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日本周遊紀行・西日本編 【あとがきT】

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熟年になってからの長丁場の一人旅、正直、不安やストレスがなかった訳ではない、それにしても余りある実感と体感はやはり、得がたいインパクト・感歎が有った。

東日本、西日本を二度に分けての慌しい旅であったが、それでも延日数で43日間(東16日、西27日)、総距離:12535km(東5403、西7132km)を要している。 
ここで大雑把な感想を述べたいが、東日本については既に記しているので、西日本について掻い摘んでその特徴的なのを述べてみよう。
 

まず、西日本ついて特徴的結論を言えば・・、


東日本の特有は、やはり奥深く雄大な太古の自然が、ソコ・ココに残されていることであろうが、西日本は、どちらかというと歴史や文化が深く息ずいていることが主体であろう。
ところで、歴史というものはどの時代を通じても、全て繋がりの連続性を持っていて澱(よど)みなく、そして絶え間なく流れ続ける大河のようなものであろう。 そして、多岐に渡る小河の歴史が寄せ集まり、厳選されて現代に繋がっているのである。 
更に、時代という綿々と流れてきた歴史大河は、事項が重なり合って後世に一つの現象を生み出し、影響を与えながら未来へと繋がっていくものであろう。 


西日本は日本の歴史を形作った謂わば、源流域であろう・・!、

例えば、九州薩摩を巡りながら、「西南戦争」を調べていると、突如として東北の庄内藩が出現してきて、西郷隆盛と庄内藩との意外な関わりが顕になってくる。 その薩摩の幕末は、関が原に起こった事変、因果が幕末維新に影響を与えていたりしている。 
西郷の計らいで薩摩の地に坂本龍馬が“おりょう”と共に新婚旅行に来ていたが、この地は、遠い過去の平安初期、和気清麻呂も訪れていた土地だった。 
尤も、清麻呂の場合は平安初期の8世紀、「宇佐八幡宮神託事件」で有名な天皇制護持活動で、宗教界のトップ・道鏡の皇位簒奪(こういさんだつ・帝位を奪いとること)を防いだことで知られるが、この時、道鏡に誼(よしみ)のあった時の天皇(称徳天皇)の怒りをかい大隅国(現在の鹿児島県)に配流となっていたのである。中世の楠木正成、名和長年と並ぶ三忠臣としても知られる。 

といった具合に、歴史を中心に「西日本」を整理してみた。


先ず、「関東圏」について・・、

小生の住む相模の国・鎌倉とその幕府にまつわる歴史は、司馬遼太郎の「三浦半島記」の中で・・、

『三浦半島から12世紀末、それまでの日本史を、鉄と槌と鏨(たがね)でもって叩き割ったような鎌倉幕府が出現するのである・・・』、 

と先制紹介している。

その鉄と槌と鏨で叩き割った張本人・「源頼朝」は幕府を起し、奥州から九州まで統治するに及ぶが、 この時期、小生の住む相模(神奈川厚木)周辺でも、その事例が見受けられる。 
先ず、厚木市地域の「毛利の庄」からは戦国期に名高い毛利家を生み、以降、中国を統治・領有するに至る。 毛利家は更に時代を重ねて幕末、明治の革命を起こし中央政権で初代総理を生むのである。 又、おなじく鎌倉期において九州の雄・大友氏が誕生しているが、大友氏の初代・大友能直は相模国大友荘(小田原市大友)の出身で、頼朝の御手付きの子であったという説がある。 
同じく九州の雄・島津氏の初代の島津 (惟宗)忠久は、母親が頼朝の妾であったとし、つまり御落胤であったというのが共通している。 大友氏も島津氏も、平家方だった九州の武家に対する鎌倉方の抑えとして九州に下っていくが、戦国期、わが国でも有数といわれる九州最大の戦い「耳川の戦い」で両者が激突、島津は大友を滅亡させ九州の覇者となる。 そして江戸幕末、明治の革命を起こした傑物・西郷隆盛を生むのである。

又、同時期、頼朝の実弟・義経に至っては九州の内陸(竹田市)から北海道の果て積丹まで日本全土に亘って史実・伝承が残されているのである。
鎌倉幕府が源頼朝によって創設されている。 所謂、武家政治が12世紀(1192年)から始まって、室町幕府、江戸幕府に引き継がれ、幕末の19世紀(1868年)、明治維新まで続くことになる。


更に、我が相模の国の一の宮「寒川神社」の事について・・、 

近くを流れる相模川の守り神、鎮守神として広くし知られていて、大まかな由緒、縁起は知らされているが、発生源の大源(おおみなもと)は余り知られていない。


ここは小生の推考ではあるが・・、

天照大神を祀る伊勢神宮の内宮を、遷宮(大和から伊勢へ)案内したとされる倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に端を発すると思われるのである。 
元より天照大神は大和の宮中に祀られていたが、神威が強いということで別地に祀られることになり、この倭姫命が道案内で内宮までたどり着き、伊勢の地に安住創建されたとている。 
この時、倭姫命が伊勢の国・坂手から外城田川(ときたかわ:寒川)にそって遡ってきたとされる。 この外城田川や周辺が荒れていたので、この地を鎮護するために神社を造営したとされ、これが御船神社(内宮摂社)であり牟弥乃神社(むみのじんじゃ:内宮末社)であった。 そして、この地方を「寒川」と命名したともいわれる。 

この社が、讃岐の国・寒川町(さんがわちょう)に大蓑彦神社として分社され、更に黒潮に乗って讃岐の古族・忌部氏らが相模の地(房総千葉の寒川神社も同じで、どちらが早いか遅いかは不明)へ勧請されている。 いずれにしても、荒れた川を鎮護するための神様であり、祭神である寒川比古命,寒川比女命を祀っている。 
これらは、無論同一又は夫婦神で水の神、川の守り神なのであり、そして、伊勢神宮との縁のある神なのである。



次に「東海圏」で言うならば・・、

東海の三傑と言われる英雄は、戦国時代の代表的人物の織田信長、豊臣秀吉、徳川家康であろう。 何れも、個性豊かで、波瀾万丈の人生を送り、時代劇や小説の主人公としてもよく取り上げられている。 これら三人の間ではどの人物、どの生き方に惹かれるか
話題になることもある。
三人の人物的評価で次の詩が良く言われる・・、


『 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス 』
   織田信長
『 鳴かぬなら 鳴かせてみせよう ホトトギス 』   豊臣秀吉
『 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス 』   徳川家康


「織田信長」(おだのぶなが、1534〜1582年)は群雄割拠、下克上の戦国時代を終焉に導いた武将で、日本を鎌倉、室町の中世的観念から近世へと誘った発想の転換という点では、他の戦国武将たちの追随をゆるさない。 まさに鋭利な刃物のような天才的指導者といえる。 
しかし、また同時に性格的な欠点が多いとされるが、これは一種人間離れした存在であったような気がするし、彼自身がそう願っていたのかもしれない。

尾張国・那古屋城主(現在の名古屋城)織田信秀の次男または三男として生まれ、信長が嫡男として育てられたようで、幼児のときに既に城主となっている。
幼少から奇行が目立ったが、尾張織田家の当主となると将才を発揮し、国内の内紛や謀反を次々と鎮圧している。 

桶狭間の戦いで今川義元を破ると、三河(愛知県東部)の徳川家康と同盟し、美濃(岐阜県)の斎藤龍興を破り、1568年足利義昭を擁して上洛。 これにより織田信長は事実上天下を握ることになる。 その後、浅井長政・朝倉義景や武田勝頼らを滅ぼし一向宗と激しく争うなど、勢力拡大を実現していった。
中国の毛利氏征伐に向かう途中、本能寺で家臣の明智光秀に襲われ,嫡男・織田信忠ともに自害した。 この時、敦盛の詩を謡い、舞ったという・・?、


『人生50年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきか・・、』
 

信長は詩の通り50年の人生を閉じた・・。

信長の評価は、比叡山焼き討ちや長島の一向一揆を火あぶりにしたことから残虐なサディストと見られがちだが、徹底した合理主義者でキリスト教の容認や楽市・楽座など、善政を行ったことも有名。
尚、彼の姪で後に豊臣秀吉の側室となる淀殿(淀君)がいる。


「豊臣秀吉」(とよとみひでよし、1537〜1598年)は、人民宗匠と言われる。 
卑賤の身から天下統一を果たした日本史上稀有な英傑で、日本版サクセスストーリー」の極みといえよう。 「人たらし」という評価も得ているほど他人の心情に敏感で、その上機転も効き、この時代の寵児ともいえる。 夢途中で他界した先君信長の発想をアイデアマン秀吉なりの解釈で後継し実行した人物である。 ただ晩年の秀吉は跡継ぎの問題が絡んでからは、増長も見え、精細を欠いた。 信長・秀吉・家康の三人の中では一番人間味がある人物であろう。

尾張国愛知郡中村(名古屋市の東に位置する)の百姓の子として生まれ、信長に仕え、次第に頭角を表す。 信長の下で着実に出世を重ねた秀吉は、本能寺の変で信長が明智光秀に攻められ自害すると、その光秀を討ち信長の後継者としての地位を得た。
その後、公家の最高位である関白に就き、全国の大名を従え、信長の果たせなかった天下統一を成し遂げる。

百姓から天下人まで上り詰めた秀吉は「戦国一の出世頭」と呼ばれる。 天下統一を果たした秀吉は、次の狙いを明国の征服と定め、その通り道となる朝鮮半島への出兵を行ったが、結局その望みは叶わず、第二次出兵のさなか1598年に没した。
秀吉の生涯を見渡すと日本の歴史上稀にみる英雄であったことは間違いないが、しかし、その晩年は海外への無謀とも言える野望・後継者問題など、さすがの英雄も耄碌してしまった感がある。


「徳川家康」(とくがわいえやす、1542〜1616年)というと「忍耐の人」という印象があり、大器晩成型の象徴と考えている方も多い。 実はこの家康は、若いうちから大器の片鱗を見せていたという。 
しかしながら信長・秀吉といった両巨星の後釜に拝した傾向は否めないとも言われる。 

関東の草深い田舎に居を設け、以降、260年間日本を導いた英傑としては、三君の内ではピカ1であろう。 それと、家康は健康に気を配り(自身で薬を調剤した)、最も長生きしたことがを最後の勝利者として位置づける結果となった。 
三人の中では最も道徳的で冷静であったとするが、ただ、晩年は秀吉同様に傲慢さが目立つようになり、彼の人格に関しては影武者説も色濃くあったという。

家康は三河国・岡崎に岡崎城主・松平広忠の子としてうまれ、幼名は竹千代、隣国の覇者・今川氏に人質として出される。 信長の桶狭間合戦により独立、同盟したのが良かった。
1573年、三方原の戦いで武田信玄に大敗するも、1575年長篠で信長とともに武田勝頼に勝利し勢力を伸ばす。 
信長没後羽柴秀吉と対立し小牧・長久手で戦うが後に講和して、1590年、北条氏(戦国北条)滅亡後の関東に入封する。 1600年に関ヶ原の合戦で石田三成を破り、事実上天下を握る。 
1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。 その後、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼし、戦国時代を終わらせた。 徳川幕府15代260年の太平の時代を開いた功績は現在であればノーベル平和賞ものである。

名古屋に関する面白いH・Pを発見したので紹介します。

キーワード  「名古屋はええよ!やっとかめ」
http://www.geocities.jp/momo_harumi/yatokame2004/ 


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