カスタム検索
日本周遊紀行

西日本編   1日目:PARTV(下田)   PartW(南伊豆、伊豆松崎)へ 
  小生の旅と山旅  日本周遊紀行  日本周遊ブログ  第2日目へ  写真集T 
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山

【本文関連情報



日本周遊紀行(7)下田 「黒船祭とペリー」



下田黒船祭・・、

今井浜温泉、河津浜温泉からR135は内陸の高所を行く、再び白州の浜に出た、伊豆白浜という。
白浜の地名は 他に安房の白浜、南紀の白浜を記憶している。
スイセン(1月頃30万本の自然のスイセンが咲きほこる)と須崎御用邸(昭和46年に三井の静かな入江に御用邸がたてられ、天皇陛下や、皇室関係の方が、海洋生物の研究やお休みにお出でになる)で有名な爪木崎を左に見ながら、とりあえず伊豆急の下田駅に向かう。

駅は鉄道・伊豆急の終着駅で東京から下田は凡そ2時間半で結んでいる。

観光案内所で歴史的名所のガイドを伺いながら、パンフを戴く。
聞くところによると5月20日〜22日つまり本日まで「下田黒船祭」の真っ最中で、各処々でイベントが行われているとか。
ソウ云われれば、商店大通りでは賑やかに出店や露天商が並んでいて、着物のお嬢さんのソゾロ歩きや港街らしくセーラー服の若き水兵さんの姿も見かけた。

黒船祭は、当時亡くなった米兵の供養祭から始まり、現在は日米両国の親善を深めるため、下田条約が締結された5月に、毎年行われてる。

思えば今年は種々の記念の年に当たっている様だ。
太平洋戦争の終戦60年、日露戦争の終結100年、そして江戸末期の開国から150年と。
この下田こそが、江戸期の長い鎖国から世界への扉を開いた地である。

先ずそれらの跡を訪ねて観よう・・、駅前から稲生沢川沿いを行くと、下田公園の手前に「ぺりー艦隊上陸の地」があった。 


米艦・黒船が再来日したのが下田であった・・、

船体を真っ黒なタールで塗りつぶした4隻の艦船が「浦賀」に来航したのは、1853年6月であった。
母国アメリカを出航した後、大西洋からアフリカ喜望峰を回りインド洋を抜け、香港・琉球(沖縄)を経由し226日にも及んだ長い航海の末、日本へとやっと到達した。ペリーは久里浜(浦賀)にて、開国開港を要求する国書を幕府に受け取らせると、翌年再び来日し返答を聞くことを約束して一旦日本を去った。 

時を経て再び来日したのは翌年1854年、今度は9隻の艦船を率いて、無断で江戸湾(東京湾)の測量や乗組員を強引に横浜に上陸させ、条約草案を押し付ける等、威圧行為を行いながら、幕府との話し合いの場を設けることに成功する。


ペリーに絶賛された下田港・・、(このことは蝦夷・函館も同じ)

強引な手段に出たのには、前任の東インド艦隊司令長官が浦賀奉行に呈よく追い帰されたという経緯があった。そのため万が一の場合には「武力行使も辞さない」といった断固たる決意で臨んだ為といわれる。

腹を決めた幕府は江戸近隣での開港を嫌い、下田・函館両港の開港案を提示する。
ペリーはさっそく下田周辺の海洋等の事前調査を行う、外洋と接し安全かつ容易に出入りが出来る下田湾を、当時ペリーは「天然にしてこれほどの良港は望めない」と絶賛したそである。

遂に艦隊を集結させたペリーは乗組員と共に、この地に上陸する。


写真 ぺりー上陸地(下田黒船祭にあたり、胸像には花輪と花束が手向けてある)


上陸地の園地にはペリーの胸像があった・・、

ここから「了仙寺」までは300mもあろうか・・、
石畳の道に風流な弥治川、ナマコ壁の屋敷前に架かる朱色の橋、小公園やガス灯など情緒あふれる散歩道、下田の町の風情を感じさせ、若者に人気のおしゃれストリートになっている。
通称「ペリーロード」と呼んでいる、その先に了仙寺は在った。

さすがに大きめの駐車場の横は土産店が並び、その前に紫色の花木鉢が並んでいる。
聞くと「アメリカジャスミンでこの寺の名所名物だよ・・中庭は今が盛りだよ・・、」と言う。

成る程、肩ぐらいはあろうかと思われる位のその名もアメリカジャスミンが庭一面に今が盛りと満開の花を咲かせていた。
本堂も古式な由緒を感じさせる。 


写真 了仙寺と真盛りのアメリカジャスミン庭園


ペリーや艦船の乗組員たちは、このペリーロードを軍楽隊の演奏と共に派手に行進をしながら了仙寺へと入ったことだろう。
ペリーは下田の町家を下見、見聞しながら幕府側代表と何度も交渉を進め、念願の全12ヶ条から成る日米和親条約(神奈川条約)を締結したという。 

初め、街を歩く白い色や真っ黒い鬼のような形相の大男に恐れをなして家の中に閉じこもっていた下田の町民も、フレンドリーでユーモラスなアメリカ人とすぐに打ち解けることができ、敵対心を抱いて接していた幕府役人を尻目に、友好関係を築き上げていったという。

又、ペリー一行が下田に上陸して最初受けた日本人の印象は、自分たちが考えていた一見した以上に、生活や教育水準の高さ、職人たちの手の器用さに驚き、尚且つ、日本の風習にも相当なカルチャーショックを受けたようである。

引続き下田での「ハリスとお吉」

【本文関連情報



日本周遊紀行(7)下田  「ハリスとお吉」



ペリーの次は、総領事・ハリスの来日・・、

先刻、通ったR135より爪木崎方面へ向かう途中に「玉泉寺」があった。

先の了仙寺とは対照的に人っ子一人居ない静寂の寺院であった。
門前に”安政年間・日本最初・米国領事館”の石碑があり、石段を登った本堂右手に「ハリス記念館」があった。

ペリーが去って、1856年7月、日米和親条約の規定に基づき初代日本総領事「ハリス」が下田に着任し、この玉泉寺に日本最初の米総領事館が設置された。
それから3年もの間オランダ人通訳ヒュースケンと共に下田に滞在し通商条約締結に向けての幕府との交渉に臨む。そして、翌1857年に下田協約(日米通貨協定、領事裁判権等)を結ぶ。

又、初め江戸入府を許可されなかったが、後に許されて陸路天城を越えて(前に記した天城峠越え)江戸城へと向かう。
ハリスは外国人としては初めて将軍・家定に拝謁し、家定は、「遠方からの書簡、又、口上、満足である。幾久しく交友したいと大統領に申し上げてもらいたい」と述べている。
その後、幕府と根気強く条約交渉を進めた結果、1858年6月日「米修好通商条約」を横浜艦上で調印することに成功する。 


ハリスは実は親日家であった。

ハリスの滞在日記『ハリス日本滞在記』の中で「私は、日本人は喜望峰以東のいかなる民族より優秀であることを、繰り返し云う。日本の国民に、その器用さと勤勉さを行使することを許しさえするならば、日本は遠からずして偉大な、強力な国家となるであろう・・」と記している。 

日本人を「特異で、半ば野蛮な国民」と称したペリーとは大違いである。


「唐人お吉」について・・、


下田一と評判の高い芸妓だった「お吉」が、17歳でハリスの世話人として上がる。
病弱で動けなくなったハリスは、身の回りの世話をしてくれる女性を幕府に要求していた。

幕府は交渉を優位に進めようと政略をもってお吉を送り込むが、そのことを知ったハリスは激怒し、3日で帰宅させてしまう。
その後、ハリスの人柄も聞かされ、支度金として受け取った25両のこともあって、改めて彼女の家族側から領事館にお願いし、奉公することになった。

ハリスに仕えた期間はほんの僅かだったが、その後のお吉は不運だった。
「唐人」とののしられ蔑まれて、その後三島や横浜と移流する。
後には下田での商売はうまくいかず酒に溺れて、遂に明治24年豪雨の夜、下田蓮台寺の稲生沢川の淵に身を投じ自らの命を絶っている。
波瀾にみちた51年の生涯は、あまりにも哀しい終幕で、この事件は幕末開国に伴う一悲話として小説や芝居の題材にもなっている。
お吉は身よりもなく「宝福寺」の住職に法名を戴き境内に厚く葬られた。

先代の水谷八重子の舞台が評判になったのをきっかけに、芸能人達によって墓石も寄進され、法要祭は下田の女連によって今でも行われている。
宝福寺は下田駅と了仙寺の中間、通称「まいまい通り」に在る。

引続き「下田」

【本文関連情報



日本周遊紀行(7)下田3 「露使節・プチャーチン」



ロシアと北方四島・・、

ペリーが下田を去って間もない同年(1854年)、ロシア使節プチャーチンが日露和親条約交渉締結のためディアナ号で下田に来航する、日米和親条約締結の話を聞きつけ、再び來日したもの・・。幕府役人の数度による交渉の結果、同年、長楽寺にて日露和親条約が締結される。 

日米和親条約と大きく異なるのは、日露の国境が決められ、択捉島とウルップ島の間に国境線が記載されたことこの日を北方領土の日(2月7日)としている。

因みに、先の大戦以降、未だに北方領土はロシアに占有されたままである。
長年に亘って日・ロとの返還交渉が成されてきたが、現代に到るまで解決されてない。
その返還については日本の長年の悲願である。
北方領土とは北海道東方、歯舞(ハボマイ)、色丹(ソコタン)、国後(クナシリ)、択捉(エトロフ)の四島のことであ。
昨年10月東日本一周の際、北海道東方沿岸で国後島を遠望し、納沙布岬では歯舞諸島を真近に望めた。
これら地域、特に根室半島は北方領土返還の拠点になっていて、立て看板や石文が辛く、切なく、それらを物語っている。 


蛍の光と北方領土・・、

ところで「北方領土」に因んで・・、「蛍の光」という唱歌があるのは周知だが、最近はあまり歌われていないようである・・?。この歌は、明治14年(1881年)に尋常小学校の唱歌として小学唱歌集初編に載せられた。作詞は稲垣千頴(いながき ちかい)、作曲者は不詳であるがスコットランド民謡である。
明治10年代初頭、日本で小学唱歌集を編纂するにあたって、稲垣千頴が作詞したものが採用され、「蛍の光」となった。歌詞の舞台は大きく異なるが、遠く離れた友を思う心根は、原曲であるスコットランドも日本も共通である。

大日本帝国海軍では「告別行進曲」という題で、やはり各種学校の卒業式典曲として「仰げば尊し」と一緒に、最近まで使われ歌われた。
現在は『蛍の光』は二番までしか歌われていないが、本来は四番まである曲であった。

三番と四番は、辺境の地であっても、それは日本の守りのためであり国のために尽くす、というような歌詞であり、この内容が敬遠されて戦後には歌われなくなったようである。
以下の歌詞は、小学唱歌集初編(明治14年11月24日発刊)に掲載された時のものである。
前述の通り、戦後・昭和24年以降はこの中の1番と2番のみしか歌われていない・・。


 「蛍の光」 作詞:稲垣 千頴  作曲:不詳(スコットランド民謡)
一、
蛍の光  窓の雪
書(ふみ)読む月日 重ねつつ
いつしか年も すぎの戸を
開けてぞ今朝は 別れゆく
二、
止まるも行くも 限りとて
形見に思う 千万(ちよろず)の
心の端を 一言(ひとこと)に
さきくとばかり 歌(うと)うなり
三、
筑紫(つくし)の極み  陸(みち)の奥
海山遠く 隔(へだ)つとも
その真心(まごころ)は 隔てなく
ひとつに尽くせ 国のため
四、
千島の奥も 沖縄も*
八島のうちの 守りなり
到らん国に 勲(いさお)しく
努めよ我が背 つつがなく


※ 歌詞の内容に問題があるとされ、現在音楽の教科書等では第三節以降が省略されている。


それにしても、この「蛍の光」は、悲しいまでに美しい旋律(メロディー)である。
幼少の頃は歌詞を理解してなくとも、歌ったり、聞いたりしただけで胸にジーンときたものであった。
しかも、1番から4番まで理解して歌う時、万感迫るものがある。

「蛍の光」の一、二番は同窓の友や師との告別の意味であるが、三、四番は、将来は国のために心を合わせて協力するという歌である

「蛍の光」を、この形、1から4番までしっかりと歌い続けていれば、北方領土の問題は日本人の意識にもっと深く存在し得たはずであろう。

戦後の風潮、教育でこれらの感慨を全て捨て去った現在、所々にそれらの付けが回ってきている。
日本人の精神そのものが、今の北方四島を見ているようである。

尚、「蛍の光」のメロディは、本国のスコットランドや日本だけでなく、その他の各国にも浸透している。 
イギリスやアメリカ合衆国などでは新年(スコットランドでは大晦日から)を祝う歌であり、台湾やフィリピンでは新年と卒業式の両方で歌われ、かっては大韓民国(韓国)の国歌でもあったという。


「蛍雪の功」という言葉・・、

「蛍の光」の歌詞の冒頭「蛍の光 窓の雪」とは、「蛍雪の功」と言われる。 
一途に学問に励む事を褒め称える中国における故事が由来となっている。
東晋の時代の車胤は、家が貧乏で灯す油が買えなかったために蛍の光で勉強していた。 
同様に、同じ頃の孫康は、夜には窓の外に積もった雪の反射する光で勉強していたという。
そして、この二人はその重ねた学問により、長じて朝廷の高官に出世している。


尚、プチャーチン提督が来日していたこの年(安政元年)、東海地方を巨大な地震が襲う、「安政の大地震」と言われるもので、この下田も津波によって全滅に近い甚大な被害を被っている。
津波てロシア軍艦・ディアナ号も大破し、亡くなっ水兵は今もこの玉泉寺の敷地内に眠っている。 
長楽寺は了仙寺の近くに在る。

詳細については西伊豆・「戸田」の項で記載してます。


序ながら、下田と吉田松陰のこと・・、


浦賀に四隻のペリー艦隊の来航を見て、アメリカの文化文明に興味を抱いた「吉田松蔭」は、外国留学の意志を固める。
ペリーが日米和親条約締結のため再度来航した際に門弟2人とポータハン号へ赴き、密航を訴えるが拒否されてしまい、幕府に申し出るが逆に松蔭は長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
その後幕府が勅許(天皇の免許、許可)なく日米修好通商条約を結ぶと、攘夷論者の松陰は激しくこれを非難、幕閣の暗殺を企てるが失敗して再び松陰は投獄される。

大老井伊直弼の「安政の大獄」が始まると、幕府は長州藩に松陰の江戸送致を命じ、松陰は老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首の刑に処される。 1859年・享年29歳であった。 

これ等の事件をきっかけに、江戸期は幕末の動乱の時代に突入、南西諸藩(長州、薩摩、土佐、・・)は倒幕のために立ち上がり、明治の御世へと時代は激しく移行してゆくことになる。
下田に居留していた当時の吉田松陰の居蹟、旧村山邸は蓮台寺の「お吉の淵」の近くに在る。(平成17年:2005年5月23日訪問)

次回は「石廊崎」    PartWへ


日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 宮島 石見銀山
【小生の旅のリンク集】
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集 山のエッセイ
「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (別URLです)

【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
安芸の宮島・厳島神社  
石見銀山遺跡とその文化的景観 

ハワイ旅行2007
九州旅行2008
東北紀行2010
沖縄旅行2008
北海道道北旅行
北海道旅行2005
南紀旅行2002

古都鎌倉紀行
「山行リスト」 

立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
北ア・槍−穂高(1968年)
上高地・明神(2008年)
南ア・北岳(1969年)
南アルプス・仙丈ヶ岳(1976年)
八ヶ岳(1966年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
谷川岳(1967年)
尾瀬・燧ケ岳紀行(1973年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
奥秩父・金峰山(1972年)
「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」