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日本周遊紀行



写真集V
 18日目:PartW(鹿児島)   PartX(知覧)へ     写真集V  日本周遊ブログ
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写真:錦江湾といまだ噴煙を上げる「桜島」



日本周遊紀行(146)鹿児島 「桜島」


「わが胸の 燃ゆる想いに 比ぶれば 煙は薄き 桜島山」・・、

錦江湾(鹿児島湾)沿いの国道10号線に出たると、青藍の錦江湾に末広がりの「桜島」が眼前に現る。
それにしても湾海上に無数の筏・生簀が並ぶ・・、カンパチの生簀だという。 

カンパチはス−パ−の魚類コ−ナ−の刺身でお馴染みであが、昔から「マグロに飽きた、通が食べる刺身」と言われ、正面から見ると目の間に黒っぽく八の字の紋様が見えるため、「目の 間 に 八 の字」で間八、勘八・カンパチと言う名前になったと言う。 
はじめ、マグロの仲間と思っていたが実はアジやブリ属 に属する魚で、大きなものは体長が 1.5メートルと大きく小柄な女性の身長くらいある。 
南方系の魚で中国・海南島沖合いの稚魚を3月中旬〜5月に捕獲して海面の生簀に入れ、1年後には2kgにも成長し、稚魚から1年半後の8月から水揚げされるという。

カンパチが育てられている錦江湾は、平均水温は22度と暖かく、南方系の海水魚であるカンパチは暖かい水を好むので育てるにはうってつけの漁場という。 
因みに、水温 13℃より下がると動きが鈍くなって死んでしまうデリケートな魚でもある。 
さらに、錦江湾は潮流が早く、新鮮な海水が絶えず行き渡っていて天然プランクトンが豊富に流れ込み、餌は、鹿児島県特産のお茶(知覧茶)を配合しを使用しているという。
生簀の標準的な大きさは概ね縦、横、深さ8mの立法形で、鋼管で作られた枠に発泡スチロールなどの浮きをつけている。


「大崎の鼻」という、一段と見晴らしの良い所へ来た。薩摩の象徴でもある「桜島」が迫力ある勇姿で眼前に迫る・・、

 わが胸の 燃ゆる想いに 比ぶれば 
               煙は薄き 桜島山   平野国臣 

筑前(福岡県)の勤皇志士・平野国臣(ひらのくにおみ)は・・、
薩摩・西郷隆盛が最も敬愛する人物で、勤皇思想はもちろん詩歌人であり風流人であったという。
安政の大獄」が始まり、幕府の追求は朝廷工作に携わった僧・月照(清水寺・成就院住職)にも及んだ。 
西郷の依頼により、月照を鹿児島城下に逃亡させる役目を負った平野は無事薩摩城下に入ったが、幕府の探索を恐れた薩摩藩は彼らの受け入れを拒否した。 
西郷はやむなく月照と平野を引き連れ、一路日向に向けて鹿児島錦江湾の海に船を漕ぎ出した。


平野は船中で笛を奏でていた・・、

船が錦江湾の沖合いを過ぎた時、突然、西郷と月照は二人で抱き合い寒中の海に身を投げた。 数刻経った後、二人の体が突然海面に浮き上がり、平野らは二人を船に引き揚げ、二人を蘇生させるべく熱心な介抱を続けた。 

その結果、月照は絶命したが、西郷はすんでのところで息を吹き返した。 西郷の命が助かったのは、ひとえに平野の熱心な捜索と看病のお陰であり、命の恩人でもあった。 この時の“身を切られる様な想い”を桜島に向かって詠んだ歌といわれる。


この「鹿児島」の命名は「桜島」に起因するという・・、 

古くは桜島のことを「鹿児ノ島」と呼んでいて、現在の隼人、国分などの錦江湾の北岸一帯も含めて「鹿児島郡」と成ったのは鹿児ノ島に由来するという。 

江戸期までは薩摩藩が通称であったが、明治初期の版籍奉還後に定められた正式名称が鹿児島藩であり、藩庁は鹿児島城(鹿児島市鶴丸)、藩主は島津氏である。 
外様大名でありながら、最高石高(表高で実際は半分程度ともいう)は90万石と加賀藩に次ぐ大藩を形成した。

「鹿児島おはら節」 鹿児島県民謡

○ 花は霧島 煙草は国分 (ハ ヨイヨイ ヨイヤサ)
   燃えて上がるは オハラハー 桜島 (ハ ヨイヨイ ヨイヤサ)    ※ 以下唄ばやし同様
○ 雨の降らんのに 草牟田川濁る 伊敷原良の オハラハー 化粧の水
○ 見えた見えたよ 松原越しに 丸に十の字の オハラハー 帆が見えた
○ おけさ働け 来年(でねん)の春は とのじょ持たせる オハラハー よか青年(にせ)を
○ 伊敷原良の 巻揚(まきゃげ)の髪を 髪を結うたなら オハラハー なおよかろ
○ 雨の降る夜は おじゃんなと言うたに 濡れておじゃれば オハラハー なお可愛い
○ 桜島には 霞がかかる 私ゃ貴方(おはん)に オハラハー 気がかかる
○ この地去っても 夢路に通う 磯の浜風 オハラハー 桜島
○ 抱いて寝もせず 暇もくれず つなぎ船かよ オハラハー わしが身は
○ 月のちょっと出を 夜明けと思うて 主を帰して オハラハー 気にかかる
○ 薩摩西郷さんは 世界の偉人 国のためなら オハラハー 死ぬと言うた
○ 可愛いがられて 寝た夜もござる 泣いて明かした オハラハー 夜もござる

   <唄ばやし>
● 今来た青年(にせ)どん よか青年どん 相談かけたら はっちこそうな 青年どん
● どっからからな 鹿児島からな つけもやらずに よう来たさまじゃ
● 段々畑のさや豆が 一さや走れば みな走る 私ゃお前さんに ついて走る
● エーヤッサヤッサ 大根(でこん)のヤッサ 切らすの高さ おかべたかどん 金もうけじゃんさお
   こげなこっつぁ めってなござらん めってござれば からだもたまらんさ
● 道端大根 引かずばどすかい 好いたすさまの 袖引かずばどすかい
 

次回は、「西郷どん」

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写真:鹿児島市内を見守る「西郷どん」、市民(特に男性)は常にこの姿を見ながら暮らしている。



日本周遊紀行(
146)鹿児島 「西郷どん」



西郷隆盛は一度死んでいる・・!?、
 
薩摩・鹿児島へ着たら、先ずは「西郷隆盛」であろう。
西郷隆盛を喩えて、土佐の勤皇志士・中岡慎太郎は・・、


『 この人学識あり、胆略有り、常に寡言(寡黙)にして思慮勇断に長じ、たまたま一言発すれば、確然、人の肺腑を貫く 』 と言い、

又、同じく坂本竜馬は・・、

『 西郷は馬鹿である。しかし、その馬鹿の幅がどれ程大きいか判らない、小さく叩けば小さく成り、大きく叩けば大きく成る 』と称している。 


「西郷隆盛」の関係本は多々発刊されているが、中でも長編小説は司馬遼太郎の「翔ぶが如く」は、NHKで1990年に放送された28作目の大河ドラマでもあり、薩摩藩と西郷を中心に、幕末から明治維新までをエネルギッシュに描いる。(全10巻・文春文庫・文藝春秋)
又、海音寺潮五郎の「西郷隆盛」(全14巻・朝日新聞社)、そして古くは林房雄の「西郷隆盛」(全11巻・徳間文庫・徳間書店)などが出版されている。
歴史物の好きな小生はこの内、「翔ぶが如く」と林房雄の「西郷隆盛」を読んでいる。 林房雄のはかなり若い時分で記憶が定かで無いが、先に記した人間味溢れる西郷と僧・月照の悲運のやり取りが今も記憶に残っている。 


この時、西郷は一度、命を亡くしているのである・・、

江戸期、幕末に吹いた嵐は「安政の大獄」として大老・井伊直弼が進めた所謂、尊王攘夷派(天皇の権威の絶対化と封建的排外主義とを結合した政治思想をもつ)に対する弾圧である。 
安政五年(1858)年、滋賀県の彦根藩主から幕府の最高執政官である大老(老中の上の位)になった井伊直弼はスパイを方々に放ち、攘夷運動家を徹底的に弾圧する。


西郷の若かりし頃、西郷隆盛は生家の鍛冶屋町の「郷中」のリーダーとして、郷中頭となりその指導力を発揮する。 そして、当時の薩摩藩主・島津斉彬(しまずなりあきら)の熱い寵愛を受け、西郷も斉彬に対して強い忠誠心を持っていた。 

島津斉彬は藩主に就任するや藩の富国強兵に努め洋式造船、反射炉・溶鉱炉の建設等、科学技術開発の集成館事業などを興す。 
又、内政にも昂じ、福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、土佐藩主・山内容堂とも交流をもち、幕末の四賢侯とも称された。

安政5年(1858年)大老に就いた井伊直弼は、地位を利用し強権を発動するが、斉彬は、その政治手法や将軍世継問題で真っ向から対立した。 斉彬のことを「近世最第一なるべし」と評価したのは越前・福井藩の松平慶永(春嶽)であり、勝海舟も「えらい人だったよ・・!!」と語る。
斉彬と同じ時代を生き、辛口評価で知られる勝にさえ名君と言わしめ、物凄い迫力のある藩主と感じていたらしい。 

西郷はこんな斉彬の事実上の私設秘書であった。

しかし、斉彬は練兵の最中に発病し、50歳の若さで急死してしまう。
その報(しらせ)が京都の西郷の元に伝えられると西郷は巨体を震わせて泣き、薩摩の帰路に腹を切って殉死(主君が死んだとき、あとを追って臣下が自殺すること、おいばら)を覚悟するのだった。 
しかし、清水寺・成就院の僧、西郷が最も信頼する友人である「月照」によって制止され、説得されて薩摩のために生き抜くことを決心する。 
だが、その深いつながりを持った月照と西郷との間には悲劇的な結果が待っていた。

安政の大獄を発した井伊直弼は尊皇攘夷派を徹底的に弾圧し、西郷も追捕されることになり、合せて月照も攘夷勤皇の僧として幕府のお尋ね者になる。 
先に鹿児島に戻っていた西郷は、追手に追われる月照上人を薩摩に迎えるが、しかし、斉彬の死後、次期藩主は久光の時代になっていて薩摩の事情は一変していたこともあり、西郷は月照の扱いに苦慮していた。 
更には藩主久光は西郷を毛嫌いするようになり、月照を匿うことはおろか国境で殺害する手はずとなってしまう。 

幕府に追われ、久光に嫌われた西郷は身の置き場がなくなり、月照暗殺の通達が出るに至っては薩摩藩の態度にすっかり失望し、また、月照の身を守れなかったことに悲観して死を覚悟した。 そして遂に、月照と二人で錦江湾(鹿児島湾)に身を投げたのである、切腹しなかったのは相手が僧侶だったためであった。

ところが、二人のうち図体の大きい西郷のほうが助かってしまい、藩ではこの事態をどう扱うべきか迷う。そこで、藩は「西郷は月照と自殺した」ということにし、幕府に報告したのである。 
本人には菊地源吾と名を変えさせ、奄美大島に隠遁させてもしものために罪人の死体を西郷の身代わりとして埋めていたという。 「西郷隆盛」の苦難の時代であった。


その後の西郷は、既に周知のことであろうが・・、

大久保利通、小松帯刀(こまつたてわき)らと西南の僻地より明治の革命を成し遂げるのである。 
特に薩摩藩の代表になってから、坂本竜馬の仲立ちで、対立していた長州藩の木戸孝允と薩長同盟を結び、倒幕運動の中心人物になる。

薩長の新政府軍は、武力によって旧幕府軍を破ろうとしていたが、江戸城を攻める時には、新政府の代表として幕府側の勝海舟と話し合い、江戸の町を戦火から守った。
その後、明治新政府の指導者の一人となってからは、廃藩置県、陸軍の整備などに尽力、改革を進めたが、朝鮮出兵を巡っての「征韓論」で、大久保利通らと意見が対立して政府を去ることになる。

次回は、西郷の最後・「城山」

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写真:南州洞に立つ「西郷像」


日本周遊紀行(146)鹿児島 「西郷と城山」



戦争を嫌った西郷は、その戦争で城山の地に散った・・、


鹿児島市街に入って、先ず、「城山」へ向かった。
案内に従って鹿児島本線沿いに進むと、中腹に「南州洞窟」というのがあり、石柵に囲まれて数個の洞窟は暗く沈んでいるようだ、すぐ横に大きな西郷隆盛の像もあった。  
西南戦役で敗れた西郷が、各地を転戦し最後に郷里のこの地・城山で自決するまでの5日間をすごしたという。県の史跡

更に、進むと頂上の展望地へでた。城山は高さ107メートルの小高い台地で、クスの木や多くの植物が青々と茂り、展望台からは市街地を眼下に、錦江湾を隔てて雄大な桜島が眺められる。 
城山は元々南北朝時代の豪族の山城跡だそうで、この地を有名にしたのは明治10年の西南戦争の際には西郷隆盛が自刃した最期の地ということで、史跡・天然記念物に指定されている。


鹿児島・城山に来たからには西郷の最後を語らねばなるまい・・、 

太政官政府の参議を辞して故郷の鹿児島に帰った後、西郷隆盛が兵をあげてから7ヶ月、九州各地を転戦の末、城下の城山に西郷軍が立てこもり、最後を迎えることになる。そして、奇しくも今年は(1877⇒2007年)西郷が亡くなって今年で130年目にあたるという。

日本の近現代史には国の命運を決定ずける分かれ道がいくつかあったが、中でも130年前の西郷の死は、とりわけ大きな分かれ道であったとも言われる。 西南戦争は、1877年(明治10)におこった西郷隆盛を中心とする明治期最大の内乱であって、そして西郷の「征韓論」は破れたのである・・?。


西郷の「征韓論」について・・、


海を隔てた隣国・朝鮮は李王朝の時代で、鎖国排外を国是とする執政期であった。 
日本は、国内事情も含めて再三にわたり国交・通商を要求をしたが、ことごとく拒否されてしまう。その結果日本では朝野(朝廷と民間)をあげて征韓論がおこり,これを期に武力を背景とした威嚇によって目的を達しようとした。 
西郷は閣議において朝鮮への出兵論に反対し、平和的道義的交渉による日韓国交の正常化を力説し、自ら朝鮮に赴くことを決意する。 

実は、西郷は公的な場で武力による「征韓」を主張したことは一度もなく、それらを示す史料にしても現在まで発見されていないという。 
ところが、同郷の大久保利通や岩倉具視の政治的陰謀によって西郷の非戦の悲願は葬られてしまう。これが、征韓(明治六年政変)の是非をめぐる政争であり、真相であるともいわれる。

現に、非征韓派とされていた岩倉らが主導する明治政府は、西郷が野に下ったわずか2年後、朝鮮に軍艦を派遣、武力を背景にした「江華島事件」を起している。 結果は日本側の勝利に終ったが、この時、かって欧米が日本に行ったように、朝鮮との間に無理やり修好条約を結ばせ、所謂、不平等条約を結んで開国させたのである。 
これは平和的開国を求めた西郷の「王道」に対して、当時の政府が覇道(武力・権謀を用いて国を治めること)を進み始めたことを意味することになる。

江華島事件(こうかとうじけん)は、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件であり、日本側の死者2名に対して朝鮮側の死者は35名と言われている。 
この事件が朝鮮政府にあたえた衝撃は大きく、変革を拒否する鎖国攘夷勢力の反対を抑えて日本との国交回復を検討することになり、翌1876年に日朝修好条規(江華条約)が締結されている。


西郷は征韓論に破れて下野した・・、

平和的征韓論の西郷、副島種臣、後藤象二郎、江藤新平らは参議を辞して下野(げや)した。 
西郷の下野帰国とともに、西郷に同調して鹿児島出身の近衛兵や官吏数百人が辞職して帰国してしまう。 
郷里での西郷は「私学校」などを設立して、国難に殉ずべき子弟の教育をめざした。 
県令(県知事)・大山綱良も西郷に協力し、私学校の経費を県費から捻出し、また県内各地の区長や警察官に私学校徒を当てた。この様子を察した政府・総裁局顧問(実質的な初代宰相)の木戸孝允(長州・桂小五郎)は「鹿児島県は半独立国の観あり」と非難したという。

明治10年に至るまでの国内情勢は廃藩置県から地租改正、更には徴兵令・廃刀令・秩禄処分(明治政府の華・士族への家禄支給の廃止政策)を施行した。 これに対して武士の名誉や生活権を奪われたとして、旧士族の反感が全国に漲って(みなぎって)いた。 このような世情の中、江藤新平は遂に「佐賀の乱」を起し、つづいて熊本の「神風連の乱」、「秋月の乱」、前原一誠の「萩の乱」等が各地で起こった。

これらに合せるように全国の不平士族は西郷の蹶起を待望したが、彼は逸る(はやる・心がせく)私学校生徒らを抑えることに専念し、立とうとはしなかった。 
ところが政府は旧薩摩藩士らで組織された警視庁巡査を郷里・薩摩に派遣し、私学校徒と郷士族の離間を計り、県下の政情視察しながら一方、薩摩にある政府所管の弾薬武器を大阪に移転しようとした。 
そして警視庁巡査達は県下の政情視察を理由に、真の狙いは西郷暗殺をもくろんでいると私学校徒にうけとられ、憤激した私学校徒は運搬中の武器、弾薬を強奪してしまう。 
事態が緊迫する中、遂に西郷も私学校の生徒達を抑えきることが出来ず、事ここに及んでは「おはんらにやった命」と一言いい、私学校徒と行動をともにすることになる。


「政府に尋問の筋、これあり」と称して、西郷は立つ・・、

西郷はついに立ち上がり『政府に尋問の筋、これあり』と唱えて、部隊の編成が開始され、正式に薩軍を整えて出兵を決定し、途中、九州各地の不平士族も加わり遂に、明治10年西南戦争へと突入したのである。西郷の兵力約3万のうち、1万3千が私学校員で占められた精鋭であった。

西郷は、先ず政府熊本鎮台のある熊本城を攻めた。 
国民皆兵制度によって誕生した農民・町民兵士が守る熊本城を、薩摩の士族で組織された正式軍隊が攻めるのだから、早々に城は落ちると思われた。 
しかし、熊本城は持ちこたえ、二ヶ月後には有栖川宮熾仁(たるひと)親王を征討総督に陸軍卿・山県有朋を首領とした政府軍が入城、兵力・武器・弾薬の補給に優った政府軍が優勢になった。

薩軍は熊本城、田原坂、山鹿での激戦の後、次第に劣勢に立たされ、西郷軍は退却を余儀なくされる。 政府軍に追われた薩軍は鹿児島に戻り「城山」に布陣する。 この時、城山に向って惜別の演奏をしたのが海軍軍楽隊、楽長・中村裕康ら23人であったという。 

日本の本格的な西洋音楽は、薩英戦争(1863年)で英艦の軍楽隊を聞いた薩摩藩から始まったとされるが、中村はこの軍楽伝習隊の一人だだったという。 城山最後の夜、薩摩軍はこの世に思い残す事無く、「西郷どん」との別れの宴を開いた。 
この時、城山周辺には詩吟、薩摩琵琶、フルートやギターが響きわたったという。

政府軍の攻撃に追い詰められた西郷は城山の岩崎谷に本陣を構え、最後の五日間を西郷洞窟で過して、1877年9月24日に自刃した。  享年49才(51歳の説もある)であった。

 「西南の役」 漢詩から

  偶感
 西郷南州
幾歴辛酸志始堅
丈夫玉砕愧甎全
吾家遺法人知否
不為児孫買美田

   偶 感      (読み)
幾たびか辛酸を歴(え)て 志始めて堅し
丈夫は玉砕するも 甎全(せんぜん )を愧(は)ず
吾が家の遺法 人知るや否や
児孫の為に 美田を買わず

   偶 感      (現代語訳)
『 幾たびか困難を経て意思も強固になり 
不業不屈の精神は養われる
男子たるものはたとい玉となってくだけるとも、
瓦となって身の安全をはかるのを羞とするものである
我が一家の遺訓を人は知っているだろうか
児孫のために立派な田地を買い残すことはしないのである』
 
 (大久保利通に当てた書簡でもある)

  逸題

不養虎兮不養豺
亦是九州西一涯
七百年来旧知処
百二都城皆我儕
圧倒海南三尺剣
蹂躙天下七寸鞋
人若欲識吾居処
長住麑城千石街

   逸 題      西郷南州
虎を養わず 豺(さい)を養わず
亦是れ 九州西の一涯
七百年来 旧知の処
百二の都城は 皆我が儕(ともがら)
海南を圧倒す 三尺の剣
天下を蹂躙す七寸の鞋(わらじ)
人若し吾が居処を識らんと欲せば
長く住む麑城(げいじょう)千石の街

  城山

孤軍奮闘破囲還
一百里程塁壁間
吾剣既折吾馬斃
秋風埋骨故郷山

   城 山      西 道仙
孤軍奮闘 囲みを破って還(かえ)る
一百の里程 塁壁(るいへき)の間
吾が剣は既に折れ吾が馬は斃(たお)る
秋風(しゅうふう)骨を埋(うず)む故郷の山

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