧特攻平和会館は確固とした反戦・平和理念の施設で、特攻隊に関するあらゆる資料を集めて、その本質を追求するところではあろうけれど、昨今、記念館や資料館の建設ラッシュにも見られるように、むしろ特攻をネタにした観光施設の色合いが濃い所と言えなくもないと思ったが・・?。


近隣の武家屋敷へ向かう道々、整列に並ぶ「特攻灯篭」を見て上の孫は「あれ、ナーニ・・」と問われて、適当に返事はしておいた。 
ただ、初め見た目は「珍しさ」もあったが今、冷静に見て、由緒ある神社仏閣が控えているならともかく、たかが(・・?)記念館でここまでやるか、という感触も否めなかった。
いっその事、実際に特攻神社なるものを創建してみてはどうか・・?、(不遜な考えに無礼もうし候)
だいぶ上空も明るくなって、一部には青空も見えている。
“麓”と言われる「武家屋敷跡」に着いた。 孫達は道端の清流に悠然と泳ぐ鯉の群れに嬌声を上げている。

小生は先刻頂いた案内書を元に、武家屋敷の路地へと案内した。
皆は個々別の屋敷前に佇む庭園の見事さに驚嘆していた。尤も、この地域は別名「武家屋敷庭園群」とも言われる程なのである・・。

次回は、その「麓」について    PartUへ
 
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