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日本周遊紀行

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紀行(125)君津市 「久留里」



歴史ある「久留里」は君津市の地域であった・・、

地図を見て確かめると・・、
成る程、君津市域の湾口部は僅か3km程度しかないの近距離の幅である。
そして、湾口部にはあの「新日鉄君津」の事業所が大部分・・?、否、100%占めているのである。 

その為でもあろう・・、
現在の人口的市街地は、JR君津駅周辺とした湾岸部に集中している。
だが、市全体の範囲は房総内陸の山間域が大部分をしめ、それらは鹿野山や亀山周辺の三島湖の行楽地、歴史の町である「久留里」辺りが市の主要部分と言ってもよさそうである。


その君津市久留里地区は房総半島の中心に位置し、その一昔前までは太平洋岸の勝浦、小湊、鴨川地区と武蔵、江戸地区を結ぶ交通の要衝であった。
そして既に、平安末期の頃から城が築かれ、房総の代表的な城下町で里見家、黒田家等の武将の居城として名を馳せた歴史ある地区で、今もその面影が色濃く残っている。

久留里の地名は戦国期から見られるという。


16世紀半ば、戦国大名として名を馳せた里見氏は、ほぼ房総全域を拠点としていた。 
戦国期、相模小田原の北条氏(後北条)の勢力が武蔵から房総に及ぶと、里見氏は久留里城を最前線として北条氏と対峙する。 
だが中央より勢力を伸ばしつつある豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)への参戦指令で遅参したため、上総全域および下総南部が里見氏から没収され徳川家康に与えられてしまう。
安房一国に縮小安堵された里見氏であるが、次に「久留里」は徳川氏の最前線として、その里見氏と対峙することになる。

だが、慶長19年(1614年)、大久保忠隣失脚に連座した里見忠義が安房一国を没収されて伯耆倉吉に転封となったことは先に述べた。
ために久留里城の「最前線」としての役目は、この時に失われている。江戸中期には、衰退していた久留里は黒田直純が上野沼田から入封して再び久留里藩が立藩され、次いで久留里城も再建された。
以後久留里は、黒田氏の支配の下、明治4年(1871年)7月の廃藩置県まで存続していた。


久留里城」は、「雨城」、「霧降城」という別名があり、水の豊富な城として知られていた。

久留里城下は清澄山系に降る大量の雨を背景に豊富な地下水に恵まれ、江戸時代末期から明治初期にかけてこの地域で井戸掘りの工法である「上総掘り」によって掘られた“掘り抜き井戸”が多く分布し、この水を利用した酒造業も盛んであったという。
近年はこの水を観光資源として、「名水の里」であることが宣伝されているとか・。

この掘り抜きの工法は、深さ数百メートルの井戸を掘る技術で、現在でも存在しているという。


「上総掘り」について・・、

千葉・房総に、その「上総掘り」の起源があるといわれる。
房総の地域は久留里地方はともかくとして、全体には地形的に低山・丘陵地が広がり、古来より慢性的な水不足が生じ、灌漑用水の供給には難があったとされている。 
このため農民の水田作りに対する強い願いは、地下からの自然湧水を得ることから始まり、この掘削技術の開発、普及に役立ったという。 

「上総掘り」は明治時代にこの地域に伝わっていた井戸掘りの技術を、更に発展させてできた掘り方で、克って、新潟地方の油田掘削にはこの方法を用いたという。

人力のみで500m以上の掘削が可能である事から開発途上国への技術指導も行われているという。工法は径5〜15cmの鉄管が、深さ150〜500mの穴が地中に向かって掘られる。

まず足場のやぐらを組み、上部に竹の「はねぎ」を取り付けて、そのはねぎの弾力を利用して長さ約7メートル、重さ約30キログラムの鉄管を上下させて鉄管の重量をはずみで地底に打ち付け、地層を砕き削りながら穴を掘り進む工法である。 
現在でも人力による掘削法として使用されている。

上総掘りの用具は重要有形民俗文化財に、上総掘りの技術は重要無形民俗文化財にそれぞれ指定されている。



狭い湾岸の君津を過ぎてしまうと、すぐに「木更津」である。

戦国期、徳川家康が戦乱を平定した1614年の大阪の陣に、木更津の水夫は水軍として参加し、大きな働きをしたという。 
そして戦後、家康は江戸(東京)に都を移し、戦に功績の有った木更津衆を報奨として、東京湾での海上輸送の特権を与えたといわれる。
木更津は江戸と潮来方面からくる船の関所として、大きな権力を持ち物資の集散地として大いに栄えたという。

江戸湾を往来する、木更津船を「五大力船」(ごだいりきぶね)と称していた。 
江戸を中心に、関東周辺の海運に活躍した50〜500石積級の小廻(こまわ)しの廻船である。


  「木更津甚句」 千葉県民謡
アア木更津照るとも 
お江戸は曇れ 
かわいお方が 
ヤッサイモッサイ 
ヤレコリャ ドッコイ 
コリャ コーリャ 
日にやける
船は千来る万来るなかで
わしの待つ船まだ見えぬ

(囃子は繰返し)
狸かわいや証誠寺の庭で
月に浮かれて腹鼓
泣いてくれるな出船の時は
沖で艪櫂が手につかぬ


と船乗衆が唄ったのであろう。
「ヤッサイモッサイ」とは、「そこのけ そこのけ」という意味らしい。

更に、木更津については思わぬ伝承があった・・!、 それは次回へ・・、


紀行(126) 「木更津と日本武尊」



木更津、袖ヶ浦の地名は「日本武尊」の東征時の古事による・・、

木更津、袖ヶ浦、そして東京湾を隔てて横須賀(観音崎)の周辺は「日本武尊」(ヤマトタケル)の神話伝説の残る共通地域であった。

日本武尊は、幼少の頃より時折、何かに付けて耳に、或いは目にする人物・・?で、神話とされる「記紀」(古事記、日本書紀)に神として、人物として、はたまた半神半人として、神話の中でも最も武力に優れた英雄物語として描かれている。
日本神話の英雄・ヤマトタケルには、「日本武尊」(日本書紀)、「倭建命」(古事記)の二つの漢字、そして小碓命(オウスノミコト)などの表記がある。


日本武尊は景行2年、第12代景行(けいこう:初代神武天皇=紀元前660年)天皇の第2皇子として生まれている。 
皇子は皇太子の地位にありながら、大和朝廷の勢力範囲を広げるために、日本中を遠征して回ることになる。

先ず、九州日向(現宮崎県地方)へ命じらて遠征し、朝廷に従わない熊襲建(クマソタケル)を知恵をもって征伐する。
この時、小碓命は、熊襲建の「建」とって倭建命(ヤマトタケルノミコト)と称えることになる。
(建は、勇敢な者という意味を持つ)

大和にある宮に戻る途中も山の神、川の神、河口の神などの大王(朝廷)に従わない荒ぶる神々たちを次々征伐し、出雲の国の部族、出雲建(イズモタケル)を征伐するときも頭を使って勝利し、国を平定していく。


次に、倭建命は東国の征伐を命じられる。

西国は大陸との交通路であり、古くから大和朝廷も重視していたが、東国は大和朝廷の力が及んでいる訳ではなく、苦戦が予想された。
皇子は東国への遠征に向かわれる途中、「伊勢」に立ち寄ることになる。
先ず、亀山に立ち寄り、「忍山神社」祀官・忍山宿弥(オシヤマノスクネ)の娘とされる弟橘媛(オトタチバナヒメ)を妃(きさき)に迎える。

伊勢の地は、皇子の叔母である倭姫命(ヤマトヒメノミコト)の導きで天照大神(アマテラスオオミカミ)を祭祀している地であり(伊勢神宮)、倭姫命は皇子に御神宝の天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)を授けた。

この剣は昔、素戔嗚尊(スサノオノミコト)が出雲で八俣大蛇(ヤマタノオロチ)を退治した時に、その尾から出たといわれる剣で、天照大神の孫である邇邇芸命(ニニギノミコト)がこの国に御降臨した時に、一緒に持たせたものという由緒ある宝剣である。

後の天皇の「三種の神器」(八咫鏡:ヤタノカガミ、 草薙の剣:クサナギノツルギ、 八尺瓊勾玉:ヤサカニノマガタマ).の一つである。

皇子が駿河の国(静岡県東部)へ指しかかった時、皇子たちの一行を狙って草むらで周りから火を付ける者があった。 
皇子はこの時、この剣で周りの草を薙ぎ払い火から免れた。 
この故事により、この剣をその後に草薙剣(クサナギノツルギ)と呼ぶようになったといわれる。


その後、日本武尊は上総の国(今の千葉県)に渡海するため、走水の村(三浦半島・観音崎)へ向う。

因みに、日本神話の英雄ヤマトタケルには、「倭建命」(古事記)と「日本武尊」(日本書紀)の二つの漢字表記があり、この先は日本武尊を表記することとする。

三浦半島東端、観音崎は旗山崎(御所ヶ崎)とも云われ、「走水」(はしりみず)という言う地名が今も残る。 日本武尊が東征したとき、ここに臨時の御所を設け、軍旗を立てたという説話に由来している。

合わせて、この地に日本武尊とその妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)を祭る「走水神社」が鎮座している。

ここから日本武尊は対岸の房総へ渡ろうとしたが、海上は風波 が強く、船出もできず数日間ここに滞在してい・・が、ついに船出を決意し一気に渡ろうとしたところ、船が沈没しそうになってしまった。

この時、弟橘媛命が、これは海神の怒りであると信じ、日本武尊の身代わりになることを決意し、海に身を沈める。

この時・・、

  『 さねさし相模の 小野に燃ゆる 火の火中に立ちて 問ひし君はも 』

と歌を詠んで身を投げた。

「さねさし」とは相模の枕詞、「 あの相模の小野で、敵の仕掛けた猛火に包まれて危うい時も、あなたは私のことを心配して声を掛けて下さいました。 あの時の優しい思い出を胸に抱きしめて私はこの荒れ狂う浪に身を投じて海神の怒りを鎮めにまいります・・、ああ、やさしきあなた・・、」というのが媛の辞世の大意であった。 

女性が男性に向けた歌で、古今東西これほど哀惜に満ちた崇高なものは無いともいわれる。
村人が、弟橘媛を哀れみ、日本武尊を慕うあまり建てたのが「走水神社」であると伝えられている。


日本武尊は、駿河から相模に入り、三浦半島の走水から船で房総半島に渡るが、このルートは古代・東海道の重要なルートで、終着地は常陸の国であるといわれる。
房総半島への渡り道、「走水の海」は流れが早いことから付けられた名で、今の浦賀水道のことである。 

一行は走水の海で激しい嵐に見舞われるが、姫が入水してからはそれまでの嵐が嘘のように静まる。
この時、海岸には姫のクシや衣が流れついたという、古代、クシには魂が宿ると言われ、流れついた弟橘姫のクシ、衣を納めて建立したのが木更津に鎮座する「吾妻神社」であるといわれる。

「吾妻」についても、日本武尊が蝦夷の東征を終えて凱旋される途中、足柄峠に差し掛かった時、遥か相模の海の方を見られて媛の悲劇が胸に迫って涙が止まらず、「吾が妻はや・・」(吾が妻はもはやいない)と嘆かれた。 

ここから東国のことを「吾妻」と呼ぶようになったという。 

吾妻とは、都から東方の諸国の総称で「東国」のことである。「常陸風土記」にも・・、

『 いにしへは、相模(さがむ)国・足柄の岳坂(やまさか)より東の諸(もろもろ)の県(あがた)は、すべて吾妻の国をといひき 』とある。

そして、房総に渡った日本武尊が弟橘姫を偲んで詠ったのが・・、

  『 君さらず 袖しが浦に 立つ波の その面影を 見るぞ悲しき 』

「君さらず、袖しが浦に立つ波の」、この歌の一節「君さらず」が転じて「木更津」、「袖しが浦」が「袖が浦」という地名になったと伝えられている。



塔の上で手を差し伸べあうのは「日本武尊と弟橘媛」、展望台からは市内はもちろん東京湾が一望


この歌を詠んだとされる場所は現在の木更津市大田地区、国道16号沿いの太田山公園であり、2人の像が向かい合う形で「きみさらずタワー」が立っている。

タワーは高さ28mで中ほどに展望台があり、東京湾から東京の摩天楼や富士山を一望することが出来る。 

特に夜景は絶景だとか・・!。


紀行(127)袖ヶ浦 「アクアライン」



アクアライン
木更津より海上部の「アクアライン」



「東京湾アクアライン」・・、

袖ヶ浦蔵波台に、小生の実弟家族が住んでいる。

北国を遠路遥々(はるばる)巡ってきた、その様子を一言、二言話しをしてみよう、不在ならそのまま帰路をとろうと尋ねてみた。 
幸い奥さん(義妹)が在宅であったので事の様子を話し、ついでに四方山話(よもやまばなし)をしながら館山で求めた手土産を納めた。 
そして、心配りの渋茶と添え物を戴き、身も心も仄々(ほのぼの)として宅を辞した。

弟は学卒以来、土木建設の会社に一途に身を置き、千葉湾岸工業地域の造成開発、建設に勤しんでいる。 
特に昨今開通した東京湾横断道路、愛称「東京湾アクアライン」の建設に携わり、その完成を見た時、一種安堵感と至福感を味わったと、しみじみ話していた。

これから、この東京湾アクアラインを渡ることになる・・。 



東京湾上に道路が開通した・・!!、


1997年12月、東京湾に自動車専用道路が開通した。 

その名を愛称では「東京湾アクアライン」といい、正式名称は「東京湾横断道路」という。
ここ木更津から東京湾を横断して神奈川県川崎市へ至っている自動車専用高速道路である。 
木更津沖合い4.4km に造られた人工島「海ほたる」を接点として、海上ルート約5km と海底ルート約10km、つまりトンネルと橋梁を15kmで結ばれている。

世界で最も長い水底トンネルは本州と北海道を結ぶ青函トンネルで、長さは53.8kmとアクアトンネルの5倍以上の長さがある。 
しかし、この青函トンネルは鉄道トンネルであり、自動車が通行できる最長の水底トンネルと限定すれば、アクアトンネルが最長となるという。

文字どおり最先端のテクノロジーを駆使した20世紀最後のビッグプロジェクトであり、世界の様々な分野から注目を集めたという。 
海上ルートを支える橋梁の上・下部は、あらかじめ陸上で製作した構造体を海上輸送し、クレーン船や台船を使って設置。
トンネル部は、外形14.14m、重量3,200tにも及ぶ世界最大級のシールドマシンが掘り進んだ。また、海中に設置した汚濁防止膜や杭打ち時の防音対策などは、環境保全にも細心の配慮を施した工事として、世界的にも大きな評価を得たという。

総工費は約1兆4,000億円、この高額建設費のため通行料が非常に高く、当初普通車で4000円以上であたが、現在は3000円である。 
実際、想定していたほどの利用車が無いのが現状で、年間の欠損は数百億円とか、昨今の道路公団の民営化で果たしてアクアラインは・・??。


木更津からは海の道を、川崎からは長いトンネルを抜けると、そこは東京湾のど真ん中、周辺の景色を360度一望できる「海ほたる」があり、海上に浮かぶ巨大なパーキングエリアである。 

1階から3階までは駐車場で約480台収容でき、4〜5階には食堂、レストランや東京や神奈川のお土産、房総の名産・海産物、東京湾アクアライングッズなどを取りそろえたショッピング施設がある。 
情報コーナーには、アクアラインの概要や建設に使用した各種工作物、巨大シールドマシンの断片などが展示してある。

ここの産かどうかは定かでないが、特大な貝付きの生牡蠣(なまがき)を買い、手土産にして袖ヶ浦の実弟宅で食したのが思い起こされる。

「海ほたる」の5階・展望ゾーンから見る千葉市街から大東京のビル群は、小雨の中にやや霞んで見えていた。

次回、「千葉」  
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