
美濃路(みのじ)は、江戸時代、東海道の宮宿と中山道の垂井宿とを結んだ脇往還である。 関ヶ原の戦いにおいて、
東軍の福島正則が起(おこし)から美濃へ進軍し、また、戦いに勝った徳川家康が凱旋した道なので、吉例街道とも呼ばれた。
海難の恐れもないことから、将軍の上洛や朝鮮通信使、琉球王使、お茶壺道中、大名行列などにも使われた公用道である。
美濃路は、東海道の宮宿を起点に、名古屋、清須と行き、四谷追分で岐阜道(御鮨街道)と分かれ、起で木曽川を渡り、
墨俣から大垣を経由して垂井で中山道と合流する脇街道で、十四里二十四町十五間(約58km)の距離だった。
| @熱田〜名古屋宿(下記) | A名古屋宿〜清須宿〜四ツ家追分 | B四ツ家追分〜稲葉宿〜萩原宿〜起宿 | C起宿〜墨俣宿〜大垣宿 | D 大垣宿〜垂井の追分 |
熱田(宮の宿)から名古屋宿
東海道を旅してきた人は宮宿で、七里の渡しで桑名に渡るのが通例だった (右写真)
しかし、船に弱い人や天候不順により欠航になったような場合は、佐屋街道を利用して、佐屋から河船による三里の渡しで桑名に向かった。
どうしても船が苦手という人に利用されたのが美濃路である。 美濃路は関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康が利用したことから吉例街道とも呼ばれる。
七里の渡しの再現したツアーに参加したことがあるが、無風に近い天候で
あっても、三十人乗りの船は結構揺れた。 当時の船はもっと小さかったと思うので、必ずしもゆったりした船旅とはいえなかったのではないか?
参勤交代の大名も佐屋街道か美濃路をまわっていたようである (右写真は七里の渡し公園)
(ご参考) 宮宿については、東海道 宮 宿
をご覧ください。
地下鉄伝馬町駅を中京銀行のある方へ出て、大通りを南に向かい、最初の道の入口に伝馬町商店街のポールが建ち、その上に東海道を書かれている (右写真)
この道が江戸時代の東海道である。 左側に和菓子の亀屋芳広があるが、商店街をそのまま進むと、突き当たる。
突き当ったところには、愛知県警自動車警ら隊の建物があるが、その前に、ほうろく地蔵が祀られている小さなお堂がある。
お堂の前にある由来書によると、
「 ほうろく地蔵はもとは三河の国の重原村(現在の知立市)にあったが、野原の中に倒れ、
捨て石のようになっていた。 三河より焙烙を売りに尾張に出かけようとしていた商人が、
この石仏を荷物の片方の重しにして運んできた。 商人は焙烙が売り切れると、石仏を海岸のあし原に捨てて帰ってしまった。
地元の人が、捨てられている地蔵を見つけ、動かそうとしたが動かない。 その下の土の中から、
台座が出てきたのである。 そこで、この地蔵を台座に乗せ、ここに祀ることにした。 」 というものである (右写真
ー正面がほうろく地蔵堂)
三叉路の左手前(東南隅)の民家の一角に、道標が建っている (右写真)
刻まれている字は、一部消えかけているが、
隣にある案内板によると、北 の下には、「 南 京いせ七里の渡し 是より北あつた本社弐丁 道 」、
西 には、「 東 江戸かいとう 北なこやきそ 道 」 、東には、「 北 さやつしま 同みのち 道 」と刻まれている。
道標は寛政弐年(1790)に建てられたものだが、この「さやつしま 同みのち 道」は、佐屋街道と美濃路のこと
で、ここから東海道と佐屋街道と美濃路が分かれる(追分)ことを示したものである。
熱田神宮南の歩道橋を上り、国道247号を横切った先に、円福寺がある (右写真)
円福寺は、足利将軍家とゆかりがある寺で、最澄が熱田神宮参詣の際に毘沙門天像を安置したのが始まり、と伝えられる。
江戸時代の初期に寺が火災で焼けた際、再建費用を捻出するために、江戸から右近源左衛門を呼んで、本格的な歌舞伎を催し、成功を収めた。 明暦三年
(1657)には、芝居の興行権を与えられるまでになったが、やがて芝居の中心地は、熱田から城下町名古屋へと移っていった。
その南にある蓬莱茶屋付近に、宮宿の赤本陣や陣屋があったのだが、その跡の表示はなかった。
南西方向に斜めに入る道があり、入ったところの民家に挟まれた一角に小さな祠の景清社がひっそり立っていた (右写真)
平安末期の猛将で悪七兵衛と呼ばれた平景清の隠れ家だったとされる場所である。 平家が滅亡すると、縁者を頼って熱田に逃れてきて、隠れ住んだ。
景清が両目を失明してしまい
ましたが、謡曲の 「 景清 」 では、景清が失明すると、遊女との間に生まれた娘が遊里に身を売って、父を看病した、とある。
景清の死後、地域の人は、景清社を祀り、眼病の神としてあがめた。
聖徳寺は、江戸初期、宮の渡しの常夜燈を管理していた、という (右写真)
寺の本尊は阿弥陀如来像であるが、漁夫の網にかかって上がったという聖徳太子孝養像は、鎌倉時代の作で、県指定文化財である。
また、等覚院の前には、多くの石仏が祀られて
いた。 大瀬子公園に隣接する秋葉神社の前に、熱田魚市場跡の案内板があった (右写真)
「 天正年間(1573〜)にはすでに魚問屋があり、織田信長の居城、清洲にも日々魚介類を運んだといわれる。
寛永年間(1624〜) 、尾張藩政のもとに木之免、大瀬子に4戸ずつ問屋ができ、市場が開設された。 」 と、その生い立ちが書かれてあった。
熱田は伊勢湾に面しており、魚の供給地として 四百年の伝統があり、江戸期には、多いときには仲買や小座は数千
人に達したという。 道路の反対側に、古い建物があり、落ち葉を掃いておられるご婦人がいたので、
「 建物は古そうですが、何時建てられたものですか? 」 と聞いた。 すると、 「 明治初期に建てたもので、百年は経っています。
昔は、魚問屋を営んでいました。 建物はしっかりしているのですが、若い人に人気がなくてね!! 」 と、答えられた。
名古屋市のホームページにあった旧問屋村瀬家はこの家だろうか?
東海道を歩いた時、宮宿の寄れ
なかった所を探訪できたので、先程の道標まで戻り、美濃路を歩き始める。
街道は残っていないので、熱田神宮南交差点から伏見通りの標識がある国道19号を北上する (右写真)
その先には、ここが起点、国道19号、国道22号と書かれた標識があり、長野と岐阜までのキロ数が記させていた。
美濃路は、将軍を始め、大名、そして、朝鮮通信使などが利用したので、五街道をつなぐ脇往還として、名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の七つの
宿場が設けられた。 右手にある森は熱田の森で、その奥に熱田神宮がある (右写真)
熱田神宮は、「 日本武尊が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造の娘、宮簀媛命と結婚し、
草薙剣を妃の手許へ残した。 日本武尊が能褒野で亡くなった後、宮簀媛命は熱田に社地を定め、その剣を奉斉鎮守したのが始まり。 」 と言われる。
宮宿の名は、ここから生じたが、今でも鬱蒼たる社叢や広大な神域を持ち、荘厳な雰囲気が漂っている。
美濃路は、国道19号線より南にあったと思われるので、白鳥小学校の南の道を入ると、交差点の角に、熱田神宮摂社で白鳥地区の鎮守の青衾神社があった (右写真)
境内には垣に囲まれた社殿があったが、桜の葉が紅葉してきれいだった。
成福寺の門前案内によると、
「 文化十年(1813)、嵐のため遭難し、十七ヶ月間太平洋を漂流し、英国船に救助され、奇跡的に生還した督乗丸の船頭重吉が異国で亡くなった乗組員の供養のため、
船の形をした供養碑を笠寺観音前に建てたが、嘉永六年(1853)、成福寺の住職が船頭重吉の建てた供養碑を譲り受け、境内に移した。 」 とある (右写真)
少し奥にある本遠寺の入口には、名古屋市教育委員会の案内板があり、
「 本遠寺日蓮宗の寺で、永禄十年(1567)に連歌師里村紹巴が当寺に宿泊し、連歌会を催した。
国宝の室町時代の楼門があったが、昭和二十年の空襲により焼失した。 」 とあった。 国道に戻り、
道を進むと山善ビルの手前に、葵の紋のある門があり、右大将頼朝公誕生旧地の石柱と案内板が建ち、
「 この地は、熱田神宮大宮司の別邸があったところで、久安三年(1147)、藤原季範の娘、由良御前はこの別邸で、
源義朝の第三子頼朝を出生したといわれる。 享禄二年(1529)に妙光尼日秀(善光上人)により、誓願寺が建てられた。 」 と、あった (右写真)
奥まったところにある寺の境内には、頼朝産湯の池、頼朝誕生地の碑が残されている。
奈良時代には国造尾張氏が大宮司を務めていたが、中央の力が強くなって、平安末期には藤原氏が大宮司を務めるようになっていた。
旗屋町交差点を越えると、国道からまた左の道に入る。 その先の奥まったところに、白鳥山法持寺という寺が見えた (右写真)
法持寺の奥にある白鳥公園の一角に、白鳥古墳がある。
白鳥御陵の名で、鳥居と石柵に囲まれ、立ち入り禁止になっているが、日本武尊(倭建命)の墓と伝えられる。 そこには寄ら
ず、右折しそのまま進むと、樹木に包まれた小山に出た。
道を行き止まりになっているので、右に回って行くと、国道脇に駐車場があり、熱田神宮公園とある。
この大きな小山は、全長百五十一b、前部の巾百十六b、後円部の直径八十bの前方後円墳の断夫山古墳 (右写真)
すっかり樹木に覆われ、上ることもできないが、前方で十六b、後方で十三bの高さがあるといい、
美夜受比売(宮簀媛命)の墓と伝えられるが、その真偽のほどはともかく、六世紀の初め、
尾張地方の南部に勢力をもった尾張氏により造られたものである。 国道を歩いて行くと、左側に立派な塀と建物があり、
誰の屋敷かと思ったが、青大悲寺(せいたいひじ)という寺だった。
青大悲寺は、この地に生まれた、きののいう女性が、享和二年(1802)に開基した新興宗教の如来教の本山である。
国道に面して地蔵堂が建っていた (右写真)
幕末には天理教や大本教なども生まれたが、それよりかなり早い。 如来教は尾張藩士にも
浸透したため、尾張藩から弾劾を受けたようで、一時、廃止に追い込まれたが、明治になって復活した。
御教様と呼ばれる、名古屋弁そのままの書き写しの説法四部が残されている、という。
地蔵堂には、鋳造された等身大の鋳鉄地蔵菩薩立像が祀られている (右写真)
断夫山の北側にあった熱田の共同墓地の地蔵堂に三体あったものの一つで、享禄四年(1531)の銘がある。
西高蔵、新尾頭2交差点を過ぎると、左側に商工中金があり、その先の
道路の脇に、熱田神宮第一神門址の石柱が建っていた。 新尾頭交差点で八熊通りを越える
と、右手に金山総合駅が見えてくる。
金山新橋南交差点の左手前の角(南西角)に建っているのが、佐屋街道の道標で、
「 東 右 なごや 木曽海道 」「 西 右 宮海道 左 なこや道 」「 南 左 佐屋海道 津しま道 」
「 北 文政辛巳年 六月 佐屋旅籠屋中 」 と刻まれている。
佐屋街道は、海路の七里の渡しを避けた旅人が利用した道である (右写真)
文化四年(1821)、佐屋街道の旅籠仲間が佐屋街道の追分に建てた道標で、戦災に遭い破損し修理されたので、少し痛々しい。
(ご参考) 佐屋街道については、 佐屋街道
をご覧ください。
交差点をすぎると、JRと名鉄を跨ぐ陸橋を渡る。
九丁堀交差点を過ぎ、古渡バス停のあるところで、歩道橋を渡り、国道の右側に出る。
名古屋高速の高架橋がある古渡交差点のところまでくると、卯建があがった古い家があったが、戦災を免れたのか? (右写真)
交差点を渡り、右手に行くと、真宗大谷派名古屋別院、通称東別院がある。
東別院は、本願寺十六世一如上人が、元禄三年(1690)、尾張藩第二代藩主徳川光友から古渡城跡の
土地の寄進を受け、本願念仏の教えを伝える道場として、堂宇を建設したことに始まる。
昭和二十年(1945)三月の名古屋大空襲により、ほとんどの建物が焼失したが、昭和三十七年(1962)に現在の巨大なコンクリート造りの本堂を再建した (右写真)
境内の左手にある鐘楼の梵鐘は、尾張藩鋳物師頭、水野太郎左衛門家により、元禄五年(1692)により作られたものである。
左手奥には、古渡城址の石柱と案内板があり、
「 織田信秀が、天文三年(1534)に築城したといわれ、東西百四十b、南北百bの平城で、周囲に二重の堀を巡らしていた、といわれる。
信秀が末森城に移り、廃城になった。 」 と、書かれていた。
その奥には、正面に明治天皇行在所旧地、左側に明治天皇名古屋大本営の石碑が見えるが、明治十一年(1878)に行幸された時を指すのだろう。
東別院から古渡交差点に戻り、国道を西に向かって進む。
名古屋宿
少し歩くと、右側に斜めに入る道があるので、伏見通から離れ、本町通りに入る (右写真)
橘2丁目から大須にかけての本町通の両脇には、仏壇屋が多く軒を連ねている。 また、お寺も多い。 江戸時代、
名古屋宿の入口には橘町大木戸が設置されていたといわれるが、どのあたりか、確認できなかった。 信号交差点を
右折して行くと、切支丹遺跡博物館のある栄国寺がある。 寛文四年(1664)に切支丹宗徒二百人余が処刑されたが、鎮魂
のため、栄国寺の
前身の寺が建立された。 そのまま進むと、左側に七面宮鎮座の石柱が建つ日蓮宗の妙善寺があった。
第二代藩主、光友の腫れもの平癒祈願のため、名古屋の豪商茶屋長以が刻んだ七面女神像を祀る。
七面宮の由来は、光友自らが自筆の額を与えたことによる (右写真)
慶長十七年(1612)、名古屋城の建設と並行して、城下町の町割りも行われ、城の東西に武家屋敷が、
城の南に碁盤のような形で町屋が、それを囲むようにして、小身の武士達の家が立っていた。
また、現在の新栄町付近に日蓮宗、曹洞宗の寺院が約四十あって東寺町の名が
あり、このあたりから大須にかけて曹洞宗、浄土宗の寺が約五十あり、南寺町と呼ばれていた。
次の左側の路地を入ると、深い緑に包まれた、式内社の日置神社がある (右写真)
「 延喜式神名帳に、愛知郡日置神社とある古社で、天太玉命(あまのふとだまのみこと)や応神天皇などが祭神。
地名や社名は、日置部があったところから起ったもので、日置部は、暦象を司った。
永禄三年(1560)、織田信長が桶狭間の戦で勝利し、戦勝のお礼に松の木千本を
植えたといい、千本松日置八幡宮 とも呼ばれた。 」 と、案内板にあった。
門前町交差点を越えると、左手奥に、本願寺派名古屋別院のモダンな建物が見える (右写真)
前身は、伊勢長嶋の門徒により建立された伊勢長嶋の願証寺であるが、長嶋の一向一揆で信長に抵抗したため、取りつぶされた。
その後、顕如上人が織田信雄に申し入れて、清州に再興したが、清州越により、当地に移転した。 享保三年(1718)、本山の出張所となり、西別院
と呼ばれるようになった。 大須交差点で、大須通りを横切ると、大須の町に入る。
直進する道は大須本通で、右側の東仁王通り、仁王通りの次の万松寺通りに入って行くと、
商店街のはずれ近くを左に入ったところに、織田家の菩提寺である曹洞宗の萬松寺があった (右写真)
天文九年(1540)、織田信秀(信長の父)が開基、信秀の叔父、雲興寺八世、大雲永瑞和尚が開山として、那古野城の南側に建立された寺で、
慶長十五年(1610)の名古屋城築城に伴い、現在地に移転した。 昭和二十年の名古屋大空襲で大須も焦土化し、現在の本堂は平成の
もの。 大須本通から左側の大須観音通りに入って行くと、右側の喫茶店の前に、清寿院の柳下水の看板があり、
「 江戸時代、尾張名古屋の三名水の一つで、清寿院の中門の前にあり、清寿院で使われた他、上洛の際には将軍にも供された。
清寿院は修験道の寺だったが、明治に廃仏棄釈により、廃寺になった。 」 とある。
左側の小路に富士浅間神社があったが、この神社と関わりある、と思った。 少し歩くと、大須観音の鐘楼の前に出た (右写真)
大須観音は、真言宗智山派の別格本山で、正式には北野山真福寺宝生院、本尊は聖観音
で、日本三大観音の一つとも言われる観音霊場である。
徳川家康の名古屋城建設に伴う清洲越しにより、岐阜県羽島市にあった寺がここに移されたものである (右写真)
境内には、芭蕉句碑や人形塚、大正琴の発祥の地の石碑などが建っている。
大須は、大須観音の門前町として発展し、芝居小屋が建てられるなど、参拝客目当ての土産物屋や掛茶屋ができ、名古屋宿の盛り場になった。
その後も、昭和四十年までは映画館や演芸場があり
賑わっていたが、高度成長期に入ると衰退したが、秋葉原から電気店を呼ぶなどの努力により、
カジュアルや小物の若い人を呼ぶ作戦が成功し、以前のような賑わいを戻した。
しかし、過去をしのぶものは大須演芸場のみである (右写真)
街道に戻り道を進むと、大きな道に出る。
百メートル道路と呼ばれるもので、終戦後の都市計画で自動車を念頭に置いて造られた当時では画期的なものだった。
百メートル道路には、名古屋高速2号線東山線の高架が出来たので、これをくぐって進むと、交差点の右手には
若宮八幡宮がある。 大宝年間(701〜704)に、現在の名古屋城三の丸の地に創建と伝わる神社で、延喜年間(901〜923)に再興されたが、
天文元年(1532)の合戦で社殿を焼失、天文八年(1540)、織田信秀により再建された。 名古屋城築城の時、現在地に遷座された。
交差点の左手にある公園は白川公園で、名古屋市美術館や科学館などの施設がある (右写真)
道を進むと、名古屋市の中心部が近づき、高い建物が増えてきた。 ワシントンプラザを過ぎ
ると、広小路通りに出た。
江戸時代の本町通りは幹線道路だったので、道幅五間、他の道路は三間だったが、広小路は、万治三年(1660)の大火にかんがみ、十五間幅に拡張された。
広小路の名は、道幅が広げられたことに由来する (右写真ー現在の広小路通り)
当時は、広小路から北の茶屋町まで、東は久屋町から西は堀川端までが町屋で、本町通りは東西の中央部を横断するように通っていた。
名古屋宿には、美濃路の本陣も旅籠もなく、継ぎ立ての宿(問屋)としての機能しかなかった。
尾張徳川家のお膝元であることから、本陣や
旅籠は作られなかったのだろう。
右に少し行くと、栄交差点があるが、このあたりが栄・広小路といわれる名古屋の繁華街で、デパートや専門店が並んでいる。
道を直進すると錦通り。 交差点を越えたところには、クラブやバーのビルが林立し、夜になると賑わう。
袋町通りを横切る時、右手にテレビ塔が見えた (右写真)
伝馬町通本町の交差点に出たら、交差点を左折し、伝馬町通に入る。 問屋場は伝馬町筋
本町通の西南角におかれ、伝馬百匹が定められていた、というから、曲がったあたりにあったのだろう。
伝馬町通を西に向かって歩くと、左側にお茶の升半がある (右写真)
文化年間(1804〜1818)、尾張藩御用達の商人、升屋横井彦八家の三男、半三郎が、宇治茶師の独占する宇治製挽茶の販売権を地元で結成した株仲間に与えるように働きかけて、
天保十一年(1840)に藩から許可され、枇杷島から当地に移転してきた。
幕末には町奉行所ご用達を拝命し、明治に入ると、宇治に茶畑を持ち、宇治茶を製造、販売、代々半三郎を名乗る
ことから、升半と呼ばれた。 店の前には、尾張藩医三村玄澄宅跡の石碑が建っている。 玄澄は、華岡青州に師事し、
尾張藩主十四代徳川慶勝の奥医師を務めた。
右側に日本銀行名古屋支店、左側に伊予銀行があるところで、伏見通に出る (右写真)
対面に道が続くが、中央分離帯があるので、右折し桜通まで出て、日銀前交差点を渡ったところで、左折し、
ホテルウイングの先で右折して、しばらく歩くと、堀川に出た。 徳川家康の
名古屋城築城の命令により、福島正則が資材を運搬するために開削したのが堀川である。
美濃路は堀川にかかる伝馬橋を渡るが、右手には立派な桜橋が架かっている (右写真)
橋を渡り終えたら右折し、桜通りを横断し、反対側に出て、堀川に沿って進み、中橋のところで左折すると、交差点の先に浅間神社がある。
左右の道は四間道(しけみち)とある。 元禄
十三年(1700)、名古屋宿で最も古い商人街の円頓寺付近から出火し、千六百余軒が燃えて
しまったことから、尾張藩が防火対策として堀川端の問屋筋の裏を道幅四間とし、東側を全部土蔵造りとし、東側の碁盤割りに飛び火するのを防いだ。
この道は、当時ではひろかったことから、四間道と呼ばれるようになった。 今でも古い家が残っている (右写真)
少し先の右側に四軒続く蔵があるが、これは川伊藤と呼ばれた豪商の家である。 松坂屋を興した伊藤家と区別するため、
そう呼ばれたようだが、尾張藩の御用商人として、穀物問屋を
営むと共に、名古屋南部の新田開発に投資した結果、戦後の農地解放までは二百五十町歩(250ヘクタール)の土地を所有していた、という (右写真ー伊藤家の蔵)
その先の右手には五条橋が架かるが、左手は円頓寺商店街である。
この町は、名古屋城の築城と同時に、商人町として整備されたところで、圓頓寺の門前町として栄えた。
名鉄の前身、名古屋電気鉄道の東枇杷島駅から市内線が延びたことで、商店街は江川を越え拡張し、名古屋の三大繁華街の一つに発展した。
市電が走る道端には夜店が並び、劇場や寄席も
あった。 映画や芝居の衰退と市電の廃止の頃から客足が減り、今は地区の商店街としてなんとか生きのびている感じだった (右写真ー商店街の中央にある圓頓寺)
近くにある慶栄寺の太子堂は、文化元年(1804)、奈良元興寺五重塔の古材を使い、住職善諦が建立した、といわれる。
町を歩いていると、古い二階の民家の上に、神棚のようなものを見つけた。
これは、尾張地区だけで見られる屋根神様と呼ばれるものである。 屋根神様は、
名古屋を中心に、清須市西枇杷島町、津島市など、尾張地方の一部だけで見られるもので、一つの組あるいは数軒続きの長屋を単位にして祀られた。
木造二階の民家の屋根の上にある小さな社には、熱田神宮、津島神社、秋葉神社の御札が祀られている (右写真)
この歴史は比較的浅く、明治に入ってからのようで、疫病や火災防止や家内安全と町内安全を祈願して、共同で小さな社殿を祭ったことが起源と思われる。
四間道を北に進むと、名古屋
高速のガードが見えてくる。 景雲橋西交差点で名古屋高速をくぐり、渡ったところで左折し、次の小路で右に入ると、みゆき公園があるが、
そのまま進み突き当たった三叉路を左折する。 そこには、格子の入った古そうな家が一軒残っていた (右写真)
次の小路を右に入ると、幅下小学校、そして幅下公園、幅下公園の北西角に延命地蔵尊が祀られている。
そのまま進むと国道22号に出た。 城西1南交差点で国道を越えて進み、城西
1交差点を左折して進むのが、美濃路である。 ここで寄り道。 交差点を右折して行くと、大幸橋があり、
それを渡ると名古屋城のお濠に出たので、ホテルに向かってお濠の周りを歩いて行く。
名古屋城は、昭和二十年(1945)の空襲により、本丸、大天守、小天守、東北隅櫓、金鯱などが全焼したが、
昭和三十四年(1959)に、天守閣は金鯱とともに復元された (右写真)
園内には、戦災を免れた三つの櫓と三つの門、二の丸庭園の一部が保存されている。
城の南側には三の丸があり、成瀬、竹腰など有力家臣約九十家の屋敷があったところである。
現在は、県庁や市役所など愛知県の中枢をなす行政機関が集まっている。 その東に建つ名古屋市市政資料館は、重厚な
煉瓦造りの建物で、旧名古屋控訴院である。 当時の留置場が残り、国の 重要文化財に指定されている (右写真)
このあたりは樋の口町で、ウエスインキャッスルホテル正面まで行くと、名古屋城で一番のビュ
ーポイントになる。 更に濠の左端まで歩くと、白いお城のような櫓があり、その先に天守閣が見える。
この櫓は、西北隅櫓で、江戸時代には御深井丸を構成していた (右写真)
名古屋城築城の際、清州城も築城の材料として積極的に利用され、御深井丸の西北隅櫓は、清州城天主の古材で作られたので、清州櫓とも呼ばれる。
道はその先で筋違橋に入るが、元の道まで引き返す。 城西1交差点に戻り、その先を進むと右側に小さな美濃路の石柱が建っ
ていた。 この道は国道22号に並行して続いている。 江川郵便局があり、その先に富士浅間社がある。
名古屋高速のガードをくぐると、江川町発展会の看板があった (右写真)
交通事故の後処理をしていた警察官に江川町の所在を聞いたとき、そういう町名はないといわれたが、現在の地名は浅間町2丁目だった。
タクシーの運転手さんに聞いてよかった。
その先右側の空地に、樽屋町の大木戸跡の木札があり、ここが美濃路の西側の名古屋城下
への入口であることが示されていた。 樽屋町の大木戸は名古屋宿の樽屋町と押切村の境にあった。
城下に入る大木戸は、すでに歩いてきた、大須に入る手前の橘町、そして、飯田街道の入口にあたる赤塚と合計三か所があった、と記されていた (右写真)
江戸時代、美濃路には江川一里塚が作られていた。
これは美濃路の二番目の一里塚であるから、八キロ歩いたことになるが、現在は姿を消していて、どこにあったかわからなかった。
押切に入ると、江戸時代の名古屋とはお別れである。
旅をした日 平成20年11月6日