カスタム検索

日本周遊紀行

16日目:PART3(小湊、白浜)  PART4(館山、内房)へ  観光編へ  写真集 
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本) 信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本) 鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
              山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野 石見銀山


紀行(121)小湊 「日蓮」


「南無」とは「〜を信じる」、「妙法蓮華経」つまり「法華経」を信じること(日蓮宗)・・

行川アイランドを左に見ながら、丘陵地というより山間地と云ったほうがいい。
幾つかのトンネルを抜けると、小湊の港へ出た。

気持ちのいい、静かな港・「鯛の浦」である。 
字の如く、本来深海を単独で回遊する魚なのに、水深10〜20mを鯛が群れをなして泳いてる。 
学術的にも解明されていないという、不思議な魚で一帯は天然記念物に指定されている。 
日蓮が誕生した際、無数の鯛の群れがここに集まってきたとされ、この現象が奇跡とされ聖人の化身との伝説もある。 
現在も鯛の浦の鯛は、餌を与えて手厚く保護しており、捕獲したり食したりはしないという。

このすぐ前に「誕生寺」が在る、日蓮は1222年(鎌倉初期)、ここ小湊のこの地に誕生した。 
その後、直弟子 (1276)によって、生家跡地に建立したのが高光山・日蓮誕生寺である。


日蓮は、この地の奥山「清澄寺」に12歳で「僧」になるため入山し勉学に励んだ。
また鎌倉、比叡山などに遊学し、その後得度して布教活動を始め、日蓮宗、日蓮正宗、法華宗などを広め開祖となる。

他宗派(念仏宗)を批判しながら、著書「立正安国論」を表し、時の執権、最高実力者の北条時頼に送るが、逆に批判、法難をあびて伊豆に流されたこともある。 
日蓮に縁のある寺院に身延山・久遠寺があり、東京池上本門寺にて逝去している。


ところで日蓮宗派のお題目は「南無妙法蓮華経」である・・、 


南無」とは「〜を信じる」、「妙法蓮華経」つまり「法華経」を信じよう・・という事。 
このお経の特徴は、全ての生きとし生ける者は皆成仏できると説いている点で、わざわざ西方極楽浄土に行かなくても、この娑婆世界で十分成仏できると説いている。 
本来は法華経を読めばよいが、できない場合は、「南無妙法蓮華経」と唱えるだけで同じ功徳が得られるともいうこと。


清澄山の山頂近くに「清澄寺」がある、創建1200年を誇る、格式ある古刹であり、日蓮は12歳でこの山に入り教学し、得度している(高名な僧になっている)。
清澄寺は、比叡山延暦寺の流派である天台宗であったが、後に真言宗に変じ、大正期に日蓮聖人の銅像が完成してから信者が増え、昭和24年にこのお寺は日蓮宗に改宗、大本山として現在に至っている。

清澄山は標高377m、房総半島で2番目に高い山で、麻綿原高原へ続く尾根の道は、四季を通じてハイキングの名所である。 原種ツツジに興味のある小生、「キヨスミツツジ」の名所でもある。



海岸沿いに旅館やホテルが並ぶ鴨川のメインロードの中心に、御存知「鴨川シーワールド」が在った。 
さらに海岸に沿って鴨川漁港の南に明媚な島々が広がっている、「鴨川松島」というらしい。 
外房随一の名勝といわれ、水平線から昇る朝日をバックにした景色は素晴らしいといい、「新日本百景」の1つにも選ばれている。

その島群の一角、大海海水浴場の南に、「仁右衛門」という島がある。 
島名は、島主の平野仁右衛門一族が一戸だけ住んでいることに由来するという。 
居宅は、300年の歴史を刻んだ木造の立派な建物があり、今でも住んでおられるという。

1180年 静岡県伊豆の韮山に流刑されていた「源頼朝」が挙兵する。頼朝軍と,大庭景親のひきいる平氏軍が、相模国(神奈川県)の石橋山で戦い、平氏軍は3000人あまり、頼朝の兵はわずか300人足らずで敗れる。 
頼朝は海を渡り、安房(千葉県)へと逃げた。
この時、追っ手をさけて身を潜めたと伝えられるのがこの島であり、今でも洞窟が残っているという。その後、頼朝は地元の千葉介等、諸侯の協力を得て鎌倉へ戻り、平家清盛一門打倒への準備が整っていくのである。

天津小湊町と鴨川市は、平成17年2月に新「鴨川市」として合併誕生する。

次回は「南房総」


紀行(122)南房総 「和田、千倉」



捕鯨の町・「和田」・・、


国道128号は別名「外房黒潮ライン」という、その名の通り見通しの良い、白い砂浜と青い松の海岸線が美的に続く。 しばらく行くと和田港が見渡せる。 

和田町はなんと日本で4ヶ所しかない捕鯨基地の1つ、無論、関東圏では唯一であり、(他には網走:北海道、太地:和歌山、牡鹿町鮎川:宮城県の三ヶ所)、首都圏に近いこともあって和田町の捕鯨は貴重であった。

鯨肉は、昔はいつでも何処でも食卓を賑わしていたが、今では一部の店にのみ残して、どこにでも見かけるというものではなくなった。 

食品としての鯨は、どうしてこんなにも稀少になってしまったのだろうか・・?。

それは南極海などでの捕鯨が、「科学調査用」のわずかな頭数を除き、禁じられてしまったからである、(商業捕鯨の禁止) なぜ商業捕鯨は禁止されたのか・・?。
捕鯨に関する事柄を取り決めるIWC(国際捕鯨委員会)やグリンピース(国際環境保護団体)が、「鯨は哺乳類である・・」とか「頭のいい海の生物」との理由、つまり科学的根拠、事実に基づかずに商業捕鯨を禁止してしまったからであり、その中心がアメリカやイギリスだという。


現在、南氷洋のミンククジラや他種のクジラはかなりの数で増えつつあるという。
そんな中、日本(日本捕鯨委員会JWC)はこの商業捕鯨の再開を求めているが。
現在でも和田港に水揚げされてるのは、ツチクジラのほかに南氷洋のミンククジラ等であるが、調査用捕鯨のみなのである。 

和田町には、今も鯨専門店、缶詰、冷凍肉、鯨骨のアクセサリーなど販売している店が数件あるという。
この和田町は、2006年3月20日にて富浦町、富山町、三芳村、白浜町、千倉町、丸山町、の周辺町村が合併し、館山市を取り囲むようにして、新しく「南房総市」が誕生するようである。


花の町・「千倉」は食事調理の故里・・?、


国道128からいつの間にか、国道410になり「千倉」の町に来ていた。
白浜方面を海岸に沿って向かおうとしていたためか、実際は国道とは別の海岸沿いの旧道を走っているようだ。 
房総フラワーライン」という立派な名前も付いていて旧道とはいえ、なかなかいい道である。

途中海沿いに「道の駅・潮風王国」というのがあり、周辺は千倉名物のお花畑が広がっている。
駅は、赤い大きな建物で、お馴染みの海産物やレストランが集まっているが、変り種は大きな建物の中央部に生け簀があり、やがて人間に食べられる運命であろうが、今は悠々と近海の魚群が泳ぎ回っている。
この手の施設の中では、個性があっておもしろい。 周辺もけっこう広い広場になっていて、海に面し、磯にも降りていけるようだ。

長い海岸線が続く太平洋に面し、極めて温暖な千倉地区は「花の街」としても知られ、首都圏から花畑の鑑賞に訪れる人も多いという。 
時節は秋口なので菊科の花が多いようであるが、他にも色鮮やかな色彩の花々が咲競っている。 花畑の起こったきっかけは、農家の稲の裏作として始まったらしいが、花畑を区画に分けて栽培し、露地花をオーナー制度としても紹介しているともいう。

民宿の多い千倉では「花の宿」として、花を使った料理なども提供し、各宿屋民宿は、至る所に花が添えられているという。
この花ずくしや花料理のもてなしが評価され、2006年度「花の観光地づくり大賞」を受賞しているという。



料理の祖神・「高家(たかべ)神社」


そして、花料理を生んだ千倉の町に、日本で唯一の料理の祖神を祀る神社がある。 
千倉漁港の西、山域部に高家(たかべ)神社が鎮座している。

社は1200年以上の歴史を誇り、「日本書記」によれば、「第12代景行天皇が安房の浮島に行幸のおり、磐鹿六雁命(イワカムツカリノミコト)が鰹と蛤を調理したところ天皇は大層喜ばれ、以後、磐鹿六雁命は膳大伴部に任ぜられ、宮中の料理番として迎え入れられた」と記されている。
高家神社の祖神は、この磐鹿六雁命で、日本で唯一料理の神様をまつる神社である。 

古くから味噌、醤油の神様としても全国にその名を知られ、調理師、調味加工業者の信仰を集めてきた。
又、結婚を控えた女性、新妻なども料理の上達を祈って数多く参拝するという。

三十段ほどの石段を昇り振り返ると、千倉の街並みの向こうに雄大な太平洋が広がっている。
平安時代から伝わると言われる「庖丁式」は、庖丁と箸を用い手をふれずに鯛・鯉・鰹等をさばく古式ゆかしい儀式で、時折TVなどでも放映され、お馴染みである。 

この、庖丁式は烏帽子(えぼし)直垂(ひたたれ)をまとった料理人が古式に則った所作で、一切料理に手をふれることなく包丁と箸を使い鯉や真鯛、ガツオ等をさばく、いわば日本料理の伝統を今に伝える厳粛な儀式である。
この日本唯一の料理の神様の地で、地元の「花・魚料理」の料理の名人が腕を競っている。


紀行(122)白浜 「八犬伝物語」



里美家の八犬伝物語と「白浜町」・・、


白浜町役場の北方に房総・里見氏の菩提寺である「杖珠院」(じょうじゅいん).が在る。

里見氏といえば、滝沢馬琴の南総里見八犬伝のモデルになった戦国武将として有名であり、初代里見義実はこの杖珠院の墓に眠ってる。

室町中期、白浜・野島崎に上陸した義実は、白浜に居城をかまえて戦乱の房総を平定し、当時の城跡も残っているという。
室町前期(足利時代)の関東地区では鎌倉公方(幕府より派遣されてる出先機関、関東公方ともいう)足利持氏が治めていて、その関東管領(公方を補佐する役職名)に上杉憲実がいた。 
安房国は上杉派が支配していたが、この時反乱が起きる。

「享徳の乱」といって足利持氏が側近の里見氏に上杉派掃討を指示し、白浜周辺の上杉派を駆逐したとされる。 
これを期に、里見義実は白浜城・稲村城を拠点に、安房国の勢力を指揮下においた。 
里見氏は初代の安房の国の統治者になった。


南総里見八犬伝」は、安房の国の城主・里見義実の娘「伏姫」と飼犬「八房」との間の物語である。

不思議な力で八つの徳すなわち「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の八つの玉が生れる、やがてそれぞれの玉を持って生まれた八犬士たちが成長し、苦難に出会いながらも因縁の糸で結ばれるという。

江戸時代、戯作者滝沢馬琴によって書かれた大長編小説である。

  「南総里見八犬伝」

  舞台は今の千葉県の南端安房国(白浜町)である。 時代は、室町時代の中頃、安房国領主・里見義実の娘、伏姫は、かつて義実によって処刑された悪女・玉梓(たまづさ)の呪いによって、飼い犬の八房(やつふさ)と夫婦になり山(富山町)の中で暮らす。
 ある日、伏姫は「八房の子が出来ている」と告げられ、「身に覚えがないのに犬畜生の子をはらむなんて」と思いおを詰めて自害してしまう。 だが、形のある子が出来たのではなく「気」だけの子が出来ていたのだ。 その時、伏姫が持っていた数珠の「仁・義・礼・智・忠・信・考・悌」の文字が浮き出て、八つの大玉が「気」とともに空高く飛び上がり、散り散りになり遠く飛び去ってゆく。 伏姫の婚約者であった金碗大輔(かなまり だいすけ)は、飛び去った八つの玉を探す旅に出る。 やがて関八州(関東)各地に、犬で始まる名を持ち、体に牡丹の痣(あざ)があり(犬の八房には八つの牡丹の痣があった)、文字の浮きでる玉を持つ若者が生まれる。
 「気」だけで生まれた八人の子が「形」を成したのである。 これが八犬士であり、長い物語が始まるのである・・。

  八犬士は、別々の場所に生まれながら宿縁に導かれて集まり、やがて里見家に仕える。
  里見家は関東管領・扇谷定正等の諸将連合軍に攻められ、水陸両面で戦うが、八犬士の活躍等により圧勝。 八犬士はそれぞれ城主となってゆく・・・。

  
【八犬士】

犬江 親兵衛 仁(いぬえ しんべえ まさし)     仁の玉を持つ
犬川 荘助 義任(いぬかわ そうすけ よしとう)   義の玉を持つ
犬村 大角 礼儀(いぬむら だいかく まさのり)   礼の玉を持つ
犬阪 毛野 胤智(いぬざか けの たねとも)     智の玉を持つ
犬山 道節 忠与(いぬやま どうせつ ただとも)  忠の玉を持つ
犬飼 現八 信道(いぬかい げんぱち のぶみち)  信の玉を持つ
犬塚 信乃 戍孝(いぬづか しの もりたか)     孝の玉を持つ
犬田 小文吾 悌順(いぬた こぶんご やすより)  悌の玉を持つ

安房・里美氏については、更に「館山」の項で詳しく述べます。


野島崎と野島崎灯台へ・・、

町役場の前より野島崎方面へ向かうと、海道沿いにお土産屋が賑やかに並んでいる。 
岬へは、歩道を少し歩く、房総半島の最南端にある岬で、これ以上の展望は無い・・、と思うほどの開けようである。 
地球の丸さを実感できる・・??。 
先端には、「最南端の碑」があり、「朝日と夕陽の見れる岬」の碑もあった。 
そして、丘陵地の一角に、白亜の灯台が凛として立っている、「野島崎灯台」である。



洋式灯台のさきがけ・「野島埼灯台」


房総半島の最南端、太平洋に向かって突き出た岬に立つ野島崎灯台は、明治2年(1869年)にフランス人技師ウェルニーによって設計された。 
関東大震災によって一度倒壊したが、大正14年(1925年)に再建されている。 
この灯台は開国の歴史を飾る慶応年2年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ「江戸条約」によって建設を約束された八ヶ所の灯台の一つである。 
高さ29mの白亜の灯台で、海面よりから灯火までの高さ38m、光遠距離は17海里(32km)である。
 

海の道標(みちしるべ)としての灯台の歴史は、1600(慶長年間)年頃、小倉藩主・細川氏が、その領内豊後国・姫島に篝火を設け航行船舶の便に供したと記録に残るのが初めてで、篝火(かがりび:狼煙・のろし、より一段と発達したもの)灯台といわれている。

江戸時代における海運の隆盛に伴い、石造の小搭上に灯篭を置き油紙障子で囲い、灯ろう内の油盞に灯芯を浸し火を点じた燈明台で、その数約100余基が北は松前・函館、南は博多と江戸を中心とした海路の要衝に設置されたという。

幕末、アメリカ・イギリス・フランス・オランダ・ロシアの五カ国との修好通商条約で横浜・長崎・函館を開港し、外国との貿易は年を追って発展をみせる。 
そんな中、修好通称条約の締結に伴って、主要な国際航路となった日本の海域は、地形複雑で気象、海象の変化が多く、海岸には暗礁が点在し、列強の大型機帆船にとって非常に危険を伴うものであった。 
その為、暗黒の海を安全に航海するための「航路標識」の整備を必要とした。

日本における洋式灯台の誕生の契機は、下関戦争(1864年に発生したイギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊の長州藩への報復のために、下関海峡を舞台に戦い、連合国船が圧倒的な勝利を収める)に勝利したイギリスを中心とした列強が、幕府に賠償金を放棄するのと引き替えに、いくつかの条件を提示したことによる。  

そのうちの一つに、航路を明示する標識、航路標識(灯台)の整備が義務づけられ、これを「江戸条約」と呼んでいる。 
灯台の第1号が、観音崎灯台(神奈川、三浦半島の最東端・東京湾浦賀水道)であり、その後、野島埼灯台、樫野崎、潮岬、佐多岬、剣崎などに洋式灯台が設置された。

灯台のラセン階段で登って行くと、展望台からは野島崎沖を通して、太平洋や遠く伊豆半島まで見渡せる絶好の眺めである。


この野島崎沖は、克って、海難事故が多発する「魔の海域」といわれた・・、


特に近年、この野島崎付近では、「ぼりばあ丸」、「かるふおるにあ丸」をはじめ、戦後から27隻もの近代的大型船の海難事故が相次いだ。 
これらの遭遇は、低気圧が急速に発達し、強い寒気の吹き出しの伴って起こる「高波」によって起因されるという。
 
昭和45年2月初旬、千葉県野島崎沖で「かるふおるにあ丸」が、船体を真っ二つに割り、沈没する事故が起きた。 事故同時、低気圧が発生し風速20メートル程度の風が吹いていた。 この風は「おおしけ」といわれる海の状態で12m高の波があったとされる。 
しかし、大型海洋波浪水槽で実験を行ったところ、この程度の「風波」では、船は沈むことはなく、真っ二つになることもなかったとされる。 
更に、実験を行った結果、2方向からくる波と波が重なると非常に高い波が発生することが判明、これを「三角波」といい、波の高さは2倍にもなることがわかった。

これらの実験の結果、船底が折れる原因は、航行中、船の真下で三角波が発生、船は大きく持ち上げられ、海面に落下、船は海面にぶつかり、その衝撃で真っ二つに折れたことが判明したという。
 
野島崎沖は、寒流(千島寒流)と暖流(日本海流)の合流地点であり、海流の「うねり」と「風波」がぶつかると巨大な波が発生し、計算ではその波の高さは36m(ビル12階にに相当)にもなるという。 
これらが要因として、「かるふぉるにあ丸」は、真っ二つになり、沈没してしまったと考えられるというのである。

これらの海難事故は、原因が分析、解析され、その後の船の設計、建造や運搬形態の変更、波浪予報技術の進歩などがあり、最近は野島崎沖での海難事故は激減したという。


過去に、NHKテレビの人気番組「プロジェクトX」で、1980年(昭和55年)12月30日に発生した、千葉県・野島崎沖・東南東約1500キロの太平洋を舞台にした救出劇が放映された。

当時、海難事故が相次ぎ、「低気圧の墓場」と恐れられていた野島崎沖が舞台で、荒れ狂う嵐の中、船首が折れた大型貨物船「尾道丸」はまさに沈没寸前だった。 
その危急に接し、近くを航行中の大型貨物船「だんぴあ丸」が現場に急行。
二重遭難の危険を顧みず、44時間に及ぶ必死の救助活動の結果、尾道丸の乗組員29人全員を救出した。 
瞬間風速25メートル以上の暴風雨が吹き荒れる中、「死の恐怖」と戦い続けた3日間、だんぴあ丸の船長・尾崎氏は「私には御本尊がある」と題目を唱え、ひたすら救出のチャンスを待ち、そして冷静沈着な救出活動を敢行した。

後日、海の専門家たちから、「国民的顕彰」、「まさに神業」、「日本のみならず世界の船乗りの鏡」と絶賛された。  救出活動を成し遂げたのは、信仰で培った“忍耐”と“勇気”であったと、氏は後に述懐している。


波浪とは・・?、気象予報で良く聞く名称である・・、


海上では風が吹けば、海面が風からエネルギーを受け、波がしだいに発達する。 
このように、その海域の風によって引き起こされる波を「風浪」(ふうろう)という。 
又、海流や遠方から発生した風浪が伝播してくる波、あるいは風がやんだ後に海面に残っている波を、「うねり」という。 
波浪とは、この風浪と「うねり」をあわせた総称のことである。


灯台の下から岬にかけて遊歩道が整備された公園になっていて清清しい。
灯台の中を見学した後は遊歩道を一周するのも良い。
そして、近くには観光スポットも充実している。

白浜から概ね沿岸沿いを西に向かい、フラワーパークの園地辺りで館山市に入った模様である。
間もなく国道410は、洲崎方向への道と分岐する。

ここの近場に「房州一の宮・安房神社」が鎮座している。

次回は、「館山」  PART(4)へ



小生の旅と山旅  日本周遊紀行  世界遺産と鎌倉・湘南  日本周遊ブログ  日本周遊写真集T
日本周遊紀行:詳細目次
詳細目次(東日本)  信越・東北西沿岸 北海道T、世界遺産:知床 北海道U 東北・東沿岸 関東沿岸
詳細目次(西日本)  鎌倉・湘南 東海 近畿 四国 山陽 九州(北、西) 九州(南) 九州(東)  沖縄  
               山陰・北近畿  
北陸  世界遺産:紀伊熊野  宮島 石見銀山
【旅のリンク集】
旅の紀行・記録集
山の紀行・記録集 山のエッセイ
「旅行リスト」
日本周遊紀行「東日本編」
日本周遊紀行「西日本編」
日本周遊紀行 (別URLです)

【日本の世界遺産紀行】 
北海道・知床  
白神山地 
紀伊山地の霊場と参詣道 
安芸の宮島・厳島神社  
石見銀山遺跡とその文化的景観 

ハワイ旅行2007
九州旅行2008
東北紀行2010
沖縄旅行2008
北海道道北旅行
北海道旅行2005
南紀旅行2002

古都鎌倉紀行
「山行リスト」 

立山、剣(天の記)(1971年)
白馬連峰登頂記(2004・8月)
北ア・槍−穂高(1968年)
上高地・明神(2008年)
南ア・北岳(1969年)
南アルプス・仙丈ヶ岳(1976年)
八ヶ岳(1966年)
八ヶ岳越年登山(1969年)
谷川岳(1967年)
尾瀬・燧ケ岳紀行(1973年)
丹沢山(1969年)
西丹沢・大室山(1969年)
西丹沢・檜洞丸(1970年)
丹沢、山迷記(1970年)
奥秩父・金峰山(1972年)
「上高地雑感」
「上越国境・谷川岳」
「丹沢山塊」
「大菩薩峠」
 


スキーの記録  
「スキー履歴」