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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年6月8日 延日数 第18日
出発地 阿久根 出発時間 6時05分
到着地 指宿温泉 到着時間 16時40分
天 候 体 調
走行道路名 R3、R3(南九州道)、九州道、県56、R223(霧島道)、
九州道、R226、県17、県28
主移動地名
川内⇒串木野⇒霧島高原⇒隼人⇒鹿児島⇒知覧⇒指宿温泉
現在(宿泊)地 指宿温泉・「休暇村指宿
道の駅・PASA 九州道・SA桜島  いぶすき
温 泉 霧島・関平温泉、休暇村指宿(温泉と砂湯)
名所・旧跡
霧島高原  鹿児島(城山・西郷像・れいめい館)  知覧(武家屋敷
特攻記念館)  休暇村指宿   池田湖

写真集 V

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 4904 今回入油 37.95 本日支出 2100 本日支出 4502
昨日表示 4593 前回累計 348.6 前日累計 64995 前日累計 87369
走行距離 311 今回累計 386.55 本日累計 67095 本日累計 91871
総距離 4904  

  18日目:PartT(川内)  PartU(牧園、霧島)へ      写真集 V  日本周遊ブログ
日本周遊紀行:詳細目次
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               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山

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写真:薩摩一宮「新田神社」と隣接する「可愛陵墓」

日本周遊紀行(141)川内 「新田神社」



新田神社の祭神・瓊瓊杵命(ニニギノミコト)とは・・?、


夕べは久しくマイカーでの泊まりとなった。 波の音を子守唄代わりに、「道の駅・阿久根」での休泊であった。
駅は阿久根の国道3号線沿いにあり、周辺は阿久根県立自然公園、東シナ海を望めるすばらしい景観の場所である。 
夜明け前の三時半頃小用で表へ出ると煌く星が輝いていて、今日も好天気を約束してくれる。何処へ向かうのであろうか、ざわつく渚の黒い彼方に仄かな(ほのかな)光が航行している。 時折、道端をガ−ッと音を発てて大型車が走り抜け、フッと現実に戻される。
一寝入りして6時前には目が覚めてしまった、清々しい海の香を嗅ぎながら出発である。

東シナ海の波濤と西方の砂浜の渚が対照的で良い、砂浜海岸から外れると今度は岩場の海岸連続する。この一角に「人形岩」という奇岩もあり、夕日が東シナ海に落ちていく時のシルエットは,絶景といわれている。
海はあくまでも透明なエメラルド色で、実に綺麗であった。


内陸に向かって間もなく川内である・・、 

川内と書いてカワウチではなく“センダイ”と読むらしい。 「ニニギノミコト」がこの地に皇居を定めるにあたり、千の台を作るように命じたという故事によるとされているとか。 
古来は「仙台」、「千代」とも書かれたらしいが、現在の「川内」が定着したのは江戸時代中期以降であり、これは川内川と高城川の内側という意味でもあるという。

その川内市街は未だ朝靄の中にあった、肥薩おれんじ鉄道の「上川内駅」の辺りは川内川と高城川が合流する扇状地に開けた地柄であり、ここに、こんもりと新緑に囲まれた亀山或いは亀神山という小山があり、こちらには「新田神社」という立派な社が鎮座していた。

通常、我々東国の人々は鎌倉時代末期、北条・鎌倉幕府を終焉に追い込んだ上野国(こうずけのくに:上州)の御家人・新田義貞(にった よしさだ)を思い起こすのであるが、特にこの新田氏とは関係はなさそうで、こちらは更に由緒と歴史が刻まれた神社であった。

新田神社は神亀山(高さ70m)の山頂にあって、「ニニギノミコト」を祀る神社であり、嘗て、薩摩国・一の宮として呼ばれた風格を今でも充分に残している。 
そして隣接して「可愛山陵」(えのさんりょう)という「神代三山陵」の一つが祀られている。
この山稜は明治7年7月にニニギノミコトの墳墓と指定され、宮内庁直轄で管理されているという。 
普通、山稜というと山の稜線、山脈を表すが、「稜」というのは古くは「ミサザキ」といって、「 いかめしいさま」、「威光のあるさま」、稜威ともいう。


社殿に上る石段の途中には御神木のクスなど緑が茂り、緑陰をつくっている。
新田神社は、今の平成・今上天皇と美智子妃殿下が結婚の報告と御参りのために訪れた神社でもあり、時の慶応大学学長であった今上天皇の皇太子時代の師父である小泉信三氏が日本の歴史を学び、訪問を勧めたという神社山稜でもある。 

その御蔭と御利益で美智子妃殿下は2人の男子と1人の女子を授かったとされている。 
今の皇太子と雅子妃殿下が二人で参拝されたら、もしかしたら後継の男子が授かり、幸せが起こるかも知れない・・?!。
日本はそういう神道の歴史と伝統的を内包している国なのである。


神社や山稜は、日本の最初の神である「ニニギノミコト」を祭ってあり、お妃(キサキ)はコノハナサクヤ姫(富士山の霊神、浅間神社の主神)で、富士山の頂上に祭られている女神でもある。
 

ところで、「ニニギノミコト」というのは・・、

日本の古代史や神話伝説に興味のある方々は当然存知よりであろうが、我々、浅学の一般庶民にはチョット聞きなれない神ではなかろうか・・?、アマテラスやオオクニヌシ、山彦や海彦という名は神話でもお馴染みであるが。
しかし、ニニギというのは日本国土へ最初に降りてこられた天下人(・・?神)であり、稲作を拓いた神でもあり、何より歴代天皇の古祖とされているのである。

伊勢神宮に祀られているのがアマテラスで天皇の皇祖とされているが、アマテラスは神話上でも天上の神であり、実質、天下に降りてこられて日本の国を形造ったのはニニギなのである。
尚且つ、天皇の古祖でもあるので、日本人には最も尊崇されて然るべき神なのである。

古事記によると「ニニギノミコト」は皇室の祖先である天照大神・「アマテラスオオミカミ」の孫で、この国を豊かに治められるために地上に遣わされたとされている。 
このニニギノミコトという神さまの本名がこれがまた長く、正式には「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能瓊瓊杵命」(アメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギノミコト)という。 

ニギシというのは豊かの意味で、天地の栄える様をあらわし、アマツヒコは日が空高く輝く意味、ヒコは神の子をあらわす名。 ニニは丹にしてかつ赤し、ギは男子のことで、わかりやすく言えば“稲穂が豊かに実る国の壮健なる男子”というのが命名の由来という。 
皇室の皇統としての男子誕生を祈願する理由がここにある。

ニニギノミコトは、アマテラスオオミカミより高天原の稲を授かり葦原中国に住む人々、つまり日の本の人々の食べ物にするように命じた。
つまり我々の祖先は稲作の起源を天孫降臨の神話によって語り継がれ、ここからも稲が日本人にとっていかに大切で神聖な食物であるかが伺えるのである。


可愛山陵(えのさんりょう)はニニギの霊が眠る墓所である・・、 

古事記の「天孫降臨」の項によれば・・、
『ここに天津日子番能迩迩藝命に詔りたまひて、天の石位(いはくら)を離れ、天の八重たな雲を押し分けて、イツのチワキチワキて、天の浮橋にウキジマリタタシテて、竺紫の日向の高千穗のクジフルタケに天降り坐した』、つまり、「御世、天照大神(女性)は瓊瓊杵(ニニギ)尊(孫)に地上世界を治めるように命じるとともに稲穂を与えた。瓊瓊杵尊は多くの部下を引き連れて高千穂峰に降りた。そして笠沙に宮を置いた」という意味になる。
そして、その後は尊は千個の岩(千台=川内)を使って可愛宮を造り死んだ後、この頂に祀られたのである。

川内地方の言い伝えによれば、ニニギが高天原から高千穂に降臨したの後、千台(千個の城壁)を築いて皇居を造営された事から川内(せんだい)という地名が起こったとも言われている。 
山稜はこの亀山の中央の一番高い所に方形墳の形で造営されている。 
すなわちこの地が「可愛山陵」であり、御陵と壁一重の近くに尊(ミコト)の神霊を祀る新田神社がある。 
更に尊の皇霊は、高千穂の麓の霧島神宮にも祀られている。


一方、天孫降臨に関しては、日向(宮崎県)の人々から反論があるともいわれる。
古事記によると、天孫(ニニギ)は高天ヶ原より「筑紫の日向の高千穂のくしふる峰」に降りてこられたと記され、日本書紀にはニニギノミコトが亡くなられたとき「筑紫の日向の可愛の山陵に葬りまつる」と記されていると言う。 
初代・神武天皇の五代前の先祖というニニギノミコトは、日本が歴史を刻みはじめる前の神話の世界の神であり、御陵墓の存在は「伝説」の域を出ないものの、日向国臼杵郡長井村俵野門(現、北川町南部地域)に古墳があって、これがニニギノミコトの御陵に当るのは明らかであるというのである。 
この地は以前は可愛村といい村の産土神(うぶすのかみ)である「可愛神社」(えのじんじゃ) には昔からニニギを祭っているという。 

可愛村は今は俵野門と合併して北川町となり存在していない。 

次回、「神代三代」

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日本周遊紀行(141)川内 「神代三代」



神武天皇の親代である「神代三代」について・・、


鹿児島県内には神代の国の神々を祭る三つの神代の皇帝(神代三代)の塚墓稜がある、これを「神代三山陵」という。

一つは川内の「可愛山陵(えのさんりょう)」のことであった。

二つ目は「高屋山陵」で火出見(ホデミ)尊の陵といい、高千穂の西、高屋の山の上に祀られている。現所在地は姶良郡溝辺町麓(2005年11月7日、国分市および姶良郡内5町と合併して霧島市となる)、九州自動車道の鹿児島I・Cの北方約2km、高速道と国道504号線の間に在る。
尊は伝承に名高い「山幸彦」のことで、神代三代の二代目で人皇第一代神武天皇の祖父にあたるとされる。
今でも陵の地名を神在りの丘、或いは神割の丘と呼び、地元民の崇拝を受けている。 
徳川時代が終わりを告げ、王政復古が達成されると、明治2年より翌3年にかけて陵墓の確認調査、発掘が行われ、明治7年の太政官布告により宮内省の管理に移された。 
明治5年、明治天皇が遙拝されたのをはじめ歴代天皇、皇族方の参拝が相次いでなされている。尊の皇霊は鹿児島神宮(霧島市:旧隼人町にある神社・大隅国一宮)に祀られている。

三つ目は「吾平山上陵」(あいらさんりょう)といい、火出見尊(ホデミ・山幸彦)の子、即ち初代神武天皇の父にあたるとされる鵜草葺不合尊(ウガヤフキアエズ)の霊稜である。 
大隈半島の南部、吾平町の姶良川のたもとに抱かれ、静寂な池を配した森の中に鎮霊されている。吾平町は「あいらちょう」と呼び、近くを流れる姶良川は「あいらがわ」と称している。 高屋山陵の地は半島付け根の姶良郡(姶良町もある)にあり、地名が共通することから、やはり神々の奇縁があるのか・・?。 尚、神武天皇の妃(きさき・妻)は吾平津姫(アヒラツヒメ)と称している。 
ウガヤフキアエズ」の誕生地は、宮崎県日南海岸に位置する「鵜戸神宮」(後訪する予定)海辺の渚で生まれたという説があり、目立たないながらも皇祖神の系譜の正統に位置する神であるという。 
吾平山上陵は全国でも珍しい岩屋の陵である。ウガヤフキアエズは父のホデミのあとを受けて高千穂宮に入り崩御の後、鵜戸山の「日向・姶良山稜」に祀られた、これが即ち吾平山稜である。

昭和10年11月昭和天皇が御親拝になり、昭和37年 5月には皇太子(今上天皇)、同妃殿下が御参拝されている。 
歌碑に・・、


『 みささぎの 御前に渡せる 丸木橋
                 踏み行くほどは 神代なりけり 』


と詠まれている。


天皇家代々の歴代の中で、最初の代は神武天皇(歴史書に登場する最初の天皇であるが、神話、伝説上の天皇ともされる)であるが、その先代に属するのが、「神代三代」と言われる神々であるとされてる。 

神代一代目は天津日高彦瓊瓊杵尊(アマツヒタカヒコニニギノミコト)、神代二代目は天津日高彦火火出見尊(アマツヒタカヒコホホデミノミコト)、神代三代目は天津日高彦波瀲武鵜草葦不合尊(アマツヒタカヒコナギサタケウガヤフキアエズノミコト)のことである。
つまり、天孫降臨の初代がニニギ⇒ホデミ(山幸彦)⇒ウガヤフキアエズ⇒ヤマトイワレヒコ(神武天皇)で、神武天皇の祖先が「神代三山陵」として祀られているのである。


ニニギが皇室の祖先である「天照大神」の孫であることから、天照大神は神武天皇より五代前の大祖先にあたると神話は伝えている。 

因みに、神武天皇が即位した年月日は、紀元前660年2月11日に当たるとされ、これによって「2月11日」は日本が建国された日として、1873年(明治6年)に祭日(紀元節)と定められた。 

紀元節は1948年(昭和23年)に廃止されたものの、1967年(昭和42年)には「建国記念の日」として祝日とされているのは周知である。 
そして、今上天皇(平成の天皇)は初代・神武天皇から数えて第125代に当たるとされているのである。

次回は、古代・薩摩文化

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日本周遊紀行(141)川内 「川内川」



古代・薩摩の政事、文化の発祥は「川内川」から始まった・・、

「川内」はその昔、薩摩国府が置かれ、国分寺が建立された南九州の政治・経済・文化の中心として栄えた歴史的な街でもある。
神代の御陵地から国道、肥後おれんじ鉄道と新幹線に挟まれた地域に川内市国分寺町が在る。 
実際の国分寺跡が整然と整備されて、「国分寺跡史跡公園」は国の史跡にされている。

聖武天皇が741年に国状不安を鎮撫するために各国に国分尼寺とともに建立を命じた寺院の1つであり、国府のそばに置かれた。 多くの場合、国庁とともにその国の最大の建築物であった。


薩摩国分寺の創建の時期を明らかにするものは残っていないが、奈良期(710〜784年)後期ごろと推定されている。当時の仏教文化のシンボルとなるもので薩摩の国では、国府の置かれたこの川内川に隣接して置かれていて、主要な伽藍は基壇・中門・回廊・築地・通路・水路など発掘調査結果に基づいて復元されているという。 

尚、薩摩国分寺は平安時代に1回、鎌倉時代に1回再建されたことが発掘調査で確認されている。
鎌倉時代以降次第に国府の勢力が減退するにつれて、国分寺も衰え、南北朝の時(1300年代)に衰減したと伝えられているが、薩摩国分寺は豊臣秀吉が九州に侵攻し、川内で島津と戦った際焼き払われたとあり、建立以来少なくとも800年の間は寺が存在したことになる。
ところで日本中の何れの国府もそうであるが、薩摩の国府も国分寺に隣接していると想定されているが、まだ確とした遺構は発見されていないという。 
ただ、川内川を挟んだ地域に展開していたようで、墨書土器や戯画が描かれた土師器(古代、素焼きの土器)などが現在の「川内中央中学校」近辺から発見されているという。

平安期の頃、各地の国府に地方長官として中央(都・京都府)から派遣・赴任させていたが、薩摩の国司は、天平8年(764)から薩摩守として万葉歌人として有名な「大伴家持」(おおとものやかもち)が赴任していた。そして、この役所(国府)で政務を執ったとされるが、薩摩守時代の歌人としての家持の歌は一首も伝えられていないという。


鎌倉幕府成立にともない薩摩、大隅、日向三カ国を「島津忠久」と名乗る武人が勢力を蓄え守護に任命、赴任されてきている。 
忠久は頼朝(庶氏)の子とされ、初代薩摩の領主(藩主)であった。 

一の宮・新田神社の総代・執印氏(しゅういん)と薩摩国分寺の留守職・国分氏、そして薩摩藩主・島津氏は同族であったとされ、中世の薩摩の政事や新田神社、国分寺の活動の様子が「薩摩の古文書」に、文書でのやりとりや行き来があったと伝承され残されているという。


国道3号線沿い川内川手前に「泰平寺」がある。 

泰平寺の創建は国分寺より古く、1300年も前の和銅元年( 708)と歴史は刻み、薩摩屈指の古刹とされる。
薩摩国の中心都市、川内(千台)の地に、女帝・元明天皇の即位と共に出された勅願により「天下泰平・万民豊楽」を祈願して建立されたという。 
又、この寺院は戦国期に豊臣秀吉の九州平定の本陣となり、ここで島津義久との和睦の会見が行なわれたことは有名であるという。

豊臣秀吉は、天下統一のため九州平定を決意し出兵する。
関白職に就任後の天正13年(1585年)10月2日、勅諚をもって薩摩の島津義久・島津義弘兄弟に豊後の大友氏との和平を勧告したが、しかし義久は応ぜず秀吉は翌14年10月、日向・肥後の両面より豊後に進撃する。 
動員総兵力は25万ともいわれ、30万人分の兵糧1年分、馬2万頭の飼料1年分を調達したという。 
先陣の宇喜多秀家に続き、羽柴秀長以下の諸将も順次征途についき、秀吉自身は3月1日に大阪城を出発し、水俣から水路、薩摩の出水に上陸し、5月3日川内の泰平寺に本営を設けた。

秀長から義久の無条件降伏を知らされた秀吉は、この日に泰平寺にて義久と接見し、これを認めて義久に薩摩、義弘に大隅を安堵したという。 
直後、秀吉は「小田原征伐」に続いて「奥州平定」を果たし、名実共に豊臣政権の日本全国完全平定が実現した。


国道3号線を南へくだると、川内川に架かる太平橋を渡る。
滔々(とうとう)として川幅いっぱいに流れる清流・川内川は九州の三大長流の一つで、熊本県南端、九州山地の白髪岳を水源にしてる。 

川内市を中心とする川内平野を造り、平野は河口より10km以上の奥まで広がっている。 
古代、南九州の文化の流入はこの川が発祥とされる。
新田神社から南へ真すぐ延びる参道は、川内川に突きあたる。
つまり、交差する地点にあって古来より海、山、河、平地の生産物資の集散地として、川内川の水運が利用されていたことを物語っている。 
北隣の南北に長い東郷町の中心部は川内川に面していて、国道267号沿いには舟倉地区という地名も在り、今でも「舟倉通り」を歩行者天国にして東郷特産の手づくり品の「市」が並ぶという。
地名から察しても水運の中継拠点として発達したことが判る。  

2004年10月12日 東郷町、樋脇町(ひわきちょう)、入来町、祁答院町(けどいんちょう)、甑島(こしきしま)四村と合併、新市名「薩摩川内市」となっている。

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