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日本周遊紀行(119)長崎 「長崎の鐘」


写真:長崎の象徴・御馴染みの「平和の像」



鎮魂の長崎、「昭和20年8月9日午前11時2分」・・!!、

この大村湾沿いを長崎市に向かって進む。 
大村湾は閉鎖性海域という内海であり、更に、入り江、島々が浮かぶリアス海岸は静かな紺碧の海面と緑のコントラストが一段と風光を成している。 
尤も、長崎県というのは面積(都道府県で下から11番目)それ自体はそんなに広くはないが、海岸線は日本一だという。

県域が複雑な形をしているのもさることながら、島々の数は 971 と圧倒的に全国一なのである。
実は、海岸線は北海道に次いで全国第2位であるが、北方領土を除いた場合の北海道の海岸線は大差で長崎県が第一位となるらしい。 
面積が、北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大なのは島々が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいる為でもある。 
因みに、長崎県内で、海から15km以上離れた地域・地点はないそうである。  


ところで、「日本にはいくつの島があるのだろうか・・?」・・、

面積一平方km以上の島の数なら全国で340あるというのが一つの答えだという。 
日本沿岸における外周0.1km以上の島の数はというと6,852島というのが二つ目の答えである。
その時、日本で一番島の数が多い県は長崎県の971島、次いで鹿児島県が605島、北海道が508島となっている(海上保安庁海洋情報部調べ)。
更に、人が住んでいる島の数となると、少々古いデータであるが「日本島嶼一覧(昭和57年)」によれば425島だとか。 
尚、、狭い海域にたくさんの島があることで有名なのは長崎県佐世保近辺の九十九島であろう、実際にはいくつの島があるのか・・?、こんな疑問に答える「九十九島の数調査研究会」なるものが地元にあり、そこが調べたところ、ここだけで208の島が確認されたという。
名称の「九十九」より遥かに多い島数があることになる。



さて、「長崎」である・・、 

時津の港を過ぎると長崎の町へ入ったようである。 
左右山肌の斜面を切り刻んで造成した住宅団地が八方に見られる。 長崎は「階段の街」、「坂の街」として有名であるが、この辺りにも傾向が見られるようだ。 

余談だが、長崎は坂が多いため自転車に乗る人は少なく、他都市でしばしば問題になる放置自転車などの問題は少ないといい、年齢層を問わず自転車に乗れない人の割合も他の都市に比べて高いらしい。


市街地へ入ってきた、長崎市電であろうか路面電車が同路上を行く。
電車と言えども、やはり坂道はつらそうである。

大きな敷地の長崎大学を過ぎると間もなく「平和記念公園」のガイド版が現れ、案内にそって訪ねてみることにする。 国道のすぐ横にその公園はあった。 

いきなり、あの天を指す「平和記念像」の前に出た。
像は天を指す右手が原爆の怖さ、左手が平和、閉じた目が犠牲者の冥福を祈ってるそうである。

すぐ横に白い荘厳な建物で「長崎市原子爆弾無縁死没者追悼祈念堂」と、チョット長いお題目のお堂が在った。





ここは原爆によって亡くなった身元や氏名不詳の遺骨、氏名がわかっていても一家全滅などで引き取り手がない原爆無縁死没者の遺骨を安置しているという、小さく黙礼をする。
玄関付近に黒の御影石に白字で刻した石碑が、当時の生々しさを物語っている。


刻文は次のように記されてあった・・、


『原爆殉難無縁者慰霊の記』・・、

「 昭和20年8月9日午前11時2分米軍が原子爆弾を長崎に投下した。 この時、即死者70040余名および避難の途中或いは収容加療中に死亡した者のうち、一家全滅または身元不明のため無縁となった遺骨は市町村役場や寺院町内会その他一般篤志家の手で埋葬供養されていた。 長崎市民生児童委協議員会は、この不幸な方方のみをお慰めするため長崎市に協力して昭和30年7月から一年余にわたり内外の各地に散在していたこれら無縁遺骨を収集した。後、昭和34年3月市民の浄財をもってこの地が購入されたが、その寄贈を受けた長崎市はここに納骨堂を建立し、管理を長崎市民生児童委員会に委託した。よって本会はさきに収集した原爆殉難無縁遺骨7000余柱をここに安置し観音像を本尊として年々祭祀を行ないその冥福を祈ってきた。
その後、遺骨の氏名や近親者が判明して引き取られたものもあったが追加合祀された数もまた多く昭和50年8月現在8927柱が安置されている。 祭祀は長崎市仏教連盟のご奉仕を願い、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会がこれに当たり、経費は長崎市民を始め広く全国各地から寄せられた浄財により賄われている。 ここに原爆被爆30周年を迎えるに当たり殉難者の冥福を祈念し、世界平和実現へ邁進する決意を新たにしつつ、謹んで以上の経過を記す。
長崎市民生児童委員協議会、長崎市原爆殉難者無縁仏慰霊奉賛会
昭和五十年八月一日 」



原爆落下地点に建てられている公園内の各種施設、石碑群はこの上空500メートルの地点で爆発したのである。 
中央に「平和の泉」の噴水池があり、石碑には「のどが乾いてたまりませんでした。水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました。どうしても水が欲しくてとうとう油の浮いたまま飲みました。」と刻文字が書かれている。 木々の間に、各国からを贈られたという彫像が置かれている。ソビエト連邦、チェコスロバキア等、母子の像が多い。 


長崎の鐘、平和の鐘・・、

そして、その鐘の象徴でもあろうか、すぐ向こうの小高い丘の上に赤レンガ造りの双塔の天主堂が天を指している、「浦上天主堂」である。


浦上天主堂


パウロ2世の胸像


天主堂は明治6年(1873年)にキリシタン禁制が解かれ、信教の自由を得ると浦上のキリシタンたちは明治13年に庄屋屋敷を改修して教会とした。
この東洋一を誇るロマネスク様式大聖堂も爆心地に近かったため一瞬のうちに破壊されたという。 
しかし、昭和34年に見事に復元され、赤レンガ造りの美しい天主堂として長崎カトリック界の中心となっている。

その破壊された天主堂の鐘堂の一部が、丘の下の河原の路地際に放置され、無残(無念・・)な姿を晒している。 
否、放置ではない・・、当時は石垣で囲い台座の上に展示されていたはずが今は石垣も台座も草生して、まるで放置してある様に見えるのである。

しかし、見様によっては近い過去に惨劇と破壊があったことを示し、その影響で野地に崩れて落ちて来たような迫真さを物語っているのである。


原爆投下直後、無残に残されている「浦上天主堂」の鐘堂の一部


「昭和20年8月9日午前11時2分」・・!!、

長崎に原爆を落としたB29は「ボックス・カー」と呼ばれ、小島テニアンの基地から飛び立った。 
広島に原爆を落としたB29は、「エノラ・ゲイ」と呼ばれ、同じくテニアンの基地から飛び立っているが。当初は福岡、小倉、長崎、佐世保が目標地であったとしているが天候、その他の事情で雲の隙間から見えた長崎市が最終目標になったという。

昭和20年(1945年)8月9日午前11時2分、遂に長崎上空に一発の原子爆弾が炸裂した。
投下地点は長崎市北部に位置する松山町171番地(現松山町5番地)。 

当時、長崎市の人口は24万人と推定されており、即死は推定3万5千名、負傷6万名、結局7万名以上が死亡し、街は一瞬のうちに壊滅的被害を受けた。

熱線は爆心地付近で4000度、1キロ離れていても1800度、ガラスが溶けてしまうほどである・・!!、猛烈な爆風は爆心地付近の建物が無くなるほど吹っ飛ばした。
そして放射能は身体を通過し、内部の細胞を破壊する。 また数年経ってからも白血病やガンでなくなるなどの後遺症をも引き起こした。

本年、平成17年8月9日、60年前のあの夏の日を忘れないよう長崎市民は、「被爆60周年長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典」を開催している。


 「長崎の鐘」  詞 サトウ・ハチロー  曲 古関裕而

こよなく晴れた 青空を
悲しと思う せつなさよ
うねりの波の 人の世に
はかなく生きる 野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

召されて妻は 天国へ
別れて一人 旅立ちぬ
かたみに残る ロザリオの
鎖に白き 我が涙
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

つぶやく雨の ミサの音
たたえる風の 神の歌
耀く胸の 十字架に
ほゝえむ海の 雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る

こころの罪を うちあけて
更け行く夜の 月すみぬ
貧しき家の 柱にも
気高く白き マリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る


次回は、長崎・大浦地区

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日本周遊紀行(119)長崎 「大浦天主堂」


写真:階段参道の上に毅然と建つ「大浦天主堂」


長崎はキリシタン受難の地であった・・!、

長崎市の地域は山、坂の街であることは、小生の知識の中である程度は心得ていた。

改めて、長崎市を上部鳥瞰的に観ると町は変形Y字を逆さまにしたようにも見える。
Yの字の右側の線は、先端が長崎造船をはじめとする工業地、そして稲佐山斜面に沿って町並みが覗える。
Yの字の左側は、先端にグラバー亭のある大浦地区から県、市庁舎の在る市内で最も賑やかな長崎タウン、そしてY字形の下部がJR長崎駅から、浦上川に沿って先ほど訪れた原爆記念碑・平和公園のあるタウンであろう。 
無論、Y字の凹みは長崎港である。 

長崎の街の周囲は、ほぼ南北に並ぶ山並みに囲まれ、市の形状は全国的に見ても数少ない「すり鉢」状となっている。
つまり市の中心部は三方を山に囲まれており、特に、住宅地の多くは山の斜面を利用しているようである。そのため「階段の街」、「坂の街」として有名である。
この辺りは広島の「尾道」に共通しているようだ。


長崎・大浦地区・・、

さて、次にY字下部の平和公園から、Yの字の左側先端の大浦地区へ向かった。
市営の松ヶ枝という立派な駐車場に車を預ける。それにしても駐車勧誘のおじさん、おばさんがチョッとしつこいくらいである。

平和公園でタクシーの運ちゃんが、小生の車のナンバーPを見て先ず驚き(相模・・・)、「市内を観光するには駐車場が無くて大変だよ・・!」と仰っていたが、どうもそうでもないらしい・・?。


例によって、石畳の品のいい坂道をおもむろに上ってゆく、両脇に長崎カステラをはじめよく飾りつけた土産屋さんが並んでいる。
そして、その正面に白で配し、ステンドグラスが綺麗な教会が階段の上部に悠然と立っていた。 
そう、長崎には有名な天主堂がもう一つあった、長崎湾を見下ろす「大浦天主堂」である。

女子学生が入館料・・?を何がしか払って堂内見学をするようである。


カトリックの教会堂で、日本最古の現存するキリスト教建築物(1952年に修理が完成)で、1945年の原爆投下で破損したが爆心地から比較的離れていたため焼失は免れたという。
国宝に指定された唯一の洋風建築でもある。


江戸期、封建制と鎖国とキリシタン禁制とは、幕藩体制の三本柱であった・・、!!

幕末と言えるだろう・・、
250 年間つづいたキリシタン禁制もどうやら終末が近づいたのである。 
それは、1857年(安政4年)、長崎での絵踏が廃止され、翌年の通商条約で外人のための聖堂(キリスト教会)の建立が認められた。 
こうして幕末の開国機運が高まる中、1865年(元治2年)大浦天主堂が建立され、異国風の建物に長崎の市民たちは目を見張ったという。 

天主堂という名はカトリックの聖堂を中国風に呼んだものであり当時は、俗に「フランス寺」と呼ばれ連日見物人でにぎわったという。 
フランス人によって設計され、天草出身の棟梁・小山秀之進という日本人の職人の手によって作られた。 
建築当初は三本の塔を持つゴシック風のつくりながら、先ほどの浦上天主堂のレンガ色に対して、こちらは外壁が白色のナマコ壁という特殊なスタイルで、欧風建築でありながら日本建築の技術や材料が巧みに使われているという。

完成当初、先ず、長崎の浦上の一団のキリスト教徒が大浦天主堂にやってきた。 
彼らは大浦天主堂がカトリック教会であると判断すると、さらに、浦上や大浦だけでなく長崎地方全域に数万人のキリスト教徒(隠れキリシタン)がいることが判明、この「信徒発見」のニュースは「東洋の奇蹟」と言われたそうである。 


天主堂の「天主」とはキリスト教の神の意味であり、大浦天主堂は国宝に指定された唯一の洋風建築でもあった。 
人々にフランス寺と呼ばれたこの天主堂は、豊臣秀吉の弾圧以来250年間の禁教の時代を生き延びて奇跡と呼ばれたキリシタンと広島とともに原爆投下を投下された長崎の波乱に富んだ歴史を見つめてきたのである。


秀吉や徳川幕府は、何故、強引なまでに「キリスト教布教を禁止し」、「キリシタンを弾圧」したか・・?、

一つの理由に藩や武士にとっては家門を保つことこそ至上命題であった。
正室との間に子が無ければもちろん、若い側室を迎えて一人でも多く子供を作って置くことは当然であり義務であった。

徳川家が巨大なハーレム(大奥)を築き上げるのも、武士の本能であり、ある意味必然であった。

キリシタンは一夫一婦制度が基本である。
キリスト教宣教師の眼には、日本の一夫多妻制度が「野蛮な畜生制度」にしか映らなかったはずで、実際に外国商人達が大勢の妾を囲っていることを激しく非難しているのである。


秀吉が黒田官兵衛に向かって「おぬしらキリシタンは側室を持たんそうじゃな。わしにはとても耐えられんわ。わっはっは!」と笑うシーンがあるが、武士の存続にも関わる重大問題だったともいえるのである。

キリシタン厳禁は、日本独特の「お家の事情」が絶対的に絡んでいたのである。


序ながら、JR長崎駅の直ぐ東側の西坂公園の一角に「聖ヒリッポ教会」というのがある。
この地は、二十六聖人殉教の地ともいわれる。

遠藤周作の小説「沈黙」の書き出しに・・、
『ローマ教会に一つの報告がもたらされた。ポルトガルのイエズス会が日本に派遣していた宣教師・クリストヴァン・フェレイラ教父が長崎で「穴吊り」の拷問をうけ、棄教を誓ったというのである』・・と。

司祭や信徒を棄教させようとして数々の拷問が行われたが、「穴吊り」は深い穴の中に人をグルグルに縛って逆さ吊りにする。
そのままでは頭に充血してすぐに死んでしまうので耳の後ろに穴を開けてそこから血がポタポタ落ちるようにして苦しみが長引くようにしたという。
強い信念を持った司祭や信徒達はこの苦しみに1週間前後も耐えた上、絶命したという。
「二十六聖人殉教の地」は、 このキリスト教弾圧の最初の犠牲者達を追悼した場所である。

1597年、豊臣秀吉の命令により6名の外国人宣教師と20名の日本人信徒が耳と鼻を削ぎ落とされ京都・大阪から歩かされ長崎に到着。「西坂の丘」で彼らは十字架にかけられ、槍で突かれて処刑されたところである。
教会の側壁には彼ら26人のレリーフが彫刻され、展示されている。

1865年大浦天主堂が建てられた。
それを見て250年以上潜伏していた隠れキリシタンがようやく表に出てくることが出来た。
こんなに長い迫害に耐えて宗教を守り通した例は世界の奇跡とも言われる。

そして1981年、あのヨハネパウロ2世が、日本でのキリスト教迫害の歴史を聞き、この地を訪れた。
これはキリスト教信者の方々にとっては最大の喜びだったらしい。
その日、浦上天主堂で「司祭叙階ミサ」が司式された。 
これを記念したパウロ2世の胸像が、教会正面に安置されている。

次回は、お待たせ「グラバー亭(園)」

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日本周遊紀行(119)長崎 「グラバー邸(園)」


写真:「グラバー邸」から長崎港を見下ろす


邸内に、竜馬のための隠し部屋と称する特殊な部屋が存在した・・、

大浦天主堂の隣には「グラバー園(邸)」が在る。
一般に長崎の有名どころ「グラバー邸」と言われるが、長崎港が一望できる高台にある園内には他の施設や建物(洋館群)があり、周囲は洒落た庭園が広がる。
グラバー邸は一戸の邸宅であり、広義にはグラバー園と呼ぶほうが適切かもしれない。

園内は山の斜面を利用して拓かれた施設で、見学するには先ず最上部へ上がってその後、順繰り見て
回りながら下へ降りていくようになっている。 
その頂上へは便利なエスカレーターが整っていた。尤も、入口はもう一箇所あり、市電の5番系統の電車に乗って終点の石橋で下車し、ここから細い路地を入ったところに「グラバースカイロード」と呼ばれる斜行エレベーターがある。

最上部に到ると既に長崎の細長く入り組んだ港が一望である。
特に、「旧三菱第2ドックハウス」(三菱の洋館、昭和47年にグラバー園に移築)という建物のベランダから見る景観は絶景そのもの。
前面は、洋式庭園が品よく配されている。 子供達は池の鯉に大はしゃぎ・・!。

下るにしたがって、旧オルト住宅、旧リンガー住宅、伝統芸能館、旧自由館(日本初の西洋料理店として造られた)といった洋館が次々と現れる。 
又、長崎を題材にしたプッチーニ作曲のオペラ「蝶々夫人」で、生涯を通し主役を演じつづけた「三浦環」の銅像もある。
三浦環という女性は当時世界的に有名なオペラ歌手で、ここグラバー園はマダム・バタフライのモデルになった土地柄ともいう。


そして、更に下部の方に一段と大きなL形に配した旧グラバー住宅が据わっていた。
これらの貴重な建築物は全て明治期の洋館であり、園内に移築、復元したものだという。
この三旧宅はいずれも国指定重要文化財であり、そして園内一帯、建物を取り巻くように、四季を通じて様々な花が咲き誇る、緑に囲まれた園地に成っている。
尤も、この辺り一帯の南山手、隣接の東山手一帯は、日本でも最も古い洋館が多く残る貴重な場所で、国の重要伝統的建造物保存地区になっているという。


さて、グラバー邸の住人・「トーマス・ブレイク・グラバー氏」のことであるが・・、

英・スコットランド人の彼が21才の時、天保9年(1838)に長崎へ来航し、三年後の1862年には「グラバー商会」を設立している。

グラバーは坂本龍馬をはじめとする、長州や薩摩などの藩士達と交流を深め、幕府や各藩に武器や船舶、機械類などを大量に販売し、莫大な富を得た。
そして、近代的ドック建設、高島炭鉱の開発、大浦海岸でわが国初の蒸気機関車を走らせたり、海底ケーブルを長崎と高島間に敷設して電話の使用ができるようにしたりと、 様々な最新技術を日本に伝えた偉大な功労者であった。
又、「ジャパン・ブルワリ・カンパニー」(後のキリン麦酒株式会社)が横浜に設立される際にも指導的に活躍したという。

グラバー自身は岩崎弥太郎経営の三菱の顧問となって、明治30年(1897)には東京に移転し、裕福な余生を送ったという。 
明治41年(1908)外国人として初めての勲二等旭日重光章を受ける。 
東京の自宅で明治44年(1911)、73歳の生涯を閉じたグラバーは、家族と共に坂本国際墓地(爆心地の近く、長崎大に隣接)に埋葬されている。


グラバー邸内に一対の「狛犬」が飾ってある・・、

キリンビールの前身となる会社を作った人はグラバーであるが、お馴染みのキリンビールのマークの麒麟のモデルになったのはこの狛犬だそうで、グラバーの提案でデザインされたと言われている。
何、キリンじゃなくて狛犬?と思うが、想像上の動物だから良しとしよう。 

尚、狛犬やモデルの麒麟に髭が生えているのは、グラバー自身の口髭からきているという。


同じく、グラバー邸内の屋根裏には隠れ部屋と称する特殊な部屋が存在する。
邸を訪ねてきた志士達を幕府の取締りから逃れさせるため、逃げ道を作っていたらしい。

グラバーは坂本竜馬と友好を持ち、「亀山社中」との貿易相手でもあった。
長州が、薩長同盟後亀山社中を通し最新式の西洋銃を購入したのもこのグラバーからで、竜馬亡き後も、高杉晋作自身がグラバー邸に出向き交渉を行ったという。


かっての幕末、長州藩は幕府から睨まれており武器を購入することができなかった。 
坂本竜馬は自分のつくった日本最初の株式会社と言われている「亀山社中」を通して最新銃4300丁と旧式銃3000丁を薩摩藩名義で購入し、長州藩に横流しする方法を思いついた。

グラバー商会から購入した銃が、第二次長州征伐で大活躍し長州藩を勝利に導き、明治維新を成し遂げる大きな原動力となったのである。 
このグラバー邸は坂本龍馬や伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)などが出入りした記念すべき建物でもある。


ところで、前項で記したが、「長崎チャンポン」で銘打って「リンガーハット」という飲食店が全国に展開している、長崎名物の中華風料理のことである。
社名は長崎で幕末から明治初期の頃に活躍したイギリス人実業家で、旧リンガー邸の住人・フレデリック・リンガー(1840年-1908年)の氏名から取っており、それに明るく・響きのいい小さな家(ハット・HUT)を絡ませて「リンガーハット」としたという。
小生は、リンガーハットの小額の株主で、その優待券で暫しば利用させてもらっているが、思えば、リンガーハットの店舗の形が、何か洒落た洋風を感じる。

リンガーは若くして中国に渡り、茶の検査官として働いている時にグラバーと出会い、乞われてグラバー商会に入社し製茶事業技術顧問として活躍したという。

次回は、こちらも長崎といえば「出島」   PartXへ


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