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日本周遊紀行



西日本編  2日目:PartW(焼津、相良・牧の原、御前崎)  PartX(掛川・袋井、浜松、渥美)
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日本周遊紀行(17)焼津 「日本武尊と大井川」



焼津は日本武尊伝承の地・・?、

焼津へ到達した。
焼津は静岡市との境に「東海の親不知」とも言われる駿河湾に面した深海湾が、険しい大崩海岸(リアス式海岸)を形造っている。
それとは対照的に南側は大井川の扇状地である志太平野が焼津の町・港を形成している。

この様な特殊な海岸地形が昔から漁業が盛んだったのだろうか。
昔から全国一遠洋漁業の盛んな街であり、焼津漁港の全水揚げの6割がカツオ、3割がマグロといわれる。 
江戸期には焼津産の鰹や鯛を駿府城に隠居していた徳川家康にも献じたといわれ、所謂、駿府城御用達でもあった。



焼津神社と日本武尊・・、

JR焼津駅の南西約1kmに「焼津神社」が鎮座している。 祭神に「日本武尊」(ヤマトタケル)を祀っている。
この地は、の伝説の地でもあった。

古事記における日本神話では日本武尊の東征のとき、この地の国造(くにのみやっこ:古代の世襲の地方官)が謀って日本武尊のいる野原に火を放ち陥れようとしたが、日本武尊は天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ:三種の神器の一つで熱田神宮の神体である)で周囲の草を薙ぎ、向火(迎え火:山火事などを抑えるのには有効といわれる)を放って難を逃れたと伝える。

その様相が烈火のように見え、あるいはその火で葦が焼け燃え盛ったという伝承から、「焼津」と命名されたといわれる。
又この後、この剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と命名されたとされる。
尚、日本武尊の東征の様子は、東日本編の「千葉・木更津」の項で記載してあります。

東日本編の「千葉・木更津」のURL: http://orimasa2005.blog101.fc2.com/blog-entry-208.html



箱根八里は 馬でも越すが・・、

市内を過ぎると、道は地方道(県道)31号を行くようになる。
石津辺りの松並木が実にいい雰囲気を造っている。
大井川町の海岸部は見通しの良い平坦地が続く、大井川河口のデルタ地帯といえるだろう。
大井川の港を迂回して河口に一番近い「大平橋」を渡る。
広大な河口は砂州と水流の部分が半々ぐらいであろうか、橋の長さも2kmに及ぶようだ。

大井川は,3,000m級の山、南アルプスを源流とする大河であり、日本でも有数の急流河川として知られる。   
今、この辺り広い川幅であるが、河口の割には比較的水量は少なく見受けられる。
渇水期でしかも上流に多くのダムが作られているせいもあろうか・・、しかし、昔は違っていたとよく言われる・・、


『 箱根八里は 馬でも越すが、越すに越されぬ 大井川 』

といわれるように、往時は東海道を基点に上・下流の遠方まで橋は架けられていなかった。

大井川は南アルプスの険しい山岳地帯を流下する、流域の平均年降水量は3千mmと多雨地域に当たり、古くから水量の豊富な河川であった。 
加えてフォッサマグナの崩落地帯が上流にある為土砂流出量も多く、広大な河原を形成している。 
中流部は「鵜山の七曲り」に代表される大蛇行地帯でもあり、こうした特徴的な河川形態が大井川を国境として利用され、駿河国と遠江国の境界線であった。 
ただ氾濫により度々流路が変わるため、紛争の原因にもなりやすく、徳川家康や武田信玄の対立の導火線になったといわれる。

江戸時代には江戸防衛のために架橋や渡船が禁じられていたという。 
そのため人や馬の背に乗せて旅行者や荷駄を渡河させる川越(かわごし)が行われた。
これによって、東海道でも1,2を争う難所とされ、増水の際は川留めとなった。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで東海道筋の大名は秀吉の恩顧に反し、揃って東軍・徳川方に付き、その功あって戦後は山内一豊は土佐へ加増転封されたのを始め、堀尾吉晴(ほりお よしはる:豊臣政権三中老の一人、出雲松江藩)や中村一忠(秀吉重臣・一氏の嫡男、伯耆米子)等の諸大名は西日本へ転封となった。

その後は東海道筋は天領・親藩・譜代(徳川家近臣)の大名で固められ江戸の防衛に当てたが、大井川に関しては当時平均水深が80cm余りあり急流であったことから、江戸の防衛に加え家康の隠居城であった駿府城の外堀の役目を果たす為、架橋はおろか船による渡し舟も厳禁とされたという。 
この為武家大名・庶民問わず大井川を渡河する際には馬や人足を利用して輿や肩車で渡河した川越(かわごし)が行われた。
こんなことで、大井川を渡河する拠点の宿場町として「金谷」等が発展した。



この河口上流・東海道線に「金谷」の駅が在る・・、


名物、大井川鉄道のSL列車が大井川に沿って「千頭」まで上る。 
SLの郷愁を感じつつ、大井川の清流と広大な川根茶の畑を眺めながら、秘境・寸又峡の景観に触れ、温泉に浸かる。 
2,3度訪れたことがある良き旅の思い出の地である。

千頭駅からさらにアプト式鉄道井川線(スイスで生まれた、歯車を使って急坂を登る特殊鉄道で、2本の線路の間に歯車用のレールを付けたもの。急な坂を専用機関車を連結し力強く登って行く)で接阻峡温泉駅そして南アルプスのふところ深く「井川」まで延びている。

秋の紅葉シーズンに是非訪れたい処である。

次回は牧の原〜御前崎

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日本周遊紀行(18)相良牧の原 「お茶と意次」



「牧の原台地」・・、


大井川を渡り吉田町から榛原町、相良町を行くと、右手方向の高台に沿って緑の絨毯が敷き詰められている、茶畑である。 
日本国内の約半分の生産量を占める静岡県の内、およそ7割が標高150メートル前後の、この「牧之原台地」で作られているという。

明治維新の時、幕府の瓦解で食の糧(かて)を無くした幕臣が大挙して静岡に移住し、そのなかで元新徴組隊士200人余が隊長・中条景昭とともに荒地の牧の原台地に入り開墾したという。 
それに続いて大井川渡しで失職したの川越人足達数十人も加わった。 
開墾は苦難の連続で脱落者も出たが、やがて近隣農民達にも開墾を促され、牧の原台地は東洋一の大茶園に変貌した。


ここでチョットお茶談義を・・、

お茶の銘柄で「やぶきた」とよく言われるが、これは米のコシヒカリ・ササニシキと同じ品種の名称で、全国で8割以上が「やぶきた」品種を栽培しているという。 

よく言われることだが・・、


緑茶」とは製造工程で高温の蒸気を当てるため、葉の中の酸化酵素が働かなくなり、鮮やかな葉緑色がそのまま残ることから言われる。 
ここが酵素で酸化発酵させる紅茶やウーロン茶との違うところであり原料は同じらしい。 

緑茶には、旨味成分としてアミノ酸のアルギン酸やテアニン、渋味成分のタンニン、カフェインなどを含み、栄養成分ではビタミンCとEや各種ミネラルを含み、滋養飲料として重宝がられる所以であろう。 
製法では「深むし茶」、「浅むし茶」と比較されるが、深蒸し茶はその名のとおり茶葉を蒸す時間が長いため苦味や渋味が柔らかになって飲みやすい、いわゆるマイルドな味わいのお茶をいう。
 
蒸し時間の短い若蒸し製法(浅むし茶)は、お茶の葉の質がストレートに出る製法で、長時間蒸すことにより香りと渋味を消してしまった深蒸し茶にくらべ、香りや甘みが増すという。
最近の消費者は渋味を嫌い、また忙しいため、お湯をそそぐとすぐに出る深蒸し茶の需要が高くなっているともいう。
しかし、丹精込めて育てた山のお茶のすばらしさを味わうには、若蒸し茶が最適だとも愛好家は言う。




榛原町の海岸は遠浅の砂浜が延々と続き、砂丘には松林が品良く連続している。
特に「静波海岸」は良い・・!、
100メートル位、海中沖まで歩いていけるほど遠浅で、その名のとおり波静かな静波海水浴場は逸品である。
水質も良く、規模も東海一の静波は全国的にも知られ、毎年夏には100万人前後の海水浴客で賑わうという。

元々水好きな小生、子供が幼少の頃はこちらへ数回訪ねたことがある。 
車にテントを載せて、東名の吉田インターからは一投足で「静波オートキャンプ場」へ着く。
松林に囲まれたオートキャンプ場は設備も良く整っていて、実に勝手が良かった。
そして、なにより海は目の前にあった。 
よちよち歩きの赤ちゃんでも安心して、波打ち際で遊ばせることが出来るのは、ここぐらいだろう。


相良(さがら)の街へ至る・・、


ここは善と悪との評判高い、大名「田沼意次」(たぬま おきつぐ)の城下街である。
紀州藩主・徳川吉宗が将軍として江戸に上がった時、300石の旗本として御供をした父意行(もとゆき)の子として江戸で生まれている。 

八代将軍の徳川吉宗に登用され、九代将軍家重、十代将軍家治に仕える。遂に老中を兼任するまでに至り、相良藩5万7千石の大名に取り立てられた。 
このころより「田沼意次」を中心とした幕府の閣僚は、農業より商業を優先した数々の政策・幕政改革を手がけ、田沼時代と呼ばれ権勢を振るう。町人・役人の生活が商業金銭中心のものとなり、その為、贈収賄が横行したとも言う。 
「意次」も政策実行のため「袖の下」を利用し、所謂「ワイロ政治」と呼ばれた。

この時代、天災、飢饉、疫病が多発し、江戸商人への権益を優先したことを理由に賄賂疑惑を流され、田沼政治への批判が高まる。
更に、急激な改革が保守的な幕府閣僚の反発を買い、将軍家治の死亡後に遂に失脚することになる。 失脚後は蟄居を命じられ、領地も没収される。次の松平定信(陸奥・白河藩主)の時代になって「倹約政策」が実行され、賄賂や庶民の贅沢は一切禁じらた、「寛政の改革」という。

1758年に田沼意次が相良藩主となり、12年かけて築城した相良城は、三重の堀をめぐらし、建物も「けやき」づくりで、遠く海上からも眺められ、まるで竜宮城のようであったと言われている。
 
「相良」における藩政は、下町の整備、産業の奨励、飢饉対策や相良湊の整備など地元民には多いに貢献している。


『 白河の 清きに魚も 住みかねて 
                 もとの濁りの 田沼恋しき
 』 

現代ではかなり問題であるようが・・!!

次回は、御前崎の灯台

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日本周遊紀行(19)御前崎 「灯台と原発」


御前崎灯台


灯台巡り・・・、

今回の「日本全国海岸線巡り」の大きな目的の一つに岬巡り、灯台巡りも楽しみの一つにしている。 
日本は島国で四方が海に囲まれ、従って海の航路の安全を守るために灯台は欠かせない。
特に岬の先端の灯台は重要である。 

地の端にポツンと立って、一晩中クルクルと海を照らす灯台という存在に、ほとんどの人には意識されず、役に立つのかどうかもわからない。 
でも、「それを必要とするものにとっては、絶対になくてはならない」のである。  

陸地の端を巡る小生にとって、このような灯台に挨拶をしないわけにはいかないのだ。
灯台は航路を照らす・・、と思われがちであるが、実はそうではなく、自身・おのれ(灯台)の存在を知らしめているだけなのである。

「灯台下暗し」ともいわれる・・?。

御前崎は東に駿河湾、西に遠州灘を控えて、最南端の鋭角の岬である。 
国道150の海岸線から眺めると、程よい高地を成していて、灯台設置には絶好のポジションであることが解る。 
御前崎の築港、漁港を左に見ながら、道なりにそのまま行くと、岬の先端を回って浜岡町に抜けてしまうが、途中に分岐があり、灯台の案内板に従って登ってゆくと、そこに白亜の灯台があった凛として屹立している。

周囲は、絶好の展望地で太平洋と浜岡の砂丘が遥かに見渡せる。 
周辺に広がる自然公園には「御前崎ケープパーク」が整備され、灯台からも洒落た造りの石段を歩いて海辺に通ずる、自然と親しめるようになっている。


映画や歌にもなった「御前崎灯台」・・、


ところで、ここ御前崎は海域を二分する地形で海流、気象現象が厳しく、また暗礁が多いともいわれ、昔から航海の難所であるという。 
江戸幕府はこの地に見尾火灯明堂(みおびとうみょうどう))なるもので明りを照らした。
この燈明堂は、江戸期の寛永年間(1635年)年に建てられた江戸時代の燈台で、木造お堂形式の建物である。
当時は、幕府から1ヶ月当たり9升の灯油や灯芯、障子紙が支給され、毎夜、村人2人が行燈(あんどん)の火を絶やさないよう火の番をし、翌朝、日が昇ると板戸を閉めて帰ったと伝えられている。 
1871年(明治4)年にカンテラ燈台が竣工し、その座を譲るまでの実に240年という長きにわたって、御前崎沖を航行する船の安全を見守ってきたという。

明治5年、英国人R・H・ブラントンの指導のもと現在の西洋式灯台の建設工事を開始し、明治7年に点灯を開始している。 
回転式の一等閃光レンズ(直径259cm)を使用した灯台としては我が国最初のものであった。
現在は海抜53mの地点から光達19海里(航海上の距離の単位。 1海里は1852メートル。度1分の長さに相当)まで光を放つ。 日本の灯台50選の一つ、参観灯台で一般人も見学できる。

1957年(昭和32年)公開当時一世を風靡した長編大河映画「喜びも悲しみも幾年月」が製作された。 
高峰秀子、佐田啓二主演の灯台守夫婦の半生を描きながら、各地の灯台を描き、生きることの意味をさわやかに問う傑作である。 

その後、昭和61年、「新・喜びも悲しみも幾年月」が加藤 剛、大原麗子、中井貴一出演で再映画化された。
中井貴一は、佐田啓二の長男で、つまり二代目である。
映画は、ここ御前崎灯台も題材として登場している。


喜びも悲しみも幾年月』 詞曲:木下忠司 唄:若山 彰

おいら岬の灯台守は     冬がきたぞと海鳥鳴けば
妻と二人で沖ゆく舟の    北は雪国 吹雪の夜の
無事を祈って灯をかざす   沖に霧笛がよびかける
灯をかざす           よびかける


近年の若者達は知らないと思うが、「端やん・・」、こと往年の「田端義夫」が切々と歌い上げた「ふるさとの燈台」はこの御前崎灯台がモデルとされている。


ふるさとの燈台』 唄・田端義夫(昭和28年)

真帆片帆 唄をのせて通う   年経りて 星に月に偲ぶ
ふるさとの 小島よ        むらさきの 小島よ
燈台の岬よ             燈台の灯りよ
白砂に 残る思い出の      そよ風の 甘き調べにも
いまも仄かに           思いあふれて
さざなみは さざなみは     流れくる 流れくる
胸をゆするよ            熱き泪よ




御前崎から再びR150へ出て、遠州灘の沿岸を並行して進む。 先ず目に付くのが広大な敷地をもつ浜岡原発である。
中部電力、所管の原発で1976年、国内でも比較的早期に営業運転している。
原子炉は現在五機有し、総発電量は500万kwの能力を有し、その内、5号機が最大出力の138万kwで、今年(2005年)1月営業運転をはじめた。 

過去に比較的古い1,2号機で配管破断事故や原子炉水漏洩事故等々を起こし、周辺住民とのトラブルを生じている模様で、特に近年東海地震の発生が取りざたされ、浜岡原発はそのほぼ中心に位置するため、耐震性が懸念されているという。

あるジャナリストは、「世界で最も危険な原発は、日本の浜岡だ・・!!」とも言っているようである。


地震といえば、過去の地震で最大だったと想定されるのが、1854年の安政東海地震でマグニチュード8.4程度という、当事者は、これを参考にマグニチュード8.5を安全基準に設計しているという。 
又、地震に伴う津波は最大6m程度を想定し、原発敷地の前面には高さ10〜15mの砂丘があることから、津波に対する安全性は確保されていると言っているが・・?。


その「砂丘」の事である・・,

国道150の沿岸は濃い緑の松林が続き、その向こうは有名な大砂丘になっている。
御前崎から天竜川(御神渡り:おみわたり、で有名な長野県中央部の諏訪湖が水源)の河口にかけて、遠州灘沿いの海岸線に続く広大な砂丘地帯で通称「遠州大砂丘」と称している。 

河口を利用した漁港以外に港湾施設はなく、各町域をまたいで約30kmもの砂丘が延々と続く日本一の砂丘地帯である。 
鳥取、吹上(鹿児島県)と並び、日本三大砂丘のひとつに数えられるが、なかでももっとも幅が広いのが浜岡砂丘だといい、その昔「あばれ竜」と呼ばれた天竜川の流砂が打ち上げられて出来たものである。

近隣に影響を及ぼしていた砂の害を防止するための手立てとして浜岡砂丘の特徴は、粗朶(そだ)という木の垣根を立てて風や風砂を防御する方法である。 
垣根は斜め45度に立て、風を抑えながら、砂は垣根に堆積しながら45度方向に移行してゆく、つまり内陸部住地、耕地への風砂防止策(柵・策を労する・・?)である。
この人工斜め砂丘は松林の防風林と相まって、浜岡独自の景観を呈している。

榛原郡御前崎町と小笠郡浜岡町は2004年4月1日に合併して市制施行し、「御前崎市」が誕生している。

次回は「掛川」、  PartX

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