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日本周遊紀行

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温泉と観光(13) 「小樽運河」



現在の小樽運河、


歌にも唄われる「ロマンチック小樽」であるが・・、

余市から国道5号線にのって「小樽」へ入り、いきなりあの有名な「小樽運河」へヒョッコリ出た。
ここは小樽でも最大の観光スポットであろう、好天でしかも今日は気がつけば日曜日(平成16年9月26日)とあって大層な人出である。 

以前、「冬の小樽」を訪れた時、小樽運河を中心とした界隈で、雪の路端に小さなキャンドルを灯した「雪明りの道」を、ソゾロ歩きした幻想的な景色を思い出した。小樽運河で顕著なものは、何と言っても向こう岸に並ぶ古き「倉庫群」であろう。


当時は、沖合い海上に停泊していた船舶から、積荷の揚げ降ろしを艀船(はしけ・荷役作業の小船)にて運河を通じ、これらの倉庫へ出入りしていたのである。
現在これら倉庫群は運河食堂、工芸館や各種観光施設となり、周辺は散策路やガス灯が整備され、小樽の一大観光スポットになっている。
「小樽運河」とその周辺地区は、1996年に「都市景観100選」を受賞している。因みに、道内では「札幌・大通り」、「函館・西部地区」など5個所。 


ところで、この「観光運河」は実は半ば偶然の産物らしい・・、

当時の運河は川幅(実際は海である)は今の倍もあり、札幌をはじめ北海道の海上流通の拠点として多いに賑わっていた。
しかし港湾が発達するに従って、この「運河方式」は衰退してゆき、次第に無用の長物になっていった。 
当局は埋め立てを計るが、市民団体の反対もあって、なんとか公園として一部を残したという。
これが現在の「小樽運河」である。

小樽の町の歴史は、北海道開拓の歴史とほぼ並行するもので、特に江戸末期から、明治、大正期、昭和中期にかけては、真に北海道の経済産業の中心地であった。
「文化遺産」などが豊富にあるのは北海道において函館と江差そして、小樽以外にはないという。


小樽のニシン御殿・・、


江戸中期に、松前、江差方面ではニシンの魚影が姿を消し、回遊して其の中心を「タカシマ」、「オタルナイ」へと移っていった。 
回遊の移動と共に、松前、江差の漁民もオタルナイへ出稼ぎにくるようになり、以来、昭和の初めまでニシン漁は栄え、それと共に小樽の町としての繁栄が始まったと言える。

松前、江差の出稼ぎ鰊漁夫は、最盛期には、寝る暇も、食べる暇も、用を足す暇すらない状況になり、4ヶ月間の給金は現在に換算すると150〜250万くらいの悪くない稼ぎであったという。
その間、「網元」の利益は計り知れないものがあり、得られる利益は膨大なものとなったという。 

「ニシン御殿」と言えば誰でも知っているように、豪華絢爛な建築物として知られ、高島、祝津地区のニシン御殿、青山別邸などが、栄華の一端が伺えるのである。
しかし、小樽も同様で、明治27年の大豊漁以来、次第に漁獲を落として、昭和にはいると落ち込みはさらにひどくなり、昭和20年代には激減、30年代以降ニシンは全く姿を消してしまったという。


「石原裕次郎」と小樽・・、


小樽の鰊漁が盛んになると同時に、日本海には、蝦夷地と北陸、九州、大阪方面へ航路が開かれた。 この船は別名「北前船」と呼ばれ、大阪から酒、木綿、砂糖、塩などを積み、日本海にまわり敦賀で縄、ムシロ等のニシン漁用具を、新潟、酒田で米、白玉粉を積み込み1ヶ月から1ヶ月半で小樽に到着した。 
帰りは、カズノコ、サケ、ニシン、昆布、ニシンカスなどを積み込み大阪へ帰還した。 
年一回往復の厳しい航海だが、得られる利益は莫大ものがあったという。だが、「北前船」と呼ばれた弁財船は和船のため、構造的に沿岸航海向きであり、速度も遅く日数がかかったという。
明治期には、次第に西洋船が導入されはじめ、しかも増加していく。 
その後、小樽、東京、函館の間に定期航路も開設され、物資だけでなく人的移動も急増していった。


その頃、かの裕次郎の父・石原潔が山下汽船という船会社勤務で、1937年(昭和12年)に転勤で小樽に引っ越してきた。 
小樽の港に「石原裕次郎記念館」があるのは、裕次郎ファンならずとも周知であるが、裕次郎3歳のときで、当時、小樽では開道70年北海道大博覧会が開催されていた頃であった。

石原氏は、樺太から木材を切り出して、船で小樽に持ち込む仕事を監督していた。 
ノンキャリアの叩き上げで剛胆な男であったという彼は、海運業で稼いだ給金は死ぬまで女房・子供に贅沢をさせたといわれる。
慎太郎19歳、裕次郎17歳の時に亡くなったという。  享年52歳。


小樽が幸いしたのは、ニシンは全く来なくなった時期に併せるように、物資の流通量が急増してきたためであったとされる。 
明治30年頃には、積み降ろしの施設として運河方式が検討された。 

運河と聞けば、普通は陸地を堀込んで作っていくが、小樽の場合は海岸から数十メートル隔てて埋め立てをし、水路を造っていくという方法で作られている。 
大正12年12月には小樽運河が完成している。
最盛期には、艀(はしけ)が400隻以上運河を航行するという混雑状態であったが、逆に、効率が落ち、前述したが港湾築港にともなって、昭和の戦後には無用の長物になってしまったのである。

物流量が増え船舶の重要性に併せて、小樽は本格的な鉄道建設に取りかかり、明治13年に小樽−札幌間が日本では三番目として鉄道が開通している。 
新橋−横浜間がイギリス式が採用されたのに対し、北海道はアメリカ式であり、アメリカ西部開拓と同様な牛よけのガードが付いた機関車が走ったという。 
輸入された2台の機関車に「義経」「弁慶」と粋な命名がされたのは、アイヌ達を意識した開拓使の心意気であったのだろうか。 
小樽−札幌間35.9kmを、3時間かけて走り抜けるのだから、随分のんびりしたものであるが、当時としては驚くべきスピードであったに違いない。


北のウォール街・小樽・・、

函館本線の小樽駅前通りを港へ向かって坂を下りていくと大通りにぶつかる。 
この交差点より、日銀小樽支店までの一帯は「北のウォール街」として昔から呼ばれていた。 
その名の通り、日銀小樽支店、三井銀行、安田銀行、第一銀行、拓銀、道銀をはじめとする銀行建築が並び、三井物産、カネタツ鈴木、三菱商事などの商社、日本郵船、大阪汽船、山下汽船の運輸関連などが軒を並べ、北海道一の経済繁栄を誇っていた。

因みに、道都である「札幌市」も同様な市街を形成していたが、そのほとんどは近代化され、今、当時の姿で残っているものは数えるほどしかない。 
小樽の場合、それらの建造物が、その時代のまま殆どが現存している・・、という点で驚異的であるという。 

戦後、国際貿易港としての役割を終え、北海道経済の要は札幌市へ移ると、本州資本や大手銀行は次々と引き上げ、ほとんど残るものはなかった。
しかし、これらは遺産として数多く残され、「小樽」は今や、これら遺産を含めた「観光都市」として、多くの人々を呼び寄せているのである。

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温泉と観光(14) 「雄冬岬と神居岩温泉」



雄冬岬の海岸にあるオブジェで、これは国道の開設を記念して設置されたもので、輪の中に夕日が落ちるという。



北海道の最西端の地・「雄冬岬」・・、

札幌から日本海側の海岸沿いを留萌まで走る国道231号は、難関だった「雄冬岬」の部分が開通してから留萌方面へは相当近道になったらしい。

石狩街道をまっすぐ北上し、その後20数kmは海岸沿いを走ることになり、厚田までは比較的平坦な海岸線であるが、その後は切り立った崖っぷちのような部分でトンネルもも多く、深い山の中を走る様である。この道路を別名「ダイヤモンド道路」とも呼ばれるという。

平成の始め頃、「雄冬岬」(おふゆみさき)にトンネルが開通するまで、長い間「幻の国道」と呼ばれていた。 
この切り立った断崖部分の道路建設は大変な難工事で、十勝の広尾から襟裳岬間の「黄金道路」より工事費がかかったので、ダイヤモンドという名前が付いたという。 

この西端の岬を「雄冬岬」(おふゆみさき)というが、この地域一帯は厳しい断崖絶壁の中に位置しており、「北海道三大秘岬」の一つとされていた。 
因みに後の二つは室蘭市の「地球岬」、根室市の「落石岬」である。 


秘岬といわれるだけあり、岬からの眺望は日本海の雄大さと周辺の荒寂ぶりがかなり印象的である。
岬の最寄の雄冬集落(所在地は増毛郡増毛町)は、往時は、札幌側からの往来が不可能で、増毛側からもかっては冬季通行不能であった。 

ここへの交通は事実上一日一往復された増毛〜雄冬間の定期航路しか実質的な交通手段がなく、且つ、この定期航路も時化での休航が珍しくなかった。
そのため雄冬集落は長い間「陸の孤島」と呼ばれ北海道を代表する秘境の一つであった。 

国道231号線の浜益から雄冬の国道が開通し、全通の悲願が適ったのが1981年(昭和56年)11月10日のことで、これで「陸の孤島」から解放された。
しかし、直後の1ヶ月もしないうち国道上の雄冬岬トンネルで大規模な崩落事故が発生し、国道は通行不能となり、雄冬集落は再び「陸の孤島」へ逆戻りする悲劇に見舞われたのである。
復旧工事が完了し雄冬岬トンネルの再度の開通したのは、2年半後であった。
だが、「陸の孤島」から雄冬は解放されたとはいえ、冬季間の度々の通行止めは依然続いているという。

現在、雄冬岬は展望台・岩石公園などが整備され、又、急峻な崖から海岸線に滑り落ちるように「銀鱗の滝・白銀の滝」が流れていて、北海道を代表する観光スポットに変わりつつあるようである。
この辺りの陸地、というより山域は増毛山地と言われ、その主峰・暑寒別岳の最高峰を(標高1,491m)

中心に南暑寒岳(1,296m)・郡別岳(1,376m)・浜益岳(1,258m)・雄冬山(1,198m)・天狗岳(973m)と千m級の山並みが連なり、日本海に傾(なだ)れている地域なのである。
この山塊の北側を水源とする「暑寒別川」の急流が日本海に注いでいる。

サケの迫力ある遡上・暑寒別川・・、
暑寒別川の秋、ここまで来ると、山域の薄暗い雰囲気から海水浴場もある開けた長閑な地域になり、増毛の町並みも望まれる。 
その河口から150m程のところに暑寒別橋があり、下をのぞくと巨大な黒いものが蠢いている、良く観ると魚の姿が所狭しと群がって川上を目指しているのである・・、サケだ・・!、

放流されたサケたちがはるかな旅を終えて、故郷の川をめざして帰ってきているのである。
ここで「鮭の遡上」を間近に観なくてはと、堰まで行くとパシャパシャと水面をたたきなから、秋サケの群が上がってくる。 
60〜80cm、いや、1mもあろうかと思える黒みががかった銀色の体が目の前で跳ねる迫力に、思わず後ずさりした。 
堰を上るのに流れ来る水流に押し戻されては、また挑戦するサケの奮闘ぶりに思わず喝采し頑張れ・・!、と思わず拍手を送られずにはいられない。 

川面を埋め尽くし、背びれを川面に立てて遡上しながら、時おり豪快なジャンプを見せる光景に暫し見惚れ感動する。
その姿は自然界の神秘と生命の尊厳を教えてくれるのである。  

サケは増毛にとって、かってのニシンにかわる貴重な資源だという。この川で生まれたサケは3年、4年後に帰ってきて、生命のドラマを演じていると・・。
当河川は北海道でも有数らしく、ものすごい数の秋サケの遡上中はラジオでも報じていたようである。因みに増毛町の漁獲の統計を見ると、全漁獲のサケの割合は最盛期の半数ちかくになっているようだ・・。

一時を楽しんだ後、増毛の町を横切って再び海岸に出ると、やがて留萌市に入った。
「市」だけあってやはり大きいタウンである。 
夕暮れが迫ってきたので、G・Sに寄りながら温泉地を尋ねる・・、市郊外に「神居岩温泉」というのがあるらしい。
夕刻の時間帯で本来なら人々が活発に往来し、夕餉の支度に忙しい頃合いのはずだが・・??、何故か町並みは閑散としていた。 
それが、何故か心に引っ掛かったのである・・。


「神居岩温泉」は、留萌市街地から留萌川を渡り運動公園の手前、チョイト山に入ったところに在った。一軒宿の鄙びた温泉ホテル兼日帰り温泉施設であり、神居岩は「カムイワ」と読むらしい。

早速ながら、浴室に入った瞬間すごい臭いがした。
漢方皇源薬湯風呂とやや長ったらしい名の浴槽で、ここから薬湯臭を発しているようだ。 
一方、冷鉱泉の沸かし湯もあり大浴槽に使用しているらしい。 
二種類の泉質があり、どちらかというと薬湯風呂がウリのようである。 

温泉は濃密な泉質を期待したが、浴感はあまり感じられずサッパリしたもんであった。
泉質は、単純硫黄冷鉱泉とナトリウム−塩化物泉で、昔アイヌの人々が病気や傷を癒したとも言われており、現在も、このお湯目当の湯治客が多いとか。

同じ館内には広―い和室の無料休憩所が在ったことは嬉しかった。 
食堂兼休憩室で、食事をしながら今日一日のまとめを行う。休憩室の大型スクリーンが大相撲を放映していて、小生もファンである大関「魁皇」が優勝したことを報じていた。 
そう・・、今日は日曜日だったのである・。


帰路(・・?)、留萌川の畔から、再び海岸へ出て、10数キロ先の「道の駅」を目指した。
夜も深まった九時過ぎ、小平町の「道の駅・おびら鰊番屋」に着いた、海に面した寂しげな道の駅であったが、今夜はマイカー宿で休むことにした。

今日一日のご苦労さんを念じながら、ウイスキーを流しこみ・・オヤスミ・・!!

次回から、  第8日目へ

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