紀行(129)東京 「江戸城と振袖火事」
「江戸城」、炎上す・・!!
さて、この江戸城郭の大天守であるが・・、
完成からわずか19年後の明暦3年(1657)1月の、いわゆる「振袖火事」(明暦の大火)で焼失してしまう。
天守再建の声も多かったが、保科正之(徳川秀忠の庶子)が異議を唱え、四代将軍徳川家綱もこの意見を受け入れたため、天守はついに再建されなかったという。
つまり、世界に誇る江戸城・大天守閣は、僅か19年という最短の寿命を記録してしまったのである。
現在、NPO法人によって「江戸城天守閣再建活動」がなされているようであるが・・さて・・?。
因みに、振袖火事とは、明暦の大火のことで、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に出火、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災である。
この明暦の大火は、三日間にかけて外堀の内側を殆ど焼き尽くしたと言う。
この頃の外堀は現在でいう北は秋葉原からお茶の水、西は四谷、南は新橋、東は隅田川というから、山手線の内側と匹敵するか、あるいは全体としては広いともいわれる。
この火災による被害は、延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火災の筆頭としても挙げられる。
天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、諸説まちまちではあるが、死者は3万から10万人と記録されている。
江戸城天守はこれ以後、再建されなかったという。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものであり、世界三大大火の一つに数えられることもあるとされる。
明暦の大火を契機に江戸市中の都市改造が行われることになる。
火災防備上、千住大橋のみしかなかった隅田川へ両国橋や永代橋などを架橋し、市街地の造成が行われたとする。
又、延焼を遮断する防火線として造成した広小路は、現在でも上野広小路などの地名で残っており、当時の防災への取り組みの痕跡が残されている。
幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われている。
「振袖火事」とは・・、
江戸市中、江戸城の火事の発生原因説の一つに「振袖火事」とされる要因がある。
上野の商屋の娘「おきく」がお寺の小姓を見初めて、小姓が着ていた着物の色や模様に似せた振袖をしつらえてもらった。
だが娘は小姓を想い続けながら恋の病に臥せ、そのまま明暦元年16歳で亡くなったという。
寺では法事が済むとその振袖を古着屋へ売り払っい、次の娘の手に渡したが、その娘も病気になり死亡した。
更に、振袖は再び古着屋の手を経て次の娘のもとに渡ったが、同じように亡くなったという。
不吉な振袖について三家は相談し、因縁厄災の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにした。
ところが、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いた強風によって火の付いた振袖が舞い上がって本堂の茅葺屋根に落ちて燃えはじめ、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。
しかし、この言い伝えには続きがあって、本妙寺に隣接して風上にあった老中・阿部家が火元であるとも噂されたともいう。
老中の屋敷が火元とあっては、幕府の威信失墜にかかわり、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元であるとの汚名を引受けたとも言われるが・・、 このあたりが真相らしいというが・・?。
ところで、江戸徳川時代は安定期であるとはいうものの、家康や秀忠の時代は諸国まだまだ不穏な時代でもあり、まして、家康秀忠は関が原から大阪夏の陣にかけて、否というほど「大阪城」の威容に翻弄されてきた。
江戸に政経の中心を移してからは戦略的には無論であるが、徳川の政権を誇示するためにも大阪城には負けないくらいのお城は必須だった。
更に、城普請することにより、諸国の物持ち大名に対して少なからずの出費をさせることで藩力を弱体化させるという狙いもあった。
家康、秀忠の目論見どおり江戸開府以来30年余りで、あの豪壮無比な江戸城・天守閣が完成している。
五層六階(地下室もあった)の高層で約60メートルの高さがあった。
当時の江戸城下は木造建築の平屋建てが殆どで、せいぜいあっても2階建てが大部分であったろう。
そんな中、千代田の高台に60mの天主が出現するのである。
この天主は江戸市中はもちろんのこと遠くは常陸の国、相模の国辺りからも望観できたに違いない。
そしてその後も260年余の徳川政権と江戸城下を見守る筈であったが、完成から僅か19年後に廃塵と化したのである。
今となっては、お城なんかは封建支配の抑圧の象徴などとも云われるが、実際、江戸っ子にとって、「江戸のお城に天守閣がない」というのは、やはりある種の寂しさと屈辱があったのではないか。
名古屋にも大坂にも天守閣があるのに、花のお江戸には天下のお城が無いなんて、江戸庶民は結構悔しかったのでは・・?。
「てやんでい、将軍様のお城は天下一に決まってるんでえ、そんなシロモン(城物)はいらねんだよ・・!」
・・とか強がってはいたが、内心は口惜しかったのではないか、200年の永きにわたって。
現在、NPO法人・「江戸城再建を目指す会」というのがあるが・・?、
「 かっての都・江戸は世界で最も魅力的なまちの一つと謳われていた。もしここに、1657年の明暦の大火により失われた天守閣を始め、江戸城の遺構が再建されれば、それは世界に伍して発展する国際観光、交流都市東京の形成に寄与するだけでなく、21世紀における日本再生の新しいシンボルにもなり得る 」としている。
最近になって、江戸城再建構想が活発化しつつあるが、果たして・・?。
石原都知事・・、頑張れ・・!!。
更に江戸城物語は桜田門に続きます。
幕末騒乱の時期「桜田門」外で起きた「変」について・・、
江戸城・皇居の東にあたるのが表門といわれる大手門、西側にあるのが半蔵門、そして南面のあたるのが「桜田門」である。
皇居外苑と日比谷公園に挟まれた銀座四丁目に通づる主要道路(15号線)を西へ進むと、白い高層の東京警視庁がある。
昭和期までは赤茶けた威厳のある建物でTVなどでもお馴染みであるが、この建物の正面に「桜田門」がある。
この警視庁を通称あるいは隠語として“桜田門”と呼ぶときもあるという。
更に、西へ進むと正面に日本の政治を司る国会議事堂があり、この周辺は所謂、永田町といわれる処で政治の中枢期間が集積しているところでもある。
この一角に「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。
江戸時代には徳川御三家の「紀州家」、「尾張家」そして、「井伊家」の屋敷が占めていたことから、その名付けられた。
その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」としたのであるが、井伊家といえば幕末の大老である「井伊直弼」も住まわれた地である。
尤も、実際の井伊直弼の住んでいた井伊家の上屋敷は、今の議事堂の正面にある憲政記念館の処であり、桜田門からこの地までの距離は概ね500mぐらいであろう。
この桜田門の付近で大老・井伊直弼が襲撃、斬殺されたのは安政7年(1860年)3月3日であった。享年46。
安政年間とは・・、
徳川治世が家康以来250年以上もの長期間を有していて、いよいよその屋台骨がぐらつき始めた頃でもあった。
江戸時代後期の日本には外国船が相次いで来航した。
嘉永6年(1853年)、アメリカの使節ペリーが黒船(黒い塗装の軍艦)4隻を率いて江戸湾の浦賀沖に、更に翌年、軍艦7隻を率いて再渡来して日米和親条約が調印され、日本は新しい時代に船出することを余儀なくされた。
その後も引続き米国総領事ハリスが下田に来日、ペリー顔負けの強圧的な態度で、日米通商を求めてきた。
この頃、お隣の中国ではアヘン戦争(当時の清とイギリスとの間で2年間にわたって行われた戦争で、名前の通り、アヘンの密輸が原因となって発生した戦争)に敗北した結果、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題がしきりに議論されるようになる。
通商の求めに対して何とか先延ばし戦術を取りながらも、混乱をさばいてみせた老中・阿部正弘も心労がたたって退任、幕府・諸藩・公家の混乱はピークに達していた。
安政の年号は1859年まで約6年間続くが、その頃世間では「攘夷」か「開国」かで幕府と朝廷、幕府と水戸藩とが意見の相違、二元論的対立関係になってゆく。
勢力で言えば、圧倒的に攘夷派優勢という図式であり、それら攘夷に頑強な水戸や朝廷もその意向でもあった。
ところで、アヘン戦争で敗戦国となった清は多額の賠償金と香港の割譲、各地のの開港を認め、又、治外法権、関税自主権の放棄などを余儀なくされ、所謂、戦勝国・イギリスと清との間に不平等条約を締結せざるを得なかった。
この事を知った幕閣は列強国とは穏便に開国せざるを得ず、通商条約実施の方向へ傾くようになる。
調印を迫ってきたハリスに対しても、阿部正弘の後の老中に就任した堀田備中守は、朝廷の権威を借りて事態の打開を図ろうと孝明天皇から勅許を得ようとしたが、朝廷とその取巻き達(梅田雲浜ら在京の尊攘派)に反対され得ること出来なかった。
「攘夷」とは、外来者を追い払って平和を維持するという発想・考え方で、国内では国学の普及にともなって民族意識がとみに高まった時代でもあった。
尊皇攘夷とは・・、
天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという考え方で、江戸幕末に革命の旗印になった思想でもある。
尚、尊皇攘夷の延長線上には天皇を親政とし、徳川幕府は徳川藩一藩とし、尚且つ倒幕の思考が含まれてもいた。
これらの急先鋒が長州の吉田松陰、越前の橋本左内、儒学者の頼三樹三郎などであった。
このような攘夷論者が跋扈する安政5年(1858年)4月、近江の井伊家藩主・井伊直弼が大老職(将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職)に就任し、これらの混乱を収拾しようとした。
大老・井伊直弼・・、
徳川譜代の四天王といわれる酒井、本多、井伊、榊原のうち、井伊家はその筆頭とも言われ、江戸期には近江・彦根藩 35万石の譜代大名となっている名家である。
その彦根藩の第13代藩主が井伊直弼である。
藩主の十四男として生まれた直弼は、17歳から32歳頃までの15年間を部屋住み(次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者)として過ごし、この間、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らしていた。
この頃、和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していて、あだ名を「チャカポン(茶・歌・鼓)」とか囁かれたれらしい。
ところが兄弟達の不慮の死去により家督を継ぐことになり、第13代藩主・掃部頭(かもんのかみ)となって急遽江戸へ遷任する。
隣国の国情や外国事情を多少でも知っている直弼は、アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには既に開国を主張し又、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福(よしとみ)を推挙、一橋派と対立する。
その後、安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂を将軍継嗣に決定する。
大獄と桜田門・・、
大老の強権をもって「将軍継嗣問題」、「条約調印問題」などの懸案事項を強引に解決しようと日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印、将軍継嗣にも決着をつける。
しかし、水戸をはじめとする攘夷急進派達はこれらに徹底的に反対する。
大老・直弼は懐刀・長野主膳を攘夷の本山とも云われる京都に遣わして、尊皇攘夷派の調査や裏工作を指示していた。
結果、過激志士達の処罰を進言する。直弼も直ちに幕府政策における妨害となる思想や行動、幕府の秩序を乱す行い、京都朝廷に擦り寄る反幕派や水戸密勅事件(天皇が水戸へ直接に勅諚を下した)の水戸側関係者に対して一斉取り締まりを行い、不貞の輩は処罰して一掃を行う事を決定する、所謂、「安政の大獄」である。
大獄の結果は、橋本左内(越前藩士)、吉田松陰(長州藩士)、梅田雲浜(尊攘志士)などの刑死、又、水戸の徳川斉昭、一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城、山内豊信など各藩主、川路聖謨などを蟄居、謹慎にした。
藩主らを謹慎させたことに更に猛反発した水戸藩攘夷過激派は脱藩して浪人になり、独自に大老襲撃を断行することを決め、薩摩からは有村が一人加わった。
そして遂に当日の雪の朝、一行は決行前の宴を催し一晩過ごした後、外桜田門へ向かうのである。
藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃した。井伊家には前もって警告が届いていたが、直弼はあえて護衛を強化しなかったといい、更に当日は季節外れの雪で視界は悪く、襲撃側には有利な状況だった。
江戸幕府が開かれて以来、江戸の市中で大名駕籠を襲うという発想そのものが全くの想定外で、彦根藩側の油断を誘うことになる。
合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。
雪の中、彦根藩士たちは柄袋(刀の柄にかぶせる袋、一般には旅行・雨天などの時に用いる)が邪魔し不利な形勢だったが、二刀流の使い手もいて襲撃者たちをてこずらせたが、次第に護る者も居なくなり、直弼が乗っていると見られる駕籠に向かって次々と刀が突き立てられた。
さらには有村次左衛門(ただ1人の薩摩藩士)が扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出し、有村が発した居合いで首は鞠のように飛んだという。 享年46であった。
襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事で、一連の事件の経過と克明な様子は、狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)などにも鮮やかに描かれているという。
井伊大老が断行した「安政の大獄」は、結果として幕府のモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因ともなったとも言われてる。
歌舞伎・『大老』から・・、
井伊家の上屋敷のあった憲政記念館の北部隣に「国立劇場」がある。
奇しくもこの劇場で2008年の秋口、中村吉右衛門が主役で井伊直弼役の題して『大老』が、歌舞伎で演じられていた。
小生も観劇して感激したが、一心に国政を担うことになった直弼の波乱の生涯を、妻や家臣、敵対する人々とともにダイナミックに演じられていた。
そして最後の幕では・・、
降りしきる桜田門外、水戸の浪士たちが登城する直弼を襲撃、駕籠に留まった直弼は、『大義をあやまるな・・!!』と、浪士たちに叫んで、凶刃に倒れる
次回、維新前夜の「江戸城」


勝海舟と西郷隆盛の像
「桜田門外の変」から8年後、江戸城の「西郷と勝」は・・、
幕府を立て直そうとして攘夷論者を弾圧、一掃した大老・井伊直弼は1860年、その急進派の凶刃に倒れた。
あれから8年後、既に徳川政権は瓦解していた。
「江戸城」は江戸時代末期の維新時、徳川幕府消滅後に明治政府(官軍)に明け渡されることになった。官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の最終談判によるものだった。
幕末当時の勝海舟(麟太郎)は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。
ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所(ばんしょしらべしょ:1856年:安政3年、江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関、洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。後に開成学校と改称、更に東京大学になる)の翻訳担当者に任命される。
やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時、薩摩藩士達とも付き合いができている。
この付き合いが後に、西郷隆盛との関係などに役立ったとされている。
江戸城総攻撃の目前の3月13、14日に「勝」と「西郷」の会談が行われた。
この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ「軍事取扱い」に任じられている。
相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者・大総督府参謀であった。
勝は、『戦役で江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。』と言えば・・、 『一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。』西郷が答える。
こうして、「江戸城無血開城」が決まった・・!、 慶応4年(1868年)のことであった。
勝の回想録として「氷川清話」や「海舟座談」がある。
これは海舟の談話を記者が速記したもの(海舟の細かいしゃべり方の特徴まで)であり、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来るとされている。
その「氷川清話」の中で、海舟は西郷隆盛を語っている。
『 おれはこれほどの古物だけれども、しかし今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。どうしても西郷は大きい。妙なところで隠れたりなどして、いっこうその奥行がしれない。厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。西郷はどうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので・・・・・・小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。・・・・・・あの時の談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる、板橋からは伊地知(正治)などがくる。また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。
さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」・・この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。
このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ、その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。西郷におよぶことのできないのは、その大胆識(見識と勇気)と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。このときに際して小籌浅略(細かな浅いはかりごと)を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ・・ 』
その西郷の銅像が、上野公園の正面に普段着で立っているのは周知である。
歴史に残る江戸城の無血開城が決められ、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われたのは、江戸城内ではなく薩摩屋敷である。
現在の東京都港区芝で、JR山手線の田町駅前あたりに会談跡の碑がある。
明治元年3月13日、高輪の薩摩屋敷で先ず予備会談が行われ、次の14日にここにあった薩摩の蔵屋敷で江戸城の開城が決定されたようである。
その後、明治4年〜6年の間、実質、「西郷内閣」の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等が採用され、維新としての近代日本の礎を作った。
西郷は、その後「西南の役」で悲劇の人生を終えるが、明治22年明治天皇より正三位を追贈され、西郷の偉大な功績を偲ぶために上野の山に銅像を建立し後の世に残した。
明治31年、完成時の除幕式には時の総理大臣・山県有朋や勝海舟、大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われたという。
一方、風光を愛し洗足池公園(大田区千束:洗足池は湧き水を水源とする池で、日蓮上人が旅の途中にここで手足を洗った伝承から洗足池に転じたと言われる)に別邸を持っていた勝海舟は、妻とともにこの地に眠っている。
隣には西郷南州(隆盛)の留魂祠も建立されている。
勝の、西郷への思い感じさせるのである。
尚、「西郷隆盛」に関しては周遊紀行の中の「鹿児島」の項にて詳細記載してあります。
「日本周遊紀行:鹿児島」 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-18-4.htm
次回は、同じく江戸城界隈 PART(8)へ
さて、この江戸城郭の大天守であるが・・、
完成からわずか19年後の明暦3年(1657)1月の、いわゆる「振袖火事」(明暦の大火)で焼失してしまう。
天守再建の声も多かったが、保科正之(徳川秀忠の庶子)が異議を唱え、四代将軍徳川家綱もこの意見を受け入れたため、天守はついに再建されなかったという。
つまり、世界に誇る江戸城・大天守閣は、僅か19年という最短の寿命を記録してしまったのである。
現在、NPO法人によって「江戸城天守閣再建活動」がなされているようであるが・・さて・・?。
因みに、振袖火事とは、明暦の大火のことで、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に出火、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災である。
この明暦の大火は、三日間にかけて外堀の内側を殆ど焼き尽くしたと言う。
この頃の外堀は現在でいう北は秋葉原からお茶の水、西は四谷、南は新橋、東は隅田川というから、山手線の内側と匹敵するか、あるいは全体としては広いともいわれる。
この火災による被害は、延焼面積・死者共に江戸時代最大で、江戸の三大火災の筆頭としても挙げられる。
天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、諸説まちまちではあるが、死者は3万から10万人と記録されている。
江戸城天守はこれ以後、再建されなかったという。
火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものであり、世界三大大火の一つに数えられることもあるとされる。
明暦の大火を契機に江戸市中の都市改造が行われることになる。
火災防備上、千住大橋のみしかなかった隅田川へ両国橋や永代橋などを架橋し、市街地の造成が行われたとする。
又、延焼を遮断する防火線として造成した広小路は、現在でも上野広小路などの地名で残っており、当時の防災への取り組みの痕跡が残されている。
幕府は耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励したが、「火事と喧嘩は江戸の華」と言われるとおり、その後も江戸はしばしば大火に見舞われている。
「振袖火事」とは・・、
江戸市中、江戸城の火事の発生原因説の一つに「振袖火事」とされる要因がある。
上野の商屋の娘「おきく」がお寺の小姓を見初めて、小姓が着ていた着物の色や模様に似せた振袖をしつらえてもらった。
だが娘は小姓を想い続けながら恋の病に臥せ、そのまま明暦元年16歳で亡くなったという。
寺では法事が済むとその振袖を古着屋へ売り払っい、次の娘の手に渡したが、その娘も病気になり死亡した。
更に、振袖は再び古着屋の手を経て次の娘のもとに渡ったが、同じように亡くなったという。
不吉な振袖について三家は相談し、因縁厄災の振り袖を本妙寺で供養してもらうことにした。
ところが、和尚が読経しながら振袖を火の中に投げ込んだ瞬間、突如吹いた強風によって火の付いた振袖が舞い上がって本堂の茅葺屋根に落ちて燃えはじめ、それが燃え広がって江戸中が大火となったという。
しかし、この言い伝えには続きがあって、本妙寺に隣接して風上にあった老中・阿部家が火元であるとも噂されたともいう。
老中の屋敷が火元とあっては、幕府の威信失墜にかかわり、江戸復興政策への支障をきたすため、幕府の要請により本妙寺が火元であるとの汚名を引受けたとも言われるが・・、 このあたりが真相らしいというが・・?。
ところで、江戸徳川時代は安定期であるとはいうものの、家康や秀忠の時代は諸国まだまだ不穏な時代でもあり、まして、家康秀忠は関が原から大阪夏の陣にかけて、否というほど「大阪城」の威容に翻弄されてきた。
江戸に政経の中心を移してからは戦略的には無論であるが、徳川の政権を誇示するためにも大阪城には負けないくらいのお城は必須だった。
更に、城普請することにより、諸国の物持ち大名に対して少なからずの出費をさせることで藩力を弱体化させるという狙いもあった。
家康、秀忠の目論見どおり江戸開府以来30年余りで、あの豪壮無比な江戸城・天守閣が完成している。
五層六階(地下室もあった)の高層で約60メートルの高さがあった。
当時の江戸城下は木造建築の平屋建てが殆どで、せいぜいあっても2階建てが大部分であったろう。
そんな中、千代田の高台に60mの天主が出現するのである。
この天主は江戸市中はもちろんのこと遠くは常陸の国、相模の国辺りからも望観できたに違いない。
そしてその後も260年余の徳川政権と江戸城下を見守る筈であったが、完成から僅か19年後に廃塵と化したのである。
今となっては、お城なんかは封建支配の抑圧の象徴などとも云われるが、実際、江戸っ子にとって、「江戸のお城に天守閣がない」というのは、やはりある種の寂しさと屈辱があったのではないか。
名古屋にも大坂にも天守閣があるのに、花のお江戸には天下のお城が無いなんて、江戸庶民は結構悔しかったのでは・・?。
「てやんでい、将軍様のお城は天下一に決まってるんでえ、そんなシロモン(城物)はいらねんだよ・・!」
・・とか強がってはいたが、内心は口惜しかったのではないか、200年の永きにわたって。
現在、NPO法人・「江戸城再建を目指す会」というのがあるが・・?、
「 かっての都・江戸は世界で最も魅力的なまちの一つと謳われていた。もしここに、1657年の明暦の大火により失われた天守閣を始め、江戸城の遺構が再建されれば、それは世界に伍して発展する国際観光、交流都市東京の形成に寄与するだけでなく、21世紀における日本再生の新しいシンボルにもなり得る 」としている。
最近になって、江戸城再建構想が活発化しつつあるが、果たして・・?。
石原都知事・・、頑張れ・・!!。
更に江戸城物語は桜田門に続きます。
紀行(129)東京 「江戸城・桜田門」
幕末騒乱の時期「桜田門」外で起きた「変」について・・、
江戸城・皇居の東にあたるのが表門といわれる大手門、西側にあるのが半蔵門、そして南面のあたるのが「桜田門」である。
皇居外苑と日比谷公園に挟まれた銀座四丁目に通づる主要道路(15号線)を西へ進むと、白い高層の東京警視庁がある。
昭和期までは赤茶けた威厳のある建物でTVなどでもお馴染みであるが、この建物の正面に「桜田門」がある。
この警視庁を通称あるいは隠語として“桜田門”と呼ぶときもあるという。
更に、西へ進むと正面に日本の政治を司る国会議事堂があり、この周辺は所謂、永田町といわれる処で政治の中枢期間が集積しているところでもある。
この一角に「紀尾井町」という、何やら意味深の地名がある。
江戸時代には徳川御三家の「紀州家」、「尾張家」そして、「井伊家」の屋敷が占めていたことから、その名付けられた。
その頭文字を一字づつ取って「紀尾井町」としたのであるが、井伊家といえば幕末の大老である「井伊直弼」も住まわれた地である。
尤も、実際の井伊直弼の住んでいた井伊家の上屋敷は、今の議事堂の正面にある憲政記念館の処であり、桜田門からこの地までの距離は概ね500mぐらいであろう。
この桜田門の付近で大老・井伊直弼が襲撃、斬殺されたのは安政7年(1860年)3月3日であった。享年46。
安政年間とは・・、
徳川治世が家康以来250年以上もの長期間を有していて、いよいよその屋台骨がぐらつき始めた頃でもあった。
江戸時代後期の日本には外国船が相次いで来航した。
嘉永6年(1853年)、アメリカの使節ペリーが黒船(黒い塗装の軍艦)4隻を率いて江戸湾の浦賀沖に、更に翌年、軍艦7隻を率いて再渡来して日米和親条約が調印され、日本は新しい時代に船出することを余儀なくされた。
その後も引続き米国総領事ハリスが下田に来日、ペリー顔負けの強圧的な態度で、日米通商を求めてきた。
この頃、お隣の中国ではアヘン戦争(当時の清とイギリスとの間で2年間にわたって行われた戦争で、名前の通り、アヘンの密輸が原因となって発生した戦争)に敗北した結果、日本国内でも対外的危機意識が高まり、幕閣では海防問題がしきりに議論されるようになる。
通商の求めに対して何とか先延ばし戦術を取りながらも、混乱をさばいてみせた老中・阿部正弘も心労がたたって退任、幕府・諸藩・公家の混乱はピークに達していた。
安政の年号は1859年まで約6年間続くが、その頃世間では「攘夷」か「開国」かで幕府と朝廷、幕府と水戸藩とが意見の相違、二元論的対立関係になってゆく。
勢力で言えば、圧倒的に攘夷派優勢という図式であり、それら攘夷に頑強な水戸や朝廷もその意向でもあった。
ところで、アヘン戦争で敗戦国となった清は多額の賠償金と香港の割譲、各地のの開港を認め、又、治外法権、関税自主権の放棄などを余儀なくされ、所謂、戦勝国・イギリスと清との間に不平等条約を締結せざるを得なかった。
この事を知った幕閣は列強国とは穏便に開国せざるを得ず、通商条約実施の方向へ傾くようになる。
調印を迫ってきたハリスに対しても、阿部正弘の後の老中に就任した堀田備中守は、朝廷の権威を借りて事態の打開を図ろうと孝明天皇から勅許を得ようとしたが、朝廷とその取巻き達(梅田雲浜ら在京の尊攘派)に反対され得ること出来なかった。
「攘夷」とは、外来者を追い払って平和を維持するという発想・考え方で、国内では国学の普及にともなって民族意識がとみに高まった時代でもあった。
尊皇攘夷とは・・、
天皇を尊び外圧・外敵・外国を撃退しなければ日本の未来はあり得ないという考え方で、江戸幕末に革命の旗印になった思想でもある。
尚、尊皇攘夷の延長線上には天皇を親政とし、徳川幕府は徳川藩一藩とし、尚且つ倒幕の思考が含まれてもいた。
これらの急先鋒が長州の吉田松陰、越前の橋本左内、儒学者の頼三樹三郎などであった。
このような攘夷論者が跋扈する安政5年(1858年)4月、近江の井伊家藩主・井伊直弼が大老職(将軍の補佐役、臨時に老中の上に置かれた最高職)に就任し、これらの混乱を収拾しようとした。
大老・井伊直弼・・、
徳川譜代の四天王といわれる酒井、本多、井伊、榊原のうち、井伊家はその筆頭とも言われ、江戸期には近江・彦根藩 35万石の譜代大名となっている名家である。
その彦根藩の第13代藩主が井伊直弼である。
藩主の十四男として生まれた直弼は、17歳から32歳頃までの15年間を部屋住み(次男以下で分家・独立せず親や兄の家に在る者)として過ごし、この間、長野主膳と師弟関係を結んで国学を学び、自らを花の咲くことのない埋もれ木にたとえ、埋木舎(うもれぎのや)と名付けた住宅で、世捨て人のように暮らしていた。
この頃、和歌や鼓、禅、槍術、居合術を学ぶなど、聡明さを早くから示していて、あだ名を「チャカポン(茶・歌・鼓)」とか囁かれたれらしい。
ところが兄弟達の不慮の死去により家督を継ぐことになり、第13代藩主・掃部頭(かもんのかみ)となって急遽江戸へ遷任する。
隣国の国情や外国事情を多少でも知っている直弼は、アメリカ使節ペリーが浦賀に来て修交を迫ったときには既に開国を主張し又、将軍継嗣問題では和歌山藩主・徳川慶福(よしとみ)を推挙、一橋派と対立する。
その後、安政2年(1858年)大老職に就任し、勅許なく日米修好通商条約に調印し、慶福=家茂を将軍継嗣に決定する。
大獄と桜田門・・、
大老の強権をもって「将軍継嗣問題」、「条約調印問題」などの懸案事項を強引に解決しようと日米修好通商条約に勅許を得ないまま調印、将軍継嗣にも決着をつける。
しかし、水戸をはじめとする攘夷急進派達はこれらに徹底的に反対する。
大老・直弼は懐刀・長野主膳を攘夷の本山とも云われる京都に遣わして、尊皇攘夷派の調査や裏工作を指示していた。
結果、過激志士達の処罰を進言する。直弼も直ちに幕府政策における妨害となる思想や行動、幕府の秩序を乱す行い、京都朝廷に擦り寄る反幕派や水戸密勅事件(天皇が水戸へ直接に勅諚を下した)の水戸側関係者に対して一斉取り締まりを行い、不貞の輩は処罰して一掃を行う事を決定する、所謂、「安政の大獄」である。
大獄の結果は、橋本左内(越前藩士)、吉田松陰(長州藩士)、梅田雲浜(尊攘志士)などの刑死、又、水戸の徳川斉昭、一橋慶喜、松平慶永、伊達宗城、山内豊信など各藩主、川路聖謨などを蟄居、謹慎にした。
藩主らを謹慎させたことに更に猛反発した水戸藩攘夷過激派は脱藩して浪人になり、独自に大老襲撃を断行することを決め、薩摩からは有村が一人加わった。
そして遂に当日の雪の朝、一行は決行前の宴を催し一晩過ごした後、外桜田門へ向かうのである。
藩邸上屋敷(現在憲政記念館の地)から内堀通り沿いに登城途中の直弼を江戸城外桜田門外(現在の桜田門交差点)で襲撃した。井伊家には前もって警告が届いていたが、直弼はあえて護衛を強化しなかったといい、更に当日は季節外れの雪で視界は悪く、襲撃側には有利な状況だった。
江戸幕府が開かれて以来、江戸の市中で大名駕籠を襲うという発想そのものが全くの想定外で、彦根藩側の油断を誘うことになる。
合図のピストルを駕籠にめがけて発射し、本隊による駕籠への襲撃が開始された。
発射された弾丸によって直弼は腰部から太腿にかけて銃創を負い、動けなくなってしまった。
雪の中、彦根藩士たちは柄袋(刀の柄にかぶせる袋、一般には旅行・雨天などの時に用いる)が邪魔し不利な形勢だったが、二刀流の使い手もいて襲撃者たちをてこずらせたが、次第に護る者も居なくなり、直弼が乗っていると見られる駕籠に向かって次々と刀が突き立てられた。
さらには有村次左衛門(ただ1人の薩摩藩士)が扉を開け放ち、虫の息となっていた直弼の髷を掴んで駕籠から引きずり出し、有村が発した居合いで首は鞠のように飛んだという。 享年46であった。
襲撃開始から直弼殺害まで、わずか数分の出来事で、一連の事件の経過と克明な様子は、狩野芳崖作『桜田事変絵巻』(彦根城博物館蔵)などにも鮮やかに描かれているという。
井伊大老が断行した「安政の大獄」は、結果として幕府のモラルの低下や人材の欠如を招き、反幕派による尊攘活動を激化させ、幕府滅亡の遠因ともなったとも言われてる。
歌舞伎・『大老』から・・、
井伊家の上屋敷のあった憲政記念館の北部隣に「国立劇場」がある。
奇しくもこの劇場で2008年の秋口、中村吉右衛門が主役で井伊直弼役の題して『大老』が、歌舞伎で演じられていた。
小生も観劇して感激したが、一心に国政を担うことになった直弼の波乱の生涯を、妻や家臣、敵対する人々とともにダイナミックに演じられていた。
そして最後の幕では・・、
降りしきる桜田門外、水戸の浪士たちが登城する直弼を襲撃、駕籠に留まった直弼は、『大義をあやまるな・・!!』と、浪士たちに叫んで、凶刃に倒れる
次回、維新前夜の「江戸城」
紀行(129)東京 「江戸城・勝と西郷」


勝海舟と西郷隆盛の像
「桜田門外の変」から8年後、江戸城の「西郷と勝」は・・、
幕府を立て直そうとして攘夷論者を弾圧、一掃した大老・井伊直弼は1860年、その急進派の凶刃に倒れた。
あれから8年後、既に徳川政権は瓦解していた。
「江戸城」は江戸時代末期の維新時、徳川幕府消滅後に明治政府(官軍)に明け渡されることになった。官軍・西郷隆盛と幕府軍・勝海舟の最終談判によるものだった。
幕末当時の勝海舟(麟太郎)は、剣、禅、蘭学を修めて蘭学塾を開いていた無役の御家人だった。
ペリー艦隊が浦賀沖に現れた時、人材登用、海防整備などを進言し、蛮書調所(ばんしょしらべしょ:1856年:安政3年、江戸幕府が九段坂下に創立した洋学の教育研究機関、洋学の教授・統制、洋書の翻訳に当る。後に開成学校と改称、更に東京大学になる)の翻訳担当者に任命される。
やがて、長崎海軍伝習所で3年間軍艦の技術的な事を学び、この時、薩摩藩士達とも付き合いができている。
この付き合いが後に、西郷隆盛との関係などに役立ったとされている。
江戸城総攻撃の目前の3月13、14日に「勝」と「西郷」の会談が行われた。
この時、勝は幕府軍のすべてを決定する実権をもつ「軍事取扱い」に任じられている。
相対する西郷は、東征軍の実質的な指揮者・大総督府参謀であった。
勝は、『戦役で江戸の一般市民を殺してはならない。将軍も私心は持っていないから公明寛大なご処置を。』と言えば・・、 『一存では決めかねるが、ひとまず総攻撃は延期しよう。』西郷が答える。
こうして、「江戸城無血開城」が決まった・・!、 慶応4年(1868年)のことであった。
勝の回想録として「氷川清話」や「海舟座談」がある。
これは海舟の談話を記者が速記したもの(海舟の細かいしゃべり方の特徴まで)であり、幕末・明治の歴史を動かした人々や、時代の変遷、海舟の人物像などを知ることが出来るとされている。
その「氷川清話」の中で、海舟は西郷隆盛を語っている。
『 おれはこれほどの古物だけれども、しかし今日までにまだ西郷ほどの人物を二人と見たことがない。どうしても西郷は大きい。妙なところで隠れたりなどして、いっこうその奥行がしれない。厚かましくも元勲などとすましているやつらとは、とても比べものにならない。西郷はどうも人にわからないところがあったよ。大きな人間ほどそんなもので・・・・・・小さいやつなら、どんなにしたってすぐ腹の底まで見えてしまうが、大きいやつになるとそうでもないのう。西郷なんぞはどのくらい太っ腹の人だったかわからないよ。・・・・・・あの時の談判は実に骨だったよ。官軍に西郷がいなければ、話はとてもまとまらなかっただろうよ。その時分の形勢といえば、品川から西郷などがくる、板橋からは伊地知(正治)などがくる。また江戸の市中では、今にも官軍が乗りこむといって大騒ぎさ。しかし、おれはほかの官軍には頓着せず、ただ西郷一人を眼中においた。
さて、いよいよ談判になると、西郷はおれのいうことを一々信用してくれ、その間一点の疑念もはさまなかった。「いろいろむつかしい議論もありまっしょうが、私が一身にかけてお引受けもす」・・この西郷のこの一言で、江戸百万の生霊(人間)も、その生命と財産とを保つことができ、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ。もしこれが他人であったら、いやあなたのいうことは自家撞着だとか、言行不一致だとか、たくさんの凶徒があのとおり処々に屯集しているのに、恭順の実はどこにあるとか、いろいろうるさく責め立てるに違いない。万一そうなると、談判はたちまち破裂だ。しかし西郷はそんな野暮はいわない。その大局を達観して、しかも果断に富んでいたにはおれも感心した。
このとき、おれがことに感心したのは、西郷がおれに対して幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときにも始終座を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというような風がみえなかったことだ、その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどということはもとより少しもなかったよ。西郷におよぶことのできないのは、その大胆識(見識と勇気)と大誠意とにあるのだ。おれの一言を信じてたった一人で江戸城に乗り込む。おれだってことに処して多少の権謀を用いないこともないが、ただこの西郷の至誠はおれをしてあい欺くことができなかった。このときに際して小籌浅略(細かな浅いはかりごと)を事とするのは、かえってこの人のためにはらわたを見透かされるばかりだと思って、おれも至誠をもってこれに応じたから、江戸城受け渡しもあのとおり座談ですんだのさ・・ 』
その西郷の銅像が、上野公園の正面に普段着で立っているのは周知である。
歴史に残る江戸城の無血開城が決められ、西郷隆盛と勝海舟の会談が行われたのは、江戸城内ではなく薩摩屋敷である。
現在の東京都港区芝で、JR山手線の田町駅前あたりに会談跡の碑がある。
明治元年3月13日、高輪の薩摩屋敷で先ず予備会談が行われ、次の14日にここにあった薩摩の蔵屋敷で江戸城の開城が決定されたようである。
その後、明治4年〜6年の間、実質、「西郷内閣」の時、廃藩置県、徴兵制度、身分制度の廃止、宮中の改革、学校、警察、銀行、太陽暦採用等が採用され、維新としての近代日本の礎を作った。
西郷は、その後「西南の役」で悲劇の人生を終えるが、明治22年明治天皇より正三位を追贈され、西郷の偉大な功績を偲ぶために上野の山に銅像を建立し後の世に残した。
明治31年、完成時の除幕式には時の総理大臣・山県有朋や勝海舟、大山巌、東郷元帥等や800名が参加して盛大に行われたという。
一方、風光を愛し洗足池公園(大田区千束:洗足池は湧き水を水源とする池で、日蓮上人が旅の途中にここで手足を洗った伝承から洗足池に転じたと言われる)に別邸を持っていた勝海舟は、妻とともにこの地に眠っている。
隣には西郷南州(隆盛)の留魂祠も建立されている。
勝の、西郷への思い感じさせるのである。
尚、「西郷隆盛」に関しては周遊紀行の中の「鹿児島」の項にて詳細記載してあります。
「日本周遊紀行:鹿児島」 http://outdoor.geocities.jp/n_issyuu2005/nn-18-4.htm
次回は、同じく江戸城界隈 PART(8)へ