

| 12日目:PARTV(津軽海峡、松浦武四郎) 観光編(室蘭・地球岬)へ 第13日目へ 写真集 | |||
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紀行(88) 「津軽海峡」北海道をグルッと一周、今は津軽海峡、海の上である・・、 16時20分(平成16年10月1日)、大間行きのフエリーは定刻に出航した。 9月24日18時、ここ函館に上陸して一週間で道内の海道を巡ったことになる。 「函館山」を左に見ながら、永かった北海道に別れを告げる。 牛が寝そべっているようにみえることから別称「臥牛山」ともいわれている通り、市街地から見える錐形の山と異なって、上部付近はなだらかな台地上をなしていた。 この函館山が左舷前方より次第に迫ってきて、やがて後方に去っていった。 傾いた夕日もやがてこの海峡に吸い込まれようとしている。 夕時・・、海は凪いでいた。 「津軽海峡」・・!、 海峡とは、陸や島の間の海域を示す地形名であるが、一般的には同様の地形名である瀬戸や水道よりも規模の大きい場合に使われるようである。 しかし、瀬戸内海や紀伊水道は規模的にはどうなんであろうか・・?。 あの好奇心と知識欲の旺盛な吉田松陰は、竜飛崎に立って津軽海峡越しの蝦夷地を眺めてはいるが渡ってはいない。 海峡は、津軽までやってきた旅人でも嘗ては、その先の旅路を諦めるに充分な荒海であり、当時は容易に越すに越されぬ荒ぶる大自然そのものであったのだ。 しかし、荒々しい海峡を果敢に攻めた人物もいた。 伊能忠敬、間宮林蔵、松浦武四朗などは別格としても、この地で独立国家を夢見た土方歳三や榎本武揚、蝦夷の莫大な物産に目を見張り日本海の海運路を切り開いた高田屋嘉兵衛、ベイエリアに赤レンガ倉庫群を建設した渡辺熊四郎など、函館の地に大いなる夢を見た御仁人々だった。 ところで、小生、北海道へ渡る時も同様にこの海峡、海域を通っているが、津軽海峡は、この地(海)が最も幅が狭い海域なのである。 (実際は汐首岬と下北半島の大間崎の間で、約19kmある) この海域に対し西側の松前の白神岬と津軽半島竜飛崎間は20kmとやや長い。 太古の昔、日本列島が今の形になる以前、津軽海峡は所謂、瀬戸か水道の様な狭い地域であった。 中央部の海底は、峡谷のような地形で東西に伸びていたらしいが、この海底の水深が約140mと一番浅くなっている地帯が「竜飛⇔白神岬」の間である。 その為、ここを鉄道専用の「青函トンネル」(津軽海峡線)が通っているのである。 さてさて、この海峡に実際の道路トンネルや道路橋はないが、名目上は国道279号、国道280号、そして国道338号などが横断しているのである・・?。 国道279号は、現在小生が乗っているこの連絡船航路がそうであって、起点が函館市若松町・函館駅前交点から、終点は青森県野辺地町の松ノ木平交点で陸上距離・107.0km、海上区間が津軽海峡(函館⇒大間、東日本フェリー航路)となっている。 大間の港には、R279からフェリーへと標識で表示されている。 国道280号は、起点が青森市長島2丁目(国道4号・国道7号終点)から、終点は函館市万代町(万代跨線橋交点=国道5号交点)で陸上距離・142.0km、海上区間は三厩⇒福島間の津軽海峡である。 青函トンネル建設時はこの区間のフェリー(東日本、三福)で資材の通運が行はれた。 又、江戸期、松前藩の参勤航路でもあり「松前街道」でもあった。 国道338号は、函館から下北半島の大間まで海上区間を含め国道279号と重複するが、下北半島では西岸・南岸(佐井、脇野沢、川内)を経由する道路であり、むつ市からは太平洋沿岸部を通り六ヶ所村、三沢、下田までの国道である。 この海峡は、マグロ漁・「一本釣り」のメッカである・・!、 この海峡、この船の下に「日本一のマグロ」が泳いでいるんだと思うと何だか不思議な気がする。 今はこの大海に一隻の船も見当たらないが、早朝、多い時で100隻近い船がマグロを追ってゴッタ返すという・・!。 大間は近海マグロの産地として昔から「1匹獲れれば数百万円」といわれる夢を追って、そしてそれを実現しようとする漁師で溢れる。 築地でも「大間産マグロ」は、今では1kgで4万、5万と値が付き200キロ超のマグロだったら一匹で1千万円にもなるという。 そもそも、マグロにはミナミマグロやキハダ、メバチ、カジキなどと色々あるが、大間のマグロこそ本マグロと言われる「黒マグロ」なのである。 南太平洋で産まれて、その群れが黒潮にのって北上し日本沿岸にやって来る。 そして、親潮と黒潮のぶつかるエサの豊富な東北北部、津軽海峡は一大漁場となるのである。 大間の沖の「弁天島」付近はその天然の餌場となり、真さに「大間の宝海」と言われる由縁なのである。しかも一番値段のいい年末年始頃に良く獲れて最高の値段がつく、それは秋に豊富なエサ食したマグロが冬には身が締まり脂が乗るからといわれる。 大間のマグロの漁方はご存知「一本釣り」であるが。 他にも漁方は延縄(はえなわ:1本の幹縄に多数の枝縄《これを延縄と呼ぶ》をつけ、枝縄の先端に釣り針をつけた構成となっている)、曳縄(トローリング)、定置網などが知られるが、近年は養殖ものも増加しているという。 津軽海峡といい、マグロ漁といい、この海域は小説や物語には事欠かず、特に演歌が良く似合う恰好の水域なのである。その代表的なのが、やはり此れであろう、 昭和52年にはレコード大賞も受賞している。 「津軽海峡冬景色」 唄:石川さゆり 作詞:阿久悠、作曲:三木たかし
紀行(89)津軽海峡 「船中余談・松浦武四朗」 「北海道の名付け親」・松浦武四郎 北海道・小平町に立つ銅像 北海道の名付け親・松浦武四朗のこと・・、 ところで、北海道を一周して又、この執筆中に「松浦武四朗」という人物によく出会う。 歌碑や像、顕彰碑が各所に在り、釧路市の中心街には「松浦町」という地名まであった。 往時の釧路市の議長が市史を調べるうち「松浦武四朗」が・・、 『 ”この道東の地(釧路)は将来、相当に発展するだろう”』というくだりの文章を見つけて、町名を松浦町にしたというエピソードもある。 既に紹介したが・・?、松浦武四朗は「北海道の父」といわれ、「北海道の名付け親」でもある。 北海道の地名や郡名に、アイヌへの敬愛の気持ちを込めてアイヌ語を生かした名前を付けたという。 北海道の「海」は元々は「加伊」の読みであって、アイヌ人はこの地を「加伊」と呼んでいた。 武四郎はアイヌと交流するうちに『北海道』という名前を「北の国に生まれたアイヌの大地」という親愛の情を込めて名付け、支庁名、郡名についても武四郎は「地名はその土地の文化である」として、アイヌ語地名に基づいて選定を行ったという。 松浦武四郎は1818(文政元)年、伊勢国須川村(現在の三重県松坂)出身。 三重県の三大偉人の一人(松尾芭蕉・本居宣長)ともいわれ、一般には他の二人よりは余り知られていないようだが・・、旅行家、探検家であり地理学者であった。 生家実家は伊勢神宮の参道に通じる参宮街道に面していた。 少年の頃、「お陰参り」といって伊勢神宮に60年に一度の大祭があり、この参道をお参りする人々が一年間に400〜500万人もいたといわれていた。 当時の日本の人口の一割以上の人が通ったことになるという。 武四朗少年はこれをきっかけに「旅」に目覚めたという。 十代前半 から西日本の各地を旅行しながら長崎に着いた時、ロシアが蝦夷地に通商開港を願い出ているのを知って(このとき長崎は既にオランダ等と開港していた)急きょ蝦夷地へ向かった。個人的には既に蝦夷地を三回徒歩していて、このとき「羊蹄山」等、冬の北海道の山を完登している。 又、これらの経験を見い出され幕府用人としても三回、蝦夷探検を実施している。 「北海道」を命名したのはこの時期であり、合わせて北海道の巨大地図をも完成させている。 描かれた地図は伊能忠敬が描いた蝦夷地図より更に厳密なものに成っていて、例えば北海道最大の河川「石狩川」は、現在日本の流域で2番目、長さで3番目であるが、その昔は相当に広く、長かったことが判るという。 これは河川の開拓や改修が頻繁に行はれた事によるものであるとのこと。 江戸時代が終わり明治時代へと変わると、明治政府は蝦夷地へ「開拓使」という役所をつくる。 政府は、数々の業績を持ち、蝦夷地通と誰もが認める松浦武四郎を初代「開拓判官」に任命した。 明治政府の役人になった武四郎は、蝦夷地の新しい名前や開拓政策を提案する。 武四郎が目指した北海道は、アイヌと和人(日本語を母国語とする人々)が共に仲良く暮らすことができる大地であったが・・、しかし、一年余りで退任しているという。 それは何故か・・?、武四郎の意思とは全くそぐわない、明治政府のアイヌへの政策であったのであった。 アイヌは、1871年の戸籍法公布とともに「平民」として日本国に編入されるが、実際の戸籍には「旧土人」と記載され、事実上「二級国民」扱いされたのであった。 翌1872年には、伝統的の継承されてきたアイヌの文化や風俗は取り締まり対象となり、女子の入れ墨や男子の耳輪が禁ぜられた。 又、アイヌの土地も大半は剥奪されたうえ、古来の生業である狩猟や漁業も明治政府により事実上禁止され、違反すれば「密漁」として罰せられることになった。 その後も、アイヌの悲惨な生活状況を「改善」させるという名目で、明治政府は1899年、北海道旧土人保護法を公布・施行した。 しかしこの法律はアイヌを徹底的に差別し、アイヌの民族性と文化を著しく損なうものでもあり、法律により設立されたアイヌ子弟のための小学校にしても、目的は天皇制国家の忠実な「臣民」となるよう、アイヌ文化やアイヌ語を「撲滅」させることに重点が置かれたようである。 この法律はまた、農業を営もうとするアイヌは優遇したが、漁業などの本業を営もうとするアイヌには一切援助は出さなかったいう。 この様な有様を見聞するに及んで武四郎は、開拓使の役人たちと度々口論になることが多かった。 政府要人に対しても意見書等を出し激論を交わしたりしたが、一向に改革する気配が無く、更に、旧幕府時代の「場所請負人」という悪業制度が引き継がれるに及んで、遂に開拓判官の職を辞してしまう。 この後は任官することなく、東京神田に隠居し、時折、大好きな山登りを楽しんだという。 松浦武四朗の気骨ある一面を示したとも云える。 次回からは北海道東部の「温泉と観光」をどうぞ。 観光編へ |
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