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紀行(30)青森 「三内円山遺跡」


縄文時代・前期から中期(約5,500年前〜4,000年前)の大集落跡・・!!

「内真部」(うちまんべ)あたりから、R280の立派なバイパスがついている。
ここから青森の「三内円山遺跡」を目指した。 


かなり広い駐車場であるが、夕刻とあって車の数はそれ程でもない。
施設の建物は「時遊館」といって、かなりモダンな建物である。
それにしても入場料が無料とはウレシイ。

住居跡の遺跡や展示室の出土品・遺跡物等を、少時間をかけて見て回った。 
特に気に止まったのが、「大型堀立柱建物」と言われる巨大な柱組の建物である。
一説によると、のろし台、見張り台、古代の城、倉庫、といわれる物らしいが、いずれにしても生活・政事(マツリゴト=祭事)の中心・象徴であったことは想像に難くない。 

この巨大柱のクリの木が、しかもロシアからの輸入品らしいってんで、これまた驚きである。 
この柱は日本海、津軽海峡を船に載せて、あるいは其々につなぎ合わせて、海上に浮かべて曳航したのであろうか・・?、後は陸揚げ、里引き、木落とし(・?)、御柱立て、組み付け・・、とまるで「御柱祭」を見ている様な光景が展開したのであろうかと・・、想像できるのである。


前にも記したが長野・諏訪地方の「御柱祭」のことである・・、


この諏訪地方にも縄文前期の巨大柱組の遺構が見つかっているとか。
そちらと、こちらを関連付けるのは今のところ無理は有ろうが・・?、いずれにしても古代へのロマンを感ずるのは確かなようである。

施設内の帰り道、立派な建物の「時遊館」の大壁に目が留まった。
出入り口、玄関から入って、左手である、この壁におおきな「世界地図」が描いてある。 
主題は定かでないが、「北緯41度でつながる文明地・・文明都市・・」とあったように思ったが。 
北緯41度は青森・三内円山から東方にニューヨーク、マドリード、イスタンブール、北京等に繋がっている。 

いずれも世界の文明発祥の地、もしくは文明地である。 
往時の三内円山は世界の代表的都市であったのだろうし、 勿論、日本の中枢都市でもあったと想われる。


近世の日本では、「白河以北一山100文」と徹底して 東北を差別し馬鹿にしたのは事実である。

蝦夷・陸奥は未開の地・地の果て、・・と思われてきて、一種侮蔑の感があったようだが、何のことはない日本の場合はその文明が「弥生期」以降ほんのチョット南・西にズレたにすぎないと、小生を含めて東北人なら誇りをもて・・!!、と言いたいところである。

縄文期の東北、蝦夷は弥生文明に翻弄されてきて、はたまた江戸末期から明治期、近代兵器が東北、蝦夷を蹂躙していった。 
「白河以北一山100文」と言ったの、はたしか長州人であると記憶しているが、その象徴が会津戦争だった。
その長州藩に蹂躙された会津藩は陸奥の国へ流されている。
テナコトを想像すると、歴史には興味が注がれるし、やはりロマンがある。


「三内丸山遺跡」は、既に江戸時代から知られている有名な遺跡であるらしい・・


これまでの発掘調査で、縄文時代前期から、中期(約5,500年前〜4,000年前)の大集落跡や平安時代の集落跡(約1,000年前)、中世末(約400年前)の城館跡の一部が見つかっている。
特に縄文時代の大集落跡からは、たくさんの竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、掘立柱建物跡、大量の遺物がすてられた谷(泥炭層)、約1,000年かけて造られた盛土、大人の墓、子供の墓、土器作りのための粘土採掘穴などが見つかっている。
また、谷から見つかった動物や魚の骨、植物の種子や花粉からは、当時の自然環境や食生活などを具体的に知ることができ、さらに、ヒスイやコハク、黒曜石は遠方との交易を、漆器などは専門的な技術をもった人々がいたことを物語つたいるという。 


三内丸山遺跡」は、縄文時代の人々の生活を具体的に知ることができる貴重な遺跡である。
この遺跡の出現に、世界の考古学者、学会が驚嘆したという。定説とされた縄文時代の定義をことごとく覆し、15,000年以上もの縄文時代を長期にかけて高度文明を構築しつつ継続していた。
実は、当時の青森県(北緯41度線上の各地にも云えるが・・)は特に縄文期には棲みやすい環境であったらしく、津軽半島の旧蟹田町(鍛冶田の訛り)大平遺跡では15,000年前の土器が出土して、世界最古の土器ではないかと学会で論議を呼んでいる。

その他県内には「亀ヶ岡遺跡」、「三内丸山周辺の遺跡」、「小牧野遺跡(ストーンサークル)」「是川遺跡」、「風張遺跡」等々縄文期の超一級遺跡が多数出土調査されている。
特に「三内丸山遺跡」は縄文時代の定説を覆し、1,500年間も定住集落生活していたものであるが、三内丸山人はその後、忽然と消えているのである。


それは、何故か・・??、


縄文時代のおける季節で、前期、中期あたりの頃は「縄文海進」といわれる時期で、云わば、現代の「温暖化」の時節であった。

縄文海進(じょうもんかいしん)とは、縄文時代に日本で発生した海水面の上昇のことであり、海面が今より3〜5メートル高かったと言われる。
縄文時代前期の約6,000年前にピークを迎えたとされ、日本列島の海に面した平野部は深くまで海が入り込んでおり、気候は現在より温暖・湿潤で年平均で1〜2℃気温が高かったという。


三内丸山遺跡は青森の南西4〜5kmのやや高台に存在している。
当時は、この辺りまで海岸が迫っていて、所謂、ここが生活の場所であった。
しかし、縄文後期あたりからは気候が寒冷期に入り、海岸線が後退して食糧事情や住環境が悪化し、三内丸山集落は集団での生活が困難になり、個々に新天地を求めて分散、移動したのではないかと一般的に考えられていると・・?。

青森県では、縄文時代の「村・むら」を体験できる公園として、「三内丸山遺跡」の整備を、現在も進めている。

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紀行(31)青森 「八甲田山」



明治35年、この八甲田山域で世界山岳史上比類のない、多大な遭難事故が発生した・・、

左に夕暮れ迫る青森市街と、右彼方に八甲田山の山並みがクッキリと夕映えに浮き出ていた。 


ところで、冬季「青森市」の年間平均降雪量は凡そ8mもあり、無論これは人口30万人以上の世界の都市としては世界一であるという。
国内の主要都市では唯一、「特別豪雪地帯」にしていされている理由である。

青森市は東に東岳、南に八甲田連峰、西に梵珠山系と三方山に囲まれ、北は陸奥湾に望む地形である。
大気にはたっぷり水分が含まれ、大陸から日本海を越えて吹き付ける冬の北西季節風が周りの山々に遮られ、大量の雪が吹き溜まる。 

地元気象台がまとめた昭和中期から本年までまとめた降雪量データによると、最小の年が4.26m、最多で12.63mでこれまでの平均が7.78mとなっている。特に平成期前半の10年間は10.33mと突出している。 


因みに、雪祭りで知られる160万都市・札幌は、青森より北にあるにも拘わらず3m少ないという。
無論、八甲田山系の積雪は、青森のそれよりかなり多いだろう。



「八甲田山」には八甲田という名の山はなく、いくつもある峰々を総称した名称である。
標高 1584mの大岳を中心に、前岳、田茂萢岳、赤倉岳、井戸岳、小岳、石倉岳、高田大岳の八つの峰と、その山中の所々に湿地、つまり田が多いので、八甲田と名づけられたと伝えられる。

ほとんどの峰々が美しい円すい型で、ゆるやかに袖を伸ばしている。


八甲田山域で、世界山岳史上比類のない多大な遭難事故が発生した・・、


新田次郎の「八甲田山死の彷徨」でも知られ、高倉健主演の映画「八甲田山」で更に有名になった。 
山に興味を抱き、山を趣味にもった小生にとって、1994年(平成6年)の秋季、東北旅行において足跡を残したもんであるが、無論、両ストーリーは拝見している。


映画は、迫力あるメインの雪中行軍だけでなく、日露戦争を目前に控えた明治35年という時代の雰囲気、日本陸軍や東北地方の農村の様子も再現され、原作ではよく分からなかった装備についても映像として目にすることが出来た。
又、威勢の良い軍歌「雪の進軍」も聞け、映画ならではである。 
ほぼ全編にわたり雪の銀世界(若しくは灰色の世界)だが時折の四季の十和田湖や八甲田山の明るい映像が対称的で良い。


明治中期、この八甲田山域で世界山岳史上比類のない、多大な遭難事故が発生した。

その「遭難事故」が発生した遠因はどうしてか・・??、

それは、ロシアとの緊張状態にあった日本は日露戦争を想定し、ロシアとの戦争に備えた寒冷地における戦闘の予行演習としての訓練であった。
又、津軽海峡、陸奥湾沿いの青森から弘前への補給路をロシアの艦砲射撃によって破壊された場合を想定して、日本陸軍が冬季間、八甲田山中での陸路による輸送が可能かどうかの調査でもあり、そのための雪中行軍の演習を実施することになったのである。

結果は、参加部隊が記録的な寒波に由来する吹雪と寒冷に遭遇し、八甲田雪中行軍中、200名にも及ぶ凍死者を出す遭難事件が発生したのである。


この時期・・、


北海道に居座った高気圧は東北北部まで張り出していた。
そして、その頃発達した低気圧が太平洋岸を北上し、東北地方へ接近しつつあった。 
明治35年(1902年)1月、青森歩兵第5連隊は日露戦争に備えての寒地訓練のため、雪中行軍と称して八甲田山中へ入山しつつあった。 

高気圧による大寒気と低気圧による猛吹雪によって、連隊は三日間に亘って立往生と彷徨を繰り返し、遂に世界山岳遭難史上最大の199名の犠牲者を出す大惨事となった。


「明治35年(1902)1月、日本陸軍第八師団、青森第5連隊と弘前の第31連隊が冬の八甲田山を踏破する雪中行軍訓練に出発していった。 
両陸軍はこの時、日露戦争を目前に控えて、寒冷地での行軍のデータを取る為の実地であった。 
両隊は1月23日、八甲田山を踏破するルートを互いに反対側から登り始める、しかし折しも記録的な寒波が押し寄せ、すさまじい吹雪にあい、弘前第31連隊の方は地元の人を案内に付けていたこともあり幸運にも目的地までたどり着くことができた。

だが、青森第5連隊の方は吹雪の中、道に迷ってしまう。
青森第5連隊のこの作戦の参加者は210名、本来は1泊2日で完了する筈の行軍なのだが、冬山で迷ってしまい、ルートを見つけだすのは困難を極める。 

1月24日、一行は山中で半煮えの食事を取った後、なんとか道を見つけるべく歩き回り、彷徨を重ねるがルートはどうしても発見できず、遂に絶望的な窮地に追い込まれる。 
途中、峻険な地域である渓谷や沢にも迷い込み凍傷、落伍者、寒中壊死者が続出し、翌25日には何と30名ほどまで減ってしまっていたのである。

救援隊が組織されてたが、捜索も困難を極め、やがて第5連隊の後藤房之助伍長が自ら捜索隊の道しるべとなるべく、雪中に直立したまま分かれ道に留まり、その場で結局弁慶の立ち往生のような感じで仮死状態になって発見された。 

軍医の手当により彼が蘇生したことから、本隊の発見に到るが、(なお後藤氏は生還後、地元の宮城県姫松村に帰って村会議員を務め1924年7月31日に46歳で亡くなった)しかし発見された時生きていたのはわずかに17名であった。 

しかもその内5名が救出後死亡、1名の将校は責任を感じて自決、結局わずか11名の生還となった。

死者199名であった。
現在、後藤伍長が道しるべになったい地に慰霊碑が建っている。


因みに、この高気圧による放射冷熱で、1月25日、北海道旭川において零下41度という、日本における最低気温を記録した。 
この最低気温の記録は現在においても、依然として破られていない。


夕景に浮かぶ「八甲田」はそろそろ、冬の装いか。 


 雪の進軍 』  作詞・作曲 永井建子(明治28年)

雪の進軍 氷を踏んで
どれが河やら 道さえ知れず
馬は斃(たお)れる 捨ててもおけず
ここは何処(いずく)ぞ 皆敵の国
ままよ大胆 一服やれば
頼み少なや 煙草が二本
   ・・・


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紀行(32)青森 「青森と善知鳥」



青森の善知鳥とは・・??、


程なくして浅虫温泉に着いた。青森・浅虫温泉にはNTT保養所「善知鳥荘」がある。
小生のお上(かみ)さんがNTTの職員ということで、そのツテでこの宿を利用させてもらうのだが。 
「某日、お願いしたいのですが、 ところでお宅の“呼名”は何て云うですか・?」
「はい・・、こちらは『うとう荘』と申します・・」


善知鳥(うとう)に関する最初のやり取りであった。 
「善知鳥」とは始めて見る文字であって、当然、呼名も意味も知る由もない・、“ゼンチドリ“又は”ぜんちちょう”などと勝手に想像していたが、宿の主人に教わってパソコンの文字を叩くと、ちゃんと 「善知鳥」と出てきたのである。
小生の薄学さに些か赤面する次第であるが。 

ところで、青森市の名称の前身は善知鳥村から発しているらしい。
「善知鳥」は本来は、チドリ目・ウミスズメ科の海鳥である。 
又、「ウトウ」とは、アイヌ語で”突起”という意味もあるらしいが。 

「善知鳥」は鳥の名前で海鳥の一種であり、大きさはハトぐらいであるそうだ。 
背面は灰黒色、腹部は白色、顔には2条の白毛が垂れる、北方海洋の島で繁殖し、冬期本州の海上にまで南下する渡り鳥でもある。 
彼らの狩りは群れで行われ、集団で潜水し小魚の群れを一ヶ所に追い込み捕食する。 
営巣場所は天敵に襲われにくい崖の岩棚などを好み、地面に穴を掘って生活するという。

 「ウトウ」は北海道・天売島は有名である。


現在の「青森」は、江戸時代の始め頃までは善知鳥(うとう)と言われ、戸数わずか60戸ほどの小さな漁村にすぎなかった。 

「善知鳥村」がなぜにそう呼ばれるようになったかは謎であった。
善知鳥の語源については、鳥のウトウから採られたと言う説や、アイヌ語の「ウトウ(突起)」に由来するという説などがあるが、はっきりとは分かっていないという。 


津軽藩の学者により「善知鳥の図」が発見され、その姿が善知鳥と一致したことで、善知鳥が生息していた珍しい場所であった事から、その名の由来が起こったとも言われる。 
ただ、昔は善知鳥・”うとう”などという難解な呼び名は無かったであろう。
何故、この様な名前になったのか・・?。

「善知鳥 」と書いて「うとう」と読むのは非常に難しく、どうやら当て字ではないかと推測するのみであるが、しかし、それなりの理由もあった。
中世の頃に、大発生し百姓達を苦しめたと言われている智鳥(知鳥・ちどり)の話に由来するという説がある・・。


悪いチドリ・・、善いチドリ・・?、

大昔、チドリに似た鳥が、苦心して耕作した農作物を収穫期になると飛んできて食い荒らす。
これは悪いチドリである(悪知鳥)。
一方、同じくチドリに似た鳥は海に居て海の物を食し、我々には悪さをしない、そればかりか大群の魚が岸に近付いた事を教えてくれる、こちらは善いチドリだ(善知鳥)である。
お陰で村は大漁で栄えたという。

そして善知鳥が群れる村・・、即ち、「善知鳥村」になったする。



青森の元祖は善知鳥・・?、


青森市民には馴染みの深い青森市安方にある「善知鳥神社」である。
この神社に関連した伝承が、「善知鳥」を「うとう」と読ませているようでもある。
ちなみに、善知鳥は「青森市の鳥」にも指定されているという。


戦国期の大浦氏の時代までは、善知鳥村は鄙びた漁村であった。
やがて江戸初期、弘前藩二代藩主・津軽信枚(つがる のぶひら)の時代、港町青森の建設が始まる。 

森山弥七郎(1574〜1666年、墓は油川にある)が信枚の命により開港奉行となって、大浜(油川:青森市より北西7〜8kmの地点、青森開港以前は大浜と呼ばれ外ケ浜第一の湊で、近江から移住した港商人の町でもあった)に代わる湊として、この善知鳥の地に港づくりを始める。 
その後藩は、善知鳥村を青森村と改称し開港している。 


「青森」の地名は、漁師達が目印にしていた小高い丘の「青い森」から由来したとされ、1625年に「村」となったのが始まりとされている。

「善知鳥神社」は青森駅東500mの位置、青森市街の中心地にある神社で「善知鳥村発祥の地」とされる。
御祭神は、宗像三女神(多起理毘売命:タギリヒメ,多岐都比売命:タギツヒメ,市寸嶋比売命:イチキシマヒメ)で、神社発行の由緒書によれば,「青森市が善知鳥村と言われていた頃,奥州陸奥国外ヶ浜鎮護の神として創建年代は平安期初頭、都より「鳥頭中納言安方」が此の北国に左遷された折、此の地を治め,神願霊験あらたかな神々を祭った事に由来する」という。


天皇の怒りに触れた都人「鳥頭(うとう)中納言安方」が、都からこの地に流されて来て草屋を造り住み着いた。 
都から赦免の知らせの届くのを待ちわびていたが、病にかかりこの世を去り、村人達は哀れんで手厚く葬ったという。 

間もなくして墓の辺りに、見たこともない鳥が飛んできて「うとう、うとう」と泣き叫び、村人達は安方の一念が、この不思議な鳥になったのだと同情し、安方の墓に祠を建てて、その霊を慰めた。これが「善知鳥神社」の始まりであるといい、この鳥を善知鳥と名付けたという。



宗像三女神(むなかたさんじょじん)は、宗像大社(福岡県宗像市の玄界灘)に祀られている三柱の女神の総称であり、女神はスサノオの子(又は、アマテラス)とされる。

朝鮮半島への海上交通の平安を守護する玄界灘の神として、大和朝廷によって古くから重視された神々である。

陸奥・青森では津軽海峡の海上交通、海上平安を守護する神として勧請されたものと解釈する。


青函連絡船のことであるが・・、


昭和29年、猛烈台風で青函連絡船「洞爺丸」が沈没事故を起こし、1155名が死亡する、という未曾有の大惨事が発生した・・・このことは函館の項でも記したいが。 

この事故をきっかけに、「津軽海峡にトンネルを掘ろう・・」 という話が持ち上がり、そして遂に1988年(昭和63)青函トンネルが貫通して、津軽海峡線が開業し、同時に青函連絡船は最後の航海を向かえるに至った。 

世界的にも類をみない広大な車両スペースを持つ鉄道運搬船は、代わって自動車運搬の青函フエリーが活躍いる。 

青森市と函館市は、青函トンネル開通を契機として新青函経済文化圏の形成を目指し、「ツインシティ(双子都市)」として友好と発展を期しているという。

青森の東方で今夜の宿「浅虫温泉」へと向かった。

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