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本日の記録・データ

本日・年月日 平成17年5月22日(日) 延日数 第1日
出発地 自宅 出発時間 6時40分
到着地 道の駅・大沢温泉 到着時間 17時30分
天 候 体 調
走行道路名 R246 R16バイパス 横横道路 R134 真鶴熱海道
 R135 地16 R136 地15
主移動地名
・時間
横須賀⇒浦賀⇒鎌倉、江ノ島⇒小田原、熱海⇒伊東
⇒熱川⇒下田⇒石廊崎⇒松崎・大沢温泉
現在(宿泊)地 伊豆・大沢温泉道の駅(車中)
道の駅(R) 伊豆・「花の三聖苑伊豆松崎」
温 泉 熱川温泉「高磯の湯」  大沢温泉
名所・旧跡 横須賀「三笠公園」 浦賀「ペリー上陸地」 鎌倉、江ノ島(別載)、
熱海 熱川温泉 下田「玉泉寺」 「了仙寺」 石廊崎

写真集T

走行関係(km) 燃料関係(L) 金銭関係(現金円) 金銭関係(カード円)
本日表示 310 今回入油 0 本日支出 2278 本日支出 0
昨日表示 0 前回累計 前日累計 0 前日累計 0
走行距離 310 今回累計 0 本日累計 2278 本日累計 0
総距離 310  . . . ETCは含まず

1日目:PARTT(横須賀、浦賀、葉山)  PARTU(湯河原、熱海、伊東)へ  写真集T  日本周遊ブログ
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日本周遊紀行(1)横須賀 「軍港・横須賀」



「出発」・・、

いよいよ後半、「西日本方面」への出発の運びと相成った。
以前、東日本方面の時の準備と経験が大いに役立ち、概ねそれらと同様に実施する事に成り、当初、考えていた梅雨入り前のゴールデンウイーク明けということで本日を向かえた。

大雑把に見積もっても東日本方面と比較して地形的にも、都市部というか人口の集約度も高く、観光名所も多い。
これらを考察しても相当の日数と距離がかかりそうで、妻にはそれなりに話しておいた。
ところで、妻と娘家族が故あって6月の初め鹿児島方面へ旅行するらしく、その時の再会をも楽しみにしている。

前日、娘家族が見送りの為に来てくれて、旅先への思い入れ等を話す。
6時に起床した時は妻は既に台所に立っていて、朝の支度に余念がなかった・・? 
軽く挨拶を交わして6時40分には家を出た。


R246から東名の横浜町田IC近くよりR16の保土ヶ谷バイパスへ、八王子、相模原、東名高速のICと大横浜市を結ぶ唯一といってもよいぐらいの幹線道路は平日だと早朝から慢性渋滞の常連地である。
しかし、さすがに日曜日の早朝(・・でもないかな、)とあってスイスイと走り抜けた。

新保土ヶ谷ICからは横横道路(横浜・横須賀道路)の有料道路に入る。
初めに三浦半島の横須賀へ向かう。


「戦艦三笠」・・、

一昨年から昨年に掛けて、司馬遼太郎作の「坂の上の雲」の大長編を読破した。
明治時代、伊予松山の「秋山兄弟と正岡子規」はその時代どように生きたか、明治国家の背景は・・?、兄好古は陸軍騎兵の創設者、弟真之は日本海海戦の名参謀、文壇俳句の大元、子規・・と三人三様が明治の日清・日露戦争にどのように拘わっていくのか・・?

極近年(2009年・・?)、NHK大河ドラマ(日曜日・・?)がこのスペクタクル大叙事詩を放映するとか。



写真:「戦艦三笠」


2005年の今年は、日本海海戦の大勝利と講和発行の日露戦争終結から100周年に当たり、それは奇しくも五月であった。
日本海軍の旗艦であった「三笠」の等身大の姿が、横須賀港の三笠公園に停泊している。 

大正期に現役を退き、記念艦として保存されていたが、太平洋戦争後、占領軍の命令により大砲、マスト、艦橋などが撤去され、見る影もなく荒れ果てていたらしい。
その後、「三笠」を復元させようとの声が内外で高まり、多くの人々からの募金、政府の予算、アメリカ海軍の支援もあり、昭和36年(1961年)に現在の姿になったという。

まだ時間的に開館前であったが、半開きの門をカメラ片手に忍び入った。
中央に元帥・東郷平八郎の立像が三笠を背にして立っている。 見据える先は東京の国会議事堂か、はたまた皇居か・・? 
殆ど灰黒色に鋳ぬられた本艦横に「日本海海戦100周年」の横断幕が張られて在った。


時は、明治初頭・・、

日露戦争前後の世界情勢は帝国主義の真っ只中にあり、外交官と軍人が最も活躍した時代であった。日本は日清戦争(1894年)に勝利し、翌年には、日本有利な下関条約を締結したものの、ロシア・フランス・ドイツの、いわゆる三国干渉によって、遼東半島(朝鮮半島の北にあり、北を渤海、南を黄海に囲まれており、最西端部に旅順や大連などの都市がある。全体に山がちで平野は少ない)の租借権(ある国が他国の領土の一部を借りること、原則として租借国が統治権を行使する)を清に返還せざるを得なくなった。

ところがロシアは、日本が手放した租借権を得て遼東半島へ進駐、旅順にロシア太平洋艦隊を配置した。 これにより日本における対露感情が決定的に悪化し、民衆は臥薪嘗胆(復讐の為に耐え忍ぶこと、また、成功するために苦労に耐えるという意味)というスローガンの下に重税に耐えて働き、富国強兵政策が推進されていった。

その後ロシアは満州へ侵攻、全土を占領下に置いた。ロシアは清朝を脅迫し、満州の植民地化を既定事実化しようとしたが、日英米がこれに抗議、ロシアは撤兵を約束した。
ところがロシアは履行期限を過ぎても撤退を行おうとせず、むしろ駐留軍の増強を図った。
日清戦争で実力を知ったイギリスは日本と同盟(日英同盟)を結ぶ、これによって国内世論も定まり、積極的な戦争準備を開始した。

ロシアは朝鮮半島北部へ侵攻領有する構えをみせ始め、日本側では朝鮮半島にロシア側の利権がどういう形であれ、入ってくるのは日本本土の防衛上不利と考え、開戦へと国論をまとめた。
当時の日本の外務大臣小村寿太郎はロシアに国交断絶を言い渡した。
かくして、ロシア皇帝・ニコライ2世は、1904年、日本との戦闘行為を容認し、事実上日本との戦争を決断した。


戦艦三笠」は避けられないロシアとの戦争に備えて、1896年の10ヵ年計画における4隻の新造戦艦の4番艦として、1902年3月に完成していた。
その設計は英国のビッカーズ社のJames Dunn氏を中心として、当時の英国戦艦にさえ導入されていない最新の技術が盛りこまれた、当時世界最大最強の戦艦であった。 

1904年に始まった日露戦争では、東郷提督の率いる連合艦体の旗艦として、ロシアの太平洋艦隊との黄海海戦で勝利を収め、その経験を生かしてバルチック艦隊との日本海海戦では、ロシアのほとんどの艦艇を沈める戦果を上げた。 

大陸陸上部では日本陸軍騎兵隊指揮いる秋山好古が、ロシアコサック騎兵隊を悩ませ勝利に導いていく。又、秋山真之は旗艦三笠を指揮いる東郷司令長官の横に居って作戦指揮し、名参謀ぶりを発揮する。
日本海海戦出撃の際の報告電報の一節『本日天気晴朗ナレドモ浪高シ』は、短い文章で多くのことを的確に伝えた名文として評価されている。またZ旗の信号文『皇国ノ興廃此ノ一戦ニ在リ、各員一層奮励努力セヨ』も彼の作である。 


三笠公園への途中、間違って「アメリカ海軍横須賀基地」(横須賀ベース)に入ってしまうところを黒人の米兵に止められて「ミステイク・・ソリー・・」といってUターンしたが・・、

横須賀基地(よこすかきち、JMSDF Yokosuka Naval Base)は、海上自衛隊及び在日米海軍司令部の基地で第7艦隊の前方展開拠点として置かれている。
基地には、以前は空母ミッドウェイ、空母インディペンデンス、最近では空母『ジョージ・ワシントン』の寄港地として有名。また、イージスシステムを搭載したミサイル巡洋艦及びミサイル駆逐艦(イージス艦)といった軍艦が事実上の母港としている。
米海軍の基地としての是非はともかく、自衛隊とともに、日本国土や首都・東京の防衛に当たっていることも確かである。
基地内部には一般人は立入れないが、年に1、2度公開され、空母の中にも入れることがあるという。昔の核持込疑惑の頃は船が入る(空母が入港することを地元の人間はこう呼ぶ)度に大騒ぎだったが、最近はとても静からしい・・?。



R16からR134を行く、細長く入組んだ浦賀湾を左に見ながら一つの丘を越えると再び見通しの良い湾に出た。
その名も「開国橋」と名の付く橋を渡って間もなく「ペリー公園・ペリー上陸記念館」があり、園の中央に「北米合衆国水師提督伯理上陸記念碑」(伊藤博文・書)の大きな文碑がある、海岸には錨のモニュメントがあった。

次回は、開国の町・「浦賀」

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日本周遊紀行(2)浦賀 「開国の町」



「太平の 眠りを覚ます 蒸気船 たった4杯で 夜も眠れず」・・、

浦賀は、嘉永6年6月9日(1853年7月14日)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令官ペリー提督が 日本上陸の第一歩をしるした地である。 
ペリー提督の一行はアメリカ人として初めて日本の土を踏み、アメリカ合衆国大統領の親書を幕府側の代表奉行に手渡し、日米の友好と通商を求め、港を開くよう要求した。

はじめは鎖国政策を押し通そうとした幕府も、欧米の最新の文化、強力な軍事力を目のあたりにし、時代の潮流には抗しきれず、ついに長い間の鎖国政策を転換して、翌、嘉永7年3月3日(1854年3月31日)、再び伊豆の下田へ来航したペリー提督との間で「日米和親条約(神奈川条約)」を結び、下田、函館の二港を開港した。

日本は世界に向けての第一歩を踏みだし、「日本の近代化」がここから出発したといってよい。

 『 泰平の 眠りを覚ます 上喜撰 
               たった四杯で 夜も眠れず
 』

江戸庶民が詠った狂歌である。

うららかな日に、たった4杯の高級なお茶(上喜撰)で眠気がすっとび不眠になってしまったように、たった4隻の黒船(蒸気船)による開国の要求に日本は平和ボケから目を覚まされ、開国以外に選択の余地のないところへ追い込まれた・・と詠んでいる。 


江戸中期、この浦賀に陸の関所ならぬ海の関所といわれる広大な奉行所が置かれていた。
江戸の発展増大に伴う人口の流入、商品流通を掌握するため、江戸に近く港も広い浦賀港が下田より移されたと考えられている。

小さな藩の転封(諸大名の領地を他へ移しかえること。移封、国替)にも相当する。
下田奉行の守をはじめ、下田奉行所に付属する一切の施設、役人、回船問屋の人々まで浦賀に移り住んだといい、戸数10数戸の小さな漁村だった浦賀の町は、そのために1000戸にも以上にも達し、相模国では小田原に次ぐ街に膨れ上がったという。

業務内容は、船の積み荷の検査(船改め)、海の関所、三浦半島の天領(幕府の直轄地)の支配、沿岸警備、海難救助、地方行政、警察、裁判所など、江戸後期には外国船が来航するようになり海防の仕事も加わって更に忙しくなったという。
海防の指揮や監督、外交交渉の窓口として、浦賀奉行所の重要性が増大し、地位も長崎奉行の上席に昇格した。
この奉行所は、1868(慶応4)年、幕府滅亡により廃止された。


横須賀港と浦賀港は歴史的ヒニクで繋がっている・・?。
横須賀と浦賀の街について簡単にいってしまうと、横須賀は近代海軍によってひらかれた街であり、主にそこで働く職人たちの街として繁栄した。 
一方、浦賀は元々「開国の町」であり、それによって海防の総合力が発揮され、豪商や財力で「浦賀ドック」に見られるように造船技術も発達し、栄えた港町であった。


浦賀ドックについて・・、


浦賀での造船の歴史は、1853年(嘉永6年)のペリー来航まで遡るという。

この時幕府は大船建造禁止令を解いて浦賀造船所を設置、直ちに軍艦の建造を始め7か月を掛けて国産初の洋式軍艦「鳳凰丸」を建造したところである。

また1859年(安政6年)には日本初のドライドック(船の建造や修理などを行う施設)が完成し、アメリカへ向かうための咸臨丸の整備が行われている。

戦時下では戦艦を造り続け、特に駆逐艦の造船は有名である。
戦後も自衛艦艇建造を続け、米空母ミッドウェイの大規模改修や日本丸建造なども行われたという。
そして浦賀地区は工場集約のため近年の2003年(平成15年)に閉鎖された。

現在、浦賀船渠の第1号ドック(通称浦賀ドック)は世界に4か所にしか現存していないレンガ積みドライドックのうちの一つであり、国内でも明治期のものとして「浦賀ドック」は貴重な文化遺産である。


今と昔の差異はあろうが、三浦半島先端に発達した海防の町は、どちらも大江戸そして大東京を守る要なのであり、国防の港であった。
現在は浦賀は行政上横須賀市に統合されたものの、歴史が異なるため居住者の意識にも若干の差異があるというが・・?。

一昨年(2003年)、日米開国150周年に当たりワシントンでその祝賀行事が小泉総理とブッシュ大統領の下で行われた。
この浦賀港を今は久里浜港と称している。
三浦半島と房総半島、久里浜・金谷を結ぶフェリーが片道40分で往来している。
ここは広い東京湾の出入口に当たり直線距離で15kmと最狭部になっている、晴れた日には東京湾を往来する大小多数の船舶が望めるところでもある。

次回は、「湘南・葉山」

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日本周遊紀行(3)葉山 「湘南地方」


『瀟湘湖南』(しょうしょうこなん)・・、


三浦半島最南端、城ヶ島や油壺は通年人々で賑わう観光地である。
城ヶ島西端の入り組んだ入り江である長津呂湾は、岩場に囲まれた天然のプールになっていて、我も時折・・?夏になると孫共と一緒にはしゃいだもんでであった。
また三崎漁港は我が国有数の漁業基地、特にマグロの水揚げは焼津に次いで2番目をキープしている。

詩歌人の北原白秋は27歳、東京を引き払って家族とともに三浦三崎に新居を構える。
三崎は白秋の新生の地となって白秋文学のうえでも、新しい境地がひらかれるきっかけとなった。
白秋は三崎を訪れた数多い詩人の誰よりも三崎を愛し、なつかしんだ人でもあったという、三崎時代のも多くの作品がのこされている。


城ヶ島の雨 詩:北原白秋 曲:梁田貞

雨はふるふる 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨がふる

雨は真珠か 夜明けの霧か
それともわたしの 忍び泣き


因みに、「利休鼠の雨」とは・・、

茶道の「千利休」、即ちお茶、抹茶の色、利休鼠は抹茶の色と鼠色を合わせた色のことのようである。 利休鼠は江戸時代後期から明治時代にかけて利休茶とともに流行した染色の色名で、鼠のような灰色のこと。 
利休という字が付く染色名は利休鼠、利休茶、利休白茶、利休色、濃利休、薄利休、錆利休、藍利休などの8色があるといわれる。

戦国期、利休は秀吉の勘気に触れ天承19(1591)年2月28日京都・葭(かや)町の自邸で切腹を命じられている。
2月28日は旧暦で現在の太陽暦になおすと4月9日前後で、その日は霰をまじえた大雨が降るなど異常な天気であったという。 このことから利休鼠の雨の語源があるという説がある。 
元より、利休は華美を嫌い鼠色を好んだといわれ、利休鼠の色は暗い灰色で英語のストームグレーのような色を指しているとといわれる。


R134は三浦半島を北上する、内陸部から海岸に出る。葉山、逗子の海は既にウィンドウサーフィンやボードセーリングを楽しむ若者達で賑わっている。
葉山は明治期から保養地として注目されていた、皇室関係者や貴族の別荘も多く、明治26年、明治天皇の御用邸が竣工され、今の御用邸に継続されている。

「昭和」の年号はこの葉山から発せられた。
大正天皇は病気療養のため葉山御用邸付属邸に行幸されていた、 しかし、国民の平癒祈願も空しく崩御された。 
お見舞いのため滞在中の皇太子・同妃両殿下(昭和天皇・皇后)は、直ちに「践祚(せんそ)」の儀を行われ、付属邸において天皇の位を受け継ぎ、「 昭和」と改元された。 

葉山御用邸を挟むかたちで、長者ヶ崎、一色海岸、森戸海岸、逗子海岸と海のレジャー基地が並ぶ。小生も若かりし頃、葉山の一色海岸に会社の保養所があったので、海水浴等で青春を謳歌したものであった。


「湘南」について・・、

普通に湘南(しょうなん)といえば、神奈川県の相模湾沿いの地方のことを言い、厳密な定義はないようだ。 
概ね大磯〜葉山のあたりを指すが、それとは別に大磯以西を西湘(せいしょう)と呼び、三浦半島は湘南に含めないこともある。

元々は、中国湖南省の瀟水、湘江を含む洞庭湖一帯を「瀟湘湖南」と呼ぶところから来ていると言われている。
なんでも、その風景が相模湾一帯とよく似ているそうで、江戸時代、盛んに中国へ渡来していた禅僧たちが、その《湘南》という言葉を日本に持ち込んだという説が有力である。


石原慎太郎(現東京都知事、石原裕次郎の実兄)の著作「太陽の季節」から太陽族やその映画の主役石原裕次郎、また若大将シリーズの加山雄三が湘南のシンボルだった1950年代には、ヨットやクルーザーなどのマリーナがある地域(葉山から江ノ島)が湘南と考えられた。


なお現在、神奈川県の行政区域名としては、平塚市、藤沢市、茅ヶ崎市、秦野市、伊勢原市、寒川町、大磯町、二宮町を湘南と規定する。国土交通省陸運局の自動車ナンバープレイトに「湘南」がある、湘南族のとって秦野、伊勢原、寒川の内陸地が何で湘南なんだ・・ヨ、という異論もある。



【注記】 鎌倉、そして江ノ島から小田原にかけての湘南地区は別項として記載してます。

鎌倉編
  URL:http://orimasa2005.web.fc2.com/
湘南編  URL:http://orimasa2005.web.fc2.com/

  【鎌倉、湘南江ノ島から小田原にかけては別項記載】  世界遺産と鎌倉・湘南


従って次回からは、湯河原へ飛びます。  PARTUへ

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