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日本周遊紀行(140)出水 「薩摩街道」



薩摩街道は江戸まで1500km、参勤交代では約1ヵ月半を要したという。・・、

水俣を過ぎると出水市に到り、いよいよ薩摩・鹿児島県入りである。 
遂に本州最端の県域に辿り着いたことで、ひとしおの感慨が胸に迫る。

この国道3号線は鹿児島街道、薩摩街道(主に薩摩から肥後の区間をいう)ともいい、道々に何故か小さな標識で「江戸−薩摩」と指してある。 
現世は「東京−鹿児島」(凡そ1500km)のはずであるが薩摩隼人は未だ、江戸から明治が忘れられないと見える。 

それにしても京−薩摩(900km)は左程でもなかったが・・?、やはり、江戸−薩摩は遠い、しかし、遠いが故に意識した、意識せざるをえなかった時代でもあったのだろう。


薩摩街道は江戸時代において九州の主な藩である・・、

島津(薩摩藩)・松井(八代藩)・相良(人吉藩)・細川(肥後藩)・立花(柳川藩)・有馬(久留米藩)の諸公の参勤交代の道として利用された道で、久留米藩地域では薩摩の南端港・坊津(古代からの九州南部の湊)に通ずる道から坊津街道と呼び、柳川藩地域では薩摩に通ずる道から薩摩街道と呼ばれた。

また熊本の肥後藩では熊本城を基点として薩摩へ通ずる道を薩摩街道とし、江戸方向の豊前(小倉)までの道を豊前街道と呼び、時代と地域によって呼び方はいろいろあったようである。

この薩摩街道は山家宿(やまえしゅく・筑紫野市)で長崎街道に、又は松崎宿(小郡市)で秋月街道と連なり小倉に通じ、さらに関門海峡を渡って山陽道〜西国街道〜東海道を経て江戸まで約1ヵ月半を要したという。 

この参勤交代道は宿場町の繁栄や街道の整備、江戸文化と地方文化の交流など、大きな役割を果たした一方、遠い九州の大名にとっては莫大な金銭を費やし藩財政の大きな負担でもあった。
江戸から最遠方の地、薩摩・島津氏は鎌倉時代に薩摩、大隅、日向三国の守護に任ぜられて以来、この地方を本拠地として来た守護大名・戦国大名であり、これが江戸末期まで大大名として続く稀有な藩でもあった。


1600年、関が原の戦いで最終的には西軍に付いたため敗軍の藩となり、そのための敗戦処理に当っては本来、減藩又は改藩されるべきところであった。 
急遽、帰陣した薩摩軍は国境で臨戦体制を整える一方で、江戸、京都では陳謝、陳情を行い、徳川四天王の一人井伊直政の取りなしで領地を一統一寸も切り取られることなく安堵され、七十七万石をそのまま領することになった。

しかしそれ以来、江戸幕府は薩摩を開府以来の仮想敵国という存在であり、そのため幕府は何度も事情調査のため隠密を薩摩に派遣しているが、その全てが返ってくることがなかったという。 
行ったきり戻ってこない事を「薩摩飛脚」(この題名で本や映画にもなっている)ともいわれ、物の喩えにもなっている。


元々、薩摩藩は異国であった琉球を管理していたし、江戸年間に亘って中国や琉球など密貿易を行い、海外の開明的な文化を多く取り入れていた。
こんな中、幕府は薩摩を遠くにあって財政も豊かで危険な藩であると感じていた。

徳川幕府の有力藩弱体化政策の下で、大規模な御手伝普請(おてつだいふしん:工事を諸大名に担当させ、その費用の一部を負担させるもので、大名の力を弱めるための幕府の政策)を割り当てられる。 そんな中、特に1753年(宝暦3年)に命じられた木曽三川改修工事(宝暦治水)の多大な出費により、藩財政は危機に瀕した。 
しかも、工事を指揮した薩摩藩家老・平田靱負(ひらたゆきえ)は、多くの犠牲者と藩財政の疲弊の責任を取って工事完了後に自害している。


先にも記したが、木曽三川改修工事(宝暦治水)とは・・、

美濃と尾張にまたがる広大な濃尾平野を流れる木曾三川(木曽川・長良川・揖斐川)は、下流部においては網目状に流れていて洪水が絶えなかった。
そのため江戸時代から明治時代にかけ歴史に残る大掛かりな治水工事が行われたのである。 
工事は、「宝暦治水」と「明治の改修・三川分流」と二度にわたって行われ、現在の三川分流が出来上がっている。

1753年(宝暦3年)12月の大洪水の後、徳川幕府は水害に苦しむ人々の声を聞き、薩摩藩に木曾三川下流治水工事を命じた。
この工事は西国大名の筆頭である薩摩藩の勢力を弱める為という一大目的もあり、薩摩藩は平田靱負を総奉行としてこの難工事に着手した。 
薩摩側から出した人数は家老以下947名、これに土地の人夫等を加えると2000人にも及び、この費用は約40万両の巨費に達する大工事だったという。

工事は幕府の方針変更(幕府の嫌がらせも有ったという)によって計画がたびたび変更され、また大雨により工事のやり直し等が発生したりで工事は困難をきわめたが、1755年(宝暦5年)3月遂に完成し、同年5月に幕府の検分を終えた。 
この治水工事完成時には幕府の役人も、「日本の内は申すに及ばず、唐、朝鮮においても是ほどのことは有るまじく・・、」と賞賛し、諸国からの見学者が後をたたなかったと伝えてられている。
工事完了後、総奉行の平田靱負は、53人の自刃者と33人の病死者を出し、多額の借金を残した責任を一心に負って・・、


 住みなれし 里も今更 名残にて 
                立ちぞわずろう 美濃の大牧
 

の時世の歌を残し自刃したという。 これを世に「薩摩の宝暦治水」という。


この時を境に薩摩は内心、幕府に対して「恨み100年」の憎悪をたぎらせ、藩は一種鎖国政策をとるようになり、藩士はみな武術鍛錬に励み、強く戦国気風を持つようになったとされている。

事実100年後の幕末、西郷、大久保等の逸材を出すことによって、江戸への復讐の一端も兼ねて戦線が始まるのであるが・・・!!。

次回は、出水・武家屋敷

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日本周遊紀行(140)出水 「武家屋敷」

武家屋敷

屋敷門
写真:出水・石垣と緑に囲まれた「武家屋敷群」と屋敷門


江戸時代にタイムスリップしたかの「出水麓武家屋敷群」・・、

薩摩街道(国道3号線)の熊本との国境を過ぎて間もなく、左折して内陸の出水地区へ向かう、「出水」(いずみ)の出水麓武家屋敷群を訪ねるためである。 

市役所前を通って米ノ津川を渡ると間もなく武家屋敷群が現れ、出水小学校の前へでた。 
門を見て驚いた、校舎は白の現代風コンクリ−トの建物であるが、校門は武家屋敷にある石垣の屋敷塀に堂々とした門構えなのである。 
この学校の敷地は、克っては薩摩藩主・島津氏の宿泊所「御仮屋」がおかれ、その門は「御仮屋門」として今に残っているという。

この一段高い位置の御仮屋の前面に、碁盤の目に区切られた「出水麓武家屋敷群」が広がっていて、生垣に米ノ津川の玉石を施した石垣、武家門、屋敷林の小路の風景が美事である。 
其々の小路には名称が付き、御仮屋門(小学校)の前が最も広い通りで「仮屋馬場通り」といい、江戸の頃はここで乗馬の調練をしたという。 すぐ前に、武家屋敷として一般公開されている「竹添邸」がある。

出水の武家屋敷群は、今から約400年前に30年程の歳月をかけて起伏の多い丘を整地し、道路を掘り、川石で石垣を築いて作られたという。武家屋敷群の街路は建設当時から改変されることがなく、屋敷群は今も住宅地として使われている。


江戸時代、薩摩藩では鹿児島城を本城とし、地方行政組織として百余の外城(郷村)を各地に設け、外城の中心には麓(府元)を設けて地頭や家臣を住まわせ外城経営にあたらせたという。 
出水麓は島津領の数ある外城のうち最古・最大の外城の中心地で、1600年頃から武家集団の移住を伴う大規模な整備が図られ、地頭が執務にあたった地頭館や島津氏の宿泊所であった御仮屋と一体となった武家屋敷群が出現した。


道路に沿って石垣と生垣か連らなる優れた景観は、旧様態をよく伝えるものとして価値が高く、国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されている。

出水地方は、薩摩の中では国府が置かれた高城地方(現在の薩摩川内市)とともに最も早く拓けた地方といわれ、和名抄(平安中期に作られた辞書)にも薩摩国出水郡の地と記されている。
江戸時代には薩摩藩に属し、特に出水郷の武士団は事実上の薩肥国境地帯の防衛・警備・関所の管理を任ぜされ、出水兵児(いずみへこ)とも呼ばれた。 

当地区は、中世の戦国時代の山城であった「出水城」の麓の丘陵地帯を整地して作られた屋敷群で、出水郷に赴任してきた薩摩藩士の住宅兼陣地としての役目があった。 
彼等、出水郷に住む武士団は薩摩武士には珍しく、粘り強く常に冷静実直な強兵であったと藩内でも高く評価されていた。
特に、江戸期になってこの精神を請継ぎ、同地出身者は全国的に各方面で活躍する優秀な人材を多く輩出する事となる。


武家屋敷とその街並みは、当時からの薩摩藩士の気風を今に伝えるかのように、古式整然として閑静な佇まいを感じさせる。 
国の保存地帯に選ばれているこの地区は面積約44ヘクタールの広さを有し、出水市指定文化財である出水仮屋門、武家門、石垣、生垣や竹添屋敷など4軒の建築物がある他、伝統的建造物として特定された建造物などがほぼ昔の姿で残っており、当時の面影を今に伝えている。



さて、いよいよ夕刻も迫ってきた、今夜の宿も考えねばならない。 
聞くところ、海岸沿いに阿久根という温泉が在るらしく、訪ねると「クアドーム阿久根」という温泉健康センターがあった。
阿久根温泉は大丸・若松・常盤の三温泉の総称で、阿久根海岸をひかえた風光明媚な温泉郷であり、近くには戸柱公園や五色浜などの景勝地や阿久根大島などがあり入湯客も多いという。

クアドーム阿久根は半島に突き出た長島町へ通じるT字路の先に在った。 
比較的新しいモダンな建物で、玄関を入るとゆったり寛げるレストルームが結構広い。 
浴室は明るく清潔感があり、半円形に配した浴槽に浸かる。お湯はアルカリ単純泉で、ややヌメリがある透明循環湯のようである。打たせ湯、サウナ、ラドン湯もあったが、何といっても露天風呂である、巨石を配した和風庭園にあって雰囲気も良い。

次回は、川内・「新田神社」   PartTへ  

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