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日本周遊紀行(124)島原 「島原城と大変」


写真:見るからにノペッとした「島原城」


島原は、トリプルの悲劇に見舞われた「大変」な地であった・・、

島原F・Tから、比較的静かな市街地を2kmほど行くと島原鉄道の島原駅があり、駅前からは既に島原城の天守閣が目前に迫る。 
駅前から左に向かって、そのまま車を進めると、いきなり本丸真下の駐車場へたどり着いてしまった。 本丸直下に車止めが在るのも珍しい、こちらにしては幸いであるが・・?。

石垣の上にどっかりと載った主城・本丸は、五層の天守をもち、さすがに壮大であった。
ただ、主城・本丸のみが地上から屹立していて、城としての曲輪、郭などの外敵の侵攻から守るために施した防御施設、一定の区域の周囲に築いた土や石の砦、囲いなどは無い孤高の城だった。 
それに、この島原城を見ると全体に形が単純で「ノペッ・・としていて、なんか変だな!」という印象をもった。 


この島原城は一見して、どうも日本のお城のイメージとはちょっと違う・・、

五層の天守閣があるのだが、この五層は単に五枚重ね合わせたような形をしており、日本建築の造形美を演出している重要な構造物である破風(はふ)が無いのである。 
破風とは屋根の切妻部分についている合掌形の装飾のことをいう。 
これらの破風が日本の神社仏閣、それにお城の美しさを際立たせているという。 ところが島原城にはこの破風がないのである。 

歴史作家の司馬遼太郎氏はこの特異な城を、「松倉重政は領民との戦いを築城時から想定していて、天守閣から閣内に侵入してきた敵を射抜くためにこういう構造にしたのだろう。破風があっては射てない角度が出来てしまい邪魔なのである。島原の領民がキリシタンであり、家康から暗にキリシタン弾圧の役割を期待されていたのではないか」と推定している。


果たして後に我が国最大の内乱、一揆が城下で発生するのである。
この豪壮な島原城には島原の領民の怨念が込められているという事も出来る。 

1616(元和2)年、大和(奈良県)五条から島原に移封した松倉豊後守重政は、1618(元和4)年から7年余の歳月を費やして島原城を築く。
城は、昔「四壁山」、「森岳」などと呼ばれた小高い丘を利用して築かれたので、別名を森岳城とも言ったらしい。
南北に連なる連郭式平城で、外郭は周囲約4kmの長方形で塀をめぐらし、城門が7か所、平櫓が33か所もあったという。
内郭は堀にかこまれた本丸・二の丸を設け、その北に藩主の居館である三の丸が続いていた。

本丸には安土桃山式建築の粋を集めた総塗り込めの五層の天守閣をはじめ、3か所に三層櫓がそびえ立つ豪壮堅固な城構えであった。 

城は松倉氏の後、高力氏、松平氏、戸田氏、再び松平氏と4氏19代253年間の居城であった。 
再び松平氏というのは、以前に島原領主を勤めていた松平忠恕(ただひろ)が旧地に戻ってきたのである。

安永3年(1774)に幕府から戸田氏と松平氏の交代転封が命ぜられ、その時の移転費用は莫大なものであったという。 
しかも、忠恕が 戻って以来、天災、大火事、飢饉が続き、藩財政は困窮を極めていた。
このような大変な時期、忠恕が苦心をしながら藩財政の立て直しに取りかかろうとした矢先の寛政4年(1792)「島原大変」は起こったのである。


近年に発生した平成の噴火による火砕流、土石流という言葉を一躍有名にしたのが、今回の普賢岳噴火災害であったが、しかし島原はこれに上回る大災害を過去に被っていた。 

今から約200年前の寛政年間の「島原大変」がこれで、我が国火山災害史上最大の稀にみる悲劇であったという。


この時は先ず体に感じる地震が続き、更に普賢岳からの噴煙が上がり、溶岩流や火山ガスの噴出も見られた。
激しい地震の連続に、城下の人たちは不安な日々であったが、それも次第に収まりかけていたように観えたが・・、


「島原大変、肥後迷惑」・・、

寛政4年旧暦4月1日(1,792年5月21日)、大音響とともに襲った大地震によって城下町の背後にそびえる「眉山」(まゆやま:818m)が突如として大崩壊、三億立方メートル(東京ドーム120杯分)を超える巨大な土砂が島原城下の過半部の人家や田畑を埋め尽くした。 更に、この土砂は有明海へ向かって崩れ落た。 

この衝撃によって巨大な津波が発生、対岸の肥後の熊本城下、天草(熊本県)へ襲いかかった。
その波高は凡そ25mとも推定され、更に、津波の反復、返し波がは3回にも及び島原半島の沿岸18か町村へ来襲し広域災害の様相を呈した。
津波による被害を含む死者約15000人は、未だに記録に残る最大の火山災害だといわれる。

この時の島原城下の住民は7000余人で、その内生存者はわずかに1000人だったと言う。
この出来事を「島原大変、肥後迷惑」と呼ばれ、細川氏の支配する熊本藩の公的な記録として大災害の全容が、詳しく残っているという。


悲運の領主・忠恕・・、

さて、島原の地に戻って以来、苦労の連続であった松平忠恕は又しても悲劇に見舞われたのである。

藩主・忠恕は大惨事の翌日から守山村に避難していたが、10日以上過ぎて島原城内外を巡視した。
城下の惨憺たる状況に忠恕は涙を流し、その衝撃からか翌日から病に侵され、そして間もなく逝去してしまったという。
被害の甚大さに心を痛め自刃したとも言われている。

悲運としか言いようのない享年51歳の生涯で、島原の地に戻って17年目のことであった。
その跡は忠恕の子・忠馮(ただのり)が継ぎ、当代26年間全てを「大変」後の復興に投じたという。


島原には江戸期以降、三つの大事件が起こったことになる。

一つは、1637年(寛永14年)に発生した「島原の乱」という事件、
二つ目は1792年(寛政4年)、雲仙岳が大噴火し、眉山の南側半分が裂けて有明海に崩れ落ち、島原城下の三分の二が埋没、大津波が起こり対岸の肥後地方に押し寄せた「島原大変 肥後迷惑」と呼ばれた地変。 
三つ目は1990年(平成2年)、普賢岳の噴火よる災害で40数名の死者を出し「火砕流」の恐ろしさが世界に認識された地変である。

熊本行きのカーフェリーは定刻、島原埠頭を離れた。
波を蹴ってゆく船が次第に岸壁から離れるに従って、正面に見えている「眉山」の男性的な勇姿が次第に遠くなる。雲仙の山並みや普賢岳は、この眉山に隠れて一時、姿を消していた。
船が離れるに従って、右手に美しい大小の島々が見渡せた、九十九島(つくもじま)という。 島原外港に点在する九十九島の奇観は島原大変の時、海に流れ込んだ土砂の跡である。

 「島原地方の子守唄」 長崎民謡
 
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
ナシの木育ちよ
何のナシやら 何のナシやら
色気なしばよ しょうかいな
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助(きゅうすけ)どんの
連れんこらるバイ
 
帰りにゃ 寄っちょくれんか
帰りにゃ 寄っちょくれんか
あばら家じゃけんど
芋飯(といもめし)ゃ粟(あわ)ン飯 芋飯ゃ粟ン飯
黄金飯(こがねめし)ばよ しょうかいな
嫁御(よめご)ン 紅(べ)ンナ 誰(た)がくれた
唇つけたら 暖(あ)ったかろ
沖の不知火(しらぬい)に 沖の不知火に
消えては燃えるヨ
バテレン祭の バテレン祭の
笛や太鼓も 鳴りやんだ
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ
早よ寝ろ泣かんで オロロンバイ


次回は肥後・「熊本」

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日本周遊紀行(125)熊本 「火の国・肥の国」


熊本とは、古代「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた・・、

島原のもう一つの象徴であるこの新緑に覆うわれ「眉山」が次第に遠ざかってゆく。
フェリーは熊本フェリー(九商フェリー)で島原湾を定刻55分で結んでいて、料金は2290円、平日昼時とあって乗船車数は少ないようである。 久しぶりの船旅であり、甲板に出て爽やかな初夏の海洋風を全身に浴びる。 船室内ではテレビの放映中でNHKが国会審議を映していて、小泉首相が靖国参拝について盛んに自論を展開していたのが印象的であった。
右手に天草へ通ずる半島が近付いている、航路は熊本に入ったようである。 
遠く熊本市街であろう、海岸埠頭からは大部離れているようだがビル群の凹凸が見えている。 船は長い桟橋に着岸したようで、すぐ横に緑色の尖がった屋根を頂いた洒落た建物が目に付いた、旅客船ターミナルの施設かもしれない。

熊本港は、有明海(島原湾・・?)に流入する白川と熊本市南部を流れる緑川に挟まれた三角州に浮かぶ人工島の港であり、熊本港大橋が結んでいる。 港は旅客は元より物流港湾として今も開発が進んでいる。中国や韓国(釜山港)の船も入港し、コンテナ定期船路も開設されているという。
大橋を渡り、このまま立派な道路が熊本市郊外まで繋がっていた。 九州の大幹線・3号国道から市・中心部の熊本城へ向かうが、途中に鹿児島本線の熊本駅へ立ち寄った。 白い瀟洒な駅舎はリゾートホテルのような印象であった。2010年度に全線開業予定である九州新幹線の駅が併設されることになっているらしく、新幹線は高架駅となる予定らしい。
駅前をピンクの市電がゴウゴウと走り抜けていった。熊本市街のビルの谷間を行き交い、熊本城や古い家並みのある風景の中を、ゴトゴトと走る路面電車は風情的にも良く、熊本の大事な交通機関であるという。

主要都市でよく見られた路面電車も、高度成長期には都市交通(主に車)の円滑化の障害物とされ大部分の都市から路面電車が消えた。 しかし、いま無公害で環境にやさしい路面電車が見直されているともいう。 熊本市電の創業は大正14年、最盛期には7系統もあり、延長25キロメートルの営業距離があったという。今は2系統12キロメートルに縮小されたが健在のようである。この2系統についても一旦は廃止されることになっていたらしいが、市民の存続運動によって命脈を保っているという。 

熊本は、「肥の国」、「火の国」・・、
古代、熊本県の領域は概ねかつての肥後国とほぼ重なるが、肥後国は古代においては「火の国」または「肥の国」と呼ばれていた。
火の国は熊本の象徴である阿蘇地方の主神が火の神であることから呼ばれたようで、阿蘇山が噴火して火を噴き火山弾が降ることで阿蘇山に対する霊異から「火の神」とも言われ、この地方を広く「火の国」とも称したという。

又、「肥の国」は7世紀終わり頃、現在の佐賀県・長崎県の地域である肥前国と肥後国に分けられた。肥後国は生産力が高い豊かな土地で地理的にも重要と判断されたため、律令体制下では大国の一つとされた。中世には名和長年(出実は伯耆大山の麓の名和の庄)の子孫である名和氏などが領地を有するが、戦国時代に至っても肥後の国では有力な戦国大名が現れず、国人・豪族同士の争いが暫くのあいだ続いた。

豊臣秀吉の時代に九州制覇の後、秀吉の第一の子飼いである「加藤清正」(幼少・加藤虎之助)に肥後を分け与えている。清正が主城に入城し統治を開始すると、治山治水や有明湾の干拓による土地開発などを積極的に行い、荒廃していた土地を改良し、生産力を向上させたという。 現在の熊本の礎は主に清正に拠るところが多い。

清正は1607年(慶長12年)に新たな隈本城を築き、その後、当地の呼称を隈本から「熊本」へと改名し、お城も熊本城とした。 これ以降、熊本は城下町として発展していくことになる。しかし清正の死後江戸幕府は加藤家を改易し、代わって細川氏を入国させ、以降、明治の廃藩置県まで続く。 昭和から平成の宗相になった細川護煕は、その子孫にあたる。
現在の熊本市は九州全体としては福岡市、北九州市に次いで3番目の人口を擁する大都市である。尚、水道水の大部分を地下水だけでまかなっている稀有な都市でもある。

次回は、「熊本城」  PartWへ

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