今さんのウオーキング and ジオログ

定年後の、毎朝、何を考えるのかジオログで思ったことを紹介。自分の物の見方、出会ったことを紹介。

南郷洗堰
瀬田川沿いをウオーキングしてのジオログ集

風光明媚な瀬田川沿いをウオーキングしながら、見たものを写真に撮り、思いのままに綴るジオログ

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「瀬田川洗堰」

琵琶湖から流れ出る瀬田川の洗堰あたりは、昭和36年完成の新洗堰により水量が自動操作され何事もないように風光明媚な所で、よくウオーキングで行きます。
そこには、新洗堰の少し手前、両岸には明治38年完成の旧洗堰の一部が残されています。
ここには幾多の改修工事と周りの治山治水の歴史があります。
昭和25年のジェーン台風、同28年の台風13号で大被害に遭い、これを契機に治山治水計画が見直されダムが建設され、新洗堰が出来ました。
洗堰手前に「アクア琵琶」があり、これまでの歴史を刻んだ色々なものと模型、計測器などの展示があります。
旧洗堰で「角落し」といって角材を堰として水位の調節に使った作業の模型があります。人力でした。水位調節は上流下流が相反する結果になり社会問題だったのです。
ホームページでは、「瀬田川沿いのウオーキング」で美しい写真を紹介しましたが歴史も知って下さい。
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「瀬田川沿いの大日山」

写真を見て下さい。瀬田川に影を写し美しく撮れた大日山です。
側面が明治の改修工事で削り取られています。しかし、それまで削るべきかどうか何度も論議されてきたようです。
一度、登ってみたいと思っていました。山の反対側は住宅地になっています。こちらと似ても似合わない姿です。
住宅地への入り口で比較的大きめの道路を上に上がって行きました。途中で子供達に出会って聞いてみると、上まで登れるというが、道筋がはっきりしない。
少し先で聞き、更に先に進み分からなくなり、庭に水を遣っている人に尋ねたところ親切に教えて下さった。
言われた通り住宅地を左端に抜けて上に行くと大日堂と書かれた比較的新しい石碑に出合った。山への道はあったが柵がしてある。
横をすり抜けて登ると鳥居とお堂があった。大日如来堂と言われこの奥に頭部だけの磨崖仏があるという。
周りは何か木に囲まれ鬱蒼とした感じである。あまり掃除もされず、しばらくの間、何かが行われている感じがしない。
ここから先には行けそうもなく柵の所まで引き返し、丁度、近くで畑仕事をされている年輩の女性の方に聞いた。
お堂への道を左に行くと山の前の方、瀬田川縁まで行けるという。草藪の道でなく1m位で、以前はよく通ったものだという。
地元の人のようだ。お礼を言って教えられた通り進むことにした。途中に家があるという。少し下ると家があり、 道と区別が付きにくいが枯葉の上を下ると洗堰が木立の間から見えてきた。
降り口に家が1軒あり人が住んでいるようだ。出てきたところは先日写真を撮った船幸祭のお旅所の近くだった。 山の上から洗堰の写真をと思っていたが木立で見下ろせなかった。
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「瀬田川花火」

昨日の夕方、瀬田川花火があるけれど見に行くでしょう、一緒に行きましょうと近所の友人から電話があった。7時から歩いて行くとのこと。
こちらは夕食に時間がかかりそうでお断りしたが、家内があとで車で送っていくというのでそうすることにした。
食後、京阪石山寺駅まで送ってもらった。少し、離れたところで見ようと、ウオーキングで知った大学の漕艇部がある唐橋下流300Mの船着き場に座った。
このあたりあちこちに家族連れが花火を待っている。前が開け唐橋の見えるところである。
時間が経過して、警備艇が前を通過し、そのしばらく後に江州音頭が聞こえたと思ったら、花火舟が色とりどりの花火を打ち上げながら先導し、 江州音頭を歌っている舞台飾りのある舟が唐橋の方に向かっていった。
次に目の前に大型の甲板を電飾灯で飾った舟が停泊し横向けになり、観客が花火を見やすいように唐橋に平行に並んだ。また、個人仕立ての小さな舟も目の前に停まった。
唐橋の向こうでは消防艇が放水をしている。なにやら行事が行われ、神主のお払い声の後にやっと花火が上がった。唐橋は提灯で浮かび上がっている。
水面を照らす光が波に揺られこちらの水面まで届いている。御輿もあり、行事の間に花火が上がる。きれいだ。まだうまく行かないが、写真を撮る。
終わる前に腰を上げ、振り返り花火を見ながら帰った。遠くから見るのも良い。来年はそうしよう。夏の暑い日だ。花火舟の写真です。
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「大津三大祭り船幸祭のこと」

先日、瀬田川花火のことを書きましたが、船幸祭の最後のイベントに瀬田川花火があります。
このことに触れていなかったので、KK様から船幸祭についてコメント頂きました。祭りの数日前も唐橋を渡りながら、提灯飾りがされているのを何かな思ったのですが、 この素晴らしい祭りに思い寄りませんでした。
先日、ウオーキング中、洗堰から唐橋方向に歩き始めアクア琵琶を出たところで見慣れないものを見つけました。
建部神社と船幸祭の名を刻んだ石柱の間に祀られた杉の木が立っていました。
船幸祭は、8月1日のさかき立てに始まり、7日の納涼祭、8月15日からの献灯祭、8月16日の宵宮、そして17日に船上渡御を迎え、神輿が唐橋付近から御座船で瀬田川を下り、 お旅所の田上黒津町の浜に船が着くということです。
上記、杉の木の近くで釣りをしていた人に聞いたら、やはりこの場所がお旅所の田上黒津町の浜で御輿が上がる所だそうです。
また、この神事は毛知比神社によりなされるようで、毛知比神社はここより4〜5キロの所にあるそうです。またの日に行くことにしました。
ここから再び神輿は、御座船で唐橋付近へ戻り、建部大社に帰る言うことです。花火の前に御輿は唐橋を渡り中之島でもお払いを受けるようです。
この唐橋を渡るときの写真を貼付します。今年のものでMO様からメールして頂いたものです。
これから少しづつ歩きながら調べ、何艘もの舟を従えた華麗な御座船の瀬田川を下り来年は撮るつもりです。
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「御旅所」

昨日書いた船幸祭で、唐橋を出た神輿船が瀬田川を下り、目的地であるお旅所の田上黒津町の浜に船が着くと書きました。
この御旅所がウオーキング途中のアクア琵琶の先ににあった写真の所です。さて、【御旅所】とは?。「おたびしょ」と読み、「神社の祭礼の神輿(みこし)渡御に際し、 本宮を出た神輿を迎えて仮に奉安する所。仮宮。仮屋。頓宮(とんぐう)。神輿宿。」とあります。
田上にある毛知比神社は、建部大社の別宮であるのでここに舟が来るようになったようです。
また、田上の里、黒津の里も参加し、それぞれにより用意された野のもの・山のもの・川のものなどの供えが、毛知比神社と、関津の新茂智神社の神様より献上されます。
そのあと祝詞奏上、神楽舞の神事が行われます。この舞台が、「御旅所」です。

このように瀬田川とその東岸の里とは色々な行事やつながりがあります。
ペーロン競漕も東岸の人たち中心でした。西岸の川沿いは、川の行事には主体的に参加していないようです。
しかし、石山寺、岩間寺、立木神社があります。川よりも山が主体に思います。立木神社などには、南郷、大石の里の人たちがかかわっています。

現役時代は、地元のことよりも、仕事に身体が向いていて、近隣諸国に出かけ、地のことに目がいっていませんでした。
今、このように毎日歩けば、地元の何か新しいことに出会います。
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「買い物帰りに建部大社へ」

買い物に草津にある「はずい」という野菜などの安いスーパに時々行く。1年前まで、建物は天井の高い古い工場の様なところだった。
今は、電気店のJhoshinと日曜大工品から何でもあるコーナンと同じ新しい敷地に移動した。
建物も新しいが、女性はおしゃれな紫色の布を頭に、同色のエプロンをして働いていて人の服装も一新した。
何故か少しものが高くなった気がする。でも、一昨日は、人も多く、カゴ2個を車の上下のに乗せて買い物している人も多い。
ここへ行く道中にある瀬田辺りのガソリンスタンドのガソリンが、近畿でも安いと言われている。
こうした買い物の帰り途に、途中下車してウオーキングするようにしている。暑い日の長い道は半分でよい。
この日は、「はずい」で一本68円の飲み物を買って、帰り道の唐橋で降りて、雨傘を日傘にして建部大社に赴いた。
田上にある毛知比神社のことを聞こうと思っていた。
門前の立て札には、建部大社は、116年(景行天皇46年9に神埼郡建部郷に景行天皇の皇子である日本武尊を建部大神として祀ったのが始まりで、 675年に当地の移転したとのこと。
このような古さは何処にも感じられない不思議だ。
正門を入ると神木の3本杉に迎えられ、その先に拝殿がある。拝殿の先に中門があり本殿と権殿があり日本武尊、大巳貴命、天命玉命が祀られている。
境内は掃除も行き届いていて清々しい。丁度、昼時で社務所には宮司は居らず、昼食らしい。
最初は一人であったが、家族連れがお参りに来た。後で宮司とのやりとりを聞いていて、誕生した子供のお宮参りの依頼であることがわかった。
この日も3件あるという。若い宮司に毛知比神社にどんなところか行ってみようと思うと言ったら、今は努めている宮司は誰もいなく遠いという。
宮司はというとこちらに居るという。それでは船幸祭の時は、毛知比神社の神様の名でお供えする神事は、こちらから行った宮司がするのかと聞くとそうだという。兼務のようだ。
また、新茂智神社はと聞くと今は何もしていないという話しで、書かれているものと少し違いがあるようだ。
ここに大灯籠とキリシタン灯籠がある明日書こう。
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「大燈籠と小燈籠」

建部大社で宮司を待つ間、くまなく境内を見て回った。コンクリート造りの宝物殿があった。ここには古いものがあるに違いない。
神馬として小さな小屋風の中には、遊園地のメリゴーランドで回転している回転木馬を想像させるようなかわいい木馬か祀られている。
皇太子殿下、皇太子妃殿下行啓記念樹と明記した植樹もある。社務所と反対側には2たつの池があり、パイプで持ち上げた水を上から滝のように下に落としている。
不格好だが涼しさを感ずる。瀬戸物の椅子があり座って、しばし、飲み物で乾きを癒した。
この池の際に大燈籠がある。大きくどっしりとしている。説明札があり次のように書いている。
全文ではないが「古来百済から渡来し進んだ土木技術を持った大友一族が瀬田の唐橋の安全を折念し奉納したと伝えられるもの」で瀬田城址から移設されたとある。
大和朝廷時には多くの渡来人がおり近江にも居住していたようだ。その一族が、近江に歴史を刻んできているようだが、調べないとしかとは言えない。
この大燈籠から奥に進み、右手の塀の際の奥まったところにひっそりと小燈籠がある。写真の左上にはめ込んだものがそれで、脇に説明札がる。
「禁教時代の織部型キリシタン燈籠と精査されている。」と書かれている。更に「大友氏と関係の深いラテン後の三文字が刻まれた下に南蛮服をまとい靴をはいた西洋人が見受けられる」と書かれている。
さりげなく書かれているが、キリシタンの過酷な歴史を思い浮かべる。
また、日傘で暑さを凌ぎながら瀬田川沿いを洗堰に向かって歩いていた。
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「洗堰全解放の時」

洗堰が洗堰全解放の時は、宇治発電所への利水の門も全解放でした。
瀬田川の所々に電光掲示板があり、全解放を知らせています。
今年は、時々見かけました。雨が多かったのでしょうか。これは3日目の写真です。
今日は朝早くから出かけますのでこれくらいに。
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「石山寺花火大会」

琵琶湖花火大会は台風の影響で11日に順延されたが、石山寺花火大会は天候の心配なく昨日行われた。
近所の南岡様の誘いもあり、夜、7時頃歩いて出かけた。石山寺は良く行くウオーキングのコースの一つで、家から4200歩ほど。
石山寺に近づくにつれ歩いて見に行く人が増えて行く。小さき子も多く、家族で連れ立って歩いている。
石山寺に到着すると門前は人でいっぱいであり、夜店も出ており賑わっている。
寺の前の瀬田川沿いに道を渡ると、川縁は人で一杯である。石山港があり外輪船がイルミネーションで飾られ人が沢山乗っているのが見える。
川沿いの道に降り立ち、座るのに良いところを捜す。
見渡すと、京阪石山寺までの堤防に石段状の所があり、 そこに1mおきくらいにロウソクが立てられ、長い光の壁になってきれいだ。
川のほんの川縁には灯籠が置かれている。石山寺では千日会が行われ、真夏のお盆近くの風景だ。
花火が打ち上げられるのは、丁度、正面であり真上にあがる。その少し左手に消防艇か放水をしており、何本かの水の放水に色の照明をあて、きれいだ。特に青色が映える。
二人して写真を撮る。花火も夜景も撮ったことがなく、夜景モードにして撮る。
しばらくしたら消防艇が遠のいていった。直ぐ、花火が始まった。
ヒューヒュルヒュルドーンと立て続けにあがっていく。目の前、頭の少し前だ。
カメラを上にしておき液晶画面を見ると同じ所にあがってくる。一番輪の大きいところを撮るのが難しい。
一通りあがると正面に連続花火があがる。低く色も華やかで音も絶え間なく、見入ってしまう。
必死にシャッターを押す。この時の一枚を載せますが、まだまだうまく撮れていません。
この1サイクルを何回か繰りかえし、最後の花火は、音も大きく、色も艶やかで納得のもの。拍手が出た。皆もこれで終わりと悟ったようで、帰り始める。
石山寺門前に戻ると屋台にも人が多いが、寺の正面では櫓が組まれ、紫色の着物姿の歌い手が江州音頭を歌っている。
それを横目で見ながら、皆、帰っていった。
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「暑い日の花火大会の消防艇と植木」

昨日は、石山寺花火大会の風景?を紹介ました。その時、花火が打ち上げられる前に、消防艇が放水していたと次のように書きました。
「・・・消防艇か放水をしており、何本かの水の放水に色の照明をあて、きれいだ。特に青色が映える。二人して写真を撮る。花火も夜景も撮ったことがなく、夜景モードにして撮る。
しばらくしたら消防艇が遠のいていった。直ぐ、花火が始まった。」当日、花火を見に同行した南岡さんが撮られた写真を紹介します。
何色もの色が暗闇に映えて幻想的です。消防艇が瀬田川を動いて放水していたのも印象的でした。暑い暑い日のすてきなショーでした。
話は違いますが、暑さの話です。梅雨にはいる前に公園につげの木とツツジの木を植えました。ところがこの暑さです。7本の内、1本は枯れ、2本が枯れそうです。
朝と夕方に水やりをしています。生き返るでしょうか。根付いてへこたれなくなるには時間が必要なのですね。植物も人間も大変です。
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洗堰近くにある「黒津橋の歴史」

昨日の朝、いつもの様にゴミを出しに行くと、近所の河北様のご主人も出して居られた。 ホームページを見て頂いたこともあり、洗堰や近くの田上のことが書いた本があり、興味があれば差し上げてとの奥様の言づてとのお話で、 興味がありますとお答えをしたところ、「ふる里・田上再発見」というふる里・田上を考える会が出版した本を頂いた。
帰って、何気なしに開いたページに書かれた、「黒津橋の歴史(1)と(2)」を読んでみた。明治21年の話である。
昔は、橋は、住民が待ち望んでいた物資交流の大動脈をなすもので、筆者の祖父にあたる片岡勇吉氏が、自費と住民の寄付で橋を架け替えられた。
当時の総工費200円で、工事の責任者は片岡勇吉。片岡は120円、斉城弥平太は30円、黒津は一戸当たり1円で30円、太子は7円、稲津は3円、下田上全体で10円の割り当てでしたと書いてある。
当時の米の値段が1俵1円20銭で苦労して立て替えられたのですねとある。どれぐらいの人が住んでいたかも想像できる。 今の時代とは大違いで、国民の税金で架け替えられたのとはわけが違う。必要だから自分たちでたてたのであり、 これは、なしでも済ませられる「もったいない」工事ではない。
当時の滋賀県知事から感謝状が渡されている。今の時代とどこが違うか考えさせられる。
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「稲津橋の歴史」

昨日は、黒津橋のことを書きましたが、「ふる里・田上再発見」には同じように稲津橋のことが書いてあります。その中で興味深いことを書きます。
この橋の建造は、下田上村の相井義三郎助役の活躍と行動によるものです。それは以下のようなぐあいです。
当時は伏見の陸軍工兵隊が架橋演習をしており、この話を聞いて下田上稲津橋を架け替え演習に加えて欲しいと頼みました。 一方、橋の材料は、瀬田大橋が大正9年から13年にかけて木橋からコンクリート橋に架け替えられた時、使用された仮橋を県からもらい受けたということです。
この二つのお膳立てにより、伏見の陸軍工兵隊により本式の架橋となったという話しです。
当時の人の努力と機転はいかほどのものか、それは橋が住民にとってかけがえのないものだったのです。
本の写真を載せましたが見にくいかも知れません。あしからず。
- 達人 職人 名人 賢人

「達人 職人 名人 賢人」

いつもの瀬田川沿いのウオーキング中、新幹線の橋の下近くに来た時、いつもは気付かずに何気なしに通り過ぎる看板に目がいった。
名人 賢人の文字だった。見ると並んで達人 職人とある。 中央には、老人にはたくさんの「力」があると書いてある。
今月は「老人の日」である。書いていて老人とは?と思った。
「シニア」なら受け入れるが、「老人」とは言われたくないひともあろう。自称「万年青年」も多い。
なぜかポスターの色も灰色でなんとなく寂しい。そう思いませんか。
でも、達人 職人 名人 賢人は良く言い当てていると思う。
今の時代では、まだ、使い切れていない力だ。使うだけの社会の知恵がない。だから、向かう方向を見いだせない人もいる。 太陽の光、熱だって同じだ。使い切れていない。何故だろうと思う。
そこまでの需要がないと言われるかも知れない。しかし、知恵が社会に無いのである。役所、政府の責任でもない。個人の責任でもない。
ボランティア、NGOなどはるが、個人も満足するものでない。なぜだろう。付け足しなのだ。
使いそうで使えていない資源は多い。 それなのに、軍備や核兵器など戦争兵器には国家が力を注ぐ。なぜ、資源で豊かになることに国家の力を注がないのであろう。一枚のポスターは物語ったっている。
- 「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」

「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」

それは、きのうのことであるが、「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」 の句が自然と脳裏に浮かぶ光景を目の当たりにして、写真を撮っていた。
瀬田川沿いから一歩入った道を散歩していた時のこと、つい最近まで田んぼだった所に、突然、瀟洒なアパートが建った。また、田んぼがなくなった。
減りゆく田んぼと新しい新興住宅を一枚に撮ろうとして畦道に入り少し歩いて、瀟洒なアパートを見渡たそうと実った稲穂の前に立ったら、 突然、目の前にポッカリ穴が空いたように田んぼの中に大きな窪みが出来ていた。稲穂の重みで稲が倒れ込んでいるのだ。写真ではうまく撮れていないが、 その中に吸い込まれそうな、その上に倒れ込みたいような窪みだった。
そこで脳裏に浮かんだのが、「実れば実るほど頭を垂れる稲穂かな」の一句だった。 最近は、この意味するような人に遭遇したことがない。時代は変わったのだろうか。
はじめて、この句に出合ったのは、新聞に掲載された誰れかのインタビュー記事の中で、記者がインタビューしたその人が、 事業で大成した人であるにもかかわらず誠に腰の低い人であったことを、句のように評して書いていた記事を読んだ時のことであった。 今は遠く、高校時代のことである。
人生の経験豊かさからくる人を包み込む様な、偉さを感じさせない雰囲気を持った人だったのだろう。実れば実るほど・・・である。
今の時代、靖国を参拝する政治家には、この様な姿勢は見受けられない。
相手に、謙譲と尊敬の姿勢で対することは、普通の人には出来ないことであろう。有り余るものがあってのことだ。
稲穂は、何も言わないが、自然から教わることもあるものだ。
- 釣り竿の釣り

「釣り竿の釣り」

いつもの瀬田川沿いのウオーキングしていて、京阪石山駅の前辺りに来た。今日は大学生のレガッタの練習が多く、 それを撮ろうとしていたら、瀬田川に糸を垂らした釣り竿4本が液晶画面に入ってきた。竿は地面に固定されているが、見渡せど釣り人は居ない。
竿の根本に白い四角い箱が付いている。ハハーンと思った。
前にも対岸で釣り竿が6本並んでいた。人と言えば10m先の橋の下で日陰よろしく二人がだべっている。
その二人に聞いた。沢山の釣り竿ですね。一人当たり3本との答え。ここで釣れたの判るの? 発信器が付いているので判ると。 ずばらな釣りやと笑う。雨の日などもう少し離れた道路上の車の中でも判るという。近頃の釣りも変わったものだ。
リールの動きを関知するセンサーが付いているのだろう。
でも何故か手持ちぶさたに見えた。手で釣る感触を味わうでもない。ボーット待っているとしたら面白いのだろうかとその時思った。
さて、先ほどの釣り竿の前にしばらく居たが釣れていない。釣れるのを待つのは止めた。釣れそうもない。
よく見かける釣り竿一本でのブルギル釣りは直ぐかかる。
釣り竿は、今日は何を釣ろうとしているのだろうか、分からない。
ここに来る途中で、若い男女二人の釣り人に出合った。
女性の糸の先、釣り針には大きなみみずがつていた。釣れるのだろうかと思った。
これも以前のことであるが、外人の親子(男子)がザリガニを釣っていた。水槽に一匹入っていた。ほんまに釣り竿で釣ったのかと思った。
瀬田川沿いの釣り人には色々な人がいるものだ。面白い。
昨日は、夏休み中なのか、レガッタが多数行き来していた。
少し歩いたところに、しじみの養殖試験所と書いた立て札が立っていた。ヘーット思った。石山寺前の店の食堂前には、いつものように「しじみめし」の看板が立っている。


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