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日本周遊紀行

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紀行(80)苫小牧 「制覇・駒大苫小牧高」



全国高校野球の優勝チームが、遂に東北を通り越して津軽海峡を超えた・・!!、


厚真川を渡ると「苫小牧市」にはいる。

苫小牧は北日本最大の港湾都市である。
北海道の空の玄関「新千歳空港」に隣接し、道都「札幌」の表側の玄関口でもあり、首都圏方面へ長距離フェリーも運航している。 
港湾での貨物、製造品の扱い額では人口10倍以上を有する札幌市を上回り、道内はおろか北日本有数の総合工業地として発展している。

こんな「苫小牧」に今年な夏(2004年)、とんでもない事が起きた・・! 
高校野球ファンの小生にとっても、しびれるような真夏の一日であった。

高校野球の優勝高は春夏を通じて北日本のチームは一度もない。 つまり「白河の関」を未だ越えてないと・・、よく言われた。 

因みにこれまでの北日本のチームの最高成績を記してみよう。 
昭和44年、51回夏大会決勝戦、松山商(愛媛)0−0、4−2三沢高校(青森)延長18回引き分け再試合。
『 手に汗握る好試合で、三沢には勝つチャンスは十分にあったが、延長18回決着がつかず、翌日再試合となった、結果は野球王国、四国勢の粘りに今一歩及ばなかった 』   

昭和46年53回夏大会決勝戦、桐蔭学園(神奈川)1−0磐城(福島) 
『 何といっても磐城は我が母校である。小さな大投手と言われた磐城の田村とアンダースローの大塚の壮絶な投げあい、1−0で迎えた9回裏二アウト三塁、次の打者は無念ながら一塁フライで終わりゲームセット 』   

平成元年71回夏大会決勝戦、帝京(東東京)2−0 仙台育英、 平成13年、73回センバツ決勝戦、常総学院(茨城)7−6仙台育英、
・・といずれも決勝戦で敗れている。

2004年、第86回全国高校野球選手権大会は、8月22日(第16日)、決勝戦を迎え、駒大苫小牧(南北海道)対済美(愛媛)の決勝戦が行はれた。
互いに序盤から点を取り合い、逆転に次ぐ逆転の末、駒大苫小牧が13―10で振り切り、済美を破った。 
北海道勢としては勿論、北日本勢としては初の全国制覇を果たしたのだ。

駒大苫小牧は序盤に5点を失いながらも、4回に一気に逆転した。
6回表に再逆転を許したが、その裏2点本塁打を放ち、すかさず同点。
7回連打で3点差。8回にも1点を加え、毎回の20安打で強打の済美に打ち勝った。 
済美は3点を追う9回、二塁打から2死一、三塁と攻め立て、合計19安打の猛攻を見せたが、選抜大会に続く初出場初優勝はならなかった。
駒大苫小牧の今大会通算打率4割4分8厘は、第83回大会の日大三を上回る大会最高打率で華を添えた。 

TV観戦氏の小生も、あまりの激しい試合に手に汗にぎり、息を呑んだ。 
最終回の2走者でも尚不安がよぎる。 西日本勢の粘りの野球には定評があり、いつもホゾをかみ悔しい想いをしてきた。 
最後の打者を打ち取った瞬間は、一瞬呆然としたが、すぐ立ち上がり飛び跳ねてバンザイした。 
目にはウッスラと泪がにじんだ。

北海道のチームでもやれる」、攻守に輝いた駒大苫小牧が高校野球の歴史を変えた瞬間だった。


決勝戦(8月22日)

済美       230013010=10
駒大苫小牧  10230331X=13


エピソードを一つ・・、 


大会を制した駒大苫小牧の地元・苫小牧市の桜井忠市長にあてに、福島県白河市の成井英夫市長が23日、祝福の手紙を出した。
『「駒大苫小牧高校」・・、全国優勝おめでとうございます・・!!、
優勝旗の「白河の関越え」は北国チームの悲願でありました。 

初めて実現させた駒大苫小牧高の活躍を讃え、そして白河市の知名度アップへの「貢献」にも有難く御礼を述べます。 
ただ、優勝旗が東北を素通りし、津軽海峡まで越えてしまったことに一抹の寂しさもあります。 
市職員達は「これで『白河越え』が死語になるかも・・・」という心配もあるようです・・』・・と。 
市長の現実的配慮に敬意を表したい。


驚いたことに次年・平成17年の第87回大会においても駒大苫小牧高は「連続優勝」を果たしてしまったのである。 
決勝戦の結果は、駒大苫小牧(南北海道)が5―3で京都外大西(京都)を破り、大会史上6校目、1947年、48年の小倉(小倉中、福岡)以来57年ぶりの大会2連覇を果たした。


決勝戦(8月20日)
京都外大西 100000200=3
駒大苫小牧 10001120X=5

駒大苫小牧は5試合で2失策の堅い守備と勝負強い打撃、そしてタイプの違う3人の投手起用で熱戦を勝ち抜いた。
特に2年生・田中は150キロを記録する速球とスライダー、フォークなどが武器は、チーム最多の25回を投げきった。弱劣と言われた北海道のチーム、「北国の高校は夏の大会では勝てない」というジンクスを完璧に払拭し、揺るぎないものとした。 

連続で全国制覇したことは驚嘆に値するが、これらの連続優勝は平成18年の全国大会を顧みるに及んで、それは序章にすぎなかったのか・・?。 
全国高校野球選手権大会で2連覇した駒大苫小牧高がその後、野球部長が部員に暴力をふるっていた問題で日本高校野球連盟は当該部長に対しては有期の謹慎処分を、野球部については優勝を取り消しかという世間の注目を浴びたが結局、警告処分相当として同校の優勝は取り消すことなく有効であると決定している、当然のことである。

2006年の選抜大会では夏春連覇が期待されたが、更に、3年生の飲酒事件が起こり、出場が決まっていながら辞退するという事態も起きている。 
しかし、これらの問題にも一向にメゲズ、2006年の全国大会には堂々と甲子園出場を果たしたいる。

そして、ヤンヌルカナ・・!!再び再び、3年連続、決勝戦に勝ち進んできたのである・・!!。
果たして、「駒大苫小牧」の3連覇・・!?。

次回も「駒大苫小牧高


紀行(80)苫小牧 「駒大苫小牧高」(2)



高校野球ファンの小生が、又々歓喜した年・・!、


この年(2,006年)、駒大苫小牧は中京商(現・中京大中京)以来の73年ぶり3連覇を目指した。
3回戦、準々決勝と粘りの逆転勝ちをして観客を魅了し、決勝戦は駒大苫小牧のエース・田中将大投手と早実のエース・斎藤佑樹投手の投手戦となった。 
そして、20日の試合では延長15回引き分けで決着がず翌日の決勝再試合では、この試合で4連投となった早実斎藤投手の前に3対4で惜敗する。 


駒大苫小牧の3連覇はならなかったが・・、

しかし、北国のチームが3年連続決勝進出はまさに快挙であり、そしてこの決勝戦は歴史に残る一戦ともなった。 
田中将大投手は試合後、「全力でやったので悔いはないし、涙も出てこなかった。」と語っている。

ちなみに夏の甲子園の決勝戦で、引き分け再試合になったのは1969年(昭和44年)大会の松山商(愛媛県)と三沢(青森県)の決勝戦以来・37年振り2回目である。 
この時は延長18回制だったので15回に縮小されてからは初めての決勝引分け再試合であるが、あの時は松山商が再試合で勝利を収めて優勝している。
(詳細は「西日本編・松山市」の項で記す予定 ) 

又、駒大苫小牧は2005年夏の南北海道大会支部予選1回戦から2006年夏の甲子園準決勝・智弁和歌山戦まで「公式戦48連勝」を記録していたという。


史上2校目の3連覇がかかった駒大苫小牧(南北海道)と27回目出場で初優勝を目指した早稲田実(西東京)が対戦した試合は、延長15回を終えて1―1で譲らず規定により引き分け再試合となった。
本格派右腕のエース、粘り強い打線など決勝で対戦する両校は似た部分が多く、チーム力も互角だが、3年連続決勝進出の経験と日程面での有利さで駒大苫小牧が頂点に近いと見ていた。 

ここまで4試合を戦った駒大苫小牧に対し早稲田実は5試合、先発が予想される駒大苫小牧の田中が2連投に対し早稲田実の斎藤は3連投になる。 
さらに駒大苫小牧にとっては、田中が復調の兆しを見せたことは追い風でもあったが・・。
しかし、結果は両エースは譲らず翌日再試合になる。


高校野球FanでTV観戦士の小生は、試合開始を今や遅しと待ち構えていた・・、


それにしても凄い試合であった。
田中(先発は菊池)と斎藤の投げ合いは予想通りであり、両チームともチャンスは作るが、あと1本が出ない、7回まで0対0、8回に両チームとも1点を入れた時には、これで試合は動くと想定したが更に投手戦が続く、両投手による力のこもった投球に酔いしれて気が付いたら夕刻になっていた。

1点をめぐる攻防は更に延々と繰り広げられ固唾を呑んで見ている間に、こうなれば是非引き分け再試合になって欲しいと願うばかりになっていたが、遂にそれが実現し明日へともつれ込んだのであった。
甲子園らしい炎天下、野球の醍醐味を堪能させてくれた1日であり、又、明日1日楽しみを延ばしてくれたのは有難かった。 

次の日、37年ぶりの決勝再試合は大会を一層盛り上げたといってよい。 
TV、新聞は大見出しで大騒ぎをし、野球が低迷すると言われる中、野球Fanならずとも興味を注いだ。 

特に、早実の斉藤投手がマウンドで汗を拭くシーンが話題となり、「青いハンカチ王子」といって女性連がもてはやし、久しぶりに「甲子園のアイドル」が出現したのであった。

さて、再戦もやはり投手戦模様で推移したようで、夏の大会は、猛暑の中でエース投手が連投に次ぐ連投で投げ抜くのが常であり、再度の決勝戦を見た限りでは田中投手は調子が万全でなく、むしろ斎藤投手のタフさばかりが際立ったようで、最後は両エースの微妙な調子の差が明暗を分けたようである。

そして残念ながら駒大苫小牧高の三連覇はならなかったが、その戦いぶりと結果は多くの人々に、それ以上の強烈な印象を与えた。


平成18年度、仙台・楽天イーグルスに高校生ドラフト一巡目で入団した田中将大投手、甲子園決勝では球史に残る投げ合いを演じた斎藤投手は早稲田大へ其々進路が決まったようだ。 
田中にとっては、何かと斎藤と比較されたことが「嫌でした」と本音を吐露し、斎藤には夏の決勝、国体と敗れたがプロでは後れを取るつもりはない。 
斎藤は4年後のプロ入りを視野に入れてるが「年俸とか、成績面とかで引き離していきたい」と言い切った。

勝利の女神は早実にほほ笑んだけれど、北日本勢が力をつけていることを全国に印象づけた。
因みに、1回戦チームと揶揄され、ほとんどの選手を地元出身で固めて山形県勢として初めて準々決勝まで進み、早実を終盤までリードして苦しめたのは日大山形高だった。

2回戦では山形県勢の初ベスト8なるかの注目の試合で、名門・今治西高との対戦は延長13回、今治が2点を挙げて勝負あったかなと思ったが、その裏3点を挙げてサヨナラ勝ちを演じたのだ。 
勝負の結果は「下駄を履くまで判らない」と言われるが、1回戦オンリーの県代表・山形ナインがそれをやってのけたところに意義があり、東北人の小生は当然山形勢を応援していたが、この結果には踊り上がったものだつた。

時に勝負の神様は残酷な演出をするものであるが、一発勝負の高校野球は特にそうであり、ここが又、たまらない魅力なのである・・。

駒大苫小牧高の選手諸君有難う・・!!。


【決勝】  
駒大苫小牧 1 - 1 早稲田実 ※延長15回引き分け(決勝での引き分けは37年ぶり2度目)
駒大苫小牧  000000010000000=1
早稲田実業  000000010000000=1


【決勝・再試合】
駒大苫小牧  000001002=3
早稲田実業  11000110x=4



国道235は、沼ノ端のウトナイ湖を右に見る。
この都会地近くにおいても湖は原野、湿原などの豊かな自然が形成されている。 
すなわち動植物の宝庫、野鳥の楽園である。マガンや白鳥の集団飛来地として、国際的にも知られ、日本では4番目にラムサール条約に登録されている地域であった。

ここから国道はR236となり2車線の広い道を西へ行く、程なくして、右側に、その「駒大苫小牧高」が在った。ゆったりとした広い敷地に北海道らしく白樺の樹林が植栽されている、校門には全国制覇を祝う看板が、校舎には横断幕が掲げてあった。

近所の親子ずれの小さな女の子が、小生を指差して「ママ、また写真撮りに来てるよ・・!!」の一言が心に残った。

次回は、 白老・「アイヌ文化」


紀行(81)白老 「アイヌ文化」




「白老町」はアイヌの町である・・、

苫小牧の市街地を抜けると国道は36号線となって再び海岸沿いを走る。
室蘭本線と真近に並行して、白老町(しらおい)に至る。 

都市対抗野球で大昭和製紙が北海道(白老町)の代表として、出場していたので、その名称は承知しているが、一般に白老町は登別市、苫小牧市に挟まれ、存在感がやや薄いようであるが・・?。
登別は温泉の街、苫小牧は港湾都市、紙の街(新聞紙の生産は日本一)として全国的にもある程度の知名度があるが、白老はこれに比して地味なのは仕方がない。

白老町に日本人が始めて入植したのは幕末の頃、仙台藩がこの地に北方警備のため陣屋を建設し入植している。
これが白老町の開祖と言われ、町内には仙台藩の陣屋史跡や資料館も在る。


「白老町」はアイヌの町である・・、

この地には和人(日本人)が入植する遥か以前から、アイヌコタン(アイヌ人集落)があり、現在でもアイヌ人の血を引く人たちが多く住んでいるらしい。 
室蘭本線に「白老」という駅がある。

駅の近くには「ポロト湖」が広がり、その湖畔にアイヌの人々が生活していた「ポロトコタン」が在って、その中に日本で唯一の「アイヌ民族博物館」がある。 
「ポロトコタン」は「ポロ(大きな)ト(湖)コタン(村)」のことで「大きな湖のほとりの村」という意味になる。

コタンの入口には大きい像(コタンコルクルの像:部落の首長)が出迎え、北海道犬やヒグマの檻、アイヌの復元住居(チセ)などがある。 
チセ(アイヌ語で家)にて、アイヌ民族の楽器「ムックリ」の演奏やアイヌ民族舞踊の「イオマンテリムセ」の鑑賞をしたり、アイヌ文化の説明・紹介などをしているという。

アイヌは蝦夷地(北海道)の先住民であるが、江戸期頃より和人が各所に入植し、勢力を拡大するに従って葛藤を重ねながらも共存するようになる。
その後、明治政府の同和政策にて渾然一体となるか或いは衰退し、純粋なアイヌは近年では伝統文化を伝える見世物に成ってしまったようである。

思えばアイヌ民族は、「アメリカインディアン」やオーストラリアの先住民である「アボリジニー」などと同じ運命を辿ったことになるのだろうか・・?。 


「アイヌ」の事であるが・・、
 

アイヌとは、「人、人間」を意味する。 
「アイヌ」=「人間」、つまり、アイヌ人という言い方は意味的にはおかしいかもしれない。
アイヌ民族は「自分たちに役立つもの」あるいは「自分たちの力が及ばないもの」を神(カムイ)とみなし、日々の生活のなかで祈り、さまざまな儀礼を行う。 

それらの神々には火や水、風、雷といった自然神、クマ、キツネ、シマフクロウ、シャチといった動物神、トリカブト、キノコ、ヨモギといった植物神、 舟、家財道具といった物神、更には家を守る神、山の神、湖の神などがある。 それらの神に対して人間のことを「アイヌ」と呼ぶという。

アイヌ民族とよく言われるが、広い意味での民族としての分布があるようで、千島列島北端の占守島(シュムシュ島)からウルップ島までを「千島アイヌ民族」、 樺太(北蝦夷地)の南半分を「樺太アイヌ民族」、 そして日本固有の領土である北方四島を含む北海道から現在の青森県の一部を「北海道アイヌ民族」と分類出来るという。
そして、これら分散しているアイヌ民族の文化圏をアイヌモシリ=「人間の国」(アイヌ=人間 モ=静かな シリ=土地)、で「アイヌ民族の国土」と呼んでいた。

又、江戸期における北海道、つまり蝦夷地を地理的に分類すると松前からみて、東の方を東蝦夷地、西の方を西蝦夷地とよんでいる。
 詳しくは、渡島半島・八雲町あたりから内浦湾(噴火湾)、襟裳岬を経て知床岬にいたる太平洋岸に面した地域を指して東蝦夷地といい、これに対して熊石町以北、瀬棚、寿都、増毛、宗谷を経て知床岬にいたる日本海、オホーツク海岸の地域を西蝦夷地といっている。
八雲町から熊石を結ぶ線から南の間を和人地と呼んでいたようである。


アイヌ人と琉球人の類似・・、

アイヌ人と琉球人は面相、体型、そして体質までもが似ているといわれる。
元々、琉球から蝦夷まで古代の和人(北方モンゴロイド系人・・?)は同一人物系だったといわれるが、 その後、大陸や半島からの伝来文化の影響を強く受けて急進化してきたのが和人(アイヌ以外の人々)で、ほとんど影響を受けずに小進化してきたのが「アイヌと琉球人」であるといわれる。

アイヌの歴史は、大和民族程の歴史ほど鮮明ではない。 
それはアイヌ民族は元来文字をもっていなかったので物語や伝説、体験談や人生の教訓などの全てを口承(口伝え)によって語り継いできた。
つまり文書による記録が存在しなかったためと言われる。
アイヌ民族は古来から固有の文字を持ってなかった・・!、尤も日本のカタカナやひらがなは漢字から変化したものであり、漢字はお隣の中国から伝来したものを長いこと使ってきたもので、いわば借り物なのである。


アイヌ民族は、なぜ文字を使わなかったか・・?、


一般に、普通の人々が普通の生活をするのに文字などは必要では無いのであって、文字使用の目的、手段は主として記録として残しておく事の必要性から生じたといわれる。 
それは、国家なり、支配者一族が指示命令を伝達したり、事績(歴史)の記録を残すことが、必要とされた文字記号の使用法だったと考えらるという。 
アイヌ民族にとっては社会構成上の段階的組織などはなく、従って文字の必要がなかったと、ある専門家はいう。
隣地(隣国)に和人がいて文字を使ってはいたが、江戸期の頃まではお互いに、特に文化面では干渉する事もなく、従って必要に迫られて和人から文字を吸収する必要がなかったという。
しかし、社会が急激に進歩し、明治時代になってアイヌの人々が必要と思われて日本語の文字を学べるようになった時には、今度は日本人への同化政策(アイヌの日本人化)がとられ、文字はおろかアイヌ語も次第に日常生活で使われなくなってしまった。

元々、物を書くということは「忘れないために書く」、従って「書くと忘れる」という対極の意味にもなり、書くと安心して忘れてしまいがちなのである。 
アイヌの熟年たちの話を聞くと記憶力、博識なことに驚かされるという。 
必死に覚えた知識は頭の中に入っていて、何時でも取り出せる仕組みになっていたらしい。 

現代は情報化社会というけれど、我々は如何ほどの知識を蓄えているのか・・?、アイヌの知識人と呼ばれる人々はパソコンのような頭脳を持っていたのかも知れない・・!。

次回は、 「アイヌと文字」  PARTYへ   観光編へ   第12日目へ


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