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日本周遊紀行(125)熊本 「西南の役」



西郷は、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したという・・、

明治10年(1877年)2月15日、50年ぶりの大雪の中、13000名の薩摩軍が北上を開始した。 
かねてより「薩摩不穏」との情勢を掴んでいた熊本鎮台は籠城を決意する。
国内最後の戦と言われる「西南戦争」である。

熊本鎮台は「射界の開放」(射撃の見通しを良くする)のために市中に火を放ち、開戦前に城下は焼土と化したという。
ところが、市中放火とほぼ同時刻に天守閣付近から出火し、天守と本丸御殿一帯が焼失してしまう。 
原因は、台所からの「失火説」、薩軍の「放火説」、鎮台が自ら火を付けたとする「自焼説」があるが、時代遅れの天守閣を焼き、兵に籠城を覚悟させるため司令長官の谷干城(たにたてき)が命じ、参謀の児玉源太郎が火を付けたという説が現在では有力だといわれるが、いまだに真偽は特定はできてないという。

天守閣焼失にも関わらず三日間の激戦の末、薩軍は一兵も城内に入ることができず、3,000の攻囲軍を残し北の田原坂(たばるざか)へと兵を退去させるが、翌日には田原坂は陥落する。 

52日間に及ぶ籠城戦は終了し、熊本城は不落の名城を、名実ともに実証したという。
西郷隆盛は終焉の地・城山(鹿児島)で、「わしは官軍に負けたのではない《清正公》に負けたのだ・・!!」と独白したと伝えられている。


「西南戦争」の主要起因・・、

明治政府は廃藩置県や税金の新制度(地租改正)、それに一般公募の徴兵制を進め、封建から近代国家への歩みを進めていった。
しかし、新政府の政策により特権や経済基盤を失った旧士族の不満が徐々に高まっていった時期でもある。 
そんな中、明治6年に参議の職にあった陸軍大将・西郷隆盛が所謂、征韓論争で大久保利通や岩倉具視に破れ下野する。

西郷の後を追うように桐野利秋など西郷を慕う政府の中枢にいた鹿児島県出身の官僚・軍人約600人も大挙して辞職し帰郷した。 
これを境に、維新の原動力となった薩摩の藩閥は、西郷隆盛派と新政府に残った大久保利通派に大きく分裂することとなる。

薩摩では私学校を興し、その生徒が西郷を擁して挙兵する。薩摩軍は新政府打倒をめざして北上する。一方、明治政府は新規に徴兵した軍隊で、最新兵器を元に迎え撃つことになる。
この内戦は、云わば旧勢力の武士団と新時代の徴兵軍隊との旧新制度の争いでもあった。


西南戦争最大の激戦地となった田原坂(たばるざか)・・、


熊本の北隣・植木町の西部地区、国道208号線の近くにあり、坂は北から一の坂、二の坂、三の坂と続き、標高100メートル余の三の坂の頂上部にクスの大木が茂っている。

薩摩軍は、南下する官軍に対抗するため主力を高瀬(現、玉名市高瀬)まで引上げたが押し戻され「田原坂」で決戦となった。 
戦闘は3月3日から17日間の昼夜に及んび、雨が降りしきる同月20日、官軍は総攻撃をかけ田原坂を突破する。 
破れた薩摩軍は一旦解散し、熊本城の包囲を解いて九州山地を敗走、郷土・薩摩へ引き返すことになる。

西南の役・田原坂の戦い
は壮絶なもので、一日の弾丸使用量は32万発にも及んだという。

現在、付近は公園化され、戦死者の慰霊塔や征討総督士・熾仁親王(たるひとしんのう)の崇烈碑、弾痕のついた家などが残されているという。


 「田原坂」  熊本民謡

雨は降る降る 人馬(じんば)は濡れる
越すに越されぬ 田原坂

右手(めて)に血刀(ちがたな) 
左手(ゆんで)に手綱(たづな)
馬上ゆたかな 美少年

山に屍(しかばね) 川に血流る
肥薩(ひさつ)の天地 秋さびし

田原坂なら 昔が恋し
男同志の 夢の跡




写真:水前寺公園・成趣園



熊本城からの岐路、市内の名勝・「水前寺公園」に寄ってみた・・、

熊本城より広い県道28号線を東南方向、豊肥本線を越えて暫くしたところ、市中でチョット判りにくい処であったが何とか辿り着いた。 
観光地らしく御土産が並ぶ出水神社の大きな鳥居を潜って間もなく別世界が広がっていた。

広大な池に築山が印象的で、そこに荘厳な神社を配してあるのも良い。
池は豊富な阿蘇伏流水が湧出して作ったらしく、池を中心にした桃山式回遊庭園で、築山や浮石、芝生、松などの植木で東海道五十三次の景勝を模したといわれる。

この庭園は、熊本藩の初代藩主の細川忠利が1636年頃から築いた水前寺(地名)御茶屋が始まりとされ、細川綱利が藩主の時に現在の名称となったという。 
一般的には水前寺公園、正確には「水前寺・成趣園」と呼ばれていて、1929年(昭和4年)、国の名勝および国の史跡に指定された。 

ただ、今日では熊本の市街地でもあり、利便や環境の良さも手伝って周囲にマンションが建ち並び、景観を損ねているのはチョット残念なことである。
それと、中国人のグループが処構わず大声を上げて叫びあっているのも、帳消しもいいとこであった・・、残念・・!!。

さて次回は、「阿蘇」

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日本周遊紀行(126)阿蘇 「外輪山」




写真:外輪山・二重の峠付近から「阿蘇山」とNTT外輪山荘


九州地区のNTT保養所は、この「NTT外輪山荘」一箇所のみ・・、

歴史溢れる大都市・熊本を後にする。

国道3号線から右方向、緑豊かな熊本大学の敷地内を横断するように通過する。 
阿蘇からやってくると思われる「白川」の流れが清清(すがすが)しい。 
九州自動車道の下を通過する頃には辺りも開けてきて、田畑の風景も見られるようになってきた。 
豊肥本線がすぐ横を並行している。 本線は雄大な阿蘇外輪山を貫き、熊本〜大分を結ぶ九州中部横断鉄道でもある。 

「原水」を過ぎ比較的大きな十字路を過ぎると大津町であり、間もなく「道の駅・大津」へ来た。 
阿蘇の玄関口である大津町の国道57号線沿いにあり、ここで一息入れる。 
阿蘇外輪の麓に当たり、阿蘇見物往来の車で結構賑わっているよである。 物産館内、蜂蜜の入ったジュースコーナーのジュースがいい味出していた。


さて、今日の宿舎「NTT外輪山荘」へ急ぐ。 

道の駅からすぐ左へ折れるとミルクロードという案内がある、実は県道339号であり清正公道、豊後街道と色々な呼び方があるようだ。

ミルクロードとはこの先、阿蘇内輪外輪山周辺は大草原がひろがり大牧場が各所に広がっている。 故に、この道は乳品目を配送する輸送車が多いことから名付けられたという。 
又、この道は肥後・熊本と豊後・大分を結ぶ旧街道(豊後街道)で、戦国末期の頃は加藤清正も大阪詣でで通った道から“清正公道路”とも云い、清正に因んでこの名が付されているようである。 
元々、緑豊かな山懐の道であるり、間もなく良く整備された公園があった。 
阿蘇へと続くミルクロードに平行して整備された細長い公園で清正公道公園ともいい、参勤交代に使われた清正公道(旧街道)の休泊所跡を利用しているらしい。 
時節になると桜並木が良さそうである。 道路の反対側はハイテク・・?と思しき「阿蘇中核工業団地」というモダンな企業群が緑の中に在った。

道はいよいよ外輪山系の上りにかかる、くねくねと阿蘇へと誘うようである。 
山系の上部に達した頃はカヤトの大草原が広がってきて、やがて峠に差し掛かる頃十字路に出た。目的地へのナビは右方向を指していて、間もなく「二重の峠」という標識が在った。

清正公道と県道23号線との交差点付近にはに休憩展望用の駐車場もあり、ここから「歴史の道 豊後街道・二重峠石畳」が始まっている。 


この道は藩政時代、肥後と豊後鶴崎を結ぶ重要な街道として利用されたようで、豊臣秀吉が天下を統一し加藤清正が肥後に入国すると熊本から鶴崎までこの道を使い、鶴崎からは船で大阪を往復したという。 
江戸期になると参勤交代制度が確立するがこの時期、細川藩も江戸往復にこの街道を利用したという。 
街道沿いには熊本城の西大門(新町一丁目)を起点として一里ごとの目印となる里数木(里数の目安となる木、主に榎が植えられている)が植えられ、休憩する所には御茶屋が設けられていたらしい。 

石畳には流出を防ぐ水切りなども昔のままに残り、往時をを偲ぶことができる。 
周囲は大展望で束の間の休息所でもあり、晴れていれば阿蘇五岳(後ほど・・)を一望することができる。
「NTT外輪山荘」は、この二重の峠のほぼ真下にあった。


ところで、NTTの社員保養所であるが・・、

縁あって出来るだけ使用するようにしているが、昨今は官営・公営の宿屋が民化の煽りでドンドン潰されてゆくようである。 
NTTは民営化する依然は関連宿舎含めて全国に150〜160箇所程度あったのだが、民営化の煽りで30前後に減ってしまったようである。 

郵政の「かんぽ」、厚生の「国民宿舎」や「休暇村」然りで、官・公営の宿もドンドン減らされていくようである。 訳わかるけど、どうにかなんないの・・、我々一般大衆の旅人にとってはマッタク、サミシイ限りであるっす・・!。 

現在、九州地区のNTT保養所は、この「NTT外輪山荘」一箇所のみと相成ってしまったようだ。 
因みに四国も一箇所のみで、過日世話になった道後の「拓泉荘」がそうであった。
ともあれ、此方に草鞋(わらじ)を脱いだ。

NTTの保養所は決して突出した派手さは無いが、中流旅館のサービスにも負けない位の気配りで旅人をもてなしてくれる。
何時もながら有難いことである。

夕餉の時間まで若干の時間があるので、先ずは一風呂浴びて今日一日の行程記録をまとめる。
その後、地元の銘酒を戴きながら料理を味わうのである。
何時もの事ながら今日の無事を感謝し、明日えの旅立ちを祈りながらクッションの効いた布団で夢路を辿る。


次回は、「阿蘇山」   第13日目へ

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