カスタム検索
日本周遊紀行



写真集V
  17日目:PartV(坂梨、日吉、水俣)  PartWへ(出水)へ      写真集V  日本周遊ブログ
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山

【本文関連情報



日本周遊紀行(137)坂梨 「三地方の追分」






坂梨は、豊後地方と日向地方、そして肥後地方の「追分」である・・、

田園風景の国道57を行く、阿蘇外輪の山並みが行く手を遮るようである。
平地を過ぎて山間地に入った頃は既に肥後・熊本県の「波野村」である。 
山地といっても褶曲した山様ではなく段々状の斜面になっている。そこは高地冷地ゆえの自然条件を活かした野菜作りの広大な畑が広がる。

この辺りは「そば」と「キャベツ」の生産で名高いという。
国道沿いに「道の駅・波野」があり波野神楽のインフォメーションセンター、「神楽館」が在り、神楽を観賞しながら特産のソバを賞味できるという。

南に外輪山の「根子岳」の勇姿がひときわ豪快に望める。 
道脇に「すずらん自生地」の看板が所々に見られる。 「すずらん」は本州中部以北の高原や北海道に多く自生しているが、九州地域で野性のものが見られるのは珍しい。 

急な登りの大曲を登りきると「滝室坂」とあった、見晴らしのようところである。 
南へ約1kmの外輪山の絶壁に名所の「古閑の滝」がある。寒期には全面氷結することで知られ、この氷を民家では氷室に蓄え、病人用に保存したことから滝室の地名が生まれたという。

ヘヤーピンの急カーブから見えてる風景は阿蘇内輪のお馴染みの風景であり、下りきったところが「坂梨」である。 
国道沿いの坂梨は今となっては変哲もない田舎の風情のようであるが、往時は豊後街道の宿場町として大いに栄えたところだという。 

肥後から来ると豊後街道と日向(野尻)往還の追分け(道が左右に分れる所、分岐点)の地であもり、滝室坂方面(豊後街道)や箱石の峠越え方面(日向往還)を往来する人々の旅人宿や商屋、医者等の屋号を持った家々が軒を連ねて大変賑わい栄えたという。 
特に加藤清正公が豊後街道を整備した後、参勤交代は勿論、行商や荷駄を運ぶ旅人が多く往来するようになったともいい、又、肥後と豊後の国境付近でもあったので関所の機能を持った番所も在ったところである。

現在の国道を50mほど南へ行ったところが旧街道で、国道265(日向往還)が分岐する辺りを中心に、東西に連なる宿場の面影が今も残る。 
清水が流れ生け垣や板塀、格子戸や鎧壁の間に常夜灯や軒灯が灯る、そんな風情と人情が「坂梨」に今も残るのである。 
地域住民も旧宿場町の風情を残すべく、懸命に努力している姿が覗える。


阿蘇一の宮、赤水温泉の外輪山荘は先日通過した地点で懐かしい・・、

立野」のことも先刻記した。 


大津から九州道の熊本I・Cへ乗り、ここからから南下して「八代」を目指す。 
カーナビには載ってないが九州高速道は八代で九州本道と新しく完成した南九州道の分かれていて、日奈久まで延びているようである。

沿岸道なのに山が険しく迫ってきているためトンネルが多い、過ぎると「田浦」であった。「道の駅・田浦」があり、時刻的にここで一服しばがら昼食を摂る。道の駅エリアの上部天井には工事中の高速道が在り、日陰になっていて都合がいい、時折吹き寄せるそよ風が気持ちいい。 

実は熊本地方は本日、最高気温の32℃を記録している、すでにカンカンで暑いはずである・・!。 
尤も、今日が特別暑い日という訳ではない、連日の好天で気温も上昇し、30度前後を記録していて小生も暑さでイササカ閉口しているのである。

次回は球磨・「人吉」

【本文関連情報



日本周遊紀行(138)日吉 「球磨川と街道筋」




写真:三大急流・球磨川(特異な建物は森林館・エジソンミュージアム)と球泉洞下着船場のリフト


球磨地方の「クマ」とは、古語で「山襞」(やなひだ)という意味らしい・・、

ここで、球磨川を訪ねることにした・・、日本の三大急流の一つと言われている急流河川を拝見するつもりである。 

九州を西側から縦断する国道3号線の長いトンネル・「佐敷トンネル」(佐敷太郎峠を貫通)を抜けて、佐敷の町並みからは県道27号(佐敷ルート)へ向かう。改良工事が行われたのであろうか山間の地方道でありながら、よく整備された道である。
おまけに、数キロおきに車止めの休憩所が設けてある、ご丁寧なことである。

トンネルを抜けるといきなり球磨川の大河川に出くわした、大橋を渡って神瀬というところで国道219号に出会い、右折して球泉洞を目指す。 2、3km先にその球泉洞があったが、特に、ここを見物するつもりはなかった。 
何でも「球泉洞」は全長4800mの鍾乳洞で山口県の秋吉洞の次に長く日本で二番目九州では一番長いらしい。 

今更であるが、鍾乳洞とは、太古の世界に堆積した石灰層(主にサンゴ層)が堆積した石灰岩地帯が隆起したところに、二酸化炭素を含んだ水の侵食作用によって生まれる空間である。
この侵食は気の遠くなるような時間を要し、鍾乳洞と呼ばれるようになるまで数百万年はかかる。 
こちら球泉洞の内部は、凡そ三億年の長い年月をかけて出来た鍾乳洞といわれ、鍾乳石や石柱が無数にあり、さながら天然の芸術を見るようだという。 


さて、球磨川である、ここは急流下りの船着場でもあった・・、 

ただし、川面は現在地より、かなり下方にあり従って、乗り合い客はエスカレータ(リフト)か歩道で上下を往来するようになる。 
歩道にてゆっくり河原に下りてみた、さすがに日本有数の急流らしく瀬音激しくゴーゴーと流れる様は如何にも日本三大急流の名に恥じない。 
この辺りの山域は、球泉洞にみれるように石灰岩質の地層であり、従って、河水は山肌を浸食しながら深い峡谷を形造っている。

近くに吊り橋があった、ここの風景に馴染んで一服の絵になっているのがよい、向かいの休暇村へ通じているらしい。見ると一艘の「急流くだり」の船がやってきて、船着場に到着するところであった、船頭の棹捌きが見事である。

球磨川を下りは、この地方の代表的な観光の一つで「清流コース」、「急流コース」があるらしい。 
急流コースは人吉発舟場から球泉洞下までの全長10キロメートルを90分で、五つの大瀬を豪快に下るスリル満点のコースは船頭さんの腕前が見ものということ。
日本三大急流(山形県・最上川、静岡県・富士川)の一つである球磨川は、水源を水上村に発し、八代海に注ぐ全長115kmの一級河川である。 
標高1700メートルを超える九州山地の急流を下り、五木村を水源とした川辺川と合流して中流域の人吉盆地ではゆったりとした流れとなり、その後再び、渓谷を流れる急流となる。
「人吉」や「渡」からは川下りの船が出ていて、人吉から渡までは比較的穏やかな流れであるが、渡から球泉洞下までは急流を下ることになる。


九州の屋根・球磨地方・・、

九州の屋根といわれる山域に囲まれた球磨地方は、全てが山である。
そして「球磨川」は標高1600mの五木村の山々から南下し相良、人吉盆地に流れ込み、ここから再び北上して標高7〜800メートル程度の山々にわけ入り、山が切れたところはいきなり八代の海に出る。 
地元の人は球磨川を称して恐川、つまり「おそろしか川です」という。 
流れゆくその両岸の山襞は急斜面をなし、山に降った雨水はいきなり斜面を走って鉄砲水のようになって球磨川に落ち込み、水嵩を見る見る増やすのである。 

球磨地方の「クマ」とは、山襞(やまひだ)の古語でもあるという。

ここより凡そ15km先、球磨川や川辺川等の河川が堆積してできた扇状盆地に「人吉」があり、古くから交通の要衝として開けた。
既に鎌倉初期には地頭として遠州・相良(さがら・今の静岡県)から相良氏が入国し、幾多の戦乱を経つつも明治維新までの約700年間、一貫してこの地方を治めてきた。 
このように鎌倉時代以来、大名として続いた「家」は全国でも珍しく、薩摩の島津氏の他僅かしかないという。 急流河川・球磨川は昔も今も「人吉」を潤しているのである。

その人吉は近年までは険しい山地に囲まれた内陸部にあることから、長く「陸の孤島」と呼ばれていた。
肥薩線が八代⇔人吉まで開通したのは明治41年 (1908年) であり、国道219が車道として整備されたのは昭和38年 (1963年) の頃である。  

又、今日の肥薩線は昭和2年に海岸に本線が開通するまで鹿児島本線として活躍したという。 
山中の敷設が優先決定された経緯には、直線的に鹿児島と宮崎、両方からの縦貫線であることは無論であるが、時勢下、国防上の観点から海岸からの攻撃、特に艦砲射撃を避けることができること。
又、九州が本州から孤立した場合、自給可能なのは山深い人吉盆地であるといった理由があったとされている。 

山と川に阻まれた天険の地で工事は困難を極めたといい、開通当時の沿線の人々の喜びの様子は歴史小説の大家で薩摩出身の海音寺潮五郎(歴史作家、同じ郷土の英雄・西郷隆盛を扱った著作多数)のエッセイの中でも綴られている。

道路では人吉⇔八代間を連絡しているルートはR219で、地図には「人吉街道」と書かれている。 
江戸・藩政時代から明治以前までのこの街道は、途中から沿海の佐敷方面へルートを変え、薩摩街道(国道3号)と合流していて、八代⇔人吉間を直結するメインルートは無かった。 

昭和中期、車道としてのR219の建設は球磨川の山裾を削り、半ば強引に取り付けた道路であるため、開通当初から路肩決壊や、落石を繰り返し、工事が止むことがなく、今も大変な維持費のかかる問題の多い道路だという。 
現在の人吉は、「えびの」を通じて高速道が三方へ延び、熊本、宮崎、鹿児島の主要都市へ一時間で通じることが出来る。 


その、佐敷ルート、旧人吉街道(県27)を戻って、薩摩街道(国道3号)へ再び出る。
一旦、佐敷の海岸に接するが、すぐに内陸の山間地に向かうようである。 
最高所の「津奈木トンネル」(津奈木太郎峠)をくぐると間もなく「水俣」であるが・・。 


その前に・・、


薩摩街道の肥後・芦北地方に,難所として知られる「三太郎峠」(三箇所に太郎と付く峠)と呼ばれる峠がある。 
肥後・芦北地方に連なる赤松太郎峠・佐敷太郎峠・津奈木太郎峠を総称した呼び名で、難所中の難所という意味がこめられた峠でこう呼んでいるようで、古くから通行が困難な山道として知られる。

一方, この峠付近は中世期以降は軍事的な要衝にもなっていたという.。 
特に「佐敷・・」は戦国期の山城跡が残っていて、肥後・熊本と人吉への街道を押さえる重要な要地であり、秀吉の佐敷氏(佐敷城の築城者)の時代から熊本・細川氏の時代まで領域をめぐっての攻防が繰り返されていたという。 

又、1877年に起こった西南戦争時、この峠は軍事要衝とされ、立地条件もさることながら天然の防衛要塞と化していた。
西郷隆盛を首領として蜂起した士族一行は、肥後・熊本に侵攻する際この三太郎峠越えを果たさねばならなかったのだが、その道は相当険しく「政府へ尋問の筋、これ有り」と喝采鼓舞しつつ峠越えを果たしたという。

この街道の時代的経過としては、 遙か江戸時代以前からの薩摩街道、明治から昭和中期まで使われた国道3号の旧道, そして現在の国道3号線と三つの時代に大きく分かれるという。 
このうち、昭和中期まで使われた旧国道3号の道は、ツヅラ折りを上下するこの三つの峠を通り、昭和期の高度経済成長期には流通の大きな妨げとなった。
特に、大型車同士の擦違いは勿論、普通車でも困難を極め、ドライバーの神経を確実にすり減らり、地獄の三峠として嫌われたという。 

熊本よりの「赤松太郎峠」はトンネルはなかったが「佐敷太郎峠」、「津奈木太郎峠」には今も、旧道時代の煉瓦積みの非常にガッシリとした、美しい隧道を見ることができる.という。


今、小生はこの峠にかかる「平成の三つのトンネル」(新道)を通って、鹿児島方面へ目指しているのである。

次回は「水俣」

【本文関連情報



日本周遊紀行(139)水俣 「水俣病(1)」



水俣病の最高責任者は、皇室の縁者であった・・?、

右手に津奈木太郎峠を越えの旧鹿児島街道がくねりながら見え隠れしているが、間もなくその津奈木の町内に入った。
JRの津奈木駅付近では頭上を新幹線の直線の架道が横切っている。これより一走りで新装なった新幹線の停車駅である「新水俣」駅へ出た。 二階ホーム駅舎のパネルが異様に光っている。

九州新幹線は現在、新八代〜鹿児島中央間を結ぶ部分が2004年(平成16年)3月、一足先に開業しており営業運転を行っている。 
そして博多〜新八代間もすでに建設着工されており、2010年度末の開業が予定されているらしい。 
鹿児島ルートが全線開業すれば博多から東海道・山陽新幹線と線路が繋がり、東京〜鹿児島中央間・つまり日本の3分の2の地域が新幹線で結ばれることになる。


現在、JR九州とJR東海そしてJR西日本との間で交渉中らしいが、現時点では新大阪駅−鹿児島中央駅間の直通運転が検討され、有力視されている。 
ただ、JR東海である東海道新幹線の東京駅からの直通乗り入れは所要時間及び料金面で航空便と対抗する事が困難な事から、鹿児島中央までの直通列車乗り入れの実現性は極めて低いとの見方が強いという。 
尚、在来線の鹿児島本線は本来は門司港〜鹿児島間の路線であったが、2004年に九州新幹線の新八代〜鹿児島中央間が開業したのに伴い、八代駅-⇔川内駅( 117km区間)は「肥薩おれんじ鉄道」と改名され、第三セクター会社に経営が移管されているという。


新水俣の新装駅前を過ぎると直に水俣市街に達し、今度は“第三セクター”の水俣駅である。 
駅を通過すると間もなく右手に周りは用水路で囲まれ、塀の高さは2.5mくらいあろうかコンクリートの壁と樹木が植えられていて、隠すように会社・工場が広がっている。中を覗うことは出来ないが、何やら辺りには妙な匂いが漂っている。この先に広い公園が在って「水俣広域公園」と標識にあった。 

散歩中と思われるオバサンに・・、

「こちらの焦げ茶色の建物(プラントらしい・・?)はチッソですか・・?」と、かって知ってた名前を出してみた。 
「ハイ、そうですけん・・、あちらもそうたい・・、」と今通ってきた黒塀の方を指差した。 
「ああ、ヤッパそうですか・・どうも・・」、怪訝そうに小生の車やナンバーを確認していた。

「水俣病」の名は世界にも知られているというのに、それを起こした当の会社が駅前の一等地にケッコウ大きな顔をして居座っていて威圧感すらある。 
未だ「チッソ」の水俣市における権威と存在感をリアルに感じるのである。


小生がまだ高校生の少年の頃、小さな白黒テレビで「猫が身体を揺すりながら、突然、ひっくり返って痙攣しながら絶命していく・・」、「人がベットの上で、目を一点に見つめ、手足を痙攣させながら反復運動を繰り返している・・」、こんな姿に嫌悪と恐怖を感じながら見ていたのを覚えている。 
後に九州、熊本県・水俣地方においての「奇病」であることを知った。



いささか飛躍するが・・、

昨今の皇室典範有識者会議の最終報告で「女性天皇」ないし「女系天皇」を容認する方向がはっきり打ち出され、行政府もこの方向で論議がすすんでいた。 

ところが、平成18年初、秋篠宮妃殿下御懐妊の吉報がニュースを賑わした時、まさに男子出生の望みが出てきたことで早急に結論付ける問題ではない、ということで「女性天皇」問題は一応棚上げ、沈静化されていった。

もし、紀子妃に姫子の誕生となると皇太子・雅子妃の愛嬢・「愛子様」が、歴史的見ても、近年初の「女性天皇」になる可能性があるといわれる。 
すると、愛子天皇の祖祖父(雅子皇后の祖父)は江頭氏であり、水俣病事件発生当時の社長であった。もしこの事が実現すれば天皇家、皇室にとっては一つの汚点を残すことになるのではと、一部識者に懸念されていたが・・??。

【追記】 
2006年(平成18年)9月6日 、秋篠宮文仁親王と文仁親王妃紀子の第三子として、長男「悠仁親王(ひさひとしんのう)が御生まれになった、皇位継承は第三位となる。 秋篠宮家にとっては佳子内親王以来12年ぶりの子女の誕生、そして皇室にとっては父である秋篠宮文仁親王以来、実に41年ぶりの男子誕生となった。


さて江頭 豊(えがしら ゆたか)という人物について・・、 

江頭家は藩政時代、佐賀藩主・鍋島家の家臣だったとされる。 
彼は金融界より「チッソ株式会社」の社長(1964年〜1971年)として就任、当時の水俣病問題の対応にあたっていた。 
豊氏の娘が外務省勤務の小和田恒に嫁ぎ、小和田恒の長女である雅子氏は1993年、皇太子徳仁と結婚し皇太子妃となった。 

つまり江頭氏は日本国・皇太子妃雅子(将来の皇后陛下)の母方の祖父にあたる。


水俣病発覚当初、原因は種々取り沙汰されたが原因追跡の研究の結果、有毒排水の蓄積が主な原因とされ、それを受けて江頭社長は患者家庭を詫びて回ったという。 
しかし、その後の水俣病一次訴訟による裁判では、チッソの責任を全面否定している。 

雅子妃の祖父・江頭氏が社長に就任したのは昭和39年、退任は昭和46年であり期間は7年間であった。
当時のチッソの社長の仕事は会社経営もさることながら、水俣事件の軽減、隠蔽を図り、官僚の各方面に働きかけ、国や県に責任の一端をなすり付ける頑張りは物凄く、その人が反省どころか、もみ消しを家族ぐるみでやっていたとも一部囁かれていたという。


水俣病」の原因が、チッソ工場の排水が水俣湾の汚染によりもの判ったのは、昭和31年頃であった。
水俣公害事件は、いまだに全面解決に至っていないともいわれるが。 
原因当事責任者が間接的にも皇室と縁が出来てしまったが、彼の氏のやり方、生き方は日本国皇室のあり方とは正反対にあったと言っていいのかもしれない。 

生まれ育った頃に雅子妃が見たのは、会社のために頑張っている祖父の姿だったかも知れないのだ。

引き続き「水俣病」について   PartWへ
PartWへ   第18日目へ  写真集V  周遊ブログ
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山
【小生の旅のリンク集】
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集 山のエッセイ
「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (別URLです)

【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
安芸の宮島・厳島神社  
石見銀山遺跡とその文化的景観 

ハワイ旅行2007
九州旅行2008
東北紀行2010
沖縄旅行2008
北海道道北旅行
北海道旅行2005
南紀旅行2002

古都鎌倉紀行
「山行リスト」 

立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
北ア・槍−穂高(1968年)
上高地・明神(2008年)
南ア・北岳(1969年)
南アルプス・仙丈ヶ岳(1976年)
八ヶ岳(1966年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
谷川岳(1967年)
尾瀬・燧ケ岳紀行(1973年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
奥秩父・金峰山(1972年)
「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」