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日本周遊紀行

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紀行(119)九十九里 「伊能忠敬」



歩きに歩いて日本地図を作った男・「伊能忠敬」・・、


九十九里浜の美しい砂丘の海岸道路が行く。

見通しの良い、ほぼ直線の九十九里ビーチライン、愛称「波乗り道路」を快適に飛ばす。 
直線的で走りやすい海岸沿いの道は、時おり九十九里浜の潮風がビュウッと吹くので、窓を開ければ実に快適である。

九十九里浜は、2市10町2村に渡っており、飯岡町から岬町の大東崎まで、66キロに渡る日本最長の砂浜である。 
この中間地に「九十九里町」が在った。そこに、この浜唯一の片貝漁港がある、「いわしの港」である。 


日本人とイワシのつきあいは古く、石器時代にはすでに食べられていたと言われる。
九十九里浜のイワシ漁は、江戸後期には日本一を誇るほど大量に水揚げされ、最高の漁獲時は全国の漁獲高の三分の一にも達したともいう。

「黒潮」が九十九里の沖を通るため、水温や塩分の濃さが、 又、餌になるプランクトンが多量に繁殖し、そのためイワシが住むのに適しているといわれる。
イワシは、江戸時代の頃には農作物の肥料が主であったが、 現在は、飼料、肥料、食品、化粧品などの多くに用いられている。 

代表的なイワシはマイワシ、カタクチイワシ(背黒イワシ)、ウルメイワシなどであが、イワシには、豊富な栄養分が多く含まれており、すばらしい健康食品でもある。 
特に我々中高年族には成人病予防食品としての代表格であろう。


イワシ漁法としては、九十九里は海底が平らで遠浅なので、浜近くの村々では、昔から「地引網」が発達した。今は機械船を使った揚繰網(あぐりあみ)漁が主で、地引網は観光用となっているという。獲れたイワシの7割が飼料、2割が加工食品で、鮮魚として流通するのは1割だそうである。

九十九里町役場の近くに、わが国に唯一その名も「イワシ博物館」が在る。 


九十九里浜の古名は、「玉浦」(玉の浦)と呼ばれていたという。 

源頼朝の命で、6町(1町は約109メートル)を1里として、1里ごとに矢を立てたところ、99本に達したという伝承から「九十九里浜」と言われるようになったという。
中央とされる山武市蓮沼地区(旧蓮沼村)には、その名も箭挿(やさし)神社があり、またその故事に因んで矢指ノ浦の別称もある。


『 まん丸や、箭挿(やさし)が浦の 月の的 』

と源頼朝が詠んでいる。


小生は、今、日本の海岸に沿って車で旅をしているが・・、


ここ九十九里町出身で、日本中のあらゆる海岸を歩き通した男がいる。
伊能忠敬」である。歴史上、或いは未来永劫も、これ程日本中を自分の足で歩いた人物はいないし、再び出る事はないであろうといわれる。 
それも趣味や健康のためだけでなく日本地図をつくる目的、仕事としてである。


伊能忠敬は、江戸末期、55歳から73歳の13年間、日本中を測量して歩いた・・、


距離にして35200kmといわれ、地球1周分、九州の果てから北海道の果てまで九回も往復した事になる。

忠敬は、今の九十九里に生まれ、忠敬が49才で家督を譲り、かねて趣味としていた天文を更に探求すべく江戸に赴き、幕府歴所・天文方(江戸幕府の職名・若年寄に属し、天文・暦術・測量・地誌・洋書の翻訳などに関することをつかさどった)に大阪より着任したばかりの高橋景保(たかはし かげやす・江戸時代後期の天文学者)に強引に弟子入りをした。


幕末の日本は、ペリーが浦賀に来航する前からロシアが蝦夷地に出没したり、多数の外国船が日本周辺を徘徊していた時期でもあり、時には、沿岸海域で援助や遭難、難破して救助を求めて来るときもあった。 
鎖国時代の幕府は、その様な外国船に対してある種の脅威を感じ、時には衝撃をうけていた。
幕府は、このような時世に測量家としての名を挙げつつあり、腕を見込まれていた忠敬に注目し、しかも、私財を投じて測量事業を行なっていたことが幕府にとっても有益だと判断したようで、忠敬に「測量方」を依頼する。 

最初の測量は蝦夷地(現在の北海道)およびその往復の北関東・東北地方において行われた。 
だが、忠敬の測量が極めて高度なものであったことから、その後徐々に幕府からの支援は増強され、国家的事業として育っていったという。

忠敬が、正式に幕府の命を受け、日本の地図作りに没頭し、前人未踏の成果を挙げたのは国土防衛のためでもあったのである。 
その結果、18年間に至る日本全土の測量、地図製作という大事業を成し遂げた。 

忠敬が作成した地図は伊能図として、世界でも実測による地図として貴重であり、且つ精度も非常に高く、昭和の初期まで軍・参謀本部の20万分地図に使われていた程であった。



利根川河口より少々入った川べりに「佐原」の町がある。
江戸期は水運で栄えた商いの町で、古い町並みのいたるところに昔の面影が残る建物が多い。
忠敬が18歳の時に、下総国香取郡佐原村(現・香取市佐原)の伊能家に婿養子に入り、以来しばらくは商人として活動する。 

伊能家は、酒、醤油の醸造、貸金業を営んでいた他、利根水運などにも関っていた。 商人としてはかなりの才覚の持ち主であったようで、伊能家を再興したほか、佐原の役職をつとめたなどの記録が残されている、そのためかなりの財産を築いたともいわれる。

現在は、この地に記念館があり、彼が制作した「大日本沿海輿地全図」(220枚)や数々の下絵地図、方位、距離観測器具などが展示されている。

「大坂冬の陣」の前年、徳川家康の命により江戸城と九十九里浜の中央を結ぶ、ほぼ一直線の道路が作られた。 
現在、その痕跡は無くなりつつあるが、九十九里浜の中央部、蓮沼村の小松地区から県道124号、東金付近から宮城野JCTの北、県道69号から船橋、京葉道路にそって江戸城へ至っていたという。

今は、古道と概ね並行している東金九十九道、千葉東金道、京葉道、首都高を結べば最短時間で都心から九十九里までは、凡そ1時間少々で往来できるのである。

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紀行(120) 「一宮、御宿」



一宮の「宮」の訳は・・、


海岸線の快適な・・とは言っても小雨の中であるが、九十九里道を更に南下する。
なだらかに湾曲した九十九里浜は、やがて「一宮町」辺りで尽きる。 その一宮町であるが、全国に数字のつく一の宮、二の宮など宮の付く地域名が多い。

小生の住む相模の国(神奈川)にも一の宮、二の宮、三の宮、四之宮とご丁寧に揃って存在する。
何れも「宮」と付くからには神社に所縁(ゆかり)のある地名であることは確かである。


神社は昔から一郷一村の人達の心の拠り所であり、日本民族の魂のふるさとでもあった。 
又、神社は古来、政事(政治)の中心的存在でもあった。

平安期、その国(地域)の神社の格式や祭政一致に基ずいて、朝廷(天皇が政治を行っていた場所)がその神社の挌位(序列)を決めたのが、「延喜式(式内社)」といわれるものである。
「一の宮」はその国の由緒ある信仰の篤い神社の第1位のものである。 
国司(中央・朝廷から地方・諸国へ派遣された地方長官)が地方へ赴任したときは、一の宮、二の宮、三の宮と順に巡拝しなければならないとも規定されている。


ここ「一宮町」は玉前神社が上総国の一宮だったため「一宮庄(荘)」の名前が広まり、現在まで「一宮」の名称が使われているのであろう。 
その玉前神社は上総一宮駅の西側に鎮座している、主祭神は玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)、相神は鵜茅葺不合命(ウガヤフキアエズ)又は神武天皇としている。
 
「玉前・・」の名前の由来は、古来から九十九里浜には寄石伝説(石玉に霊力を感じ、これを光り輝く神として祀っていた。
玉は勾玉、八坂瓊曲玉に通じ天皇の「三種の神器」の一つでもある)があり、古くは「玉の浦」と称していた。
又、主祭神を日向三神に由緒ある「玉依姫命」としていることだろう。

尚、玉依姫命、鵜茅葺不合命、神武天皇は日向地方における古代神(天津神)といわれる神々で、記紀(古事記、日本書紀)においては山幸彦(火火出見・ホホデミ:神代二代天皇)と豊玉姫の間に鵜茅葺不合(神代三代天皇)が生まれ、この子を育てたのが玉依姫であり、更に、鵜茅葺不合が神武天皇(歴代の初代天皇)を生んだとされている。
 

玉前神社には、「上総の裸まつり」、「十二社まつり」といった1200 年の歴史のある例祭があり、房総半島に多い浜降り神事の中でも最古の歴史と伝統を誇るとされている。
壮大な儀礼をひと目見ようと近郷近在、関東一円から大勢の人々が集まるという。尚、「十二社まつり」では二つの神輿のうち、一基は大宮様(玉依姫命)、もう一基は神武天皇とされている。

一宮町には、他にも古い歴史を抱く大小さまざまな神社・仏閣が数多く在り、町内ではそれぞれの地域で、今でも季節ごとに昔からのお祭が伝えられ、賑やかに行なわれているという。 

一宮町は、やはり歴史と文化が漂う香り高い街であった・・!!



「御宿」は文教の町であった・・!、


岬町は、広大な太平洋に突き出した太東岬にちなんで命名されたのだろう。
美的に単調な九十九里浜はここ太東岬を境に一変する、一般的にこらから先は「南房総」と称しているようである。 

複雑に入組んだ海岸地形は独特の海岸美を形成していて、ここには観光施設やレジャー施設も多く、歴史や文化の色彩も濃く、首都圏の観光拠点にもなっている。 
また黒潮流れる温暖な地は各種花々の栽培が盛んで、海岸道路を”フラワーライン”とも称している。
ようやく雨も小降りになってきて、明るさも増してきたようで、これから拙車はその南房である、国道128号・愛称である「外房黒潮ライン」を行く。

清流・塩田川を渡り、左に大原の港を眺めながら、「御宿」へと差し掛かる。
この御宿には心温まる逸話があった。
明治35年、猛烈な台風で御宿小学校は全壊した。

財政難の時代、時の校長・伊藤鬼一郎氏と村長は全村民に同意を得て、学校建設の為、毎日五厘(一銭の半分)の日掛貯金を実施した。 
その後、毎戸2倍の一銭とし、実に9年間に亘り一戸の脱落者もなく達成したという。
集まった金額3万円余(現在の価値で約1億8千万円)を以って独力で737坪の立派な新校舎を建てたという。
五厘は、儒教の「五倫五常」の五倫に通ずるとして、新たに学校名を「五倫黌御宿小学校」と名付けたという。

五倫」とは、人として守るべき五つの道、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信、「五常」とは人としての心得、仁・義・礼・智・信を言う。


小学校のすぐ南に歴史民俗資料館がある、ここの一角に教科書を専門に収集した「五倫文庫」なるものが有り、当時の校長伊藤鬼一郎氏が、毎年使用される教科書を保存し比較研究したのがその始まりであると。
氏は、初等教育が次の時代を背負ってゆく少年少女に如何に重要であるかを早くから認識され、 特に世界が平和の中に共存してゆくには、未だ天使のような清い心の幼い時に、正しい教育をすることが不可欠なのだという信念のもとに実行された。
収集した教科書は国内25000冊、国外50数ヶ国7000冊に及ぶ。

昨今、中高歴史教科書の記載の仕方が問題視されるときがあるようで・・、当の執筆者、関係者は、御宿の教育関係者に問うてみては如何かな・・!!。
御宿町は文教の街として、その名を千葉県のみならず全国的に知られているという。
 
御宿海岸は大幅な砂浜に覆われており、同じ海岸線でも九十九里浜とはまったく異なる姿を見せている。 
白い砂浜が波のようにうねり、海辺を見なければまるで砂漠のようである。

大正期の作家の「加藤まさお」が、病気療養のために滞在していたのがこの浜で、この地で童謡「月の沙漠」が生まれたという。

  「月の砂漠」 加藤まさを  佐々木すぐる(曲)
 月の沙漠を はるばると     
  旅のらくだが 行きました
  金と銀との くらおいて
  二つならんで 行きました

 金のくらには 銀のかめ
  銀のくらには 金のかめ
  二つのかめは それぞれに
  ひもでむすんで ありました

 先のくらには 王子さま
  あとのくらには お姫さま
  乗った二人は おそろいの
  白い上衣を 着てました

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紀行(121) 「合併の町」



「合併の町」・・・、


九十九里浜の中心より北部に位置する町村域は「平成の大合併」で、大幅に変化しているようである。

北から先ず「香取市」である。
千葉県北東部の市で2006年3に佐原市と香取郡小見川町、山田町、栗源町が合併して誕生している。対岸の茨城県と接し、市北部の利根川に面した低地部は水郷と呼ばれ観光地として知られる。
「香取市」の市名はこの地方ゆかりの名称(郡名)であること、合わせて由緒ある下総一の宮・香取神宮から選定されたものであろう。

旭市」は2005年7月 、現旭市と干潟町、海上町・飯岡町が対等合併し、新しい「旭市」となっている。
「旭」という呼称は一説には「旭将軍」と呼ばれた木曽義仲の末裔である木曽義昌がこの地で死去したのを惜しんで命名されたともいわれている。 
木曽義昌は、戦国期の信濃国の武将で、木曽谷の領主・木曽氏の第18代当主。 
1590年、徳川氏の関東移封に伴って子義利に下総国阿知戸(現在の旭市網戸)の1万石が与えられている。

2006年(平成18年)1月23日 、八日市場市、野栄町が合併し「匝瑳市」が発足する。 
「匝瑳」とは、難解である・・!、「そうさ」と発する。 
匝瑳を”そうさ”と読める人は千葉県民にも少ないといわれ、日本全国でも屈指の難読市名であろう、クイズ番組にでてきそうであるが・・。

匝瑳(さうさ)については・・、
近畿の豪族・物部氏(物部氏の一族)が、朝廷から下総国の一部を与えられ、その名を「匝瑳郡」(さふさごおり)とし、その子孫が物部匝瑳(もののべのそうさ)氏を名乗ったと伝えられている。

匝瑳(さうさ)の語源については定かでないが、匝(そう・さふ)は、布(布巾)に通じ麻の織物、「総」のことで、瑳(さ)は、あでやかである、美しい事を意味する。
つまり、“美しい麻のとれる土地”のことで往時の下総国、房総にも通じると云われる。

地元の人は「匝瑳市」とは難儀ながら、縁起のよい漢字を充てたものと考えられているようである。
尚、「麻」に関係するとする「総の国」、「房総」の起こりについては、この先、館山の項:「房総・安房神社」に詳細記載してあります。

次に、2006年3月27日に光町、横芝町とが合併して新たく「横芝光町」が誕生する。 
この地は、江戸期幕末に商人・測量家である「伊能忠敬」(幼名・小関三治郎)を輩出していることは先に述べた。

又、蓮沼村、成東町、松尾町、山武町の4町村が、2006年3月27日に合併し「山武市」が誕生する。 
山武は、“やまたけ”ではなく、“さんぶ“でもなく、「さんむ」と称する。 当初は、合併後の新市名を稀有壮大な「太平洋市」にする予定だったが、一自治体に太平洋を名乗るべきではないと言う趣旨の抗議が相次いだ為、住民アンケートを行って現在の市名に変更されたという。

そして、九十九里と南房の境に「いすみ市」(いすみし)が、2005年12月5日に誕生している。 岬町、大原町、夷隅町の対等合併で、夷隅郡(いすみぐん)から市名を付けたという・・、ただ、前にも記したが行政名で「ひらがな文字」は戴けない・・、せめて、夷隅市で良かったのでは・・?、夷隅は古事記にも絡む由緒ある地名のようだが・・。


「勝浦、小湊」・・、
国道128は、勝浦の岬の付根を上り下りしながら、勝浦の市街地へ来た。 
勝浦湾を正面に町は広がっていて、なかなか雰囲気がある。
目抜き通りに”朝市通り”というのが在る。

天正年間から400年以上も続いている勝浦の顔「朝市」は、ここで今も毎日開催されている。 
四季を通じて、近郷近在の採れたての野菜や果物などの山の幸や、その日の朝漁港で水揚げされたばかりの魚介類などの海の幸のほか、自家製の漬け物・つきたての餅・赤飯・しおから、から干物などの加工品などと、細工などの工芸品も店先に並べられている。

歴史と文化を感じる勝浦の朝市は、石川県の輪島、岐阜県の高山と並ぶ「日本三大朝市」の一つと言われている。 朝市通りは下町通り、仲町通りと2箇所あって、其々月の半数ずつ交代で行っているらしい。

勝浦」は古くから漁業がさかんで、中でも勝浦漁港は国内有数の「カツオ」の水揚げ港である。 
カツオの水揚げは1990年から日本一を記録している。

因みに、同地名の紀州・和歌山の那智勝浦町は生マグロの町と言われ、「生鮮マグロ」の水揚高日本一を誇る。 
面白いのは、この地「勝浦」の地名は、紀州・勝浦の漁業流民が当地に土着するようになって名付けられたという。  こちらも詳しくは後ほど・・、
次回は、小湊、  PART(3)へ


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