7日目:温泉と観光(積丹半島、小樽運河、雄冬岬・神居岩温泉) 第8日目(小平、羽幌、遠別)へ も く じ | |||
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周遊紀行;温泉と観光(11) 「積丹半島」.
![]() ![]() 台風直後、通行止めの国道229号線と積丹岬の「島武意海岸」 積丹は「ソーラン節」の発祥の地・・、 「半島」に到って、国道229から神威岬を目指したが神恵内(かもえない)地区で通行止めに合ってしまった。 バリケードが有り一人のガードマンが立っていて、左側に案内板には・・、 『 通行止の案内 国道229号 神恵内村大森〜柵内間 災害のため通行止 』 と有った。 災害というのは今年(2004年)の「台風18号」の事である。 九州をかすめて日本海に出た台風は、9月8日未明、北海道の奥尻島の沖を北上して、衰えるどこか発達して、網走管内雄武町で最大瞬間風速51.4m、札幌市でも50.2mを観測し、北海道大学の銀杏並木や大通り公園の樹木の倒壊等はTVのニュースで映像にも映された。 道内の観測点の14ヶ所でも過去最高を記録したといい、道内では死者7名、行方不明者2名、負傷者120名を超える災害となった。その被害は、青函連絡船が強風で転覆し、約1600名の死亡者を出した1954年9月26日の「洞爺丸台風」に次ぐものではないかとも言われる。 積丹半島の最大の観光地であろう神威岬や積丹岬は、半島の先端にあり本来なら神恵内の村から、車でほんの10分か15分ほどでいけるところであるが。 「神威岬」への直行は断念せずるを得ない、幸いに神恵内から峠越え(当丸峠)の道道998号線が長大な積丹半島を横断しているので、そちらから向かうことにした。 峠を越えて海岸に出た後、積丹岬へ向かうため国道229を左折して積丹岬を目指した。 大きな駐車場があったが・・、実は、ここは岬ではない、人々がやっとすれ違える背丈程の暗くて狭い「トンネル」を通過したところに、本来の岬が飛び込んできた。 出たところに展望スペースがあった。 積丹の海岸美を代表する絶景、島武意海岸(しまむいかいがん)が眼下に現れた。 日本の渚百選にも選ばれた海岸であるが、ここは一見、何処かの風景に似ていた。 そう、下北の「仏が浦」である。 だがスケールは違った、仏が浦の方が雄大である。 急な坂を下ると五分ほどで積丹岬を回る自然遊歩道が延び、積丹岬灯台や女郎子岩、神威岬や遠く余市のシリパ岬も望めるという。 因みに、このトンネルは観光のためではなく、明治28年ニシン漁が盛んだった頃に海岸から干場までニシンを運ぶために掘られたそうである。 当地「積丹」は、嘗ては、北海道の経済的中心であった「小樽」を起点に、難所で名高い積丹半島を経て江差へと至るその海路で、ニシン漁で賑わった土地柄である。 なかでも、積丹半島の歴史には鰊に因んだ数多くの伝説や逸話が今に伝えれられている。 その節、北海道を代表する民謡・ソーラン節は、ニシン漁で賑わった積丹(積丹か、余市か・・?)が発祥の地と言われている。 「ソーラン節」は、網起しによって集められた鰊を船着き場に陸揚げするため、大きなタモ(網)で鰊をくみ上げる時に歌うことから名付けられた歌であるとか。 『ソーラン節』(沖揚げ音頭) 北海道民謡 ヤーレン ソーラン(*繰り返し) [ハイハイ] ニシン来たかとカモメに問えば わたしゃ立つ鳥 波に聞け チョイヤサ エーエンヤーサノドッコイ ショ ハードッコイショドッコイショ 北海道は、江戸時代になってこの地を治めていた松前藩がアイヌとの交易をおこなっていたが、財政難の理由などから商人に交易を委ねることになった。 その後、商人が漁業を請け負う制度が発達(場所請負)し大いに栄えた。 江差地方が凶漁に見舞われた頃は、ニシンは日本海をどんどん北上し、暫くは積丹半島周辺がニシン漁のメッカとなっていたのである。 百万石のニシン漁で沸いていた積丹半島では依然として海上輸送がメインであった。 大正期に入り、海岸沿いの道路には大小数多くのトンネルも完成し、積丹半島も馬車交通路の時代を迎えた。 こんな時期、積丹も同様大正初期よりニシンの漁獲が落ち込んでいき、漁獲量の減少とともに多くの人々がこの地を去っていった。 戦後になって「ニセコ・積丹・小樽国定公園」の指定を受けたのをきっかけに、一躍観光地として脚光を浴びるようにようになり、さらに近年、積丹半島と神威岬が北海道遺産に認定され、より多くの観光客が積丹半島を訪れるようになった。 「北海道遺産」とは、北海道に関係する自然・文化・産業などの中から、推進協議会によって選定されたものを指し、2001年10月に第一回が選定され、現在52件が指定されている。 引続き、「積丹半島」 温泉と観光(11)積丹半島 「神威岬」積丹半島の中央部先端、恐竜の背中のような「神威岬」と「神威岩」 積丹半島・「神威岬」は伝説の地である・・、 そこは80mの切り立った細い岩峰が延びていて、その頂上付近に「チャレンカの道」呼ばれる、良く整備された遊歩道が付けられている。 眼下にはシャコタンブルーと言われる大海が広がり、その透明度は約20m以上ともいう。 その岬の先端から沖合いには、乙女の化身と言われる、高さ41メートルの「神威岩」が天を刺している。 剣状の神威岩には、ある伝説が伝えられる・・、 『 日高地方の平取の酋長の娘「チャレンカ」は、源義経を慕って神威岬まで何十里も追って来たが、義経はすでに船出した後であり、彼女は悲しみのあまり、この岬から身を投じて果てた。その後、彼女は岩と化し、常しえに愛を訴える神威岩になったと・・ 』 尤も、北海道の義経伝説は、和人のアイヌ対策上広められていったというのが一般的らしい。 この岬は、アイヌ人達によって江戸末期(1856年)こ頃までは女人禁制の地で、船に女人が乗ると海が荒れて遭難すると信じられていた。 岬の先端付近に建っている灯台は、北海道に現存する灯台としては五番目に古く、明治中期の1888年に初点灯しているという。 「神威岬」は幕末まで女人禁制だった・・!、 この辺りには女性を嫌う恐ろしい神がいて女性が乗った船を沈めるなどという伝説が信じられていた。 実際に、この灯台を巡って遭難事故も起きている。 この神威岬の海岸には大人が立って歩けない程の小さな手掘りのトンネルが今も残っているという。 何故、このトンネルが堀られたのかは、大正元年10月に神威岬灯台職員の悲しい出来事があったからと言われてる。 神威岬灯台は明治21年に建てられ、当時、灯台職員とその家族が居住していた。 家族は、買い物をするのにも余別の部落(神威岬の東)まで片道4qの山道を通らなければならない生活をしていた。 その山道は、馬の背のような崖の道が続き、強風で一歩踏みはずすと海に転げ落ちそうなところが何カ所もあった。荒れた日などは子供や女性はとても歩くことが出来ず、海岸の岩や大きな石を飛び跳ねながら歩くのが普通であったという。 切り立った崖からは落石があったり、特に絶壁が海に突き出たところなどは、凪の日や干潮時を見計らって波の間をすばやく渡らなければならなかった。 1912年(大正元年)10月の或る朝のこと、三歳の次男を連れた灯台長の奥さんと、若い職員の奥さんが食料品の買いだしのため、海岸を歩いて余別の集落まで出掛けた。 行く途中、その危険な岩場で思いがけない大波が寄せ、一瞬のうちに三人は海にのみこまれ行方不明になてしまったという。 この事故以降、村人はトンネルを掘るよう役所に陳情したが、「一般の道路でないため作れない・・」と断られてしまう。 そこで村人は、自らトンネルを掘る作業を開始した。 そのころは現在とは違い満足な道具もなく、すべて手掘りであった。 両方から掘り進めるうちトンネルの中央が食い違ってしまい、困り果てて作業は中断していたが、ある日、反対側からハンマーの音がかすかに聞こえてきた。 今度は両方から鐘を鳴らして実験をしてみたところ、かすかにお互いの鐘の音が聞こえ位置の確認ができた。 中央で食い違っていたトンネルが少しずつ近づき、誰からともなく鐘の音に合わせ、念仏を唱えながら堀り進み、遂にトンネルは貫通したという。 それ以来、誰言うと無く、このトンネルの名は「念仏トンネル」と言うようになり、念仏を唱えながら通ると安全だと言い伝えられている。 今、このトンネルの前に、「念仏トンネル由来の碑」が立っているという。 ところで最近、日本の灯台の全てが自動制御になっており、従って灯台守、つまり現在「灯台」で暮らしている人は殆どいないという。 目の前の官舎は専ら灯台の航路標識事務所になっている。 実際は灯台守、つまり海上保安官が灯台の保守管理などの仕事しているが、やはりこちらも人員に余裕はないらしく、非番(当直明け)の時はもちろん休みの時も、灯台やブイや機械に不都合があれば容赦なく呼び出され、夜や荒天時の出動もあるという。 小生、幼少の頃習った好きな歌の中で、「灯台守」があった。 『灯台守』 イギリス民謡 凍れる月影 空にさえて 激しき雨風 北の海に 真冬の荒波 寄する小島 山なす荒波 猛り狂う 思えよ 灯台 守る人の その夜も 灯台 守る人の 尊きやさしき 愛の心 尊き誠よ 海を照らす 「ソ−ラン節」と並ぶ北海道のもう一つの民謡に、先に紹介したが「江差追分」がある。 この江差追分の数多い歌詞は、義経伝説や神威岬以北への和人・婦女子通行禁止を背景にして作詞されたものと言われる。 『 蝦夷地海路の 御神威様はネー なぜに女の足とめる 』・・、 「御神威様」とは神威岬のことである。 次回は、「小樽運河」 |
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