朝ドラ「おひさま」と両親の戦争体験

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両親の戦時下の生活「母編」


 昭和20年8月、太平洋戦争終結の時、私の母は北茂安国民学校6年生、11歳だった。 祖母は明治39年生まれ。母は、祖母28歳の時に生まれた。4人目だった。
 昭和18年、祖父が亡くなったため、日本に帰国する。そのまま満洲で生活していたら、一家8人どうなっていたか?わからない。帰国後は本家の傍に住む母の伯父の家に引き取られる。

【時代背景】
昭和12年7月7日:日中戦争開始
昭和16年12月8日:太平洋戦争開始
昭和17年4月18日:ドーリットル空襲
昭和17年6月5~7日: ミッドウェー海戦
昭和17年8月7日:米軍、ガダルカナル島上陸
昭和18年4月18日:山本五十六連合艦隊司令長官戦死
昭和18年5月12日:アッツ島玉砕
昭和18年10月21日:学徒出陣
昭和19年8月23日:学徒勤労動員令
昭和19年10月24日:戦艦武蔵沈没
昭和19年10月25日:神風特別攻撃隊初出撃
昭和20年2~3月:硫黄島の戦い
昭和20年3月10日:東京大空襲
昭和20年4~6月:沖縄戦
昭和20年4月7日:戦艦大和沈没
昭和20年5月2日:ベルリン陥落
昭和20年8月9日:ソ連対日参戦
昭和20年8月6日:広島原爆
昭和20年8月8日:ソ連対日参戦
昭和20年8月9日: 長崎原爆
昭和20年8月10日:ポツダム宣言受諾
昭和20年8月15日:玉音放送

【戦前】
 昭和10年春、満2歳の時に満洲へ渡る。故郷(日本)が恋しかったのか?しばらく元気が無かったらしい。本家の祖母が随分かわいがってくれていたようなので、寂しかったのかもしれない。

 満洲へは一族で渡っている。父が先に行っていた。父は鞍山製鋼所の選礦工場勤務だった。

 鞍山駅の西側に昭和製鋼所の社宅(1棟4軒の2階建)が沢山あった。社宅は中央にペチカがあり、4部屋に分かれていた。窓は2重窓で、冬季に窓の間にみかんを置いているとカチカチに凍った。(※和風でも洋風でもない満洲造りと呼べるものだろうか?)

 風呂は無かった。冬は濡れたタオルがすぐにカチカチになった。ドアノブは素手で持てない。真冬は粉雪だが、春先になるとボタン雪に変わる。

 春になると柳の綿毛が飛んでいた。

 満洲鉄道は日本国内の線路より幅が広かった。

 鞍山国民学校、昭和15年入学。小学校にはボイラ室があり、冬季はスチーム暖房。トイレは水洗だった。水洗便所は初めてで、流されそうで怖かった。一方、社宅の暖房はペチカ。トイレは汲取り式で、冬になると大便が塔の様に盛り上がって来た。

 鞍山製鋼所。溝は赤茶色の水が流れていた。製鋼所の錆か?それとも中国大陸の河の色か?国民学校の遠足の時、遠くに水色の河が見えていたが、近づくと黄土色だった。

 母は編み物をしていろいろ作ってくれた。満洲に行ってから覚えたらしい。

 下の2名(妹と弟)が生まれた時は、若い中国人の女性のお手伝いさんが来ていた。その女性はオムツを持って帰ったので、赤ん坊もしくは幼い弟妹がいたのかもしれない。

 昭和製鋼所の社内誌“鉄魂”に、父の書いた文章が載ったことがある。久留米の高良神社の森の中で子供が2名、お菓子を与えられて放置され、亡くなった事件を半小説化したものだった。(※小説家の才があった?)

 張り板に、ふ糊処理をして洗い張りしていた布地を盗まれたことがあった。家の路地を中国人が2、3名うろついていた。後から両親に言うと「なぜ気がついた時に言わないのだ」と怒られた。

 中国人が夜間に「クリ、ヌクエー」(栗、温いよー)と言って、焼き栗を売りに来た。虫食いだらけだった。

 満洲で中国人の纏足(てんそく)を一度だけ見たことがある。年配の女性だった。纏足禁止令が出てから随分長くなるので、若い女性で纏足の人はいなかった。

 小学校に入る前ぐらいに、ままごと遊びで畑からトマトを取って使ったら、父からこっぴどく叱られた。

(※母は記憶がないらしいが、戦闘機乗りの五郎大叔父は、鞍山附近を飛行する際は、予め時刻を連絡して、家の上空(つまり鞍山市上空)で宙返りを行ったらしい。伯母達はその時の情景を良く覚えており、五郎大叔父も、下界で手を振る伯母達が良く見えていたと語っていた。
 また、祖父家を訪ねた際、鞍山駅ホームで別れ際に祖父から「西原五郎君万歳!」と万歳三唱をされ、非常に気恥ずかしかったという。万歳三唱は出征時には良くある話だが、この時の万歳三唱は五郎大叔父の人生の中で、後にも先にも、一度限りだったという。)

 写真に3名で写ると中央の人が早く亡くなるという言い伝えがあり、公園などでの家族写真に、通りすがりの兵隊さん中国人の少年を入れて撮影することがあった。その写真は、シナ人の写真屋がその場で現像してくれた。

 昭和17年春。一番下の弟が生まれてから、初めての郷里に里帰りした。里帰り旅行は1回だけ。7日~10日ほどだったのではないか?一族、15人連れで祐徳稲荷神社へ

 2泊3日の旅。鞍山(朝出発)→瀋陽→ヤール河(夜)→朝鮮半島縦断→釜山(夜)→海上、夜中、関釜連絡線で8時間→下関夜明けぐらい→昼に佐賀到着。到着しても2、3日は身体がゆれている感じが消えなかった。

 列車から見えたのは朝鮮半島の単調な景色。街中では軍事機密のためブラインドを降ろさなければならなかったので退屈だった。朝鮮半島の田舎の景色・・・禿山と小さな農家のわら屋根。鴨緑江(ヤール河)を列車で渡る頃は夜中だった。

 満洲に戻ると、お腹をこわした。ホームシックだったのか?(※よほど満洲が肌に合わなかったのだろうか?)

 翌年、昭和18年春、父は数えで41歳の時に亡くなった。亡くなるまでに1年かかっていない。日本で食べた鯉のアライに日本住血吸虫がいたのではないか?お腹がふくれて水を抜いていたが、水を抜くと調子が悪くなった。腎臓の病気だったのかもしれない。
(※症状的には日本住血吸虫による肝硬変で間違いないようだが、食事で感染することはない。当時、三養基郡の筑後川沿いは日本住血吸虫の一大生有病地だった。)

 昭和製鋼所の病院に、姉と2名で見舞いに行くと、自分の牛乳を飲まずに置いて、飲ませてくれた。その他、リンゴも食べることができた。病院にはシャッターがあった。

 昭和18年春、父が亡くなり、郷里の白壁に戻る。兄弟姉妹はそれぞれ親戚の家に預けられた。自分を預ってくれた伯父の家で、伯母が「(私を)お母さんと呼びなさい。」と言ったが、すぐ近くの本家に実母が住んでいるの複雑な状況だった。

 一番上の姉は女学校4年になっていたので、1年間、満洲に残った。満洲に母の姉さんがおり、姉と同学年の娘がいた。母は、自分の姉が満洲にいたので帰りたくなかったようだ。(※伯母は居心地が良く、自分の家のように振舞っていたそうだ。)

 日本への引き上げ直後、荷造りした荷物がひとつ届かず、靴がない状態だった。

【戦中】
 昭和16年、小学2年生の時、鞍山の町中で、ラジオ放送による戦争開始のニュースを聞いた記憶がある。

 昭和17年、年末頃、既に鞍山の街では灯火管制や防火訓練が行われていた。夜は街中真っ暗だった。防空演習の、夜空のサーチライトの幾筋もの光、サイレンの音などが記憶にある。

 昭和18年、父が亡くなり、日本に戻る。自分では何月から北茂安国民学校に行ったのか記憶が無い。担任の先生がハゼ負けで休んでいたので4月下旬から5月上旬ぐらいだろうか?

 満洲に比べると日本は防火訓練なども無く、のどかなものだった。子供ながらに不思議な感じがした。満洲の方が緊迫していた。(※満洲の鞍山は都市だったので、佐賀の三養基郡とは随分違ったようだ。逆に、1年遅れで昭和19年に引揚げて来た伯母は、日本の方が緊迫している感じがしたという。)

 アッツ島玉砕は記憶にある。授業の始まりで「アッツ島で玉砕されし数千の兵に対して黙祷。」と、黙祷をしていた。

 夏休みの宿題。馬の餌にするため、草を刈って乾したものや、稲わらで縄をなって持って行った。ラミー?桑の葉も持って行った(繊維を取り服地の原料とした。)馬の餌の草刈や縄ないは、昭和19年頃から、常時、持って行った可能性はある。

 国民学校では、避難訓練、女生徒は、なぎなた(長刀)があった。なぎなたは簡易的なものではなく、きちんとしたなぎなたの木刀だった。「なぎなたの先をきちんの見ておくこと!」先を見ずに適当にやっていたので先生から注意された。母は竹槍の訓練をしていた。従兄は銃剣術の有段者だった。(※銃剣術は6段、竹槍訓練の指導もしたらしい。)

 村では防火訓練、消火訓練、バケツリレーの訓練などがあった。今のバケツリレーは、子供は大人の補助で後ろに回るが、当時は子供でも前に出ていた。

 家族に出征兵士がいる家は「出征兵士の家」(横5cm×12cmぐらい)という札が家の入り口に掲げてあった。その出征兵士の家に、土曜日に2、3人で勤労奉仕に行った。作業は草むしりなどが中心だった。

 勤労奉仕に行った際にいたずら坊主が電柱に登って感電した。祖父が竹で作った梯子を渡して「自分で降りて来い!」と言った。(助けに行くと自分も感電するので。)かなりひどい火傷を負っていた。この事件で、その日の勤労奉仕は中止となった。

 白壁には戦死者はいなかった?!明確な記憶が無い。しかし、北茂安小学校の講堂で村葬が執り行われたことがあった。白い布に包まれた遺骨の列は記憶がある。(※身近な家に戦死者が無かったので、そういう印象があるのかもしれない。)

 自分は勉強よりも勤労奉仕に行ってる方が良かった。まれに、ぼた餅などのおやつをもらえた。戦時下でも小豆、砂糖も少しはあった。(※東京近郊の学童疎開の状況とは雲泥の差である。)

 当時は、近隣の農家が集って農作業をしていた。非農家(小作農)が手伝いに来ていた。稲刈りは個別だったが、田植えの時期は決まっていた。(※黒沢映画にあるように、田植え等の時期を外せない作業は、村中総出で一斉に作業をしたと思われる。)

 北茂安国民学校の中央廊下に卒業生の写真が飾ってあり、母の写真もあった。

 満洲からの引き上げ直後、荷物が紛失し靴が無かった。登校初日、下駄を履いて学校に行ったが、同級生に指摘されたのですぐに止めた。砂利道で足裏が痛かったが、しばらくすると馴れた。素足で登校すると、学校の脇を流れる川で足を洗って校舎に入った。別途、足洗い場はあった。

 北茂安小学校の近くに、鶏を飼っていたので「とっと小屋」と呼んでいた雑貨店があった。

 奉安殿は、講堂の中の演台の上にあった。後方には戦死した兵士の写真が飾ってあった。戦死した兵士の写真の中には真珠湾攻撃で亡くなった九軍神のひとり、広尾大尉写真や、伯父の西原曹長、部隊長救出の図が飾られていた。広尾大尉は北茂安国民学校の校長の息子だった。

 1学年上のお別れ遠足の時、久留米・鳥栖空襲があった。遠足の行き先は北茂安小学校の真南の筑後川の堤防だった。10時半頃に到着した途端に久留米の街の方から防空サイレンが鳴り始め、すぐに「帰宅しなさい!」との指示が出る。
(※母には3月24、25日頃だった記憶があるようだが、実際は太刀洗空襲だったと思われる。)

 B29が何派にも分かれて押寄せて来た。その度に男子生徒が「伏せろ!」と号令をかけた。直接、自分たちが直接狙われているわけではないが、あぜ道に何度も伏せながら帰宅したので家に到着するまでに時間がかかった。
 帰宅すると、球体を半分に切ったアルミの部品(内側にネジが切ってあった)が屋根に落ちて来た。屋根を転がる音に覚えがある。アルミ箔のねじれた物(レーダー波かく乱用)も落ちて来た。  空襲警報が解除になるまで防空壕に入っていた。中で遠足のお弁当を自宅で食べた。

 久留米の街は中心部が丸焼けになった。久留米の街まで約4km。ワーン、ワーン・・・という複数の飛行機による爆音。街に煙が上がっているのを見ながら帰宅した。
 空襲の時、1年上の人で、列車の影に隠れた人がいた。防空壕に飛び込んで圧死した人の話も聞いた。
 翌年(戦後)は別れ遠足は無かった。(※母は21年3月卒業)

 博多空襲は夜間。伯父の畑から見た。筑紫山脈の向こうの空が真っ赤だった。

*****
※当時の記録を調べると下記の通りで、母の記憶は混在していることがわかる。
3月27日 太刀洗空襲:B29爆撃機74機(計1000発以上の爆弾)周囲の民間人を含む犠牲者数は1000人にも達する
3月31日 太刀洗空襲 B29(106機)で太刀洗基地を爆撃。200~300人死亡(※10時頃)
4月18日 太刀洗空襲・B29爆撃機約30機。日本機がB29に体当りし墜落。B29搭乗員11人は死亡(女性通信兵1、少年兵1)この様子は久留米からも見えたという。
8月11日 午前10時過ぎ、B24が53機(焼夷弾計100発)で久留米空襲(死者212・負傷者176・焼失家屋4506戸、ホームレス2万人以上・罹災面積47万4930坪(約156.7ha)この頃、疫痢・腸チフス・結核など、伝染病に罹患する人が多数。
8月12日 再び久留米空襲
8月12日 鳥栖大空襲:駅構内に爆弾多数。約110人が犠牲(目標にされたのは国鉄、日清製粉工場)
8月12日 佐賀市空襲。63機で439t投下、犠牲者多数。
*****

 夏休みにラジオで玉音放送を聞く。2学期の始まる9月、戦争が終わった事に関する感想文を書かされた。8歳ぐらい上の女性の先生が、全員の感想文を読んで「先生はなさけない」と言った。
 (※恐らく、大人の言動や態度を真似て書いた感想文が相当悲観的な内容だったと想像される。戦争が終わって良かった・・・と考える大人が少なかったのではないか?安心感よりも、国が滅びたという意識から来る不安の方が大きかったように思われる。)

 満洲に住んでいた伯母一家(一番上の姉と同級生の娘がいた。)は、無事に引揚げて来ることが出来た。子供1人の家庭は、両親2名で子供をかばうことが出来、引揚げが可能だった。我が家は子供が6名もいたので、そのまま満洲で暮していたらどうなっていたか、わからない。(※上の伯母2名は年齢もそこそこにあったので大丈夫だったであろう。長男は両親がかばい帰国できたと考えられるが、母を含め下の3名は正直、見捨てられた可能性が高い。)

 他の親戚、3家族も、子供1人の家庭は無事に引揚げに成功している。一方、幼子を3人を亡くし、子供1名しか帰国させることが出来なかった親戚もあった。

 引揚げに際して、足手まといになった幼子を、断腸の思いで井戸に投げ込んで殺した一家も多かった。井戸の水かさが深い間は、直ぐに子供は亡くなったが、子供の遺体が積み重なって行くに従い、死亡せず、井戸の中から幼子の泣き叫ぶ声が聞こえ続けたという。

 引上げの際、若い女性は髪の毛を切り、顔にススを塗って、胸にはサラシを捲いて変装した。

 洗濯板で洗濯をする時は、板にゴシゴシ擦り付ける服地が直ぐに破けてしまう。洗濯板に衣類を乗せ、溝に溜まった石鹸水に浸す感じで、服地同士を擦り付ける。洗濯板の溝は石鹸水が流れてしまわないようにするもの。

 5歳上の従姉が、久留米の女学校に颯爽と自転車通学をしていた記憶がある。ただし、どんな種類の自転車で通っていたか?全く記憶が無い。(※母が昭和21年から女学校に通っているので、昭和16年~21年3月までの間の話であろう。)

【戦後、祖父母・親戚など】
 昭和21年4月、鳥栖高等女学校入学。1学期の通知簿を受け取ると、小学校の先生の印をもらわなければならなかった。久留米市内の先生のお宅に数名で行く。「ごめん下さい」と言って入ると「やはり女学校に行った人は違う。」と褒められた。
(※小学校卒業後に進学をしていない生徒は、小学校のままの態度だったのではないか?)

 先生のお兄さんが本を沢山持っていたので、先生と話もせずに本をたくさん読んで帰って来た。

 初めて外国人を見たのは。鳥栖女学校2年の頃?鳥栖駅で米兵の乗った列車と遭遇した。米兵がチョコレートをあげようと言ったが、1級上の知人があからさまに「No Thank You!」と言ったので、怖くなった。
(※英語の断り文句としては、正しい。失礼でもなんでもない。)
村の演芸会の際、進駐軍の兵士が来るのではないか?劇の内容が心配になった。

女学校時代、英語が特に嫌いだった。家に専門学校(医専生)が教えに来てくれたが、口を一文字に閉じて、一言も口を利かなかった。

育ての伯父は田んぼをたくさん所有していたので、お陰で女学校にも行かせてもらうことができた。女学校へは試験を受けて合格した。白壁の同級生中、女学校に進学したのは自分1名だけ。集落では2番目かもしれない。

伯父に来客があると、女学校に行く自慢の姪?ということで、お茶出しをしたり話の相手をした。子供心にも養ってもらっているという意識があり、気を使っていろいろと手伝ったりした。(※母の従兄やその息子さんの話では、母はかなり気を使っていたことが周囲の目から見ても明らかだった。逆に母の伯父は、母を自分の子供達と分け隔てなく扱い、周囲も本当の姉弟だと思って暮していた。)

女学校時代、1年松組、2年桜組、3年C組。3年になった時新制中学校への編入試験を受けた。人がたくさん入学した。最終的には、鳥栖高校併設中学校卒となった。

女学校卒業後は家で洋裁をして小遣い稼ぎをした。その後、洋裁学校へ行く。月謝は従兄が出してくれた。その後、洋裁店で1年間見習いをしたが、いまいちだった。
その後、目達原駐屯地の被服省で働く。その後、五郎・叔父の計らいもあり、本採用となる。

(※その後、補給所で仲良くしていた同僚の従兄にあたる父と、補給所の酒補で見合いをして結婚。父は既に神戸市で教職に就いていた。翌、昭和39年初頭、私が生まれる。叔母の話によると、育ての伯父宅から独立して、ふたりで久留米市内に引っ越した直後に結婚が決まり、叔母は突然一人暮らしになってしまい、寂しかったという。)



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